探検気分が味わえる!古代遺跡ぺトラ!
関連キーワード
ぺトラはヨルダン南西部、死海とアカバ湾の間に位置する渓谷です。首都アンマンからはバスで 4時間の距離となります。ペトラはかつてはキャラバン隊の中継地点として、またスパイス交易の中継地点として多くの人が行き交う交通の要衛でした。
旧約聖書によると、紀元前1200年ごろエドム人がこの地に住み始めたのがぺトラの始まりといわれています。その後この都市は紀元前1世紀ごろから古代ナバテア人の首都として繁栄しましたが、紀元前63年ごろローマの支配下に置かれることになります。ぺトラは税を納めることで自治を保つことができ、次第にローマ風の建造物も建てられるようになりました。
紀元後105年にぺトラは反乱を起こしてローマ皇帝トラヤヌスがこれを鎮圧し、ぺトラとナバテア人はローマの属州となりました。その後もキリスト教やイスラム教の影響を受けて都市として機能していましたが、769年の大地震によってぺトラは崩壊し、廃墟になったと考えられています。
長い間外界との接触を持たなかったペトラ遺跡が世界に知られるようになったのは19世紀が始まってからのことでした。現在も遺跡の発掘作業は続いており、いまのところ遺跡全体の30%しか発掘されていないと考えられています。そして観光用に公開されているのはペトラ遺跡の1%にも満たないといわれています。ペトラ遺跡は1985年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録され、2007年には「新・世界の七不思議」にも登録された未だ謎が多く残る古代遺跡です。
旧約聖書によると、紀元前1200年ごろエドム人がこの地に住み始めたのがぺトラの始まりといわれています。その後この都市は紀元前1世紀ごろから古代ナバテア人の首都として繁栄しましたが、紀元前63年ごろローマの支配下に置かれることになります。ぺトラは税を納めることで自治を保つことができ、次第にローマ風の建造物も建てられるようになりました。
紀元後105年にぺトラは反乱を起こしてローマ皇帝トラヤヌスがこれを鎮圧し、ぺトラとナバテア人はローマの属州となりました。その後もキリスト教やイスラム教の影響を受けて都市として機能していましたが、769年の大地震によってぺトラは崩壊し、廃墟になったと考えられています。
長い間外界との接触を持たなかったペトラ遺跡が世界に知られるようになったのは19世紀が始まってからのことでした。現在も遺跡の発掘作業は続いており、いまのところ遺跡全体の30%しか発掘されていないと考えられています。そして観光用に公開されているのはペトラ遺跡の1%にも満たないといわれています。ペトラ遺跡は1985年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録され、2007年には「新・世界の七不思議」にも登録された未だ謎が多く残る古代遺跡です。
バラ色の古代遺跡、エル・カズネ
ぺトラの遺跡にはシークを通して入ります。シークとは岩に囲まれた細い通路であり、幅はわずか数メートルしかない部分もあります。ぺトラは雨が降ると鉄砲水が流れますが、シークは鉄砲水を流す水路になりました。シークの両側は水を流した水路の跡が残っています。また壁には祈祷用に用いられた彫刻があり、シークは訪れた者の魂を導く宗教的な意味合いも考えられています。
シークを抜けた先に見えるのは、エル・カズネという美しいバラ色の神殿です。エル・カズネ(アラビア語で「宝物殿」)はぺトラ遺跡を代表する建築物であり、砂岩の岩肌を彫って建造されました。幅30メートル、高さ43メートルのこの神殿が造られた目的は定かではありませんが、王家の墓として紀元前1世紀初頭に造られたという説が有力となっています。
現在は中に入ることができませんが、コリント様式やヘレニズム文化の影響を受けた建築様式の外観は様々な文化を受け入れてきた歴史を物語ります。
シークを抜けた先に見えるのは、エル・カズネという美しいバラ色の神殿です。エル・カズネ(アラビア語で「宝物殿」)はぺトラ遺跡を代表する建築物であり、砂岩の岩肌を彫って建造されました。幅30メートル、高さ43メートルのこの神殿が造られた目的は定かではありませんが、王家の墓として紀元前1世紀初頭に造られたという説が有力となっています。
