極楽世界をこの世に表わす浄瑠璃寺の庭園

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浄瑠璃寺の庭園は、梵字の阿字をかたどった池を中心として東に薬師如来、西に阿弥陀仏を配置したもので、極楽世界をこの世に表わす現存する唯一の庭園です。
浄瑠璃寺は、奈良時代に幻の都といわれた恭仁京(くにきょう)が置かれた町として有名な京都府木津川市加茂町にある真言律宗のお寺です。
京都の最南端に位置していますが、奈良の平城京や東大寺に近く奈良の文化圏に入っています。

浄瑠璃寺にある浄瑠璃浄土と極楽浄土の世界

浄瑠璃寺の庭園は、国の史跡および特別名勝に指定されています。
建物を含めた庭園全体は浄土思想の世界を表現した浄土式庭園として造営当時の姿をとどめています。浄瑠璃寺庭園の中央にある宝池(ほうち)は、梵字の阿字をかたどっているとされ現世をイメージしています。
宝池の東側には薬師如来坐像を安置する三重塔が配されて浄瑠璃浄土(東方浄土)となっています。
対岸の西側には本尊の九体阿弥陀如来を安置する本堂(阿弥陀堂)があり極楽浄土(西方浄土)となっています。このように、池を中心として東の薬師如来と西の阿弥陀如来を向かい合わせて配置する浄土形式の伽藍は、平安時代の特殊な形式とされます。浄瑠璃寺ではこの両方が信仰の対象となっています。
仏教では、西方の彼方に理想の世界があり死後阿弥陀仏により理想の世界である浄土に魂を導かれるとの伝えから極楽浄土に人気があるようです。阿弥陀仏が来迎仏と呼ばれるのもそのせいでしょう。

東方浄土を象徴する三重塔の薬師如来坐像

三重塔(国宝)は『浄瑠璃寺流記事』によると治承2年(1178年)に京都の一条大宮から移築したとされていますが、その寺院の名前や由来は明らかではありません。
初層内部には柱がなく、心柱は初層の天井から立てられています。
浄瑠璃寺に移築された後に、初層内部に仏壇を置いてその上に薬師如来坐像が安置されています。薬師如来坐像は重要文化財となっていて毎月8日、彼岸の中日、正月3が箇日、晴天の日しか開扉しない秘仏です。
初層内部の壁面には、十六羅漢像などの壁画が描かれています。
薬師如来は太陽が昇る東方浄瑠璃世界の教主であり、現実の苦悩を救ってくれる仏様です。
浄瑠璃寺の礼拝の仕方は最初に薬師如来を拝み、その後に対岸の九体阿弥陀仏を拝みます。朱塗りの三重塔は、新緑の季節になると池面に映えてとても美しいですよ。

西方浄土を象徴する阿弥陀堂

もとは桧皮葺(ひわだぶき)の質素な建物であったという阿弥陀堂に入ると、目の前に1列に並ぶ9体の金色の阿弥陀仏に圧倒されます。
「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」に説く「九品往生」の考えに基づく9体の阿弥陀如来像は、多数造られたようですが平安時代の作品で現存するものは浄瑠璃寺像だけとなっています。9体とも檜材の寄木造漆箔仕上げで、中尊像だけが大きくできており224センチで、ほかの8体は139センチから145センチの大きさです。
思わず手を合わせてしまう迫力です。
中尊像に向かって左に置かれた厨子内に安置された吉祥天女像は、高さ90センチの重要文化財で1月1日から15日、3月21日から5月20日、10月1日から11月30日の間にしか扉が開かれない秘仏です。池越しに見る阿弥陀堂の夜景も実にすばらしく心に染みますよ。

