寅さんの街に佇む古寺、柴又帝釈天!

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寅さんの街、柴又に佇む古寺

東京都の東の端に位置する、葛飾区柴又、こちらはあの「フーテンの寅さん」こと、車寅次郎のゆかりの地であります。この地に佇んでいるのが、経栄山題経寺こと柴又帝釈天です。上の写真は柴又駅からすぐの帝釈天参道であり、映画のセットかのようなその参道の風景には多くの人々が魅了されます。そんな参道の奥に佇む古寺、柴又帝釈天を今回ご紹介いたします!

柴又帝釈天の歴史

1629年に2名の僧によって開創されたのが柴又帝釈天であり、日蓮宗寺院になります。帝釈天が信仰を集めるようになった時代から「柴又帝釈天」として知られるようになり、庚申信仰によってさらに多くの人々が訪れるようになりました。戦後は映画「男はつらいよ」シリーズの放映後に都内の定番観光名所となり、今でも大勢の観光客が訪れています。

柴又帝釈天の見どころ

寅さんの街で有名な柴又ですが、お寺の柴又帝釈天も見どころはたっぷりあります!特に、観光客に大人気の法華経の物語を視覚的に再現した彫刻ギャラリーは必見です!帝釈天参道の見どころも含め、順番にご紹介していきたいと思います!

・帝釈天参道
京成金町線柴又駅の改札を出ると、寅さんこと車寅次郎の等身大の銅像が出迎えてくれます。ここからすぐに帝釈天参道に入ると、そこには昔ながらのだんご屋やうなぎ屋、土産物屋が立ち並びます。
ちなみに、柴又で「男はつらいよ」のロケが行われるときは、髙木屋というだんご屋さんが舞台になっていたそうです。お時間のある方はぜひ髙木屋さんへ立ち寄ってみてください!

・二天門
参道を歩くと、二天門前に辿り着きます。入母屋造瓦葺きの2階建ての門で、左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天が安置されています。門の名前はこちらの二天に由来していると言われており、名前の通りその佇まいは量感があって、堂々としています。
・帝釈堂
寺の境内には砂利が敷き詰められ、二天門からまっすぐ走る石畳を抜けると、帝釈堂に辿り着きます。帝釈堂には独特の風格が漂い、その堂宇の正面脇には枝を青々と広げた松が参拝者を迎え入れています。それもそのはず、帝釈堂の中には日蓮上人が直々に彫ったとされている板彫りの帝釈天像が存在するのです。こちらは板本尊と呼ばれており、その左右には四天王のうちの持国天と多聞天が安置されています。(二天門では四天王のうち増長天と広目天が安置されていたので、二天門と帝釈堂に四天王が全て安置されているということになります。) 寺の内側と外側には浮き彫りの装飾彫刻が施されています。

・板本尊
本堂の階段を上がり、中へ入ると畳敷きの外陣があり、柵の向こうの内陣に本尊である帝釈天像を安置する厨子があります。帝釈天像こと板本尊は秘仏とされ、庚申の日のほかには普段は開帳されることはありません。また、仮に現物を見ることができたとしても、板本尊は真っ黒であり、その姿を拝むことは困難であります。
ちなみに、本尊は元々白木の板に彫ってあったようですが、墨を塗って紙などに写し取り、それを信仰する人々に配っているうちに真っ黒になってしまったそうです。
実際には見ることはできませんが、本尊の姿は左手に剣を持ち、怖い表情をしています。

*一口メモ
どうして庚申の日にだけ本尊が開帳されるのでしょうか?理由は歴史にあります。
かつてこちらの本尊は中世の一時期、行方不明になっていました。しかし、1779年、中興の祖と称えられる日敬上人が荒廃した本堂を再建しようとしたとき、偶然に天井裏から本尊が発見されました。ちょうどその日が春庚申の日であり、これは縁起がいいというのでそれ以来庚申の日を縁日にすることが決定しました。
・彫刻ギャラリー
本堂につなげて造られているのが、こちらの彫刻ギャラリーです。境内にあり、観光客に人気のスポットです。ヨーロッパのルネッサンス期を彷彿とさせるような立体的な彫刻が並べられており、そこは生命の躍動感に溢れています。こちらの彫刻はすべてが法華経の物語を視覚的に再現したものであり、絵巻のように木彫りの絵柄が横に長くつながって、回廊式のギャラリーを一周しています。絵柄にそれぞれ解説もついているので、知識の有無に関わらず彫刻の世界を楽しむことができます!

