源頼朝は「貴種擁立政権トーナメント」の覇者だった
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『平家物語』を読み進めていくと、こんな感想を抱きませんか?
「しっかり者で苦労人の兄・頼朝の命令を無視して、なぜ弟の義経はこうも自分勝手に行動するのだろう?」と。
真面目な源頼朝とどこかチャラチャラした源義経の兄弟、そのキャラのすれ違いにハラハラしていたら、源平争乱のクライマックスにて平泉に逃れた義経一行が、「衣川の戦い」にて滅び去るくだりに差し掛かり、「やんちゃな弟を持つと、兄は苦労する」ではまとめきれない、「頼朝はどうして弟にそんな仕打ちをするの?」という逆の疑問を持ちながら、もやもやした気持ちを抱えたまま、「諸行無常…」と読み終えることになるのが、『平家物語』あるあるではないでしょうか。
なぜ、家族も兄弟も犠牲にしてもかまわないほど、源頼朝は彼の独立政権樹立に執念を燃やしたのでしょう。
そんな疑問の答えを探すには、頼朝・義経兄弟の悲劇にクローズアップしていた視点を、少し引き気味にしてみましょう。
当時の日本列島が見えるあたりまで引いたとき、地方豪族の勢力図が見えてきます。
日本では、20年に渡る長期の内乱、つまり「源平争乱」という戦国時代が続いていました。
京の朝廷が荘園を守護するために置いた武士たちが、独自の力を持ち、表向きは京の威光に従いながらも、そのパワーバランスは日本列島に張り巡らされていました。
その朝廷が内部抗争で少しずつ力を失い、その隙に平家や源氏といった朝廷に近い位置にいた武家勢力が入り込むことで、地方豪族たちもまた目覚めたのです。
「朝廷に従うのではなく、その求心力だけを使って、自分たちが覇者となれるのではないか?」と。
京の貴族たちとの共存関係を細くし、利用できる権威だけ利用して、独立国に君臨する夢を、日本各地の豪族たちが見るようになりました。
天皇家に近づくことで、貴族たちを従えるほどの権力を手に入れた平清盛以外にも、信濃の木曽義仲や奥州平泉の藤原氏といった有力地方豪族もまた、それぞれ平泉姫宮(後白河法皇の皇女)や北陸宮(以仁王の三男で後白河法皇の孫)を養育し、自分たちの勢力を権威付けるシンボルとして担ぎ上げました。
その中で偶然にも、トレンド的に最大のパワー持っていた「源頼朝」を、運良く手に入れた勢力がいたのです。
それが、伊豆の小さな豪族・北条家でした。
「しっかり者で苦労人の兄・頼朝の命令を無視して、なぜ弟の義経はこうも自分勝手に行動するのだろう?」と。
真面目な源頼朝とどこかチャラチャラした源義経の兄弟、そのキャラのすれ違いにハラハラしていたら、源平争乱のクライマックスにて平泉に逃れた義経一行が、「衣川の戦い」にて滅び去るくだりに差し掛かり、「やんちゃな弟を持つと、兄は苦労する」ではまとめきれない、「頼朝はどうして弟にそんな仕打ちをするの?」という逆の疑問を持ちながら、もやもやした気持ちを抱えたまま、「諸行無常…」と読み終えることになるのが、『平家物語』あるあるではないでしょうか。
なぜ、家族も兄弟も犠牲にしてもかまわないほど、源頼朝は彼の独立政権樹立に執念を燃やしたのでしょう。
