仏像

天才仏師《運慶》にまつわるエトセトラを知ると面白い!

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「運慶」という仏師がいます。あまりこの方面に詳しくない人でも名前くらいは聞いたことがある、というほどに有名な人物です。「天才仏師」との呼び声高く、「重要文化財」や「国宝」を数多く残していますが、具体的にどういった人物なのか。簡単に略歴からまとめてみます。

そもそも運慶さんてどんな人?

まず。父親は分かっているものの、生まれた年は正確には不明。
長男湛慶の生まれた年から逆算して12世紀半ばではないか、という説があるようです。父康慶もまた仏師。そんな運慶さんが父の下修行をし、1180年に東大寺及び興福寺の仏像修復をはじめ、後に「国宝」と呼ばれることになる仏像を次々建立。いわゆる「仁王像」に関しては「制作兼プロデューサー」として携わり、「阿形像」の方を手がけました。特徴としては筋骨隆々、或いはふくよかという「リアル」さを追及した仏像が多い模様です。

デビュー作

こちらが運慶さんのデビュー作、円城寺の大日如来像です。
制作年は1176年頃。さすがに時代のせいか表面が剥がれていますが、それでも何か圧倒されるものがあります。完成当時はさぞや光り輝いて、堂々としてたんだろうなあと思うと、ちょっと当時の人が羨ましかったり。

写実的作風・「定朝様」からの脱却

平安時代。仏像には「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれる様式がありました。
時の大仏師、定朝の名を冠するこの様式、平安時代の後期頃やけにはやったようです。遣唐使の廃止により、「ジャパンオリジナルの仏像を作るぞー」との意気込みを持って生まれたであろう、日本独自の仏像スタイルなわけです。その特徴とは、浅彫りで重みを感じさせない、どこか非現実的な印象。焦点が定かではない、との指摘もあるようです。

とはいえ、これが平安貴族たちの好みにマッチした模様。

しかし平安時代も終わりを迎え、今度は武士が台頭してきます。歴史が動くという大事において仏教界も変わった、ということでしょうが、そこにはある事件、戦が少なからず関係していた模様。

人生の転機。南都復興

運慶さんもある意味、この事件にかかわってはいます。
先に述べた東大寺と興福寺。何でそこの仏像を修復しなくてはならなくなったのか。
源平合戦で有名な平氏一門、平重衡が焼き討ちを行ったためです。

この「南都焼討」に関しては、台頭する平家勢力と南都(現在の奈良)の僧侶たちとのいざこざが元になっている模様。「ちょっと平氏一門、調子乗りすぎじゃないかい?」「そっちこそ、一部の坊さんが暴れてるんですけど?」。南都の僧たちには皇室という後ろ盾があったものの、後白河法皇が処罰される、清盛の孫が天皇即位するなどにより、僧兵たちの間で「皇室にまで手を入れた。平氏は調子に乗りすぎだろ」との気運が高まります。で、源氏方につくわけです。初めは平和的に解決しようとした清盛でしたが、堪忍袋の緒が切れたのか息子重衡に命じるのでした。それが「南都焼討」です。

しかし、この時の東大寺、興福寺には僧侶だけでなく一般市民も避難していました。

「大仏様、仏様と一緒なら大丈夫」そう信じていたところに寺ごと火をかけられて、まさに阿鼻叫喚。火炎地獄の様相を呈した模様。両寺社ともにほぼ全焼の憂き目に遭いますが、清盛も翌年には亡くなります。「仏罰だ」と噂する人も多かったとか。

前置きが長くなりましたが、この両寺社の内、まだ主流でなかった「奈良仏師」に属する運慶らは比較的マイナーな部分を担当することになりました。
メインは当時の仏師界を牽引する「京都仏師」なる面々が担当した模様です。