いかがでしたでしょうか?寅さんで有名な帝釈天参道ばかりが注目されがちですが、柴又帝釈天のお寺自体も見どころはいっぱいです。特に、彫刻ギャラリーは他のお寺には見られないポイントですので、是非とも拝観料を支払ってご覧になることをオススメいたします!

<基本情報・アクセス>
住所:東京都葛飾区柴又7-10-3
TEL:03-3657-2886
拝観時間:9:00~18:00
(庭園拝観時間9:00~16:00)
拝観料金:無料
※ただし、庭園・彫刻ギャラリーは拝観料あり。
庭園ギャラリーと彫刻ギャラリーともに大人400円、子供(小・中学生)200円、団体20名以上は大人300円(11/28~1/3は庭園が閉園のため、料金は半額となります。)
定休日:なし(庭園は12/28~1/3に閉園)
ホームページURL:http://www.taishakuten.or.jp/index2.html

下町情緒にふれるなら絶対に柴又帝釈天へ!!

京成金町線柴又駅を降りると、すぐに寅さん像が迎えてくれます。

寅さんといえば人情喜劇「男はつらいよ」の主人公・「フーテンの寅」こと車寅次郎です。 寅さんが東京都葛飾区柴又出身であることはあまりにも有名ですよね。 作中では、寅さんはテキ屋稼業で全国を回ったあと、たいてい実家の団子屋に戻ってくるのです。 その団子屋があるのが、柴又帝釈天の門前です。寅さんはこの柴又帝釈天のご神水を産湯に使ったというエピソードまであります!

今回は、この柴又帝釈天のあらましから寅さんとの関係をご紹介します!

柴又帝釈天の正式名称、知っていますか?

「男はつらいよ」のおかげで、柴又帝釈天は全国に広く知られるようになりました。
しかし、東京に住む人でも「柴又帝釈天」という名前が正しいと思っていませんでしたか? 実は「経栄山 題経寺」という立派な寺院名があるのです。 「帝釈天」とは、天界に住む仏教の守護神の1つで、題経寺は日蓮宗です。 帝釈天は元々、武勇の神でしたが、仏教に取り入れられると梵天とともに「二大護法善神」となりました。護法善神とは仏法や仏教徒を守る神々のことです。

ちなみに、日蓮宗としてのご本尊は「十界曼荼羅(大曼荼羅ともいう)」と呼ばれるものです。
中央には「南無妙法蓮華経」と大きく書かれ、その周りには「法華経」に登場する諸々の仏や菩薩、天、神などの名前が書かれています。 日蓮宗の開祖・日蓮直筆の十界曼荼羅は100幅以上、現存していると言われています。 柴又帝釈天の「十界曼荼羅」は、帝釈堂の隣にある祖師堂に安置されています。

柴又帝釈天の歴史と庚申の縁日とは?

柴又帝釈天と言えば寅さんですが、もうひとつ忘れてはいけないのは「庚申」の日に行われる縁日です。
どうして、「庚申」の縁日が有名なのか。 まずは柴又帝釈天のあらましから紹介しましょう!