そんな疑問の答えを探すには、頼朝・義経兄弟の悲劇にクローズアップしていた視点を、少し引き気味にしてみましょう。
当時の日本列島が見えるあたりまで引いたとき、地方豪族の勢力図が見えてきます。
日本では、20年に渡る長期の内乱、つまり「源平争乱」という戦国時代が続いていました。
京の朝廷が荘園を守護するために置いた武士たちが、独自の力を持ち、表向きは京の威光に従いながらも、そのパワーバランスは日本列島に張り巡らされていました。
その朝廷が内部抗争で少しずつ力を失い、その隙に平家や源氏といった朝廷に近い位置にいた武家勢力が入り込むことで、地方豪族たちもまた目覚めたのです。
「朝廷に従うのではなく、その求心力だけを使って、自分たちが覇者となれるのではないか?」と。
京の貴族たちとの共存関係を細くし、利用できる権威だけ利用して、独立国に君臨する夢を、日本各地の豪族たちが見るようになりました。
天皇家に近づくことで、貴族たちを従えるほどの権力を手に入れた平清盛以外にも、信濃の木曽義仲や奥州平泉の藤原氏といった有力地方豪族もまた、それぞれ平泉姫宮(後白河法皇の皇女)や北陸宮(以仁王の三男で後白河法皇の孫)を養育し、自分たちの勢力を権威付けるシンボルとして担ぎ上げました。
その中で偶然にも、トレンド的に最大のパワー持っていた「源頼朝」を、運良く手に入れた勢力がいたのです。
それが、伊豆の小さな豪族・北条家でした。
源頼朝をゲットした北条家の勢力とは
朝廷と平家にあだをなした反逆者の子として、飼われ死ぬ運命とともに源頼朝は伊豆へ流罪となりました。
監視者たる立場の北条家は、平家にゆかりのある信頼された地方豪族で、源頼朝というやっかいな罪人に対し、丁重とはいえない暮らしをさせていたそうです。
しかし、北条家の総領娘・政子と熱愛関係となり、北条時政は覚悟を決めました。
この源頼朝を婿殿に迎え、貴種として擁立し、地方豪族対抗国取りトーナメントに名乗りを上げたのです。
「源頼朝」という名には、平家憎し、朝廷憎し、源家が可哀想etcという、他の地方豪族が擁立した貴種たちにはないカリスマ性と時代の華がありました。
それまでは、朝廷に深く繋がるものに求心力が備わっていたのですが、その威光が衰え、他の地方豪族たちが力をぐんぐん蓄えている武家優勢の世の中にあっては、「平清盛と渡り合った源義朝の遺児」という武勲由来の箔は、求心力の輝きが違っていたことでしょう。
監視者たる立場の北条家は、平家にゆかりのある信頼された地方豪族で、源頼朝というやっかいな罪人に対し、丁重とはいえない暮らしをさせていたそうです。
しかし、北条家の総領娘・政子と熱愛関係となり、北条時政は覚悟を決めました。
この源頼朝を婿殿に迎え、貴種として擁立し、地方豪族対抗国取りトーナメントに名乗りを上げたのです。
「源頼朝」という名には、平家憎し、朝廷憎し、源家が可哀想etcという、他の地方豪族が擁立した貴種たちにはないカリスマ性と時代の華がありました。
それまでは、朝廷に深く繋がるものに求心力が備わっていたのですが、その威光が衰え、他の地方豪族たちが力をぐんぐん蓄えている武家優勢の世の中にあっては、「平清盛と渡り合った源義朝の遺児」という武勲由来の箔は、求心力の輝きが違っていたことでしょう。
トーナメント戦のライバルたちはどんなメンツ?