奈良仏師の特徴の一つは「玉眼」と呼ばれる技法。
目に水晶をはめ込んだもので、それまで細目が主流だった仏像界に新たなる風を吹き入れたのでした。
運慶を含む奈良仏師たちは、定朝の孫にあたる頼助(らいじょ)を祖とし、奈良を拠点としていたためこう呼ばれるわけですが、都である京都でないせいもあって、「この寺古いから直して」といった地味な仕事ばかり引き受けていたようです。頼助さん、1096年に焼けた興福寺と仏像を直したってんで法橋(ほっきょう・僧侶の位)にしてもらったんですけどねえ。やっぱりいつの時代も都じゃないとメジャーな仕事はさせてもらえないんですね。

いつからか名前に「慶」の字が入った者が増えたため「慶派」と呼ばれるようになりますが、下積み時代が長かった模様です。その中で起きた「南都焼討」は悲劇的な事件だけれど、慶派にとって「南都復興」はむしろ日の目を見るための足掛かりになりました。何か複雑ですが。慶派の祖は、運慶の父康慶。力強い作風で知られる康慶のその作風が、弟子で息子の運慶に受け継がれたわけです。しかも、運慶の方が才能が上。東大寺の仁王像を作るまでに至る、運慶の作品を見ていきましょう。

主な作品

兵士滅亡後の東大寺再建の際には東大寺大仏殿の「持国天」像も担当しました。

他の像も慶派により作られましたが、戦国時代の火災で頭部だけになっちゃいました。死後300年ほど経ってのことじゃあもう運慶さんの「持国天」は見られないというわけです。何か勿体ない。しかし、康慶の死後、慶派の棟梁は運慶に任されました。息子だったから?ある意味ではそれもあるかもしれません。とはいえ、大仏脇侍と四天王の造仏に携わっただけではなく、大仏脇侍の造像法にも一因があるようです。

つまり、別の仏師と別々に作り、「合わせる」という制法。綿密な打ち合わせがないとできないであろうこの制法に、父や兄弟弟子と共に携わり、何より最も重要とされる持国天の造像を任されたことからも、期待を寄せられ認められていたことが伺えます。大仏脇侍制作時指揮にあたった模様で、後の金剛力士像建立へ続くのでした。

棟梁の初仕事で

慶派を背負って立つ身になった運慶さんの棟梁としての初仕事は現在の教王護国寺における行動所蔵の修復。
「弘法大師が作った立体曼陀羅か」と自然気合も入ったはず。そして、「んじゃいっちょ始めるかー」と仕事を開始した時。仏師の一人がこけつまろびつ運慶さんの下へ。

「大変です!」
「どうした」
「阿弥陀様の頭から、仏舎利(お釈迦様、或いは構想の遺骨)と梵字の真言が書かれた紙が出てきました!」
「何!?」
他の仏像からも次々現れる仏舎利。

それらは一まとめにされて、参拝客を多く呼んだそうな。ロマンですね。空海さんと運慶さんのある意味運命的な出会いのようです。
修繕ばかりしてきた慶派、奈良仏師ですが、その力強い作風が武士の好みに合ったようで、仏像建立の依頼も増えた模様です。ヨカッタヨカッタ。なんていってられない事態が起きました。しかも、死後何百年も経ってから。

危うく海外流出しかけた作品があった!?

ある大日如来像がニューヨークのオークションにかけられることになったのです。
2008年のこと。この像は「何だか運慶作品ぽくね?」と言われていたものですが、マスコミが大々的に騒ぎ立てた模様。オークション騒ぎはそののちのことなんですが、幸い三越が12億円で落札したとのこと。ちなみにこの作品、正確に運慶さんの作品かどうかは分かっていない模様。「そうじゃないかな?」程度の認識だそうですが、本物だとしても日本にいてほしいです。

まとめ

文豪夏目漱石の作品にも登場し、何故未だ愛されているか分かった気がすると言った趣旨の文で締められる運慶作品。生で見たら、やっぱり圧倒されるんでしょうね。とかく写実的で迫力があり、それでいて怖いばかりじゃない。思わず不思議な感覚に見舞われそうです。