柴又帝釈天こと題経寺は、1629年に禅那院日忠とその弟子・題経院日栄という僧侶によって開基されました。 元々、題経寺には日蓮自らが刻んだという帝釈天のご本尊を安置していました。 ところが、江戸中期にはそのご本尊の行方が分からなくなってしまいました。

そして、1779年の春―――。 第9代住職の亨貞院日敬は古くなった本堂の修理にとりかかると、梁上にこのご本尊を発見したのです。 水でよく洗うと、片面の中央に「南無妙法蓮華経」の題目、両脇には法華経薬王品の経文が彫られていました。そして、もう一方の面には、右手に剣を持ち、左手を開いて怒った表情の帝釈天が彫られていました。この姿は悪魔降伏の尊形と言われ、仏の教えを信じ、従う者には病気や災難に遭っても帝釈天が守って悪魔を退散させてくれると伝えられています。

日敬がご本尊を発見した日が「庚申」だったことから、題経寺と庚申の結びつきは強くなったのです。 それから数年後、元号は「天明」に変わった頃でした―――。
江戸四大飢饉の1つ、「天明の大飢饉」が発生したのです。 天明の大飢饉は悪天候や冷害で農作物が穫れず、また、岩木山と浅間山が噴火したことからさらに農作物に影響を及ぼし、大被害をもたらしました。 その時、日敬は飢饉に苦しむ人々のためにご本尊を背負い、拝ませたといいます。 その行き先は江戸のみならず、下総の国の諸処も訪れたのです。 すると、不思議なご利益を授かり、大飢饉という災難の前に見つかったご本尊のおかげだと、人々の間で「帝釈天信仰」が広まっていきました。

こうして、帝釈天と言えば庚申という信仰も高まり、庚申の日には縁日が行われるようになりました。 現在でもこの縁日にはたくさんの参詣者で埋められ、にぎわいをみせています。 そして、「男はつらいよ」シリーズのおかげで、観光名所にもなりました。

庚申の日にはご本尊を開帳し、誰でも帝釈堂に入ることができます。 ぜひ、ご本尊の前でお参りにしてくださいね。 そして、日蓮宗東京東部布教師会による法話を聞くこともできます! 1時間ごとに4人の日蓮宗の僧侶が法話をしてくれる貴重な時間を設けています。 どなたでも無料で参加できますので、この機会をお見逃しなく!

時間:午前11時~午後3時
料金:無料
申し込み:不要
場所:信徒会館2階
※法話途中での出入りは自由

縁日の開催日(2016年)
初庚申 2月8日(月)
庚申 4月8日(金)
庚申 6月7日(火)
庚申 8月6日(土)
庚申 10月5日(水)
納め 12月4日(日)

「彫刻の寺」とも呼ばれる柴又帝釈天の彫刻ギャラリーを見てみよう!

柴又帝釈天を訪れたらぜひ立ち寄ってほしいのが、一面ガラスで覆われた彫刻ギャラリーです。
帝釈堂の内外にもたくさん施されていますが、特に帝釈堂内陣の外側にある10面の胴羽目彫刻には圧倒されます! この10面の胴羽目彫刻は「法華経」にある代表的な説話のうち、10話を彫刻したもので、第16代住職の観明院日済が発願したものです。 大正末期から昭和9年までの約10数年という期間に、見事な彫刻を施しました。

始めは、加藤寅之助という彫刻家が一面を完成させましたが、彼の発案で残りの9枚を都内に住む彫刻家に依頼することが決まりました。 1923年の関東大震災で、多くの彫刻材を焼失してしまいましたが、全国に有志を募り、無事に完成することができたのです。 ちなみに、彫刻ギャラリーと大庭園と合わせて400円必要ですが、見る価値アリです!!

苦難を乗り越え、名人が彫りおこした「彫刻ギャラリー」をぜひ鑑賞してみてくださいね。

番外編! 寅さんに左足に触ると運が落ちない?

柴又帝釈天を参詣した後は、参道にあるお店で休憩するのもいいですよね。 そして、お帰りの際には柴又駅前にある寅さん像に立ち寄ってみてください。 この寅さんは旅立つ前に妹のさくらに呼び止められ、振り返っている姿です。 そして、その左足に注目してみてください!

