仏像

脇役ではない、末寺の底力

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その昔、月は夜道を照らす灯りでした。そんな月の光が、実は太陽の照り返しだと分かって幾星霜が経過します。
月が自分自身の光で輝いているわけではないにせよ、太陽とは違った趣がありますし、何よりもその昔は暗い夜の足下を柔らかく照らしてきました。
そんな月光にも似た存在が、末寺(まつじ)です。

末寺の意味

末寺とは、各宗派の総本山や本寺に付き従う寺院のことです。言ってみれば、本寺を親分とするなら末寺は子分のようなもの。元はそんな関係でした。
場合によっては力のある本山が財力、政治力などで、あまり力を持っていない寺院を末寺として従えていた時代まであります。
また、全然関係のない宗派や、神仏習合の関係で神社まで末寺となるケースも少なくありませんでした。

末寺を傘下に収める本末制度

江戸時代になると、幕府が仏教勢力を統制するべく本末制度と呼ばれる制度を作り上げます。
宗教関係の決まりごとは、キリシタン弾圧だけではなかったのです。本末制度というのは、本山、本寺と同じ宗派の寺院を全て本山の末寺として置き、新しく寺院を作ることを禁じた政策です。
宗派ごとの末寺は「末寺帳」と呼ばれる資料にまとめて提出することも義務付けられます。
これで、幕府にとって寺院の統制が楽になりました。本山、本寺は末寺の人事権から裁判権まで手にしました。末寺は本山、本寺に上納金を納めなくてはなりません。
宗派ごとに触頭なる寺院が設定されて、そこから末寺へ連絡が行くようになります。
この制度を作ったのは、単に統制が楽というだけではない理由がありました。いつの時代にもいるのです。生臭坊主というものは。

有名寺院も末寺に?本末相論という寺院の権威争い

中世には、寺院に関する系統建ての制度が特になく、「ウチの末寺を取るな」「いつあんたの所の末寺になった」といった小競り合いがよくありました。「宗派が違うから、あそこの末寺から離れよう」と自立を試みる末寺もあったのです。
あの比叡山の延暦寺でさえ、興福寺の末寺になるよう訴えを出されたことがありました。しかしそんな下積み時代の辛酸も忘れて、延暦寺も有名な寺院を多く末寺としてべらぼうな額の上納金を得るようになります。遂には北野天満宮、本願寺、仁和寺と言ったそうそうたる寺院まで末寺として朝廷に認めさせてしまいました。
戦国時代になると末寺になるのを拒んだ寺院を焼き払う暴挙に出てしまいます。「よーし、これでワシらの力は安泰だな。上納金も頼むよ」と言った所です。
織田信長公が焼き払った時仏教は堕落し、僧兵の数も4000を超えていたとされます。
東大寺も、醍醐寺や東寺を末寺にすると時の権力者に訴えを起こしたことがあるのです。寺院の世界も世知辛いものがあります。

現代の末寺

第二次大戦後、末寺は基本的には江戸時代とあまり変わらない制度で動いています。
とは言え、かつての制度を受け継ぎつつ、末寺は単なる「末端」ではなく時に本山の力を借りながら、その教えを受け継いでいるのです。
本山という太陽の照り返しと言ったら語弊が生じますが、ちゃんと光って、信者の足下を明るくしているわけですね。

まとめ

本山の教えをは遡ればお釈迦様まで行きつきます。あらゆる銀河で色々な星が存在していても、同じ宇宙に存在していることと同じです。あらゆる星には、それぞれの力、魅力を感じさせます。末寺も本山もそれと同じなのです。

監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
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