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落穂拾いの真実とバルビゾン村についての考察

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ジャン=フランソワ・ミレーが描いた作品の中で、日本人に最も知られている絵画といえば、「落穂拾い」でしょう。この作品は、農民が広々とした大地にて落葉を拾っている、どこか心温まる風景画として知られています。

しかしながら、ジャン=フランソワ・ミレーの描いた「落穂拾い」には、さまざまな意味合いが込められており、さらにほのぼのとした雰囲気とは裏腹の、農民たちの厳しい生活模様が伺えるといわれています。今回、ここでは、ジャン=フランソワ・ミレーの描く、「落穂拾い」についてのさまざまな考察をまとめてみました。ぜひ、参考にしてみてください。

落葉拾いの真実とは?

ジャン=フランソワ・ミレーが、「落穂拾い」を描きあげたのが1857年。パリでさまざまな批判に晒されるなどし、心を失いかけたジャン=フランソワ・ミレーは、後にバルビゾンという村へと移り住むこととなります。

午前中は畑を仕事に精を出し、午後は農民たちをモチーフとした絵画を描く、という生活を生涯続けることとなります。さて、そんなジャン=フランソワ・ミレーが、四季を通じた連作を描く、ということで制作された作品のひとつが、「落穂拾い」です。

もともと、落穂拾いだけはシリーズとは別に、制作する構成が出来ていたと言われていますが、結果的に夏の一作として仕上げられることとなります。絵画の中央には、3人の農婦が落ちた麦を持ち、落葉を拾っている姿が描かれていますが、パッと見るととても穏やかで、ほのぼのとした風景のようにも見えます。

そのためか、学校教育用の教科書にも度々登場する作品として知られており、田舎の良き風景が映し出されている、という印象が強い方が殆どだと思います。しかし、この作品にはとある真実が隠されているのです。

厳しい生活環境を描き出した

ジャン=フランソワ・ミレーは、もともと農村の出身であり、農作業を行う人々については思い入れがあったと思われます。

そのため、晩年まで田舎村に住み込み、自らの人生のルーツでもあった農民たちを描いていたのではないかといわれています。そんな中、生まれた「落穂拾い」なのですが、厳しい生活を強いられていた、そういった農婦たちの働く姿が模写されている、というのが真実です。基本的に、収穫が終わった畑には稲穂や落葉などが多く散乱しています。

それらを放置しておくと、大変見た目が悪いということで、拾う作業が大切となっていきます。しかし、この作業を畑の持ち主が行ってしまうことは、旧約聖書の法律で禁じられており、貧しく食い扶持の無い農民たちの仕事として、守り続けられてきたといわれています。

つまり、ジャン=フランソワ・ミレーが描いたこの落穂拾いの作品ですが、仕事が無く、日々食べ繋ぐにも苦しい農民たちの、ありの姿を描いた、ということになります。宗教的な感情を強く取り入れるジャン=フランソワ・ミレーだけに、ただほのぼのとした田舎の風景を切り取ったわけではなく、旧約聖書から守り続けられている、リアルな農民の姿を描きたかったわけです。

賛否両論となった落穂拾い

当時、バルビゾン村にはジャン=フランソワ・ミレーだけではなく、多くの芸術家たちが集まってきた、ということで知られています。

ジャン=フランソワ・ミレーはパリで批判に晒された、ということでこちらに移り住んでいるのですが、当時、パリは政治情勢が不安定であり、さらにはコレラなどが流行っていたこともあり、バルビゾンには多くの芸術家が集まっていました。そのため、「バルビゾン派」というグループができた、ということになります。

さて、そんな「バルビゾン派」を代表する、ジャン=フランソワ・ミレー。この「落穂拾い」は、素晴らしい作品だと絶賛される一方で、さまざまな憶測が飛び交い、賛否両論を巻き起こす問題作として扱われることとなります。まず、こういった貧しい人々を描くことで、フランス政府への批判的メッセージが込められた作品であるということ。そして、貧しい農民たちのリアルな姿を描き出してしまったという、その無神経さを批判する評論家たちも出始めてしまうのです。