寅さんの左足は右足よりもピカピカしています。
これは皆が「運が落ちないように」と撫でるからなのです! なぜなら、諸説ありますが、「葛飾柴又寅さん記念館」の入口にある寅さん像が右足の雪駄は脱げ落ちているけど、左足の雪駄は脱げ落ちていないことから、「運が落ちない」「受験に落ちない」という縁起のいい像として広まっていったのです。 このことから、寅さん像はちょっとしたパワースポットになっているのです!

もしかすると、寅さんのように人々に親しまれ、愛される人気運も手に入れられるかも!?

いかがでしたか。
柴又帝釈天は寅さんと関わりがある前から、人々の信仰を集めていました。 そして、寅さんと関わるようになってからさらに人気に拍車をかけました。 今では東京観光に欠かせない場所になっていて、外国人の方々も訪れています。 どこか懐かしくて、ホッとできる柴又。
あなたもぜひ、訪れてみてくださいね!

■所在地
柴又帝釈天(題経寺)
〒125‐0052
東京都葛飾区柴又7‐10‐3

東京に来て下町の雰囲気を楽しむなら柴又帝釈天

せっかく東京観光に来たなら下町の雰囲気を味わってみてはいかがでしょうか。柴又帝釈天は、映画『男はつらいよ』の舞台として知られています。帝釈天参道には老舗の団子屋や川魚料理屋が軒をつらねています。「彫刻の寺」とも言われる柴又帝釈天を訪ねてみませんか。

駅を出たら寅さんが出迎えてくれます

柴又帝釈天は、東京都葛飾区柴又にある日蓮宗のお寺です。
正式名称は経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)と言います。電車利用でしたら、京成電鉄高砂駅で金町線に乗り換えて一つ目の駅が柴又駅です。柴又帝釈天は駅から参道を歩いて3分と、とても近くて便利なところにあります。葛飾柴又と言えば、駅の改札を出るとすぐに寅さん像が出迎えてくれるように、昭和に大ヒットした「男はつらいよ」の舞台で有名ですね。
寅さんのおかげで、柴又という町、柴又帝釈天が東京の観光地になってしまいましたが、観光地になったおかげで、明治、大正から続く煎餅、団子屋、川魚料理店などが立ち並ぶ帝釈天参道はさびれずに、下町情緒あふれる街を維持できているのかもしれませんね。また、柴又には江戸時代初期に作られ、今もなお都内で唯一残る渡し場である「矢切の渡し」と、海外でも評価が高く東京一美しい庭園と言われる「葛飾区山本亭」があります。

昔、柴又~金町間に人車鉄道があった?!

明治時代にここを人車鉄道が通っていたのをご存じでしょうか。
人力車ではありません。人が電車を押して走る「人車鉄道」です。
明治30年(1897年)に日本鉄道という会社が金町駅を開業すると柴又帝釈天への参拝客が一気に増加します。それを打開するために明治32年(1899年)柴又~金町間で作られたのが帝釈人車鉄道です。その当時なんと全線複線で、一人で乗客6人乗りの電車を押して運行していたということです。
電車は64両もあったというから驚きです。当時の柴又帝釈天の人気のすごさがわかります。柴又帝釈天の渡り廊下の彫刻でもこの人車鉄道が確認できます。
人車鉄道は、その後明治45年(1912年)に京成電気軌道(現在の京成電鉄)に譲渡され大正2年(1913年)に幕を閉じます。10年以上も活躍したのですね。