浄瑠璃寺の歴史

浄瑠璃寺がある地区は当尾(とうの)の里と呼ばれています。
まわりには、鎌倉時代の当尾石仏群と呼ばれる石仏や石塔などが多く見られます。
山号を小田原山と称し、かつては西小田原寺と呼ばれていました。
「浄瑠璃寺縁起」によれば、小田原山浄瑠璃寺は永承2年(1047年)に草創されて本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人とされています。檀那は当尾の豪族である阿知山太夫重頼(あちやまだいぶしげより)です。ある時、重頼は狩猟の際に持ち歩いていた小さい薬師如来像を石の上に置き忘れてしまいます。翌日取りに行くと岩に貼りついて取れなかったことから、薬師如来像との縁を感じて草堂を建てて安置したとされます。
寺号は、三重塔に安置されている薬師如来の浄土「瑠璃光浄土」からきています。
本堂(阿弥陀堂)に9体の阿弥陀如来像を安置しているので九体寺(くたいじ)の通称があります。開創については諸説があり、天平11年(739年)に行基によって創られたという説もあります。
嘉承2年(1107年)に阿弥陀堂が建立されるまでは、薬師堂と金堂しかなかったとされます。久安6年(1150年)に庭園が造られてその西側に阿弥陀堂が移されました。
治承2年(1178年)に東側に三重塔が京都から移築されて寺観が整います。浄瑠璃寺はもともと興福寺一乗院の末寺でしたが、明治になり真言律宗に変わって西大寺の末寺となります。

浄瑠璃寺の中興の祖、恵信

浄瑠璃寺の発展には、奈良の興福寺の僧であった恵信(えしん)の多大な貢献があります。
恵信は関白や摂政をつとめた藤原忠通(ただみち)の子です。保元2年(1157年)、興福寺の一条院の権別当(ごんのべっとう)をつとめていた恵信は、浄瑠璃寺を一条院の祈願所と定めて境内に池を掘り本格的に整備します。池をはさんで東側に三重塔、西側に阿弥陀堂を置く現在の伽藍配置の基本は恵信によるものです。
この浄瑠璃寺の整備は、恵信が実力ある摂関家の出であったことで実現したといえるでしょう。恵信が興福寺の別当に復帰した約20年後に京都の一条大宮にあった三重塔が浄瑠璃寺に移築されて、最初の本尊の薬師如来が安置されたのです。

花の寺、浄瑠璃寺

浄瑠璃寺の境内には、四季折々の草花が咲き誇ります。
境内の北側に位置する山門までの参道の右側には馬酔木(あせび)の木がびっしりと植えられており、白いきれいな花を咲かせます。境内には至るところに馬酔木が見られます。
浄瑠璃寺の春は少し遅れてやってきますが、馬酔木のほかに、さんしゅゆ、あやめ、椿、梅、桜が楽しめます。
夏には加茂町の花であるあじさいやかきつばた、花菖蒲、桔梗がとてもきれいです。
秋になると、ひときわ色鮮やかな紅葉が境内を華やかに演出します。その美しさを見ようと多くの参拝客が足を運びます。
冬には水仙や千両、万両が見られます。ほかにも季節ごとに山野草が見られ楽しみは尽きません。最近ではめったに見られない野生種も浄瑠璃寺で見ることもできますよ。

浄瑠璃寺は静寂に包まれたお寺で、その質素なたたずまいが好感を呼びます。また、名刹にふさわしい重厚な雰囲気を醸し出しながら、穏やかな気分にさせてくれるお寺です。浄瑠璃浄土や極楽浄土にあこがれた往時の人たちに思いを寄せて当尾の地を訪れてみてみください。

本尊の九体阿弥陀は圧巻です!九体寺こと浄瑠璃寺!

正式名称、小田原山法雲院浄瑠璃寺は西大寺を総本山とする真言律宗のお寺です。
聖武天皇の勅願で行基菩薩が創建したと伝えられており、後に九体の阿弥陀仏が安置され顕密の道場となりました。
夕方の時間に九体阿弥陀の元へ訪れれば、阿弥陀如来の金色のお顔を拝むことができ、それが池に映る姿はまるで極楽浄土のようです。
そんな九体の阿弥陀如来で知られる浄瑠璃寺、今回はそんな九体の阿弥陀如来にスポットを当てて、歴史を振り返りながら浄瑠璃寺をご紹介していきたいと思います!

浄瑠璃寺の歴史

聖武天皇の勅願で行基菩薩が創建したのがこの浄瑠璃寺。後に1047年に義明が再興し、九体の阿弥陀仏を安置して顕密の道場としました。本願は義明上人、檀那は阿知山太夫重頼、本尊は阿弥陀如来と薬師如来です。
檀那の重頼はあるとき鹿を射止めて、そのときに小さな薬師像を石の上に置きました。その薬師像を取り忘れてしまい、翌日思い出して鹿を射た場所まで戻ってくると、薬師像は岩に貼りついて取れませんでした。重頼は薬師像がこの地に縁があるのだと思い、草堂を建てて安置しました。これが浄瑠璃寺の始まりだとされています。
藤原時代には京都を中心に各所に「九体阿弥陀堂」が建てられ、九体の阿弥陀仏が安置されていたのですが、現在では九体の阿弥陀仏が残るのはこの浄瑠璃寺のみとされ、貴重な遺構となっています。浄瑠璃寺には12世紀初めごろに九体阿弥陀堂が創建され、堂内に九体の阿弥陀仏が安置され、堂の東前の池の対岸から西に阿弥陀仏を拝むことができます。
また、浄瑠璃寺の伽藍配置は平安時代末の藤原期に大いに人々の心をとらえた浄土思想がそのまま残されており、釈迦の世界が広がっています。

