一度も攻撃を受けなかった堅城「青葉城」

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 陸奥六郡五十八万石を領し、玉造郡岩出山城を居城にしていた奥州の独眼竜、伊達政宗は岩出山城が領域の北西に偏り、また、主要街道から外れた位置にあって、城下町も狭かったために新たな本城を築こうとしました。

 築城計画を練っていた慶長五年(1600年)六月に、徳川家康が上杉景勝の討伐を発令し、翌七月には関ヶ原の戦いが勃発します。大坂から急いで帰国した伊達政宗は、北目城に入り、二十五日、上杉氏に属す白石城を攻略しました。
八月、徳川家康から陸奥刈田・伊達郡など四十九万五千石加増のお墨付きを与えられた政宗は、上杉軍と交戦中の出羽の最上氏に援軍を送り、みずからは信夫・伊達郡方面に出陣しました。しかし、関ヶ原合戦後、政宗が家康から新たに加封されたのは刈田郡二万石にすぎず、期待はずれに終わりました。
これは政宗が家康の命令を無視して領地を広げたり、裏で一揆を扇動し、武器を横流ししていたためとも言われています。政宗は関ヶ原の戦いが長期化すると考え、中央で家康たちが動けない間に東北全土を制圧しようとしていたとも考えられています。
しかし、関ヶ原の合戦はよそうに反して一日で終わり、政宗が好きに動いていたことが戦後になって家康に知られたため、約束が破られても政宗は何も言えなかったとされています。

 次いで、政宗は新城の候補地として、千代、榴ヶ崎、大年寺山、石巻日和山を選び、徳川家康に認可をもとめました。その結果、十一月に千代が許可され、十二月二十四日に新城普請の縄張を開始しました。翌慶長六年(1601年)四月、政宗は早くも北目城から仙台(千代)に移っています。

 城地の青葉山には、かつて千体仏が安置され、島津・結城・国分氏が居城を置いたこともあります。
政宗は、「仙台所見五城楼」という唐詩にちなみ、千代を仙台と改めました。
東側前面に広瀬川が流れ、西側背後は原始林がつづく丘陵地で、南側は70~90mに及ぶ龍ノ口沢の峡谷が絶壁をなしていました。本丸の北麓方向に設けられた大手門は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役の本営として築いた肥前名護屋城の大手門を移築したものと伝えられています。

 また、天守閣こそ設けませんでしたが、山頂部の本丸には、桃山風書院建築の粋を集めて大広間が構築されました。この造営のために政宗は、大工棟梁の梅村彦左衛門、彦作親子を派遣し、当時、天下無双の匠と称された紀州の工匠、刑部左衛門国次、鶴衛門家次、山城国の絵師佐久間左京など、優れた技芸家を仙台に招きました。彼らは、のちに瑞巌寺、大崎八幡神社などの築造にも才能を発揮しました。

 この本丸には天皇家や将軍家が訪れたときにのみに開かれる御成門というものがありましたが、結果的にはそれは一度も使用されることはありませんでした。また、大広間には藩主が座する上段の間の上に、天皇家・将軍家専用の上々段の間がありましたが、これも同じく使用されることは一度もありませんでした。

 大手門の東方、広瀬川に大橋を架け、森林と湿地を開拓して侍屋敷街(丁)と町人・職人街(町)を築き、その外側の要地には寺町を配しました。政宗は慶長六年二月から五月にかけて、岩出山の武士、庶民に仙台へ移転するように命じています。

 城下や近在の15歳から75歳の百姓たちが、一戸につき一人ずつ動員され、慶長十五年に仙台城はほぼ完成しました。城下の人口は、三万~四万を数えたといいます。

 寛永十六年(1639年)に、二代藩主忠宗が大手門の西南に二の丸を構築して近世的な平山城になるまで、仙台城は本丸だけの山城でした。

 慶長十六年(1611年)に仙台を訪れたイスパニアの使節セバスチャン=ビスカイノは「金銀島探検報告」のなかで、「城は彼国(日本)の最も勝れ、また最も堅固なるものの一つにして、水深き川に囲まれ、断崖百身長を超えたる巌山に築かれ、入り口は大手門唯一にして、大きさ江戸と同じうして、家屋の構造は之(江戸)に勝りたる町を見下ろし・・・」と紹介しています。

 要害堅固を誇りましたが、一方、仙台城は日常の生活に不便でありました。そこで、伊達政宗は幕府の許可を得て、寛永五年(1628年)に別邸として平城形態の若林城を築きました。二代忠宗の時に若林城は廃城となり、書院、城門などは仙台城二の丸に移築されました。

 仙台城は、江戸期に火災や地震の被害を受けました。仙台城は本丸は建築されていないものの堅固な造りを誇っていましたが、戦国時代から幕末にかけても、この城が猛攻を受けることはなく、戊辰戦争時も攻撃を受けることはありませんでした。廃藩置県後、明治四年(1871年)から翌五年にかけて本丸建造物が取り壊され、同十五年には、火災によって二の丸の建物が焼失し、国宝に指定されていた大手門櫓も、昭和二十年(1945年)の仙台空襲で焼失しています。

 多くの建築物が焼失した仙台城には現在、復元された隅櫓が立ち、三の丸跡地は仙台博物館となって市民に利用されています。また、三の丸にあった堀は五色沼、長沼と名を変えて現在も残されています。
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