四天王寺は名宝だらけ? 聖徳太子の佩刀「七星剣」も収蔵する日本仏法最初の官寺の魅力

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大阪市天王寺区に四天王寺があります。
四天王寺は大阪を代表するお寺で、初詣には約10万人の人々が訪れます。 大阪人のみならず、関西の人々は一度は名前を聞いたことがあるお寺です。 約1400年前、聖徳太子によって建てられましたが、いったい何のために建てたのかご存じでしょうか?
その中に、聖徳太子が後世に伝えたかった”教え”があります。
そこで今回は、聖徳太子の伝説や教えをご紹介します!

聖徳太子とは?

聖徳太子は敏達天皇3年(574年)に産まれた皇子です。
厩戸の前で産まれたことから、「厩戸皇子」と名付けられました。 遣随使の派遣や冠位十二階と十七条憲法の制定など、政治家として活躍しました。 また、数々の伝説をもつことから、「実在の人物ではない」ともいわれていて、いまだに謎が多いのです。

まず、出生にも伝説が残っています。
聖徳太子の母・穴穂部間人皇女の前に全身金色の僧侶が現れ、「我は西方の救世観音菩薩なり。我に救世の願あり。しばらく皇女の腹に宿る」というのです。
皇女がうなずくと、救世観音菩薩は皇女の口から体内に入っていきました。
お腹は大きくなるものの、いまだ陣痛はきません。 そして、救世観音菩薩との出会いから1年後。皇女が宮中を見回りしていると、厩戸の前で陣痛もないまま赤ちゃんを出産したのです。 その赤ちゃんは小豆ほどの仏舎利(仏陀の骨)を握りしめていました。 2歳になった聖徳太子は釈迦入滅の2月15日の朝、東に向かって手を合わせ、「南無仏」と声高に唱えたといいます。

さらに、有名な伝説が「10人の話を同時に聞くことができる」ですよね。
また、天台宗開祖の天台智ギの師匠である南嶽慧思の生まれ変わりである、という伝説も残っています。 慧思が所持していた法華経を、聖徳太子が遣随使の小野妹子に持ち帰らせたという逸話も残っており、これを知った日本の天台宗開祖・最澄は聖徳太子を深く信仰しました。

そして、聖徳太子の人柄を感じ取れる伝説は「片岡山伝説」です。
推古天皇21年(613年)12月、40歳の聖徳太子は片岡山に遊行(仏教の布教や修行のために各地を巡り歩くこと)していると、ひとりの飢えた人が倒れていました。
聖徳太子はその人に食べ物を与え、自分の衣服をあげました。
しかし翌日、その飢えた人は死んでしまい、遺体を埋めてあげました。
手厚く葬る聖徳太子に使いの者は「そこまでする必要がございますか?」と聞くと、「彼は聖(知徳の高い人)に違いない」と答えたのです。
数日後、聖徳太子は使者を遣わせ棺をみてもらうと、遺体が消えており、彼があげた衣服だけがたたんで置いてあったのです。
その話を聞いた当時の人々は「聖は聖を知るというのは本当だったんだ」と、畏敬したのでした。
さらに、この伝説は大きくなり「飢えた人は禅宗の達磨だった」と、伝えられるようになったのです。

このように、聖徳太子は数々の伝説を残しました。
本当に不思議な人物ですよね。

聖徳太子の教えとは?

数々の伝説を残した聖徳太子。
仏教に帰依し、政治に取り入れることを目指した人でした。

四天王寺を建てたのも、もちろん仏教が深く関係しています。 日本に仏教を取り入れたかった聖徳太子でしたが、同じ考えの蘇我氏と反対派の物部氏が対立していました。 そこで聖徳太子は四天王の像を造り、仏さまのご加護をお願いしました。 そして、物部氏との対決に勝利したのです。 推古天皇元年(593年)、難波の荒陵に四天王像を安置する「四天王寺」を建てたのでした。 四天王寺は日本で最初の官寺(伽藍の造営や維持の費用を国家から受けている寺)となったのです。

聖徳太子は仏教の「和の精神」をとくに重んじました。 十七条憲法の第一条にも、「和をもって貴しとなす(和の精神を大切にする)」と記載されています。 また、十七条には「それ事は独り断ずべからず。必ず衆とともによろしく論ずべし(自分ひとりで決めて、勝手に物事を進めてはいけない。必ず多くの人々と意見を交換するように)」とあります。