九品往生の考え方にもとづく九体仏

浄瑠璃寺のメインともいえる九体阿弥陀の説明をする前に、まずは九品往生の考え方を説明します!この考え方を理解しておけば、観光がより楽しくなること間違いなしです!

まず、九体の阿弥陀仏は「観無量寿経」で説かれる「九品往生」の考え方に基づいて造形されたものです。
その考え方は、人間の往生は一番下の「下品下生」から始まり、最高の「上品上生」までの九段階があるという考えです。その考え方から、九体阿弥陀がまつられます。
かつて一世を風靡した藤原道長は1019年、京都の鴨川畔に広大な法成寺を建立しましたが、その伽藍の中心に建てられたのが九体の阿弥陀仏を安置した阿弥陀堂でした。道長は1027年、九体の阿弥陀像の手に結んだ九本の糸を握って往生したと言われています。
そこから道長の強権にあやかる意味もあって、九体阿弥陀堂の建設が盛んになりました。浄土信仰が盛んになった平安時代、阿弥陀如来の救済に対する期待が高まり、実際に九体の阿弥陀如来を造って安置するということが各所で行われたのです。それでも、九体の阿弥陀如来が現存するのはこの浄瑠璃寺のみになります。

それでは、九体阿弥陀仏の基本について理解していただいたところで、実際に浄瑠璃寺内をご紹介したいと思います!

九体阿弥陀堂 外観

境内西側に建つのが本堂である九体阿弥陀堂です。1107年の建築で、平安時代後期に流行した九体の阿弥陀仏を安置する現存唯一の建造物です。元々は檜皮葺の質素な建物であり、西方浄土の阿弥陀如来を礼拝するよう、東向きに建てられています。
また、九体阿弥陀堂は阿弥陀如来の一体ずつに板扉が配置され、池越しに阿弥陀如来を排する造りになっています。日が暮れると、燈明のほのかな明かりで阿弥陀如来のお顔を排することができます。心にしみる光景を見ることができるので、是非とも秋か冬の夕暮れに訪れてみてください!

九体阿弥陀堂 内観

九体の阿弥陀如来像が佇む本堂内陣は、女性的なしなやかさを醸し出しています。
中尊は来迎印(らいごういん)を結び、浄土への引接(いんじょう)を表しており、天井部分は両脇に一段低い化粧部屋が儲けられています。

阿弥陀如来坐像中尊

本堂の中央に座す丈六像は、東の三重塔の薬師如来像と対面するように配置されています。
光背は江戸時代初期のものですが、上部左右にある飛天像は造立当時のものです。天衣のひるがえる様子はとても美しいので、是非しっかりとご覧になってくださいね!

いかがでしたでしょうか?今回の記事では九体阿弥陀仏を中心に、浄瑠璃寺を紹介しました。日が暮れた頃に池から眺める九体阿弥陀堂の夜景は本当に神秘的な光景ですので、お時間があれば是非見てみてくださいね!

<基本情報・アクセス>
住所:京都府木津川市加茂町西小札場40
TEL:0774-76-2390
拝観時間:9;00~17:00(12月~2月は10:00~16:00)
拝観料:300円
公式ホームページURL: http://0774.or.jp/temple/jyoruriji.html

・JR奈良駅または近鉄奈良駅から奈良交通バスで加茂駅行き約30分。「浄瑠璃寺前」下車すぐ。片道大人570円
・JR加茂駅から奈良交通バスでJR奈良駅行きで15分。エヌシーバス(岩船寺経由)で約20分。「浄瑠璃寺前」下車すぐ。いずれも片道大人310円。
(※いずれも本数が少ないので時間を調べてご利用ください)
・タクシーでJR奈良駅より20分。JR加茂駅より10分。
・駐車場(参道入口近くの民間駐車場)(1回普通車300円 大型バス1500円)

本尊の九体阿弥陀は圧巻!九体寺こと浄瑠璃寺!