仏教界の革命児的存在、運慶作品

夏目漱石に『夢十夜』という作品があります。夢を題材にした、今で言うオムニバス形式の物語なんですが、その中に運慶に関する話がありました。第六話に当たるお話で、「仁王像を彫る運慶を見物する」というもの。主人公は「運慶は木を削って仁王像を『作って』いるんだ」と認識しますが、隣にいた男から言われるのでした。「仁王像を作ってるんじゃない。木の中に埋まった仁王像を取り出してるんだ」。分かるような分からないような、といったお話です。運慶には木の中にとっくに仁王様の姿が見えており、周りの余分な木をどかしている、ということなんでしょう。つまり、仏師としてそれだけ優れているということなんですね。しかし何がそんなに惹きつけるのか。何故、数ある仏師の中でも飛び抜けて有名なんでしょうか。

仏像の作風変遷

運慶の作風としては、「写実的」というのがまず挙げられます。それまでの仏像は、もちろん有難味こそあれど、どこか現実味というものがありませんでした。だからと言って、別にピカソの絵画のような分かりやすい歪み方をしていたわけではありません。しかし、仏教が渡って来たばかりの飛鳥時代の仏像は平べったく、にっこりとしたアルカイックスマイルという笑顔が基本。奈良時代後期にはすでに人間に近い体型でした。そのご平安時代定朝という仏師の出現で、日本の仏像界は激変します。平安時代の終わり頃に現れたこの人の作風は、なだらかで優雅な曲線が特徴的。しかもそれだけではなくそれまでの仏像がどこかしら中国、唐の影響を受け引きずっていたのに対し、定朝の作品は完全日本風。「日本男児の心意気見さらせや!」とばかりに、100%和テイストの仏像の形式を完成させたのです。その曲線の優美さが「ほほほ」と笑いながら蹴鞠を行い、行事を行う雅な平安貴族の好みにドストライクバッターアウト状態で、「定朝様(じょうちょうよう)」という流派のように発展。
運慶さんはそんな定朝の7代目の子孫ということです。師匠は、実の父康慶。名前に「慶」の字がつく流派はいつからか「慶派」と呼ばれるようになりました。だからといって名仏師の家系だぜイエイ!と華々しくデビューしたわけじゃありません。運慶さんの属する通称「奈良仏師」は定朝の子孫とは言え「オマケの傍流」といった所。それが今では「一番有名」と言っても過言ではない大仏師にまでなったのは、政府との多少のコネと運慶さん自身の才能がありました。いつの時代も、そして仏師の世界もコネが物を言うんです。しかし、そんなコネだけで1000年も名前が残る物でしょうか?そう、才能が物凄いんです。

運慶の略歴

父親が分かっているのにもかかわらず生まれた年は不明。12世紀半ばくらいと推測されています。父康慶は興福寺が拠点の奈良仏師でした。円城寺の大日如来座像(1176年)がデビュー作となります。1183年には一族ほぼ総出で法華経の写経(通称「運慶願経」)を完成。平清盛の命令による南都焼討で焼失した伽藍、仏像復興のため、メジャーな京都仏師共々興福寺の再興に参加しました(南都復興)。この時、食堂を任されたメジャー派のトップ、成朝は「頼朝様が勝長寿院てお寺の阿弥陀様作るように頼まれてるから、鎌倉行くわー」とそちらへ向かったと『吾妻鏡』に記されています。「ちょ、無責任じゃね?仕方ない、俺らでやるか」と、運慶さん達はえっちらおっちら、興福寺の再興と仏像修繕。共に焼失した東大寺の虚空蔵菩薩像の修繕も、父子共同で行います。ちなみに、西金堂でお釈迦様を彫っていたそうな。その頑張りが認められたのか、鎌倉幕府から仕事が入るようになりました。その作風は男性的。写実的ながらもたくましいもので、武士の好みにベストマッチ。奈良仏師独自の技法、目の部分に玉を入れる玉眼も相まってリアルさ、迫力を増した慶派の仏像は人気を呼ぶのでした。 ちなみに運慶さんには経歴に空白期間があるのですが、頼朝の奥州討伐の際、そこにあった寺院に似せ、犠牲者の霊を鎮めるよう命じられて永福寺の件増に携わったのでは、という説があるようです。これで鎌倉幕府とのコネができた模様。