もちろん、ジャン=フランソワ・ミレーにとってみれば、ただただ農民たちの日々の姿を切り取っただけであり、そこに神々しいものを感じたから、描いただけかもしれません。とはいえ、その後も批判には負けず、成功を収めていったのですから、ジャン=フランソワ・ミレーが心の底から描きたいモチーフであった、ということは言うまでもないでしょう。

バルビゾン村について

さて、「落穂拾い」をより深く理解するためには、ジャン=フランソワ・ミレーの過ごしていたバルビゾン村についても知っておくと良いでしょう。

バルビゾン村は、パリから南へ60キロメートルほど離れた場所にある、とても自然豊かな場所として知られています。バルビゾン派という名が世に広まったことも関係して、現在でも、世界中から観光客が訪れている場所として知られています。当時、アカデミックな美術教育に辟易していた若いアーティストたちが集まったことでも知られており、美しい自然をそのまま描写するという、印象派のような絵画を描ける場所として人気が集まったといわれています。

バルビゾンは、まだまだ多くの自然が残されているフランスでも貴重な場所であり、大通りはまだまだ賑わいを残す、大変過ごしやすい土地として知られています。

もちろん、生活費用が大変安く済むこと、村民たちも移住してきたアーティストたちを受け入れてくれたこと、食材も豊富であったことなど、パリとは全く別の顔を持っている素敵な場所です。ジャン=フランソワ・ミレー、そして「落葉拾い」に関して、より深く知りたい方はぜひ一度は訪れてみるべき名所です。

永遠に思いを馳せるために

ジャン=フランソワ・ミレーの描いた『落穂拾い』は、清貧を賞讃するものと、一部の批評家から批判を受けた作品です。
しかし、贅沢だけを求める現代人たちに向けての、静かなメッセージにも感じとれる、非常に哲学的で宗教的な作品であることは、間違いはありません。

まだまだ、多くの謎が込められている、ジャン=フランソワ・ミレーの「落穂拾い」。ぜひ、この目で鑑賞してみてはいかがでしょうか。

ジャン=フランソワ・ミレーが落穂拾いを描くまで

農民をモチーフとして、数々の名作を生み出してきた有名画家、「ジャン=フランソワ・ミレー」。幾多の作品の中でも、世界的に有名な作品といえば、「落穂拾い」にほかなりません。

どことなく哀愁漂う、独特な雰囲気を持っているタッチと農婦たち、そして貧しい生活でありながらも、そのどこかに幸せを見出そうとしている状況など、いろいろと想像力を掻き立てる名作中の名作です。今回、ジャン=フランソワ・ミレーの描いた、「落穂拾い」とは、どんな作品なのかを見ていきたいと思います。

ジャン=フランソワ・ミレーとは?

農民をモチーフとして作品づくりを続けていたジャン=フランソワ・ミレーですが、実は彼自身がノルマンディーというフランス北部の寒い地域の農村で育っています。

海がとても近いのですが、厳しい環境だったこともありなかなか漁には不向きな村であり、農業の方が注目されていた土地として知られています。農村暮らしで決して裕福では無かったジャン=フランソワ・ミレーですが、自宅には数多くの書籍があったことからも文学などに幼き頃から親しみ、19歳の頃には画家を目指すようになりました。

・パリへ向かう
画家となって成功することを夢みたジャン=フランソワ・ミレー。シャルブールという小さな町で絵画を習っていながらも、その才能が認められて22歳になると、国立美術館のアトリエの門を叩きます。

当時から類い稀なる才能があるといわれていたミレーなのですが、田舎暮らしが長かったこともあり、どうしてもパリの都会的な空気に馴染むことができませんでした。

一説によると、田舎者であると同期生の一部からはバカにされていたようで、プライドが高いミレーはその仕打ちに耐えられなかったともいわれています。結局、ミレーが同アトリエに在籍していたのは2年間であり、その間は美術館などで古典美術を見ては、独学でさまざまな技法を修得していったといわれています。


・自らの芸術の否定と逆境
もともと絵画の才能があったジャン=フランソワ・ミレーは、自らの力で、めきめきと絵画力をつけていきます。その結果、なんと1840年のサロンで初入選を果たし、プロの画家としての新しい人生を歩むこととなります。