柴又帝釈天はどうして有名になったのでしょう

これほど人気のある柴又帝釈天は、いつ頃からどのような経緯を経て有名になったのでしょう。
安永8年(1779年)に、題経寺住職が本堂を修理している時にあるものを発見した時に始まります。発見した住職は、題経寺の中興の祖とされている9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)上人です。
あるものとは、日蓮宗の宗祖である日蓮上人が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊です。昔からこの寺にあったのですが、長い間所在不明になっていたものです。
発見した日が60日に一度巡ってくる庚申の日であったことから、柴又帝釈天では庚申の日を縁日と定めます。当時の江戸の町では庚申信仰がとても盛んで、庚申の日に柴又で帝釈天が発見されたという知らせは一気に江戸市中に広まり、柴又の帝釈天として有名になったようです。
それから4年後の天明3年(1783年)に、天明の大飢饉が起こります。柴又帝釈天の住職であった日敬上人は板本尊を背負って江戸をはじめ下総の国のあちこちを歩きまわり、たくさんの人を救済したそうです。こういった話が人々に伝わり、次第に柴又帝釈天は庶民のお寺として有名になったのです。
現在では、柴又帝釈天では庚申の日に日蓮宗の僧侶による法話会が行われています。帝釈堂では帝釈天板本尊を常開帳していますので、本尊の前でお参りできます。

有名彫刻家がしのぎを削った柴又帝釈天

せっかく柴又帝釈天に行かれたら、「彫刻ギャラリー」をぜひご覧ください。帝釈堂の拝殿裏手にあるので見逃してしまいそうですが、昭和4年(1929年)に建立された帝釈堂の外壁には数々の彫刻が展示されていてとても素晴らしいです。その奥には美しい庭園も広がっています。帝釈堂内陣の外側を飾っている10枚の胴羽目彫刻(法華経絵巻)は、大正末期より昭和9年までの10年以上もの歳月をかけて作られました。
一枚板は縦1.27m、横2.27m、厚さ20cmの欅材です。手がけた彫刻家は、加藤寅之助を始めとする当時の東京の精鋭の彫刻家10人です。寅之助の父親の勘造は、「横浜の加藤勘造、房総の伊八」と言われた当時はとても有名な彫刻家で、柴又帝釈天の入り口にあたる二天門の表側を手がけています。寅之助の子どもの正春は、拝殿と渡り廊下を手がけています。
寅之助本人も帝釈堂の拝殿を手がけていて、加藤家と柴又帝釈天との関りは三代に渡っています。「房総の伊八」とは、「四代武志伊八・信明」高石仙蔵のことです。
有名な彫刻家「波の伊八」の四代目であり、この彫刻家もすごい才能を持っています。この方なくして柴又帝釈天は語れないほどです。二天門の裏側だけでなく、帝釈堂、祖師堂、客殿、水舎など柴又帝釈天の大部分の建物の彫刻に関わっています。建物ごとガラスの壁で覆われた「彫刻ギャラリー」は有料ですが、見る価値は十分です。

東京の下町情緒が今なお残る柴又葛飾は、柴又帝釈天をはじめとして一日中楽しめる街です。寅さん気分で帝釈天参道をゆっくりと歩いて、江戸っ子気分で老舗の川魚料理店で江戸川から獲れたうなぎをつまんでみてください。粋ですよ。

庚申の日に柴又帝釈天に出かければとても賑やかですよ

柴又帝釈天は、正式名称を経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)と言います。柴又帝釈天は庚申の日は多くの人で賑わいます。60日に一度巡ってくる庚申の日にこれほどの賑わいを見せるのには理由があります。寅さんゆかりの寺として有名な柴又帝釈天をご紹介します。

庚申の日に柴又帝釈天が賑やかな理由

庚申(こうしん)は、干支の一つで「かのえさる」とも読みます。
干支の組み合わせでは57番目になります。日本では「干支」を「えと」と呼んで、子、丑、寅など十二支のみを指すことが多いですが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す言葉です。干支は60回で一巡します。
日、月、年のそれぞれに充てられますので、60日に一度、庚申の日は巡ってきます。柴又帝釈天と庚申の日のかかわりは、安永8年(1779年)にさかのぼります。日蓮上人が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊が一時所在不明になっていましたが、本堂修理の時に見つかったというのです。
それが庚申の日だったので、以後、60日ごとの庚申の日が縁日となりました。発見した人物は、題経寺の中興の祖とされている9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧です。
その4年後の天明3年(1783年)に、天明の大飢饉が世の中を襲います。日敬は自ら板本尊を背負って江戸をはじめ下総の国のあちこちを訪ね、苦しむ人々に本尊を拝ませます。すると、不思議な御利益が重なり江戸を中心として帝釈天信仰が高まっていきます。これから、江戸時代末期に盛んであった「庚申待ち」と言われる民間信仰と結びついて、庚申待ちをする日の夜を意味する「宵庚申(よいこうしん)」の参詣が盛んになります。

