西洋画

オークションなどでも大変価格が高騰する画家ルノワールの代表的な作品たち

関連キーワード

印象派の代表格として、数多くの名作を残していることで知られる有名画家が、「ルノワール」です。ルノワールの作品は、非常に写実的なものから抽象的なものまで幅広く揃っており、その時代に沿ったテイストで描かれています。

多くの批判に晒された時代もありましたが、後には大変評価が高くなっており、現在ではオークションなどでも大変価格が高騰する画家として知られています。今回、ここではルノワールが描いた代表的な絵画について紹介していきます。

「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」

ルノワールの初期の頃の作品としてもっとも知られているのが、「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」という作品です。絵画を学び、まだまだ画家としては走り出しの頃に製造業を営んでいたラコー夫妻の頼みで制作した作品であり、「小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢」はスペイン・バロック絵画や新古典主義の影響を受けていると感じ取ることができます。

どこか、緊張気味ともとれるラコー嬢ではありますが、口もとはさりげなくはにかんだ雰囲気にも見えるように、とてもリラックしたシチュエーションで絵画が描かれていたことが伝わってくる作品となっています。

また、この頃はまだ自らの作風を確立しているわけではなかったことから、背景の花であったり手元、服の細部にいたるまで、さまざまな部分が緻密に描かれています。基本に忠実に描かれている作品であり、ルノワールの真面目さと実直さが伝わってくる作品なのではないでしょうか。

「日傘をさすリーズ」

ルノワールの作品のなかでも、非常に知られているのが日傘を使用した絵画の類いとなっています。
そのひとつが、「日傘をさすリーズ」というものです。シャイイ=アン=ビエールというパリからほど近い森の中で日傘をさしている女性を描いている作品ではありますが、二年ぶりにサロンに入選となった、ルノワール自身も大変思いいれの強い作品となっています。

このモデルとなっているリーズ・トレオという女性ですが、大変ルノワールが気に入った人物であったことで知られており、他の作品でも多く描かれていることで知られています。

この作品のポイントでは、色彩が微妙に抑えられていることから、バルビゾン派の画家カミーユ・コローが影響されていることが分かります。さらに、繊細な表情のなかには写実主義の影響も強く受けているのではないかと推測可能です。

この作品は、出品当初物議を醸すことになりますが、日傘が肩まで影になるのはおかしいとか、背景が荒く描かれているなど、さまざまな批判を浴びます。もちろん、その不自然さが人の心を掴んでおり、多くの画家からも賞讃の声を浴びている問題作として今でも残っているのです。

「散歩道(プロムナード)」

非常に写実的に描かれていることで知られている名作が、「散歩道(プロムナード)」です。こちらも、ルノワールの初期の頃の作品ではありますが、手をとりあって楽しそうに散歩をする二人の男女が描かれています。木陰のしたで絶妙なバランスで影を描いているルノワールですが、女性のドレスの風合い部分に大変こだわった仕上げられていることが分かります。

一見、雑なように見えますが、その繊細さが逆にドレスや女性の美しさを際立たせることになっており、多くの人々の視線を女性へと向けさせます。

さらに、男性に関しては影にしっかりと隠れてしまっていることもあり、結果的に写実的でありながらも、どこかストーリー性のある幻想的な雰囲気も感じとることができる作品となっているのです。この斑点のような描写というのが、印象主義時代随一のテクニックであり、まさに当時の印象派を代表する作品といっても過言ではありません。

「ポン・ヌフ、パリ」

女性を描いた作品などで知られるルノワールですが、風景画としてもっとも知られている作品のひとつが、「ポン・ヌフ、パリ」という作品です。パリ最古の橋として有名なポン・ヌフ橋を高所からながめおろしたような作品ですが、当時のパリの華やかで活気がある風景をしっかりと写実的に捉えている作品となっています。

アンリ4世の騎馬像であったり、シテ島などを垣間みることもできます。非常に柔らかなタッチで描かれているこの作品には、ルノワールの持つパリへの愛情も感じることができ、画家としての今後の変化をにおわせるキーポイントとなっている作品でもあるのです。