また、「片岡山伝説」からわかるように、聖徳太子は慈悲深い人でもありました。 聖徳太子の書である「三経義疏」には「慈悲の心で人々に幸せを与え、苦しみを除くこと」と書かれています。 そして、仏教の根本精神を実践するため「四箇院」を設けました。

四箇院とは敬田院・施薬院・療病院・悲田院のことです。
敬田院は「仏を敬い、教えを広める」という意味があり、仏法興隆の道場として伽藍を中心にして教えを広めています。
施薬院は薬草を栽培して調剤し、病人に与えること。
療病院は病人を収容して看病や治療をする施設。
悲田院は貧しい者、身寄りのない者を住まわせ、生活させる施設。
聖徳太子は身分関係なく、苦しむ人々を助けることを生涯の目的としました。

この「和の精神」は宗派を超えて尊崇され、たくさんの僧侶たちに影響を与えました。 第二次世界大戦前までは天台宗に属していた四天王寺ですが、昭和24年(1949年)には「和宗」として独立しました。 そして、「和の精神」は四天王寺が継承し、人々に伝え続けています。

聖徳太子の教えを受けられる講座へ行こう!

四天王寺では毎年10月に「四天王寺秋季大学」を開講しています。 著名な先生をお招きし、毎回違ったテーマで講座が開かれています。 受講料は1000円で、本坊五智光院で行われます。 どなたでも参加できますので、ぜひ受講してみてください!

そして毎月2回、午前6時30分~午前8時ごろまで「参禅会」が行われます。
「精神修養」と「座禅の集い」を催しており、「四天王寺秋季大学」と同じく本坊五智光院で行われます。 参加費は無料で、どなたでも参加できます。
受付は開始10分前に本坊客殿玄関で行います。 事前予約は不要ですが、日程などはホームページのお知らせをご参照してください。(http://shitennoji.movo.jp)

いかがでしたか。
四天王寺には、聖徳太子が伝えたかった「和の精神」があります。 宗派関係なくどなたでも受け入れ、人々を助け、和を広げる活動を行っています。 お参りすると、直接の言葉じゃなくても「和の精神」を教えてもらっているような気持ちになり、心に平穏が訪れます。 ぜひ、みなさんも感じ取ってみてください。

■拝観時間
4月~9月 8:30~16:30
(毎月21日・会中は8:00~17:00)
10月~3月 8:30~16:00
(10月をのぞく毎月21日・会中は8:00~16:30)
(10月21日・会中は8:00~17:00)

○六時堂
8:30~18:00
(毎月21日と会中は8:00~18:00)

四天王寺の門は24時間開いています。
お堂の外からはいつでもお参りできます。

■拝観料
○中心伽藍
大人300円 団体(30名以上)200円
高校生・大学生200円 団体100円
小学生・中学生・幼稚園児は個人でも団体でも無料

○庭園
大人300円 団体200円
高校生・大学生200円 団体100円
小学生・中学生200円 団体100円
幼稚園児は個人も団体も無料

○宝物館
大人500円 団体300円
高校生・大学生300円 団体200円
小学生・中学生・幼稚園児は個人も団体も無料
※障害者と付き添いの方は障害者手帳を提示で無料
※団体の拝観の場合、引率者や添乗員は無料

■所在地
〒543ー0051
大阪市天王寺区四天王寺1ー11ー18

四天王寺は聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺

四天王寺は大阪市天王寺区四天王寺にあるお寺で、現在は「和宗」の総本山です。推古天皇元年(593年)に聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺として知られています。
山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世(くせ)観音菩薩です。
奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺や京都市右京区太秦にある広隆寺などと並び、聖徳太子建立七大寺の一つとされています。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいわれています。