運慶の作品

有名仏師とはいえ、意外と「運慶作品です」とハッキリ分かっているものは少ないんですね。「これそうかな、いや違うかなあ・・・」というものも多々ありますし、戦国時代等で焼けてしまったパターンもある為です。はっきり運慶さんの作品、と分かっているのは、以下の数点。先に述べた奈良県円城寺の大日如来坐像。これは「康慶の弟子の運慶が作ったよー」というサインが入っているためまず間違いナシ。
神奈川県、浄楽寺にある阿弥陀三尊像。不動明王と毘沙門天の立像も作っています。
それだけではなく、後代の仏師たちがこぞって真似する方法を初めて行った、仏師界のコロンブスの卵的な造像を行いました。仏像というもの、実は納入品という者があります。場合によって小さな仏像だったり、お経だったり仏師のサインだったりするものですが、運慶さん以前の仏師はこれを台座に乗せ、その上に「よっこらせ」と仏像本体を被せるように置くのが普通でした。そのため火災などの時に上のメイン仏像だけ避難させられて納入品は置き去り状態。ドラマなどである「私の子がまだ中に」状態になるわけです。運慶さんはそんな事態を防ぐため、「仏像の中に納入品入れたらいいんじゃね?」と、体内に入れられるように実行しました。これで、多くの納入品も救われたわけですね。南都復興での経験が生きたということでしょうか。
奈良県の東大寺南大門、金剛力士像。運慶産代表作といっても過言ではない、通称仁王様。
厳密には息子を含めた慶派の面々と共に造像したもの。あまりに大きいため、パーツを分けて作り、ガッチリ合わせるという手法を採用。阿形だけでほぼ3000、吽形で3100超えのパーツから成ります。2か月で完成させるなど、プロデュース能力を発揮。ちなみに、基本的に仁王像は向かって右が阿形、左が吽形なんですが、こちらは左右逆。また正面ではなく、中央を向いています。これは見る側に与える迫力等を計算した結果のようです。天才は違います。ついでに言うと、運慶さんの担当したのは阿形の方。快慶さんと共同作業です。「行くぜ皆!金剛力士像を完成させるんだ!」という心意気が伝わりますね。

他にも、興福寺の北円堂の弥勒仏やその脇侍、四天王、無著、世親兄弟羅漢像。ただし、現存しているのは弥勒仏及び二体の羅漢のみ。 神奈川県にある称名寺巧妙員の大威徳明王像。他にも大日如来、愛染明王も作ったんですが、大威徳明王の台座もろとも現存していません。

まとめ

中国に、このような話があります。丹霞(たんか)という僧侶がいました。洛陽という場所にある慧林寺に寄った、とある夜。「寒い・・・寒すぎる。あ、そうだ」と何かを思いついた丹霞さん。恐れ多くも寺にあった仏像を燃やして暖をとっていました。当然「アンタ何してんの!」と他の僧侶から言われますが、平然と返します。「舎利(お釈迦様の遺骨)を出そうとしてたんだ」「仏像にそんなの入ってるわけないでしょ!」「あ、そう。じゃあ単なる木でできた像だね」。大事なのは像をありがたがることよりも、自身の中の仏を磨くこと、ということらしいです。『夢十夜』の運慶の話も、木の中にある仏を取り出そうという意味なのかもしれません。「じゃ、高い見物料を払って見に行くことはない」って?中国の僧侶の話は飽くまで悟りを得た者の一つのパターン。見る者を圧倒し、感動させた時点で何らかの仏が心に生じるのではないでしょうか。それが仏像に芸術的価値を与え、国宝にまでのしあげているのです。「芸術的価値なんて下らないんじゃないか」なんて堂々巡りになりそうな議論は止めておきましょう。そこにあるのは単なる木でも粘土でもありません。仏師の魂、まぎれもない仏の心の結晶です。一般人にとっても非常に価値ある仏像を、より魅力的にしてくれた運慶さんは、まぎれもない偉人、いやさ聖人かもしれませんね。

監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
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