親鸞聖人の法灯を掲げる西本願寺は、浄土真宗本願寺派の大本山

関連キーワード

京都で「お西さん」の愛称で親しまれている西本願寺の正式名称は、「龍谷山本願寺」といいます。
お寺が開いている時間であれば、立ち入り自由で拝観料がいらない浄土真宗の大本山です。
国の史跡に指定されているほか「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されています。

桃山時代の文化財の宝庫である西本願寺

西本願寺には多数の国宝文化財が存在します。
国宝の唐門は、境内の南にあり北小路通に面しています。檜皮葺き(ひわだぶき)、唐破風(からはふ)の四脚門で、伏見城の遺構といわれています。金色の金具と豪華な彫刻が施されていて、あまりの見事さに日が暮れてしまうのを忘れることから「日暮門(ひぐらしもん)」の名があります。同じく国宝の白書院は賓客を迎える正式の書院です。一の間、二の間、三の間からなり、見どころは紫明の間ともいわれる一の間で天井は折上格(おりあげごう)天井、周囲の壁面には中国の故事が金泥(きんでい)を使って描かれています。
金閣、銀閣とともに「洛陽の三閣」といわれる国宝の「飛雲閣」は、天正16年(1588年)に秀吉が造った聚楽第の一部として建てられたものです。池に浮かぶ三層からなる楼閣であったのを、境内の滴翠園に移築したものです。建物の造りが変化に富み、造形がとても見事です。対面所も国宝となっています。門主が公式に門徒に合う場所で、203畳もの広さがあり日本最大の書院造として有名です。
境の欄間に雲中飛鴻の彫刻があるので「鴻(こう)の間」とも呼ばれています。周囲の障壁画はいずれも狩野派の渡辺了慶の作です。国宝がもう一つあります。北能舞台。懸魚(げぎょ、破風につける装飾)に天正9年(1581年)の紙片があり、日本最古の能舞台であることが証明されています。徳川家康から寄進されたと伝えられ、とても風格があります。また、飛雲閣と渡り廊下でつながる浴室は、黄鶴台(おうかくだい)とも呼ばれます。
ほかにも江戸初期の数奇屋(すきや)風代表的な書院である黒書院など、国宝が多数あります。

親鸞聖人の娘の覚信尼(かくしんに)が廟堂を作ったのがはじまりとされる西本願寺

親鸞聖人が弘長2年(1263年)に90歳で入滅した10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水(よしみず)の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建てて親鸞聖人の影像(えいぞう)を安置し遺骨を移したのが大谷廟堂(おおたにびょうどう)です。
元亨元年(1321年)3代の覚如上人の時に、寺名を本願寺と改称します。その後室町時代に入り、8代目の蓮如上人によって飛躍的に栄えます。その後、比叡山宗徒や日蓮宗の門徒などとの反目もあり本願寺の場所は山科や大坂の石山などを転々とします。豊臣秀吉の寄進があり、現在の地に落ち着いたのは天正19年(1591年)です。
その後、12代目の後継者を巡って内紛が起こり慶長7年(1602年)に本願寺は東西に分裂します。豊臣秀吉が推した准如上人が12代目を継ぎ西本願寺となり、引退した教如上人に徳川家康が寺地を与えて東本願寺となり現在に至ります。「本願寺」の寺号は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされます。

室町時代蓮如上人により飛躍的に栄えた西本願寺

蓮如上人は浄土宗を開いた法然院や浄土真宗の開祖である親鸞聖人ほど有名ではありませんが、この人物を語らずして本願寺はありません。
蓮如上人は、43歳の時に本願寺第8世宗主となり青蓮院の末寺に落ちぶれていた本願寺を再興し「中興の祖」といわれています。51歳の時に比叡山延暦寺西塔の衆徒により本願寺を破壊され近江を転々とします。
その後、57歳になった蓮如上人は、石川県境に近い福井県坂井郡金津町付近に文明3年(1471年)に吉崎御坊と呼ばれるお寺を建てます。蓮如上人が滞在していた4年1カ月の間に宗教的なブームが巻き起こり、この地は寺内町(じないまち)として発展します。数々の争乱が起こり61歳の時に吉崎を離れます。文明11年(1479年)65歳の蓮如上人は山科本願寺を起工します(落成は文明15年(1483年))。
数年後には吉崎御坊をしのぐほど、山科は発展します。明応8年(1499年)山科本願寺にて85歳で蓮如上人は入滅します。

織田信長も大苦戦した石山本願寺

織田信長と石山本願寺の戦いも有名ですね。
石山本願寺は、もともと蓮如上人が隠居後の念仏不況の拠点として造られた坊舎で「大坂御坊」と呼ばれます。天文元年(1532年)に山科本願寺が細川春元らにより焼き討ちに遭った後に石山本願寺に移り、この地を中心として広大な寺内町を形成していきました。
そこに天下統一をもくろむ織田信長が石山本願寺の敷地を明け渡すように要求しそれを拒否した石山本願寺と11年間に渡り争います。石山戦争と呼ばれる戦いです。
その後、仏法存続を旨として天正8年(1580年)信長と和議を結びます。戦争末期になると、顕如上人を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(顕如上人の穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(教如上人の強硬派)とに分裂していきます。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となります。

世界最大級の木造建築といわれる御影堂(ごえいどう)

西本願寺に近づくにつれ巨大な建物が現れます。この建物が、親鸞聖人坐像が安置されている御影堂で西本願寺の中心となる建物です。
大師堂とも呼ばれ、寛永13年(1636年)に再建されて360年以上経過した平成20年に大修復を終えています。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートルという堂々たる建物です。正面7間は出入り自由の扉をたて、内部は734畳と壮大な規模を誇ります。親鸞聖人は、承安3年(1173年)に生まれました。
90歳で亡くなり750回忌にあたったのが平成23年(2011年)でした。親鸞聖人は、もともと教団を作るのを望んでおらず帰依した人たちが廟堂から寺へと発展させていきました。世界最大級の木造建築といわれる御影堂は、門徒たちの思いの結集に違いありませんが親鸞聖人の思いやいかにといったところですね。

浄土真宗のお寺は、拝観料がありません。お参りしたい人は、お寺が開いていればいつでも参拝可能です。すべての人に対して平等に救済しようとする浄土真宗の姿勢が見て取れますし、親鸞聖人もきっと喜んでいることでしょう。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