「日本書紀」が伝える四天王寺の歴史

四天王寺は、奈良県高市郡明日香村にある蘇我氏の氏寺の法興寺(飛鳥寺)と並び日本最古の本格的仏教寺院です。
「日本書紀」によれば、用明天皇2年(587年)第31代用明天皇が崩御した後の皇位継承争いで丁未の変(ていびのへん)といわれる蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)の武力衝突が起こります。両氏はそれぞれ大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)で時の政界の実力者で、以前より仏教肯定派、否定派としても対立していました。
主要な皇族や氏族を自陣に引き入れた蘇我馬子が有利に戦いを進めると思われましたが、歴代天皇家に軍事氏族として仕えてきた戦のプロ集団である物部守屋一族にはかなわず三度退却させられます。
この戦況に際し物部守屋討伐に参戦していた聖徳太子は、白膠木(ぬりで)というウルシ科の木で四天王像を造って戦勝祈願し誓願が果たせば四天王寺を建立することを約定したとされます。丁未の変の6年後の推古天皇元年(593年)に、聖徳太子は難波の荒陵(あらはか)において四天王寺の建立に取りかかります。

聖徳太子の精神を今も伝える「四箇院(しかいん)の制」

「四天王寺縁起」によれば聖徳太子は四天王寺に四箇院を設置したとされますが、聖徳太子の仏教思想を最もよく表わしているといわれています。
四箇院とは、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)の4 つです。
敬田院は寺院そのもので仏法修行の道場であり、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり病気の人に薬を施す場所、病気の人を収容する場所です。
悲田院は老人や身寄りのない人などを収容する社会福祉施設です。現在、四天王寺は境内および隣接地に学校や病院を設置していてほかに社会福祉事業も行っています。
まさに聖徳太子の精神を実践しているといえるでしょう。

「四天王寺式伽藍配置」が特徴です

四天王寺の伽藍配置は、日本では最も古い建築様式である「四天王寺式伽藍配置」といわれるものです。
南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べて、それを回廊が囲む形です。
そのルーツは中国や朝鮮半島にあるとされ、6~7世紀頃の大陸の建築様式を伝えています。法隆寺西院伽藍の前身である「若草伽藍」は、四天王寺式伽藍配置であったとされています。

毎月21・22日の縁日はたくさんの人でにぎわいます

四天王寺縁日は、「大師会」「太子会」と呼ばれていて弘法大師の命日(21日)と聖徳太子の命日(22日)にあわせて毎月開催されます。
毎月21日の大師会は、「お大師さん」と呼ばれ境内に日常品や骨董品、食べ物屋などの露店が並びたくさんの参詣客でにぎわいます。
平安時代に弘法大師が四天王寺に詣でて、西門で入日を拝する日想観(じっそうかん)の法要をしたとされます。日想観の法要とは四天王寺の西門が極楽浄土の東門に接しているという信仰があり、彼岸の中日の春分・秋分の日に西門から沈む夕日を拝み極楽浄土や自分のことなどを見つめるというものです。
四天王寺は、2001年秋より年中行事として日想観の法要を始めています。
毎月21日の大師会としてのお参りは、江戸時代より盛んになったといわれています。この日は中心伽藍が無料開放されます。また五重塔最上階回廊も開放されます。
聖徳太子の命日(22日)も「太子忌(たいしき)」として絵堂と中心伽藍が無料開放されます。絵堂には杉本健吉画伯が描いた「聖徳太子御絵伝障壁画」があります。絵伝は聖徳太子の奇跡的な伝説を中心に制作されたもので、昔の人は絵解(絵の解説を物語風に語ること)を聞いて聖徳太子の生涯を知ったとされ現在絵堂で体験することができます。

1400年の伝統を誇る四天王寺聖霊会の舞楽(しょうりょうえのぶがく)

聖徳太子の命日である4月22日(旧暦2月22日)には、毎年聖霊会舞楽が石舞台で行われます。
聖霊会とは、四天王寺で催される聖徳太子命日の大法要のことです。四天王寺の行事の中でも最も重要とされています。
舞楽とは舞を伴った雅楽のことで、この舞楽は1400年の伝統を持ち日本の最古の雅楽の様式を伝えることでよく知られています。
四天王寺の六時堂(重要文化財)の手前の「亀の池」の中央にある石舞台は、大阪市住吉区の住吉大社の石舞台、広島県廿日市市の厳島神社の板舞台と並び日本三舞台(にほんさんぶたい)にあげられる格式のある舞台です。
この舞台で行われる舞楽は、独特な仮面をつけ鮮やかな衣装を着て行われとても幻想的です。四天王寺の雅楽は、江戸時代初期に制度化された雅楽の伝承組織「三方楽所(さんぽうがくそ)」のひとつとされています。
三方とは、宮中方(京都宮廷)、南都方(奈良興福寺)、天王寺方(大阪四天王寺)を指します。
雅楽の最古の様式を持つ四天王寺の雅楽は、天王寺楽所によって伝えられ現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承しています。当日は、国の重要無形民俗文化財の指定を受けているこの舞楽を無料で鑑賞できますよ。