しかし、彼の栄光も長くは続かず、その後の3年間のサロンでの入賞はありませんでした。さらに、1841年には愛し合った女性と結婚を果たすのですが、病弱であったこともあり、3年後にはこの世を去ってしまうという悲劇にも見舞われてしまったのです。

画家としても成果を出すことができず、プライベートでも妻を失ってしまったミレー。傷心の中、自らの生家のあるノルマンディー地方へと帰郷を果たします。そこで、カトリーヌという女性に出会うのですが、彼女との身分などの差などから、周囲に結婚を反対されてしまいます。

しかし、傷心状態の自分を救ってくれたカトリーヌを心底愛していたジャン=フランソワ・ミレーだけに、彼女と別れるという選択肢はありませんでした。結果、ついにまたもパリへと再出発を決めるのです。


・パリでの屈辱
カトリーヌとかけおち同然でパリへ向かい、再起を誓ったジャン=フランソワ・ミレー。苦しい生活のなかでも、必死で絵画を描き続けたことで、ついに1848年には無鑑査で開催されたサロンにて入賞を果たします。

「小麦をふるう人」という、農民を描いた作品が大きな評価を獲得し、結果的に政府が買取りを行ったことでミレーの生活は少し安定します。しかし、「落葉拾い」で有名なジャン=フランソワ・ミレーだけに、昔は裸婦画を多く描いていたことは、あまり知られていません。

さほど、大きな功績をあげていなかった頃のミレーは、裸婦画をメインとしていた時期があったことからも、周囲には大変下品な作品を手掛ける人物であるとバカにされてしまい、強い屈辱を感じていました。一度ついてしまったイメージはなかなか取り除くことができず、さらにはその騒ぎの発端であるパリにいることに苦しさを感じ、結果的にバルビゾンという村へと戻り、農業をすることになったのです。


・農業から得た知恵
バルビゾンの地に向かったミレーは、派手な生活をする、派手な女性と交遊する、さらにお金持ちになるなど、そういった見栄とは一切無縁の生活を続けます。

なんと、ミレー自身が農村の出身であったことが関係しているのか、午前中は農業に勤しみ、午後は絵画を描くという活動をするようになっていったのです。そして、リアルな状況を描きだそうということで、ジャン=フランソワ・ミレーのモチーフは農民たちの生活となっていきます。

農民たちは厳しい生活を強いられていたこともあり、その姿をリアルに描き出したミレーの作品はさまざまな評価を得ていました。農民たちからは、やや敬遠されていたものの、アメリカで彼の描いた作品が大きな評価を得ます。結果、大家として認められるようになり、生活も安定するようになってきたのです。

落穂拾いについて

ジャン=フランソワ・ミレーの名作である、「落穂拾い」は、アルフレッド・フェイドという建築家からの依頼で描いた『四季シリーズ』のひとつとも言われています。落葉拾いは、夏を忌まわしめ享受しているものであり、その他はブドウ畑やリンゴの収穫、薪集めなどをモチーフとした作品が描かれていました。

今でこそ、「落穂拾い」は、ミレーを代表する名作として知られていますが、当時は貧困を誇張しているという批判を保守的な批評家たちから受け、高い評価を得ることができませんでした。「下層民の運命の三女神」という、非常にレベルの低い呼び名で揶揄されていたことも知られています。

貧困を誇張しているという評価がある一方で、こういった貧困は政府への圧力であり、権力への挑戦だという誤解も生まれてしまうなど、よくも悪くも大変話題となっていたことでも知られている作品なのです。

夏という部分に着目しよう

ジャン=フランソワ・ミレーの、「落葉拾い」は、そのタイトルから秋を背景に描かれている作品だと思われがちです。ジャン=フランソワ・ミレーの画風として知られている、どこか柔らかく幻想的な雰囲気と、貧困を思わせる暗い雰囲気がより一層そういった気分を煽るようです。

しかしながら、ジャン=フランソワ・ミレーの描いた「落穂拾い」は、前述した通り夏の作品であり、小麦の収穫シーズンを表しています。それなのに、何故小麦を収穫していないのか、というところが「落穂拾い」の着目点であるといわれています。