源頼朝を担ぎ上げた北条一族は、「以仁王の令旨」を受け取ります。
当時の地方豪族は、もちろん朝廷システムの末端にありましたから、独自判断で軍を動かすことはできません。しかし、以仁王の許可を得たのであれば、日本国内自由に討伐軍を率いることが可能となります。ここから、北条率いる鎌倉武士たちは破竹の進軍を遂げていくのです。関東を制圧し、当時名を馳せていた日本各地の地方豪族の中でも抜きに出た存在となった北条家の実力と源頼朝の名のもとに、地方豪族たちは次々に集結し、傘下になりました。
ここで、地方豪族対抗国取りトーナメント最大の実力者だった奥州平泉の藤原家も、手元のカードを切るのです。
「平清盛と渡り合った源義朝の遺児」の末子、源義経でした。
「平氏討伐」の裏には、北条一族と藤原一族の決戦といった様相もあったのかもしれません。
京の貴族たちに大人気だった戦の天才・義経の回りには、常に奥州からともなってきた腹心の継信・忠信兄弟がつき従っていました。北条一族はいつ義経が彼らの、つまり奥州藤原氏の指示に従い、頼朝に刃を向けるか気が気ではなかったことでしょう。
逆に、奥州藤原氏としてみれば、自分の手ごまのはずの源義経があまりに天才すぎて頼朝の勢力向上に貢献している上に、持ち前の「自専の計らい」つまり思いつきで自由に行動するケースが多い人だったため、「彼は立場がわかってるのか?」と心配だったかもしれません。
結果、源頼朝は平家一門を壇の浦に沈め、朝廷から統治システムを奪い、北条一門の拠点である鎌倉に幕府を打ち立てることに成功しました。
最大のライバルだった奥州平泉は、義経の失脚とともに求心力を失い、奥州合戦にて源頼朝に滅ぼされたのです。
当時の地方豪族は、もちろん朝廷システムの末端にありましたから、独自判断で軍を動かすことはできません。しかし、以仁王の許可を得たのであれば、日本国内自由に討伐軍を率いることが可能となります。ここから、北条率いる鎌倉武士たちは破竹の進軍を遂げていくのです。関東を制圧し、当時名を馳せていた日本各地の地方豪族の中でも抜きに出た存在となった北条家の実力と源頼朝の名のもとに、地方豪族たちは次々に集結し、傘下になりました。
ここで、地方豪族対抗国取りトーナメント最大の実力者だった奥州平泉の藤原家も、手元のカードを切るのです。
「平清盛と渡り合った源義朝の遺児」の末子、源義経でした。
「平氏討伐」の裏には、北条一族と藤原一族の決戦といった様相もあったのかもしれません。
京の貴族たちに大人気だった戦の天才・義経の回りには、常に奥州からともなってきた腹心の継信・忠信兄弟がつき従っていました。北条一族はいつ義経が彼らの、つまり奥州藤原氏の指示に従い、頼朝に刃を向けるか気が気ではなかったことでしょう。
逆に、奥州藤原氏としてみれば、自分の手ごまのはずの源義経があまりに天才すぎて頼朝の勢力向上に貢献している上に、持ち前の「自専の計らい」つまり思いつきで自由に行動するケースが多い人だったため、「彼は立場がわかってるのか?」と心配だったかもしれません。
結果、源頼朝は平家一門を壇の浦に沈め、朝廷から統治システムを奪い、北条一門の拠点である鎌倉に幕府を打ち立てることに成功しました。
最大のライバルだった奥州平泉は、義経の失脚とともに求心力を失い、奥州合戦にて源頼朝に滅ぼされたのです。
源頼朝政権を実際に運用したのは誰?
源頼朝と源義経の兄弟が、なぜあれほど悲劇的な別離を遂げなければならなかったのか。それは「北条一門VS奥州藤原一門」の国取りトーナメント最終決戦の旗印同士であったからです。
源頼朝亡き後、鎌倉幕府を束ねたのは尼将軍・北条政子でした。北条一門にとって、源頼朝は最後まで旗印にすぎず、頼朝亡き後、御家人同士の権力闘争が激化し、源頼朝の直系は三代実朝の死(北条一門による暗殺の疑い)によって途絶えるのでした。
源頼朝亡き後、鎌倉幕府を束ねたのは尼将軍・北条政子でした。北条一門にとって、源頼朝は最後まで旗印にすぎず、頼朝亡き後、御家人同士の権力闘争が激化し、源頼朝の直系は三代実朝の死(北条一門による暗殺の疑い)によって途絶えるのでした。