四天王寺には弘法大師だけでなく、平安時代から鎌倉時代にかけての仏教の開祖が多く訪れています。
天台宗の最澄や融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などです。四天王寺の建物は、たびたび戦火や災害に見舞われ多くが焼失していますが、現在の建物は飛鳥建築の様式を再現したものです。
約11平方メートルの広々とした境内には四天王寺式伽藍のほかに聖徳太子を祀る太子殿があります。
創建当時をしのんでゆっくりとした時間を過ごしてみてはいかがでしょう。

大阪人が誇る名刹! 四天王寺の美に触れてみよう!!

大阪市天王寺区に四天王寺があります。
大阪を代表するお寺で、誰もが一度は名前を聞いたことがあるくらい有名です。 大阪の人々から「四天王寺さん」とよばれて親しまれています。 四天王寺はその歴史の長さや伽藍はもちろん有名ですが、寺宝や舞楽が美しく色あせないものばかりです。 そして、長い歴史が生み出した美は、大阪人や四天王寺の誇りなのです。 そこで今回は、四天王寺の数ある美を紹介します!

その前に……四天王寺の歴史とは?

四天王寺は和宗総本山のお寺です。
推古天皇元年(593年)、聖徳太子により創建され、日本最初の官寺(伽藍の造営や維持の費用を国家から受けている寺)といわれています。 この6年前、仏教の受け入れや皇位継承をめぐって、蘇我氏と物部氏が対立しました。 政治に仏教を取り入れたかった太子は、白膠木(ぬるで)の木で四天王像を造って、仏さまにご加護をお願いしました。 その願いが通じ、勝利した太子は難波の荒陵に四天王像を安置するための四天王寺を造営しました。

太子亡き後も、一族が滅亡した後も、四天王寺は朝廷から官寺として管理されました。 太子が残した仏教の教えや政治などは後世に影響を与え、次第に「太子信仰」が広がっていきました。 平安時代には、天台宗の開祖・最澄が訪れると、関係を深めていき、法華信仰や天台浄土教が展開していきました。

聖徳太子が記した書物「四天王寺縁起」には、四天王寺は西方極楽浄土の東門である、と記載されていたことから、貴族の藤原道長やその子・頼通が参拝し、鳥羽上皇や後白河上皇など歴代上皇も参拝しました。
また、鎌倉時代にさまざまな仏教宗派が生まれ、浄土真宗の親鸞、一遍、叡尊、忍性らもお参りし、太子の教えを学んでいきました。 身分や宗派を超え、多くの人々に愛され続けてきたのです。

しかし、四天王寺はたびたび災害に遭ってきました。 近年では、昭和9年(1934年)9月21日の室戸台風で五重塔が倒壊し、金堂は傾斜破損、仁王門も壊われるなど、被害は大きかったのです。 さらに、建て直したにも関わらず、昭和20年(1945年)の大阪大空襲により、境内のほぼ全域が焼失してしまいました。

第二次世界大戦後、四天王寺を信仰する人々たちなどにより、復興をとげました。 伽藍は木造が中心ですが、鉄骨鉄筋コンクリートで造られ、しかも創建当初の様式を忠実に再現しているのが特徴です。 そして、四天王寺は天台宗から独立し、「和宗」を創立、総本山となりました。

四天王寺の名宝をご紹介!

四天王寺には、国宝に指定されている寺宝がたくさんあります。 とくに、平安時代に作られたものが多いため、とても貴重なのです。 なぜ、平安時代のものが多いかというと、当時は「海のかなたに極楽浄土がある」という浄土信仰が流行しており、四天王寺は「極楽の東門」と想定されていました。 中でも、身分の高い女性の参拝が多かったため、女性の胸前にかけるお守り「懸守」が流行しました。 ひものついた小袋に護符を入れ、首にかけて装飾としても使います。 木の胎に墨で梵字が書かれており、魔除けのご利益があります。 このお守りは子どもの間でも流行しました。

そして、もうひとつ人気だったのが、「扇面法華経冊子」です。
こちらは絵の上に、女人往生と写経の功徳を説いた妙法蓮華経が写生されています。 扇面法華冊子はいろんな絵が残されていて、どれも人物たちの声が聞こえてきそうな、色彩豊かな絵になっています。 このほかにもたくさんの寺宝があります!
四天王寺の宝物館では名宝展を開催していますので、ぜひご覧になってくださいね。

四天王寺が誇る舞楽を観にいこう!

