忍者寺の別称を持つ金沢の妙立寺の由来とは
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加賀藩歴代藩主が自ら参詣したという由緒あるお寺が、なぜ忍者寺に?
そもそも加賀藩の祈願所だったお寺がなぜ忍者寺に変身したのでしょう。
それは、当時加賀藩が置かれていた状況に起因しています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは二代藩主前田利長が東軍、利長の弟の利政が西軍に分かれて戦い、利長は敗れた利政の旧領などをあわせて120万石という所領を獲得します。慶長10年(1605年)に利長は隠居し、弟の利常が家督を継いで第3代藩主になります。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦して、真田丸の戦いでは大坂方の真田信繁軍と対峙しています。豊臣政権の五大老の一人で加賀藩主前田家の祖である前田利家が、同じ五大老の一人である徳川家康と対立した時期もありましたので、100万石という禄高を誇る加賀藩は常に徳川幕府の監視下に置かれた状態であったといいます。
徳川幕府三代将軍徳川家光の時代には、謀反の嫌疑をかけられるなどしており、三代藩主前田利常は幕府がいつ攻めてきても迎え撃てる万全の態勢を整えたといいます。
福井方面からの幕府軍が攻めてくると想定して、金沢城が攻撃される前に寺町台で迎え撃つために寺町寺院群を新たに作り妙立寺に出城の役目を持たせたものといわれます。寺の中に落とし穴や隠し階段などの種々の仕掛けを施したり、建物全体を迷路状としたりして忍者寺に変身したのはそのためなのです。
それは、当時加賀藩が置かれていた状況に起因しています。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは二代藩主前田利長が東軍、利長の弟の利政が西軍に分かれて戦い、利長は敗れた利政の旧領などをあわせて120万石という所領を獲得します。慶長10年(1605年)に利長は隠居し、弟の利常が家督を継いで第3代藩主になります。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦して、真田丸の戦いでは大坂方の真田信繁軍と対峙しています。豊臣政権の五大老の一人で加賀藩主前田家の祖である前田利家が、同じ五大老の一人である徳川家康と対立した時期もありましたので、100万石という禄高を誇る加賀藩は常に徳川幕府の監視下に置かれた状態であったといいます。
徳川幕府三代将軍徳川家光の時代には、謀反の嫌疑をかけられるなどしており、三代藩主前田利常は幕府がいつ攻めてきても迎え撃てる万全の態勢を整えたといいます。
福井方面からの幕府軍が攻めてくると想定して、金沢城が攻撃される前に寺町台で迎え撃つために寺町寺院群を新たに作り妙立寺に出城の役目を持たせたものといわれます。寺の中に落とし穴や隠し階段などの種々の仕掛けを施したり、建物全体を迷路状としたりして忍者寺に変身したのはそのためなのです。
まさに忍者寺!名称にふさわしい仕掛けが至る所に
忍者寺と呼ばれるお寺の中にどんな仕掛けが施されているか見てみましょう。
当時は幕府の命で3階建て以上の建物は禁止されていましたのでこのお寺の外観は2階建てですが、内部は4階建て7層になっています。中2階、中々2階があり、部屋数はなんと23、階段の数は29もあります。本堂の屋根の先端部分にあるガラス張りの望楼は、見張り台として加賀平野を一望できて敵の動きをいち早く知ることができます。
井戸の水面上3~4メートルのところには横穴があり、金沢城へ続く逃げ道になったといわれていますが定かではありません。賽銭箱は、本堂正面入り口に埋め込まれていて深さ2~3メートルの落とし穴になっています。本堂裏の物置の戸を開けて床板をまくると隠し階段があり、階下の通路を通って外へ逃げることができます。
床下は広く造られ床板に溝が刻まれ敷居としていて、引き戸を閉めると外から開かない仕組みになっています。本堂の階段群に存在する渡り廊下に見せた階段は、床板をはずすと落とし穴になっています。入り口の賽銭箱の落とし穴に続く落とし穴で、敵の気勢を削ぐ目的で作られたのでしょう。正面の突き当たりにある階段は明かり取り階段であり、階段のけこみ部分に障子を張って明かりを取り階段下の奥の下男部屋の光源となっていたようです。外敵が現れたら足の影を見て槍などで倒す目的で作られています。