現在は中に入ることができませんが、コリント様式やヘレニズム文化の影響を受けた建築様式の外観は様々な文化を受け入れてきた歴史を物語ります。
収容人数3000人以上のローマ劇場
ぺトラはかつてローマ帝国の支配を受けたため、ローマ様式の劇場も造られました。
バラ色の岩肌をすり鉢状に削って建設されたこの劇場は、もともとナバテア人が使っていたものをローマ風に改装したものと考えられており、収容人数は3000人以上という規模でした。ローマ劇場は生贄のための祭壇が遺されていることから、神聖な儀式のために利用されたと考えられています。
バラ色の岩肌をすり鉢状に削って建設されたこの劇場は、もともとナバテア人が使っていたものをローマ風に改装したものと考えられており、収容人数は3000人以上という規模でした。ローマ劇場は生贄のための祭壇が遺されていることから、神聖な儀式のために利用されたと考えられています。
美しいぺトラ遺跡を眺めることができるエド・ディル
ぺトラ遺跡に訪れたからにはエド・ディル(修道院)まで登ることをお勧めします。約800段の階段を登るのは大変疲れますが、登った先にある巨大な神殿の見晴らしはよく、朝や夕方には美しいオレンジ色に染まります。
保存状態がいいこのエド・ディルはナバテア特有の建築様式であり、三本の棒と円を繰り返す模様が彫られているのが特徴となっています。ペトラ遺跡最大の見どころといっても過言ではないでしょう。
エド・ディルまで登るのには体力に自信がある人では徒歩で40分ほどかかりますが、ロバに乗り降りして登ることもできます。夏季は非常に暑くなるため、水分補給と休憩を十分にとって移動するのが望ましいです。
保存状態がいいこのエド・ディルはナバテア特有の建築様式であり、三本の棒と円を繰り返す模様が彫られているのが特徴となっています。ペトラ遺跡最大の見どころといっても過言ではないでしょう。
エド・ディルまで登るのには体力に自信がある人では徒歩で40分ほどかかりますが、ロバに乗り降りして登ることもできます。夏季は非常に暑くなるため、水分補給と休憩を十分にとって移動するのが望ましいです。
王家の墓
ぺトラの岩場を抜けて、広がった場所に複数の岩窟墳墓があります。中でも目を引くのは「アーンの墓」です。
「壺の墓」とも呼ばれるこの墓はナバテア王の墓として造られましたが、5世紀ごろからキリスト教会として再利用されるようになりました。墳墓上部に壺(アーン)のような飾りがあり、内部は広い空洞となっています。
「宮殿の墓」はバロック式宮殿と同じファサードがあることからこの名前が付けられ、装飾やデザイン性が特徴的となっています。宮殿の墓のすぐ隣にある「コリントの墓」はエル・カズネと同様にコリント式の柱が特徴です。細かい縞模様が特徴の「シルクの墓」も王家の墓を構成する墳墓の一つです。
「壺の墓」とも呼ばれるこの墓はナバテア王の墓として造られましたが、5世紀ごろからキリスト教会として再利用されるようになりました。墳墓上部に壺(アーン)のような飾りがあり、内部は広い空洞となっています。
「宮殿の墓」はバロック式宮殿と同じファサードがあることからこの名前が付けられ、装飾やデザイン性が特徴的となっています。宮殿の墓のすぐ隣にある「コリントの墓」はエル・カズネと同様にコリント式の柱が特徴です。細かい縞模様が特徴の「シルクの墓」も王家の墓を構成する墳墓の一つです。
ベドウィンとラクダ
長くからこの地に移住するベドウィン族はぺトラ内での営業権を持っています。
ぺトラ遺跡内でお土産などの販売や交通手段としてラクダや馬の斡旋を行っているのもベドウィン族です。
ぺトラ遺跡観光は最短のコースでも3時間かかるとされており、エド・ディルまで訪れるとなると半日以上はかかります。夏は高温と乾燥が激しいため、体力の消耗が激しくなります。
そのため、ラクダに乗って移動すれば体力を温存することができるでしょう。
高齢者や体が不自由な人のために馬車も運行されています。
ぺトラ遺跡内でお土産などの販売や交通手段としてラクダや馬の斡旋を行っているのもベドウィン族です。
ぺトラ遺跡観光は最短のコースでも3時間かかるとされており、エド・ディルまで訪れるとなると半日以上はかかります。夏は高温と乾燥が激しいため、体力の消耗が激しくなります。
そのため、ラクダに乗って移動すれば体力を温存することができるでしょう。
高齢者や体が不自由な人のために馬車も運行されています。