四天王寺では、昔ながらの舞楽を観ることができます!
舞楽は雅楽ともいい、宮廷やお寺、神社の儀式で演じられてきました。 とくに、四天王寺の舞楽は吉田兼好が記した随筆「徒然草」に「都に恥ぢず」と書かれ、絶賛されたのです。 ところが明治維新後は、三方楽所(舞楽を継承する大内(京都の宮廷)・南都(奈良の興福寺)・四天王寺の3つ)が宮内省に統合されると、四天王寺にいた楽人たちも明治天皇とともに東京へ行ってしまいました。
すると、四天王寺の舞楽を惜しむ声があがり、明治7年(1884年)に「雅亮会」が結成されました。 今では国の重要無形民俗文化財に指定されています。

この舞楽は、4月の「聖霊会舞楽大法要」や10月の経供養などの大きな法要の際に観ることができます。 とくに、「聖霊会舞楽大法要」は聖徳太子の命日を偲ぶために行われ、もっとも重要な舞楽法要だといわれています。 そして、四天王寺には300点を超す舞楽装束や楽器などが伝存しています。

まるで絵巻物から飛び出てきたような舞楽は、なんと無料で鑑賞することができます。 昔から伝わってきた舞楽を観ていると、現実を忘れ夢中になること間違いなし。 ぜひ、ご覧になってくださいね!

いかがでしたか。
今回は四天王寺の美についてご紹介しました。 名宝の数々や舞楽、そして数々の苦難を乗り越え、人々に支えられ再建された伽藍。 どの場所をみても、奥ゆかしさを感じます。 四天王寺は今もこれからも、美や歴史を守っていくことでしょう。 そして、大阪人の人々に支えられ、愛され続けるでしょう。 ぜひ、みなさんも参拝してみてくださいね。

■拝観時間
4月~9月 8:30~16:30
(毎月21日・会中は8:00~17:00)
10月~3月 8:30~16:00
(10月をのぞく毎月21日・会中は8:00~16:30)
(10月21日・会中は8:00~17:00)

○六時堂
8:30~18:00
(毎月21日と会中は8:00~18:00)

※四天王寺の門は24時間開いています。
お堂の外からはいつでもお参りできます。

■拝観料
○中心伽藍
大人300円 団体(30名以上)200円
高校生・大学生200円 団体100円
小学生・中学生・幼稚園児は個人でも団体でも無料

○庭園
大人300円 団体200円
高校生・大学生200円 団体100円
小学生・中学生200円 団体100円
幼稚園児は個人も団体も無料

○宝物館
大人500円 団体300円
高校生・大学生300円 団体200円
小学生・中学生・幼稚園児は個人も団体も無料
※障害者と付き添いの方は障害者手帳を提示で無料
※団体の拝観の場合、引率者や添乗員は無料

■所在地
〒543ー0051
大阪市天王寺区四天王寺1ー11ー18

聖徳太子の本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」といい、聖徳太子という名前は後世の人々に贈られた諡号です。

その名前が示す通り、天皇の皇子として生まれた彼が、政治を行った結果「聖徳太子」と後世呼ばれることになったのには、その政治に対する聖徳太子の功績が大きかったからではないでしょうか。

この十七条の憲法もその一つです。今までは個々の掟はあれど、ここまでまとめられて条文化され、天皇の名の下に発布された法律は無く、聖徳太子の定めた十七条の憲法は、日ノ本の国始まって以来の最古の憲法となったのです。