その理由は、小麦を収穫したあとの落葉拾いをする、という貧しい人々の生活に焦点があたっているからです。

当時、畑を持たないような貧しい農民たちの一部は、大地主の持つ畑での収穫が終わった後、その落葉…いわばゴミを片付けるために、そういった貧困に喘ぐ農民に賃金を支払っていたといわれています。ある意味で、見る人からしたら最下層の人々を描いた、ということで批判されたわけです。

ジャン=フランソワ・ミレーにとっての特別な作品

「落穂拾い」は、四季シリーズの夏に設定されていますが、バルビゾンに引っ越してきたばかりの頃が夏であり、すでにこの「落葉拾い」は描きたい、という構想があったといわれています。

そのため、後の四季シリーズの一部となったものの、実はジャン=フランソワ・ミレーのなかでは、特別独立させた作品として構想されていたわけです。

ジャン=フランソワ・ミレーの「落穂拾い」は、未だ色あせることなく、数多くの人々の心を揺さぶり続けています。ぜひ、その目で彼のさまざまな絵画を鑑賞してみましょう。

農民の美しさを前面に押し出したジャン=フランソワ・ミレー

世界的に知られている、バルビゾン派の画家といえばミレーです。
農民を描いた作品が多く占めるミレーの作品は、非常に写実的で人々の辛い人生を一瞬の惑いも無くキャンパスに投影しているのですが、どこか悲しさよりも美しさが前面に押し出されている、芸術作品として愛されています。
今回、そんなミレーの生み出してきた代表作たちを紹介していきます。

ミレーが描いてきたものたち

まず、ミレーがどのような作品を描いてきたのかを探っていきましょう。ミレーが、裸婦画を初期の頃は多く描いてきました。素晴らしい作品であり、関係者からも大変注目されていましたが、当時は裸婦画のような下品で低級な作品を描くミレーは低能であると言われていたため、ミレーは一切裸婦画を描かなくなっていきました。

その後、ミレーは女神であったり聖母、上流階級の人々などを選んで描き続けることとなります。そして、最終的にミレーが選んだモチーフが畑で働いている労働者や農民といった、バルビゾンの美しい風景へとうつっています。

また、この大地と共存していっている農民たちの生活を宗教的であり、崇拝するべきであるという、そういったイメージで描いていったことで、農耕民族であった日本人の心も射止めます。そのため、世界に二枚しか無いといわれている種をまく人という作品は、ひとつはイギリスにありながらも、あと一つは日本の山梨県立美術館にあるのです。

種をまく人

ミレーの代表作品を語る上で、この絵を知らない人はいないというのが、「種をまく人」です。こちらの作品は、イエスキリストの、「種撒く人」をモチーフとして描かれている作品ですが、落葉拾いの作品とは打って変わり、やや抽象的なタッチで描かれているところがポイントです。

手前に歩きながら無造作に種をまいている農夫が描かれており、どこか顔が険しい印象を与えます。背景部分はやや抽象化されており、それが一層、立体的な印象の仕上がりにさせています。

ボストン美術館にあるこの作品と、山梨県立美術館に所蔵されている種をまく人の作品は、一見ほとんど同じように見えているのですが、実際には絵の具のタッチが違っており、何か意図して違いを出したのではないかといわれています。

全体的にどこかもやがかかっているところなどは、風によって砂埃が舞っているような雰囲気を与え、農民たちの厳しい生活状況をここで伺い知ることができます。

晩鐘

ミレーの作品は、農民たちが貧しく、辛い日々を送っていることへの最大の畏怖の念を抱いた作品であるといわれています。宗教的なイメージもプラスされているミレーの作品ですが、悲しさと合わせて、美しく幻想的なイメージをも与えてくれるところが、ミレーをミレーたらしめているポイントです。その美しさが良く分かる作品が、「晩鐘」という作品です。

当時、農作業をしているものは、鐘が夕暮れに鳴ることをきっかけに一日の作業を終えていました。その鐘が鳴ったからといって、そそくさと帰宅するのではなく、彼らは今日一日この大地で作業できたことを神に祈るために、手を合わせます。

農民たちだりながらも、宗教的な意味合いと信仰心をしっかりと持って働いているということが良く分かる作品です。当時、ミレーがこの絵を書き終えた時には評価が得られませんでした。農民生まれのミレーであったことから、農民たちの生きる姿に誰よりも近く接しており、彼のその思いは死後になってから評価されるようになったのです。