「青衣の女(パリ女)」

印象派らしい、ルノワールという人物の作風を良く感じることができる作品が、「青衣の女(パリ女)」です。アンリエット・アンリオという人物がモデルとして描かれていますが、うやや斜めに身体を傾けている、静止画でありながらも動的な作品となっています。

非常にドレスの繊細な陰影を描くことに成功しており、当時流行とされていたシルエットも実に緻密に表現されていることが分かります。油彩がでありながらも、水彩画のような柔らかさもあり、始祖エドゥアール・マネからの影響も感じ取れる名作となっています。

「絵筆を持つクロード・モネ」

数々の肖像画を描いていたことで知られるルノワールですが、印象派の大家であるクロード・モネとの親交も深かったことから、「絵筆を持つクロード・モネ」という作品も残されています。

パヴィヨン・フラマンの一室が舞台となっており、芸術家が住むという雰囲気の空気感もしっかりと描き出されている名作としてしられています。

背景をぼやかすことで、主役であるモネの姿をしっかりとくっきりと際立たせており、さらには厚みのあるカーテンや衣類、ヒゲなどのいたる部分にまで緻密に書き上げているところに、彼との信頼関係がとても厚かったということが伺いしることができます。

ちなみに、ルノワールは『アルジャントゥイユの庭で絵筆をとるクロード・モネ』など、モネを題材にした作品を多く手掛けていることでも知られています。

「陽光の中の裸婦(エテュード:トルソ、光の効果)」

ルノワールは、「陽光の中の裸婦(エテュード:トルソ、光の効果)」などをはじめ、数多くのすばらしい裸婦画を描いています。アンナ・ルブッフという女性をモデルに描いている作品ですが、アルヴェール・ヴォルフという人物が厳しく批判したことで逆に有名になった作品として知られています。

完全に死した肉体の状態、腐敗しつつある肉の塊などと批判され、一部の批評家たちからも大変厳しい意見を投げかけられました。

一方、こういった作品が話題となることは、当時は卑猥なことを賞讃することで人格が疑われるということもあったためか、このすばらしい描写と緻密なタッチ、影の出し方などを賞讃したくともできなかったという背景があるともいわれています。

背景の抽象的でありながらも、どこか現実的な草木の描き方や恥じらいというよりは、達観したようなモデルの目線など、数多くのルノワールという人物を知るためには、大変重要な立ち位置にある作品であることは間違いはありません。

ルノワールという人物の作品

ルノワールの作品は、やや抽象的なタッチのものから、後期になると非常に写実的になるものまで、大変多くの作品が残っています。

今後、ルノワールの作品を楽しまれるとしたら、初期から後期、そして人物画と風景画といったように、いろいろな視点から鑑賞してみると良いでしょう。ルノワールは、今後も大変人気となる画家として知られていくことでしょう。

ルノワールの人生とは?

数多くの印象派の画家がいるなかで、日本でも多くのファンを持つ画家がピエール=オーギュスト・ルノワールです。
幸福の画家と呼ばれるピエール=オーギュスト・ルノワールは、多くの作品と名言を残したことで知られる、非常に有名な画家です。今回、このピエール=オーギュスト・ルノワールがどのような人生を送っていたのかについてを、ここでは紹介していきましょう。

貧しいながらも幸せな家庭

ルノワールは1841年にフランスのリモージュという町で生まれています。7人兄弟という大所帯の6番目の人物でありましたが、父親が仕立て屋、母親がお針子として働き、貧しいながらも平和な日々を送っていました。

印象派というと、ブルジョワ級の家庭で育っている者が多いのですが、ルノワールに関しては労働者階級だったこともあり、これも大きなインパクトを残す作品を描くことができた、ひとつの理由ではないかといわれています。

ルノワールが生まれた3年後の1844年には、家族はパリへと移住しています。ルーブル美術館の近くという、非常に立地が良いと思われる場所ではありましたが、当時のパリでは貧困層が住まいを構える場所であったことからも、日々の生活のつましさが伺えます。