柴又帝釈天では、庚申の日に帝釈天板本尊を常開帳しています。誰でも帝釈堂に入り、本尊の前でお参り出来ます。その日には日蓮宗の僧侶による法話会も催されています。今は、寅さんブームも去って以前ほどの賑やかさを見せていないとはいえ、とても活気があります。

柴又帝釈天の通称で呼ばれていますが、日蓮宗のお寺としての本尊は帝釈天ではありません

経栄山題経寺は、東京都葛飾区柴又にある日蓮宗のお寺です
。旧本山は大本山中山法華経寺です。寛永6年(1629年)開基されました。開山は、下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人であり、実際の開基はその弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人と言われています。入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ祖師堂と呼ばれる建物が日蓮宗としての本来の本堂で、本尊は大曼荼羅です。

帝釈天は仏教の守護神で十二天の一つで、梵天と一対の像として造られることが多いです。現在、全国には帝釈天を安置する多くのお寺があり、奈良県斑鳩町の法隆寺大宝蔵院には塑像の梵天・帝釈天立像、奈良市の東大寺法華堂には乾漆造の梵天・帝釈天立像、唐招提寺金堂には木像の梵天・帝釈天立像、京都市の東寺講堂には木像の梵天坐像・帝釈天半跏像があります。

京成電鉄柴又駅前から200mほど伸びる参道には、多くの商店が立ち並んでいます。その参道の突き当りの二天門から境内に入ります。二天門は明治29年(1896年)に建てられた入母屋造瓦葺の2階建ての楼門です。二天門の名前の由来は、初層左右に四天王のうちの増長天と広目天の二天が安置されているためです。平安時代の作とされる二天像は、堺市の同じ日蓮宗の妙国寺から贈られたものです。

二天門を抜けると境内正面にあるのが帝釈堂です。入母屋造瓦葺で昭和4年(1929年)完成に完成した手前の拝殿と、大正4年(1915年)に完成した奥の内殿から成ります。内殿には帝釈天の板本尊が安置されていて、さらに左右には四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)が安置されています。二天門と帝釈堂の拝殿は、江戸期建築の最後の名匠といわれた坂田留吉によって作られています。二天門をくぐり、右手の奥に見える釈迦堂は、題経寺の中で一番古いお堂です。西暦1800年頃の建てられたと言われています。

「彫刻の寺」と言われる柴又帝釈天

境内のお堂の彫刻は、見事というほかありません。
明治30年頃から大正、昭和初期にかけて柴又帝釈天に関わった彫刻師は多くいますが、中でも二天門の表側を手掛けた加藤勘造は、拝殿と帝釈堂の胴羽目彫刻(法華経説話)を手がけたその子ども寅之助、拝殿と渡り廊下を手がけた孫の正春と三代にわたって関わっています。
「四代武志伊八・信明」高石仙蔵という彫刻師は、有名な彫刻師「波の伊八」の四代目であり、「法華経説話彫刻」以外、柴又帝釈天の帝釈堂、祖師堂、客殿、水舎などの大部分の建物の彫刻に関わっていたと言います。二天門の裏側も手がけています。
帝釈堂内陣の外側にある10枚の胴羽目彫刻(法華経説話彫刻)は、10年以上もの歳月をかけて作られました。加藤寅之助の発案で、自身もあわせて東京の彫刻師ら10人で見事に作り上げています。
これらの彫刻を保護するために、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われていて「彫刻ギャラリー」と称して有料で公開しています。

