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最高の写実絵画、クロード・モネの「睡蓮」とは?

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印象派の巨匠、クロード・モネ。彼の描く作品は、どこまでも写実的でありながら、美しい光を上手に取り入れ幻想的な世界観を作り出す不思議なものです。そんなクロード・モネが生涯をかけて描き続けたシリーズが、「睡蓮」でしょう。

水面に浮かぶ草、反射する風景、光が差し込む微妙な陰影……。非の打ちどころの無い、完璧なまでの構図に感激した人たちは数知れません。さて、そんなクロード・モネの睡蓮ですが、一体どういった作品なのでしょうか。今回、ここではクロード・モネの描く、「睡蓮」について解説していこうと思います。

クロード・モネが睡蓮を描きはじめた時期

クロード・モネは、印象派のうちのひとりとしてさまざまな作品を描いていました。しかし、モネが魅せられたのはジヴェルニーという街に移住し、その家から見える庭でした。

1883年(明治16年)、このジヴェルニーに転居を決めたクロード・モネは、花が咲き乱れる庭を自ら設計して造り、日々描写に励む日々を送っていたと言われています。

また、光の移り方や鑑賞する角度から全く違う風景を楽しむことができる庭に恋いこがれ、ついには隣の土地を購入してしまいます。そして、そこに水の庭を造り、これが後の「睡蓮」となる庭として語り継がれることとなっていくのです。

クロード・モネの今まで

クロード・モネが、庭をはじめ睡蓮シリーズを描きはじめたのは50歳の頃と言われています。同じ対象を延々と描き続けるという、忍耐力が必要である作業だったことから、大変苦労が多かったのではないか、と推測されています。

しかし、名画「積みわら」に代表されるように、同じ対象をいろいろな角度で描く連作を続けていたことからも、どうやらクロード・モネの画風自体が、こういった同じ対象を別の見方で描くというものだったと思われます。

50歳からこの世を去った86歳まで、なんと睡蓮をモチーフとした作品を200点以上も描いており、ある意味で執念の画家であったとも言えるのではないでしょうか。ちなみに、クロード・モネが所属していた印象派という美術グループですが、この名の由来はクロード・モネの作品であったと言われています。

印象派がグループ展を開催したとき、その評判は散々なものでした。当時、写実的な対象を具現化して描くことは珍しく、多くの美術評論家たちからバカにされていました。

そのなかに、クロード・モネの「印象、日の出」という作品があり、そこから『印象派』というネーミングがふざけてつけられ、今日まで語り継がれているとのことです。もちろん、現在では印象派は現代美術界においては大変重要なグループであり、神とまで崇められている作家が多く在籍していたとして、注目を浴び続けています。

白内障でも描き続けた

クロード・モネの「睡蓮」は、大変素晴らしいものです。ただ、クロード・モネは白内障を患っていたと言われており、72歳以降の作品にはその病であったことが分かる作品が多く生み出されています。

初期の頃の睡蓮を見ると、水面に移る光や草木、そして繊細なタッチの睡蓮の葉が写実的に描かれています。しかし、白内障を患った後の睡蓮に関しては、油絵特有の滲んだ色彩が使用されており、全体的にもやがかかったかのような、ある種、独創的な世界観が表現されているようにも感じられます。

しかし、写実主義を貫く印象派のクロード・モネの作品としては、かなり方向性が違っているものであり、正直言われなければ、モネが手掛けた作品だと分かる人は少ないでしょう。

白内障は、青い波長の光が網膜に入ってきても、青色という信号ではなく、黄色寄りに認識されてしまうのだそうで、結果的に全体がにじみ、黄みがかっているようになっているのです。

色彩を取り戻しても描き続けた

苦しみに耐えたモネは、その後なんと白内障を克服して色彩を取り戻しています。素晴らしい執念ではありますが、そのときは青みと黄味が非常に強く感じ過ぎてしまい、なかなか対象を捉えることができなかった、とされています。