その後、美声で有名であったルノワールは、サン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入っており、声楽に大変親しんでいったことで知られています。

さらに、その後に両親に作曲家がオペラ座の合唱団に入れてほしいと両親にお願いしたのですが、厳しい生活もあり、いとこが磁器の工場を手伝ってほしいという申し出もあったため、その誘いを断ることになるのです。結果、聖歌隊は辞めたものの、家族は幸せな日々を送っていました。

磁器の絵付け職人

ルノワールはその後、4年間に渡り磁器の絵付け職人として働きます。もともと絵画についても興味があり、さらにセンスのあったルノワールだけに、素晴らしい絵付け職人として認められ始めました。

彼自身、今後も絵付け職人としてすばらしい人生が待っていると信じてやまず、このまま一流の絵付け職人としての人生を歩んでいこうという日々を続けています。

1日6フランを稼げることもあり、家族にも恩返しをしたいと思っていたのですが、世間の波に大きく影響を受けます。陶器、磁器にプリントの絵付けをすることができる技術が発明されてしまい、結果的にルノワールは職を失うことになってしまうのです。

職人として生きるルノワール

磁器の絵付け職人として職を失ってしまったルノワール。装飾や絵画の技術を持ち合わせていたこともあり、扇子の装飾を行う仕事を行うことになります。この頃、扇子に描いていたのがアントワーヌ・ヴァトーなど、有名な画家たちの作品でした。

模倣という形で日々扇子にこれらの絵画を描いていくことで、どんどんロココ絵画に興味を持つようになっていったのです。カフェの壁の装飾や紋章、窓など、絵画、装飾を行う職人としての仕事で日銭を稼ぐようになっていきます。非常に真面目であったルノワールだけに、その仕事の合間には無料のデッサン学校へも通い、ルーブル美術館などで模写などを行っていました。

画家への道を歩み出す

ルノワールは、仕事でも学校でも絵画を描き続けていくことで、プロの画家として大成することを夢見るようになっていきます。

シャルル・グレールという画家のアトリエに入ったのが1861年であり、シスラーやモネ、バジールといった後の印象派を背負って立つような人物たちとこの頃に親交を深めることとなります。

保守的なアカデミズムであったシャルル・グレールですが、自由にモデルなどを使ったりできたため、その自由な雰囲気を好んでさまざまな人物がこのアトリエにやってきました。彼は、我々に何も教えてくれることは無かったが、こちらがいろいろと考えて自由に制作することを教えてくれた、後のルノワールは語っています。

絵の具を引っ掻き回すのが楽しいのか?と、グレールにいわれた時も、当然楽しくなければ描かないとルノワールは答えており、保守的な方向性とは別に、この頃から新しい絵画へのアプローチを行っていこうという気概があったことが伺えるのではないでしょうか。

切磋琢磨した時代

この頃、モネなどと親交が深かったことで知られるルノワールですが、特にアンリ・ファンタン=ラトゥールとは仲が良く、モネがあまり好んでいなかったルーブル美術館へと研究を重ねるために足を運んでおり、18世紀のフランス画家に大変強い興味を持っていたことで知られています。

さらに、より深い美術の研究をしようと思ったルノワールは、エコール・デ・ボザールへと入学。夜間のデッサンと解剖学などを学び、油彩画なども手掛けていました。そんな時、赤色の使い方を上司ウに批判されてしまい、当時排撃されていた新古典主義のように、ドラクロワにはなっていはいけない、と釘を刺されたといわれています。

また、フォンテーヌブローの森に画家仲間といった時には、デッサンはすばらしいが、何故黒色でこんなに塗りつぶしてしまうのか、など批判を受けていたことも分かっています。

しかし、この男はナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャという画家であり、その後にルノワールに支援をする男性となっています。このように、さまざまな絵画での青年期を過ごしたルノワールは、ついにサロン入選を目指して動き始めます。