柴又帝釈天は、参道では昔ながらのお店が楽しめたりします。庚申の日が来たら、彫刻の寺として知られるこのお寺に足を運んでみてください。とても賑やかですよ。

【柴又帝釈天】寅さんが祭りの主役に

寅さんこと車寅次郎が登場し、下町人情溢れる物語と様々な恋路などを描いた『男はつらいよ』で知られる柴又帝釈天。映画シリーズの第一作では寅さんが柴又帝釈天で催される庚神祭りに参加する様が描かれています。

この映画がきっかけで、柴又帝釈天と『男はつらいよ』シリーズはもはや切っても切れない状態と言っても過言ではないでしょう。

『男はつらいよ』のファンは多く、遂には「寅さんまつり」が開催されるようになりました。

元々お祭りなどで商売をすることも多い寅さんのこと、その名前を冠した祭りが開かれるのも無理はありません。人間が神として祀られる神社は少なくはないのです。

寅さん祭りが行われるのは柴又帝釈天の境内であり、寅さんや、その役を演じた渥美清氏が神として祀られているわけではありません。それでもその名前を冠した祭りが開かれて大いににぎわうのはそれだけ愛されていることの証です。

ふらっと故郷に帰ってくる寅さんのこと、祀られるほど持ち上げられることはないけれど、祭りを開いて、ワイワイと賑わう程度の活気がちょうどいいのかもしれません。 寅さん祭りがおこなわれるのは8月の下旬です。盆踊りや歌謡ショーなども行われます。

夏目漱石の作品にも登場

寅さんやお祭りなど、柴又帝釈天に対し、何とはなしに下町情緒があるとの賑やかなイメージを持つ人もいるでしょう。

実際には夏目漱石を始めとする文豪にも愛されており、その作品にも登場しています。19世紀頃はちょっとしたおしゃれなスポットだったようです。

夏目漱石作『彼岸過迄』という作品に柴又帝釈天付近にある「川甚」なる店でウナギの蒲焼きを食べるシーンがあります。

『彼岸過迄』は、危篤状態から生還した夏目漱石が初めて筆を執った小説です。「病気で休んでいて、久しぶりに書くから面白い物でないといけない」「彼岸過ぎまで書くつもりだからこのタイトルにした」と冒頭部分に書かれており、登場人物は同じですが内容としては短編の連なったオムニバスといったところです。前半と後半で主人公が異なっており、それぞれの役目をこなします。

「何か変わったことがしたい、色々なことがしたい」という田川敬太郎なる人物。この人が大まかなストーリーの狂言回しとなり、後半では敬太郎が興味を持った人物、内向的で複雑な事情を持つ須永の告白となっています。

柴又帝釈天の部分は須永(漱石の分身)が自分の過去を話す場所として機能。須永が「ちょっと甘すぎる」と蒲焼きの味付けに文句を言ったのがきっかけとなっています。

この「川甚」というお店は谷崎潤一郎や松本清張なども小説に登場させており、今でも営業中です。

須永は気に入らなかったようですが、実際にはおいしい蒲焼きが待っていますので、「川甚」に立ち寄るのもおすすめですよ。

富士山から降ろされた観音像

東京都内に鎮座まします柴又帝釈天。チャキチャキの江戸っ子や教養深い文人たちに愛されてきたこのお寺に、ちょっと変わった来歴を持つ仏像がありました。

室町時代に作られたとされる、銅製の観音菩薩坐像です。高さは120㎝ほどで、何の変哲もない観音像と言ったところ。

背面には来歴などが刻まれていました。1493年に、富士山本宮浅間大社の大宮司を務めていた富士親時により奉納されたとあります。像に願いを書ける願主の役目は尾張の国海西部は津島(現在の愛知県津島市に相当)の左衛門太郎という人物です。像を作った人物の名前も刻まれています。