正式名称、小田原山法雲院浄瑠璃寺は西大寺を総本山とする真言律宗のお寺です。
聖武天皇の勅願で行基菩薩が創建したと伝えられており、後に九体の阿弥陀仏が安置され顕密の道場となりました。
夕方の時間に九体阿弥陀の元へ訪れれば、阿弥陀如来の金色のお顔を拝むことができ、それが池に映る姿はまるで極楽浄土のようです。
そんな九体の阿弥陀如来で知られる浄瑠璃寺、今回はそんな九体の阿弥陀如来にスポットを当てて、歴史を振り返りながら浄瑠璃寺をご紹介していきたいと思います!

浄瑠璃寺の歴史

聖武天皇の勅願で行基菩薩が創建したのがこの浄瑠璃寺。後に1047年に義明が再興し、九体の阿弥陀仏を安置して顕密の道場としました。本願は義明上人、檀那は阿知山太夫重頼、本尊は阿弥陀如来と薬師如来です。
檀那の重頼はあるとき鹿を射止めて、そのときに小さな薬師像を石の上に置きました。その薬師像を取り忘れてしまい、翌日思い出して鹿を射た場所まで戻ってくると、薬師像は岩に貼りついて取れませんでした。重頼は薬師像がこの地に縁があるのだと思い、草堂を建てて安置しました。これが浄瑠璃寺の始まりだとされています。
藤原時代には京都を中心に各所に「九体阿弥陀堂」が建てられ、九体の阿弥陀仏が安置されていたのですが、現在では九体の阿弥陀仏が残るのはこの浄瑠璃寺のみとされ、貴重な遺構となっています。浄瑠璃寺には12世紀初めごろに九体阿弥陀堂が創建され、堂内に九体の阿弥陀仏が安置され、堂の東前の池の対岸から西に阿弥陀仏を拝むことができます。
また、浄瑠璃寺の伽藍配置は平安時代末の藤原期に大いに人々の心をとらえた浄土思想がそのまま残されており、釈迦の世界が広がっています。

九品往生の考え方にもとづく九体仏

浄瑠璃寺のメインともいえる九体阿弥陀の説明をする前に、まずは九品往生の考え方を説明します!この考え方を理解しておけば、観光がより楽しくなること間違いなしです!

まず、九体の阿弥陀仏は「観無量寿経」で説かれる「九品往生」の考え方に基づいて造形されたものです。
その考え方は、人間の往生は一番下の「下品下生」から始まり、最高の「上品上生」までの九段階があるという考えです。その考え方から、九体阿弥陀がまつられます。
かつて一世を風靡した藤原道長は1019年、京都の鴨川畔に広大な法成寺を建立しましたが、その伽藍の中心に建てられたのが九体の阿弥陀仏を安置した阿弥陀堂でした。道長は1027年、九体の阿弥陀像の手に結んだ九本の糸を握って往生したと言われています。
そこから道長の強権にあやかる意味もあって、九体阿弥陀堂の建設が盛んになりました。浄土信仰が盛んになった平安時代、阿弥陀如来の救済に対する期待が高まり、実際に九体の阿弥陀如来を造って安置するということが各所で行われたのです。それでも、九体の阿弥陀如来が現存するのはこの浄瑠璃寺のみになります。

それでは、九体阿弥陀仏の基本について理解していただいたところで、実際に浄瑠璃寺内をご紹介したいと思います!

九体阿弥陀堂 外観

境内西側に建つのが本堂である九体阿弥陀堂です。1107年の建築で、平安時代後期に流行した九体の阿弥陀仏を安置する現存唯一の建造物です。元々は檜皮葺の質素な建物であり、西方浄土の阿弥陀如来を礼拝するよう、東向きに建てられています。
また、九体阿弥陀堂は阿弥陀如来の一体ずつに板扉が配置され、池越しに阿弥陀如来を排する造りになっています。日が暮れると、燈明のほのかな明かりで阿弥陀如来のお顔を排することができます。心にしみる光景を見ることができるので、是非とも秋か冬の夕暮れに訪れてみてください!