当然、白内障を患っていた頃の作品にモネは不満を覚えており、全て捨て去ってしまおうとすら思っていたと言われています。

しかし、どんな苦境に立たされながらも、自らの芸術を貫き続けていたクロード・モネは、本物の画家と言ってよいでしょう。多くの人々に支えられていたのも、彼の才能があるからに間違いありません。

日本と睡蓮

さて、クロード・モネの描いた「睡蓮」ですが、彼自身が大変日本を愛していたことで知られているため、日本美術に強く影響を受けていると言われています。

実際、ジヴェルニーに駆けた橋は日本の橋をイメージしているものであり、さらに、庭に植えられていた植物ですが、柳をはじめ、竹・桜・藤などが多く、東洋美術を印象づける植物群にも美しさを見出していたことが分かります。

さらに、ユニークなのが日本の高知県北川村にモネの庭を再現した場所がある、ということです。これは、フランス側財団の許可を得て高知県側が造ったものであり、現在でも多くの観光客で賑わっている人気の観光地とされています。

ちなみに、この場所は「北川村モネの庭マルモッタン公園」と呼ばれており、国内外からモネを愛する人々が訪れています。

また、フランス側とはあまり関連がありませんが、岐阜県にある根道神社参道脇にある池が大変素晴らしい、ということで注目が集まり、モネの描いた睡蓮風であるが故に多くの観光客が、「モネの池」とこの場所を呼んで観光地化しているのだそうです。

高額で取引される睡蓮

当然ですが、クロード・モネの「睡蓮」は、人気かつ注目度の高い作品です。そのため、世界中の大富豪たちがこの「睡蓮」を手に入れようと、必死でオークションに通い続けています。

通常、作家の代表作は1点もののため、手に入れることが難しいですが、クロード・モネの描いた「睡蓮」は、前述したように200点を超える数があるために、ほかの名画に比べると手に入れやすいとされています。ただし、量が多い分、その評価にバラつきがあります。

できるだけ、優れた「睡蓮」を手に入れるためには、やはりそれなりの金額を提示する必要があるようで、2014年(平成26年)に落札された「睡蓮」は、手数料込みで、2700万ドルで落札されたと報じられています。およそ、30億円近くの価格ということですが、想像を絶する金額です。

睡蓮は永遠

睡蓮は、ある意味で風景画であり、その季節の移り変わりをクロード・モネの目線で切り取った、想い出のような作品でもあります。この絵画には、クロード・モネの庭に対する愛情が込められており、その作品を見るものは、思い思いにそこから連想されるクロード・モネの姿を投影するしかありません。

ただし、似ているような場所があり観光地化されたり、さらには高知県が許可を貰って庭をつくるなど、世界的にはもちろんのこと、日本にも多大なる影響を与えた作品であることは間違いありません。

クロード・モネの作品は、日本の美術館でも見られる機会が多い作品となっています。モネの作品を鑑賞する前には、彼の人生を知り、そして睡蓮に込めた思いを知ってから鑑賞するとひと味違った楽しみ方ができるのではないでしょうか。ぜひ、この目でクロード・モネが生涯をかけて描き続けた最高傑作「睡蓮」を鑑賞し、彼の庭へとタイムスリップしてみてはいかがでしょうか。

クロード・モネの睡蓮をこの目で見に行こう

クロード・モネの代表作といえば、なんと言っても「睡蓮」でしょう。自宅の庭の池を模写したシンプルな作品ではありますが、描かれる季節・時期・時間帯によって光の当たり具合などを正確に再現しており、その数は数百に上ると言われています。

50歳代でフランスのジベルニーという街に移住してからは、その自宅で数多くの名作を描き続けます。印象派の名前の由来にもなった作品を残すなど、当時から現代にいたるまで、数多くの画家たちに影響力を与えた、クロード・モネ。
今回、ここではモネの睡蓮を取り巻いている、さまざまな環境をご紹介していきます。

モネの家を見に行こう

モネがジベルニーに転居を決めたのが、50歳代の前半。庭に日本風の橋などを増設して、常に自分の理想の庭を追求し続けていたことで知られています。

もちろん、睡蓮はその庭の家を描いているものですが、大変有名になっていることから、その目で本物を一度は見てみたいと思われる方は世界中にいるようです。実は、パリ郊外のノルマンディー地方は観光客が多い場所として知られており、このモネの家と庭園を鑑賞することができるのです。

クロード・モネの功績を長く残しておくために、数多くの人たちが努力をし続け、当時のままの姿で家と庭園が残されているので、まるでその場に訪れるとタイムスリップをしたような、そんな錯覚にもおそわれます。

モネの部屋には浮世絵が沢山!?