この晩鐘に関しても、ミレーがこの世を去った10年後に認められており、さらには競売にかけられて、非常に高額な価格で落札されたことでも知られています。今後も、ミレーの作品は数多くの人たちから賞讃されると思いますが、金額の高い低いといった価値ではなく、彼が農民であり、その思いが絵画に込められていた…ということだけは忘れてはならないのです。

羊飼いの少女

ミレーの作品には、動物をモチーフとしているいものも存在しています。そして、その絵画の中でも最も多く人たちに知られているのが、「羊飼いの少女」という作品です。

多くの作品は、作業中の農夫であったり農婦を描いた、生活感のある生々しい作品ですが、こちらは柔らかく、どこか牧歌的な雰囲気を放っている作品として人気です。

やはり、ミレー作品のなかでも美しさがずば抜けている夕焼けのシーンを描いており、広大な大地に佇む少女の労が世界から労われているような、美しいシーンが描かれているのです。羊飼いの少女は、サロンでも1等賞を獲得しており、多くの絵画評論家たちから絶賛された作品として知られています。

ミレー:ポーリーヌ・オノの肖像

ミレーは、多くの肖像画を描いていることでも知られています。実は、彼が初入選を果たした時の作品は、自らの肖像画を描いたことであったことも有名な話しです。

「ミレー:ポーリーヌ・オノ」は、数ある肖像のなかでも大変人気があり、有名な作品のひとつとして多くの絵画ファンから愛されています。ミレーは、画家を目指し、その才能が認められて奨学金をもらってパリへと絵画修行へと出てています。その頃、肖像画家として生計を立てていこうと思っていたミレーと出会ったのが、ミレー:ポーリーヌ・オノです。この二人は、次第に惹かれあっていき、結婚することになります。

ミレー:ポーリーヌ・オノの肖像に関しては、当時はモナリザに大変影響を受けていたということからも、ミレーがこのポーズをとらせていたのではといわれています。肖像画に力を入れていた時代のミレーの、貴重な作品のひとつでもあるのです。

ミレーは、神話の登場人物を現実の世界に取り入れた作品を多く描いています。しかし、そのタッチはごく自然であり、神話の登場人物たちが何ら違和感なく、人間世界へと溶け込んでいるように感じさせる独創的な作品となっています。

このミレーの神話の登場人物を使った作品のなかでも、とても心温まる作品のひとつが、「冬」という作品です。

凍え、今にも倒れてしまいそうなキューピットを牧師と思われる人物と娘が抱きかかえ、家の中へと入れようとしている姿が印象的です。しかし、この二人に関しても足元には何も履いておらず、生活の苦しさ、厳しさが伝わってきます。それであっても、手を取り合って助け合うメッセージが詰め込まれた、この絵画に多く人たちの心が動かされたことには、間違いはないでしょう。

馬鈴薯の収穫(部分)

55年のパリ万国博美術展に出品し、評価を得たことで知られているのが、「馬鈴薯の収穫(部分)」という作品です。

馬鈴薯を袋に詰め替えている、農民の姿が描かれているのですが、広大な大地で埃まみれになりながらも、懸命に作業を続けているこの農民の姿が心を打ちます。奥の空は黒く、煙が舞っているような風景となっており、奥では馬鈴薯を引っこ抜いている作業を行っている農民を確認することができます。彼らの生活を支えていた、馬鈴薯という作物を懸命に収穫する姿は、農民であったミレーの心に強く印象が残ったのかもしれません。

ミレーの慈愛の心

ミレーは、神話の登場人物にもフューチャーして作品が描かれていますが、そこには全て真実が裏付けされているような、そういった作品が多く見受けられることが特徴といえます。

ミレーの作品には、人々の「生活」や「生き様」が描かれており、彼自身も絵画を描き続けることによって、そういったモチーフたちから刺激を手に入れてきたと思われます。

今後も、ミレーの作品は世代を超えても語り継がれていく、素晴らしいものになるはずです。名声だけではなく、何故ミレーがこの作品へとたどり着き、どんな思いで描かれたのかを知っていくことも大切なのではないでしょうか。
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