九体阿弥陀堂 内観

九体の阿弥陀如来像が佇む本堂内陣は、女性的なしなやかさを醸し出しています。
中尊は来迎印(らいごういん)を結び、浄土への引接(いんじょう)を表しており、天井部分は両脇に一段低い化粧部屋が儲けられています。

阿弥陀如来坐像中尊

本堂の中央に座す丈六像は、東の三重塔の薬師如来像と対面するように配置されています。
光背は江戸時代初期のものですが、上部左右にある飛天像は造立当時のものです。天衣のひるがえる様子はとても美しいので、是非しっかりとご覧になってくださいね!

いかがでしたでしょうか?今回の記事では九体阿弥陀仏を中心に、浄瑠璃寺を紹介しました。日が暮れた頃に池から眺める九体阿弥陀堂の夜景は本当に神秘的な光景ですので、お時間があれば是非見てみてくださいね!

<基本情報・アクセス>
住所:京都府木津川市加茂町西小札場40
TEL:0774-76-2390
拝観時間:9;00~17:00(12月~2月は10:00~16:00)
拝観料:300円
公式ホームページURL: http://0774.or.jp/temple/jyoruriji.html

・JR奈良駅または近鉄奈良駅から奈良交通バスで加茂駅行き約30分。「浄瑠璃寺前」下車すぐ。片道大人570円
・JR加茂駅から奈良交通バスでJR奈良駅行きで15分。エヌシーバス(岩船寺経由)で約20分。「浄瑠璃寺前」下車すぐ。いずれも片道大人310円。
(※いずれも本数が少ないので時間を調べてご利用ください)
・タクシーでJR奈良駅より20分。JR加茂駅より10分。
・駐車場(参道入口近くの民間駐車場)(1回普通車300円 大型バス1500円)

浄瑠璃寺は人々の思いを具現化したこの世の浄土

浄瑠璃寺は京都中心部からは遠く離れた、京都府南部の木津川市にある寺院です。その庭園はこの世の浄土とも言われる美しさで、四季折々の花々が訪れる人を楽しませてくれます。宝池を挟んで両岸に立つ本堂と三重塔は、平安時代からの姿をそのままに止めた貴重な国宝です。

山里に佇む浄瑠璃寺

浄瑠璃寺は京都府の南端、木津川市にある寺院。正式名称は「小田原山法雲院浄瑠璃寺」と言います。京都からは離れているため、どちらかというと奈良の文化圏に属していました。浄瑠璃寺の本尊は「九体阿弥陀如来」ですが、創建当初は薬師如来が本尊でした。寺号の由来はこの薬師如来の瑠璃光浄土からつけられました。

浄瑠璃寺の創建については諸説あり、聖武天皇が行基に命じたとか、多田源氏の祖・源満仲が創建したなどと言われていますが、前後の書物に差異が見られるなど、確証には至ってはいないようです。いずれにせよ、まず薬師如来像を本尊とする寺院が作られ、その後、阿弥陀如来像が本尊とされたという流れは、どの説にも共通しています。

平安時代の姿を残す貴重な寺院

浄瑠璃寺のある小田原と呼ばれた地域には、「当尾荘(とうのおしょう)」という荘園がありました。浄瑠璃寺はこの荘園内に建てられていたようです。豊かだった当尾荘は、しばしば武家による略奪の危機にさらされ、それを回避するために春日社へ伝領されたり、興福寺へ付されたりと荘園の安泰を守る策が講じられてきました。

浄瑠璃寺の歴史がまとめられた史料「浄瑠璃寺流記事」には、1047年(永承2)に、儀明上人が発願し、阿知山太夫重頼を旦那に本堂が建てられたと記述がある事から、このころに現在の浄瑠璃寺ができたと考えられています。それから100年ほどの間に、本堂や三重塔などの伽藍が整えられていきました。

恵信の尽力によって49の房を要するまで発展した浄瑠璃寺ですが、応仁の乱の影響は免れず大部分が失われてしまいました。被害の詳細は不明ですが、本堂と三重塔、山門だけが残されたようです。現存する本堂と三重塔は、恵信の頃に建てられたものと考えられ、平安時代当時のままの姿を残す、貴重な建築として国宝に指定されています。

2つの本尊・薬師如来と阿弥陀如来

流記事に記された内容から、最初は薬師如来像がご本尊だったことがわかっています。本堂を解体・再築する際に、新たに建てた西堂へ薬師如来像を移したとあり、本堂には新たに仏像を開眼したとあるからです。新たな仏像の詳細はありませんが、これが阿弥陀如来像だろうと考えられています。