二階には、警固の武士の詰所があり、天井は高くとってあり武器の手入れがしやすいように作られています。この詰所の出入り口は4か所設けてあり、押入に見せた三階への階段と床の間に作られた本堂への抜け道、障子の先の一階への螺旋階段、隣室につながる襖です。床の間の口は左下に作られていて、一階の座敷につながっています。
本堂からは、座敷の4枚の白襖がみられます。このほかに、二階にはこのお寺で最も格式の高い部屋があり、歴代藩主が謁見の間として利用していました。
奥には大名(だいめい)茶室と呼ばれる五畳半の茶室があります。以前は現在の裏門を正面としていたようですが、道幅が狭いために多くの参詣者が混雑するということで、兼六園内にあった竹澤御殿の正門を拝領して現在に至っています。
当時は幕府の命で3階建て以上の建物は禁止されていましたのでこのお寺の外観は2階建てですが、内部は4階建て7層になっています。中2階、中々2階があり、部屋数はなんと23、階段の数は29もあります。本堂の屋根の先端部分にあるガラス張りの望楼は、見張り台として加賀平野を一望できて敵の動きをいち早く知ることができます。
井戸の水面上3~4メートルのところには横穴があり、金沢城へ続く逃げ道になったといわれていますが定かではありません。賽銭箱は、本堂正面入り口に埋め込まれていて深さ2~3メートルの落とし穴になっています。本堂裏の物置の戸を開けて床板をまくると隠し階段があり、階下の通路を通って外へ逃げることができます。
床下は広く造られ床板に溝が刻まれ敷居としていて、引き戸を閉めると外から開かない仕組みになっています。本堂の階段群に存在する渡り廊下に見せた階段は、床板をはずすと落とし穴になっています。入り口の賽銭箱の落とし穴に続く落とし穴で、敵の気勢を削ぐ目的で作られたのでしょう。正面の突き当たりにある階段は明かり取り階段であり、階段のけこみ部分に障子を張って明かりを取り階段下の奥の下男部屋の光源となっていたようです。外敵が現れたら足の影を見て槍などで倒す目的で作られています。
二階には、警固の武士の詰所があり、天井は高くとってあり武器の手入れがしやすいように作られています。この詰所の出入り口は4か所設けてあり、押入に見せた三階への階段と床の間に作られた本堂への抜け道、障子の先の一階への螺旋階段、隣室につながる襖です。床の間の口は左下に作られていて、一階の座敷につながっています。
本堂からは、座敷の4枚の白襖がみられます。このほかに、二階にはこのお寺で最も格式の高い部屋があり、歴代藩主が謁見の間として利用していました。
奥には大名(だいめい)茶室と呼ばれる五畳半の茶室があります。以前は現在の裏門を正面としていたようですが、道幅が狭いために多くの参詣者が混雑するということで、兼六園内にあった竹澤御殿の正門を拝領して現在に至っています。
予約制のお寺です
妙立寺の堂内に入るには、電話で予約が必要です。3か月前同日から受け付けてもらえます。
電話受付時間は午前8時より午後5時までです。入場時間は午前9時からで、30分毎に説明案内があります。各時間に定員があり定員になり次第締め切りとなっています。最終入場時間は午後4時30分(冬期間は午後4時まで)です。当日空きがあれば、当日の入場も可能です。見学するときは案内人が同伴してくれて堂内を説明してくれます。
堂内は撮影・土足禁止、禁煙です。入場料は、保存護持費として大人1000円、子ども700円です。未就学児童の入場は出来ません。小学生低学年は、年令を証明する保険証等の持参が必要です。なお、建物を傷つけるのを防ぐために、背中側におく荷物は持ち込めません。
江戸時代に事なきを得た妙立寺は、歴代藩主や前田家家臣だけでなく一般庶民にも親しまれてきました。忍者屋敷もどきのいろいろな仕掛けは、来場する人たちを楽しませてくれる人気スポットとなってます。
電話受付時間は午前8時より午後5時までです。入場時間は午前9時からで、30分毎に説明案内があります。各時間に定員があり定員になり次第締め切りとなっています。最終入場時間は午後4時30分(冬期間は午後4時まで)です。当日空きがあれば、当日の入場も可能です。見学するときは案内人が同伴してくれて堂内を説明してくれます。
堂内は撮影・土足禁止、禁煙です。入場料は、保存護持費として大人1000円、子ども700円です。未就学児童の入場は出来ません。小学生低学年は、年令を証明する保険証等の持参が必要です。なお、建物を傷つけるのを防ぐために、背中側におく荷物は持ち込めません。
江戸時代に事なきを得た妙立寺は、歴代藩主や前田家家臣だけでなく一般庶民にも親しまれてきました。忍者屋敷もどきのいろいろな仕掛けは、来場する人たちを楽しませてくれる人気スポットとなってます。