サロンへの出品の日々

ルノワールが初めてサロンに応募したのが、1863年の頃です。サロン・ド・パリに応募しているのですが落選を経験をしています。しかし、その翌年には「グレールの弟子」として応募したものに関しては、入選をしており、プロとしての画家の人生がここからスタートします。

しかし、この作品や自分の実力で無かったことなども影響したのか、ルノワールはこの作品を黒く塗りつぶしてしまっているようで、現在ではその作品を見ることができません。その後、肖像画などを描く仕事をしながら、フォンテーヌブローの森近くのマルロットに住むようになっていきます。

1865年の頃、さまざま女性と出会うことになるルノワールは、多くの女性の肖像画を描いていることが分かります。

また、シスレーの父親を描いている1865年のサロンでは、2点の作品が入選するなどその実力が大変認められ始めてきます。1866年のサロンに関しては、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募し、多くの仲間も入選するなど印象派の評価が大変上がってきていた頃と捉えることができます。

厳しい審査

順調にキャリアを伸ばしていったルノワールではありますが、一転1867年には、サロンの審査が大変厳しくなっていきます。ルノワールだけではなく、ルノワールの仲間たちの作品も次々と落選していくこととなります。

『狩りをするディアナ』に関しては、肉付きが良い女性を描いていたのですが、理想家されていないものを描いたということで不評であったというのです。しかし、こういった流れにもめげることが無かったルノワールは、その後に日傘シリーズを描いているなど、精力的に作品を描き続けることとなります。

結果、1868年のサロン、1869年のサロンなどに入選していきます。一流の画家として認められ始めたルノワールですが、生活が楽になることはありませんでした。

普仏戦争から転機

1870年に、普仏戦争が勃発するとルノワールは騎兵隊へと入ります。
赤痢にかかるなど、瀕死の状態にまでなりますが、どうにか生き伸びることができます。その後、さまざまな難が続きますが、ロンドンへと渡った後、画商ポール・デュラン=リュエルとの出会いがあるなど、戦後は大きく時代が動きはじめます。

印象派展

サロンに疑念を抱き始めたルノワールたちは、その後にパリ・キャピュシーヌ大通りでのナダールという写真館で後の「第1回印象派展」をひらくこととなります。しかし、非常にその時期の評論家たちには不評であり、印象主義と揶揄されことが、印象派という名前の由来になっています。

サロンへの回帰と評価

その後、熱心にルノワールは印象派展を開催しますが、世間からの風当たりは強まるばかりであり、さらには印象派の仲間たちの仲も分裂し始めます。結果、生活が苦しいルノワールはサロンへと回帰せざるを得ず、そこからまたサロンへとさまざまな作品を応募して入選を繰り返すことになっています。

徐々に収入が安定していき、さらには評価が高まったいったルノワールはリュクサンブール美術館での美術制作の依頼を受けて、すばらしい結果を残します。ルノワールの作品は死後、大変多くの人たちに影響を与えることとなります。

作風も円熟期のすばらしい絵の具使いが認められたことから、オークションなどでは価格が高騰してしまい、それがまた話題となってルノワールという名が前に出てくるうようになっています。

『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』に関しては、当時の日本円で108億円という価格で落札されています。死後に評価が大変高まっていったルノワールですが、岸田劉生、中村彝、赤松麟作などの日本の洋画界の重鎮たちにも多大なる影響を与えたことで知られており、現在も若い芸術家たちはルノワールの絵画へと愛情を持って接しているといわれています。

貧困からの作品づくり

ルノワールの人生は、画家になることを志してから常に貧困との戦いであったことが分かっています。しかし、その芸術への情熱は凄まじいものであり、さらには穏やかな性格であったことからも、多くの芸術家の仲間たちに信頼されていたことで知られています。

今後も、ルノワールの絵画の価格は上がりつづけ、さらには新しい発見も見つかってくることは間違えはないでしょう。ルノワールは、貧困と戦っていながらも、大変幸せな人生を送っていったのです。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