薬師如来は「人々を苦悩から救い、裁縫の浄土へ送り出す」役割を担う「遣送仏(けんそうぶつ)」と言われる仏様です。薬師如来のいる世界は「東方浄瑠璃世界(=瑠璃光浄土)」と呼ばれ、瑠璃の光ように清浄で美しい世界と言われています。寺号の浄瑠璃が「瑠璃光浄土」につながることを見ても、ご本尊が薬師如来だったことは間違いありません。

一方の阿弥陀如来は、人々を極楽浄土へ導く「来迎仏」の役割を担う仏様です。阿弥陀如来のいる理想の世界が「極楽浄土」で、西方浄土や極楽世界とも呼ばれます。当時権勢を振るった藤原道長が、9体の阿弥陀如来像を安置した阿弥陀堂を建てたことから、彼にあやかれと九体阿弥陀堂の建設が盛んになりました。浄瑠璃寺に九体阿弥陀如来像が安置された時期とちょうど同じ頃にあたります。9体の阿弥陀如来像は「九品往生」という「観無量寿経」で説かれる考え方で。9段階に分けられた人間の往生を表した仏像です。

吉祥天女像は箱入り娘

薬師如来像と阿弥陀如来像に並んで有名なのが吉祥天女像。本堂の中に九体阿弥陀如来像とともに安置されていますが、普段は厨子に収められていて見ることはできません。年に3回正月と春と秋の決まった期間のみ、厨子の扉が開かれ一般に公開されます。文字どおり普段は箱に収められ大切にされているのです。

天女像は高さ約90センチメートルで、下から全面に水紋を表した切金文様の六角形の基台、荷葉座(かようざ)を敷いた上に、繧繝(うんげん)彩色の蓮華座、その蓮華座の上に足を踏み出すような姿勢で立っています。

吉祥天は古来より海の水の精とされ、幸福と美の女神として崇敬されてきました。日本に入ってきてからは、過ぎた年の罪・過ちを懺悔し、新たな年の除災増益を祈願する際に祀られてきました。七福神に数えられることもある神様で、古くは弁財天ではなく吉祥天だったとも言われています。

日本で吉祥天を祀るようになった最初は、767年(神護景雲元年)に国分光明寺における法要とされています。以来、正月には吉祥天像の尊前で、悔過会(けかえ)が行われるようになりました。吉祥天女像を納めた「春日厨子」の内部には、その様子が詳細に描かれています。厨子の背面の1枚板と、左右の2枚板、左右の扉と合計7枚の板に、八臂(はっぴ)弁財天を中心とした五尊・四天王・梵天と帝釈天が描かれた重要文化財です。

浄土を具現化した美しい庭園

自然に恵まれ豊かな当尾荘内に建てられた浄瑠璃寺は、この世の浄土を表したような美しい庭園でも有名です。山門をくぐると正面に見えてくるのが宝池。此岸と彼岸に見立てた東西の岸に、向き合うように三重塔と本堂が建っています。それぞれ三重塔には薬師如来が、本堂には九体阿弥陀如来が収められています。東の此岸に薬師如来、西の彼岸に阿弥陀如来という配置も、それぞれの浄土世界を具現した構成です。

浄瑠璃寺のある当尾と呼ばれたエリアは、中世からの石仏が数多く見られる「石仏の里」としても有名です。とくに浄瑠璃寺のある西小(にしお)・東小・大門・岩船のエリアは、石仏がまとまって見られる地域で、多くの石仏愛好家が訪れます。豊かな当尾荘の当時を偲ばせる景観は、地元の人々の尽力のおかげで現在でも変わることなく残っていることも、多くの人々が足を運ぶ理由のひとつかもしれません。

昔も今も変わらぬ浄瑠璃寺の花々

浄瑠璃寺の庭園は四季折々の花々が、訪れる人の目を楽しませてくれる場所です。200年以上も前に描かれた浄瑠璃寺の絵にも、アヤメやカキツバタといった花の名前が記されており、当時から美しい風景だったことが伺えます。

清らかな地下水が湧き出る池を中心にした庭園には、アヤメやカキツバタ以外にも多くの草花が息づく自然豊かなスポットです。華やかな花を咲かせる椿や馬酔木なども美しいですが、春から秋にかけて、参道から池の周りを一周する道筋には、多くの山野草が花をつける姿が見られ、浄瑠璃寺を訪れる楽しみの1つとなっています。
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