この銘文により、富士山のてっぺんに奉納されたことまで分かっており、現在の場所に来るまでの間についた擦り傷も存在。もう一体、脇に大日如来像もあり、揃って下山仏の異名を持ちます。しかし、何故霊峰富士山から降ろされることになったのでしょうか。

明治時代における神仏分離令が原因でした。「今まで神仏習合と言って、日本古来の神様と仏教の仏様を一緒にしていたけど、それはやめるからね。日本はやっぱり神様の国だから、仏様と一緒にするのはおしまい」という政策です。

仏教を禁止にしたわけではないのですが、宗教は時に人を暴走させます。長らく仏教や僧侶、寺院が受けていた特権に不満を持つ者も多かったようで「神様の時代だから」を名目に寺院や仏像の破壊活動が多く行われました。

富士山を霊峰とする山岳信仰の信徒の中にも仏教を目障りに感じた人はいたらしく、「有難い富士山に仏像を置くわけにはいかない」と多くの仏像が破壊、更にひどい場合には噴火口に投げられた像まであったとされます。

そんな難を逃れたのがこの二体の下山仏です。元々神仏分離令とは「仏教よりも神道を信じなさい」という政策なので、仏像を助け、移動させたからと言ってお咎めを受けることはありませんでした。二体の仏像は一旦山頂から麓まで降ろされて、その後柴又帝釈天にて祀られるようになりました。

日本一の霊峰から下町に落ち着いたわけですが、案外「この方が分かりやすいね」と思っておられるかもしれません。

江戸時代後期に出された『甲斐国志』によると、この観音像が奉納されたまさに同じ年、富士山頂に鉄製の十一面観音像が奉納されたとの記述があります。記述のみならず、同じころに出された『富士山明細図』にも十一面観音像の姿があるというのです。

それにもかかわらず、この像はどこからどう見ても十一面観音の面影はありません。素材も違います。意外なところに意外なミステリーが存在していました。この件について考察するのも面白いでしょう。

柴又帝釈天におわす仏様たち

寺院と名前が有名になっている柴又帝釈天ですが、仏像も見所は多いです。先に挙げた下山仏もそんな見所の仏像として数えられます。

【本尊は大曼荼羅】
まず、ご本尊。板本尊の帝釈天があり、名称も柴又帝釈天ですが、これは異名でした。お寺の正式名称は題経寺(だいきょうじ)であり、日蓮宗寺院としての本尊は大曼荼羅です。これは中央に御題目(「南無妙法蓮華経」)を配し、周りに神仏を配したもので、帝釈堂の隣にある祖師堂にて安置されています。

【帝釈天の部下、四天王】
どの寺院にも大概安置されている四方と仏法の守護者、四天王の像も見ごたえは充分です。
四天王はインド神話時代から帝釈天の部下であり、帝釈天の異名を持つこの寺院では二手に分かれて像が安置されています。
西を守る広目天、南を守る増長天は二天門と呼ばれる門の所で仁王像のごとくたち構えており、帝釈堂では上司ともいえる帝釈天(板本尊)の脇時を北の多聞天、東の持国天が固めているという構図です。
「外は任せた。中は任せろ」という四天王たちのチームワークが見て取れます。

【釈迦堂のお釈迦様と開山者、「柴又帝釈天」の祖】
仏教開祖のお釈迦様もおわします。釈迦堂は開山堂とも呼ばれており、内部にはお釈迦様と、寺院を開山した日栄、帝釈天信仰を広めて寺院を柴又帝釈天と呼ばせるに至った日敬の像があります。

【罪と煩悩を洗う浄行菩薩】
日蓮宗系統の寺院に必ずと言っていいほどあるのが浄行堂です。その中には浄行菩薩という仏がおり、大概ヒシャクで水をかけます。
柴又帝釈天も日蓮宗寺院なので浄行菩薩がいますが、ヒシャクだけではなくタワシでこする作業も追加です。
これは罪と煩悩を洗い流し、清める意味を持ちます。
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