では一体どんな内容なのか簡単ではありますが要約してみましょう。

第一条は、「和(やわらぎ)を以って貴しと為し…」と団体生活での暮らし方の模範を説いています。

第二条は、仏と法と僧の三宝を敬うこと。

第三条は、天皇の命には真摯に従うこととあり、真摯でなければ天皇の命であっても誰も従わないとあります。

第四条は、官僚は礼でもって人々の模範となること。そこから民が礼を学び国は自ずから治まる。

第五条は、贅沢を断ち、欲を棄てれば訴えられることもない。

第六条は、悪しきを懲らし善を勧める、いわゆる勧善懲悪について。

第七条は、人にはそれぞれ良さがある。

第八条は、官僚は早出し、遅くまで仕事に励むこと。

第九条は、信じることは義の本文なり。

第十条は、人には誰でも心があるのだから、怒りに任せて相手を責めるな。自分が必ず正しいわけではない。

第十一条は、信賞必罰の徹底。

第十二条は、身分は違えど、全ての民は天皇を主として敬うこと。

第十三条は、管理職を任されるものは、まずその仕事を知るべし。

第十四条は、官僚は相手に嫉妬しないこと。

第十五条は、私心を捨てて公務に勤めるのが官僚の道である。

第十六条は、民を使役する際は、急かさなければ、いい結果が出る。

第十七条は、一人で悩まずに相談すれば、いい知恵が出る。

内容としては、大和朝廷を支える官僚の普段のあり方を、仏教や道徳の観念から説うことが中心ですが、実用的な内容も多く、今でも充分通用しそうです。

十七条の憲法は後世の創作との話もありますが、それはあまりにもこの憲法の出来が良すぎるからなのでしょうか。

聖徳太子の伝説あれこれ

聖徳太子は十人の会話を同時に聞き取ることが出来たなどと、どこか人間を超越したようなところが多く見受けられます。

そのためか、伝説も多く、本当のことか眉唾物か真偽のほどは確かめようもありませんが何点か紹介していきたいと思います。

聖徳太子は空を飛ぶことが出来た!

ある日、聖徳太子は朝廷に各地から名馬を献上させました。その中に四脚の白い甲斐の黒駒が紛れていました。

この馬こそが神の馬である。と見抜いた聖徳太子は舎人に命じて飼育させました。

それから半年して聖徳太子が試しに乗ってみると…。何と馬は天空高く飛び上がり聖徳太子と舎人を乗せて東国へと向かったのです。

富士山を越えた先の信濃の国にまで飛び、そこから3日かけて都に帰ってくることが出来ました。

聖徳太子の予言書が存在する?

「日本書紀」には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」との記述があります。

この記述から「未来記」という聖徳太子の予言書が存在するとの話が伝わっています。

実際に「平家物語」や「太平記」といった後期の書物にも未来記の記述があり、太平記では楠木正成がひょんなことから未来記を見てしまい、その後の展開を知るという記述があります。

しかし、あくまで物語上での記述ですので、未来記という名前は広まっていたとしても実際にあったのかは謎のままです。

聖徳太子が箸を広めた?

海を隔てた隋の国に遣隋使として派遣された小野妹子は帰国した際に「箸」なるものを聖徳太子に献上しました。

そこで小野妹子はこう言いました。隋の国ではこの箸を使って食事を取っております。と。

それを聞いた聖徳太子は少しでも隋の文化に近づくために、日ノ本の国でも箸を使って食事を取るように推奨していくことになるのでした。

仏教に帰依した聖徳太子建立のお寺巡り

聖徳太子は十七条の憲法にも仏教的要素を取り入れたように、仏法の教えこそが日ノ本の国を良くすると信じて疑いませんでした。

そのために聖徳太子は教えを広めるための拠点として各地にお寺を建立しました。その中から何点かご紹介します。

法隆寺

この法隆寺を小中学校の日本史で聞いた人は多いのではないでしょうか?奈良県生駒郡斑鳩町にあります。

法隆寺と東大寺が奈良時代の有名な寺として登場しますが、東大寺はさらに後の時代に聖武天皇が奈良の大仏を作らせた寺として有名になっています。

法隆寺に関しては、元々聖徳太子の父親である用明天皇が自らの病を治すために建立させたのですが、完成する前に亡くなってしまいました。

そこで聖徳太子と用明天皇の妹で今の天皇である推古天皇が意思を継いで法隆寺を完成させました。

四天王寺

聖徳太子がまだ若いころ、仏教推進派の蘇我氏と仏教反対派の物部氏との間で戦争が起こりました。蘇我氏側だった聖徳太子は、もしこの戦いに勝利できたなら四天王を祭る寺を建立するという誓いを立てました。

そして見事戦争に勝利した聖徳太子は誓いの通りに摂津国難波(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立したのです。

現在この四天王寺には、聖徳太子の佩刀と言われる「七星剣」と「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」が納められています。
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