クロード・モネは、フランスで活躍した画家です。そのため、当時はまださほど国交がなく、日本という場所がフランス人たちに知られていなかったのではないか、と推測されます。

しかし、クロード・モネは日本の建築や美術に大変興味を持っていたことで知られており、先述したように、日本の庭園を意識した造りになっているということも大変有名です。

さて、そんなモネなのですが、モネの家と庭園(Fondation Claude Monet)では、なんとモネが当時住んでいたままの状態が再現されており、家具なども当時のまま、大切に保存されています。そのモネの家のダイニングルームには、大量の浮世絵があることでも知られており、モネが大変日本に興味を持ち、愛していたことが分かります。

黄色で統一された、可愛らしいダイニングルームに飾られた浮世絵の姿はまさに圧巻。想像を超えるような絵画が敷き詰められている、という状態は一見の価値があるでしょう。フランスに行く予定のある方は、一度は訪れておきたい、ファンならずとも必見の観光地です。

パリからもラクラク

アクセスさて、モネの魅力を直接的に楽しむことができる、ジベルニーにあるモネの家と庭園 。睡蓮の庭もしっかりと残されていることからも、写真を撮って自宅で模写に挑戦してもよいくらい、貴重な場所です。

そんなリアル睡蓮を見ることができる、モネの家と庭園。田舎町ですので、大変アクセスが悪いかと言うとそうでもありません。パリに到着した後、パリ・サンラザール駅から国鉄SNCF TER線Rouen Rive Droiteへ乗り込み、ウェルノン駅で下車すればOKです。

ちなみに所要時間は1時間程度を見込んでおり、価格は21ユーロ程度なので、日本円で2500円前後と考えておけばよいでしょう。さて、ウェルノン駅で下車した後はバスに乗り換えてジベルニーへと向かいましょう。

ウェルノン駅の手前にはバスの停留所があるので、迷わずにスムーズにバスに乗り込むことができるはずです。バスは15分毎に発着しており、始発ですので迷ってしまうことはありません。運賃は4ユーロで所用時間はおよそ10分程度。スムーズにいけば、1時間30分以内にはパリからモネの家へとアクセスすることができます。

もちろん、パリから車でアクセスも可能ですし、駐車場も無料で用意されているので安心です。はじめてフランスへと行かれる方は、ツアーなども用意されているので、ぜひそちらを利用してみてはいかがでしょうか。

日本国内でもモネが見られる

モネの名作が次々に生まれた、非常に貴重な家が現存しているのですから、モネファンとして、一度は訪れてみたいところです。

しかし、なかなか時間を取ることができなかったり、諸処の事情でフランスのジベルニーまで向かうことができない、という方も少なくはないはずです。何度もお伝えしている通り、クロード・モネは日本の美術に大変興味をよせていたことから、日本らしい庭を造っていました。

つまり、日本にはクロード・モネの睡蓮に非常に似ている場所がいくつか存在している、ということなのです。実際、睡蓮にそっくりと言われており、国内外から観光客が多数訪れている場所があるので、ここで少し紹介していきたいと思います。

日本の各地に広がる睡蓮

まず、常に話題となって多くの観光客が訪れている場所に、岐阜県関市にある根道神社近くの池が、“日本の睡蓮”として高く評価をされています。

当然ながら、モネの睡蓮は個人の自宅ですので、こちらの方がずっと大きいのですが、湧き水から造られた、非常に透明感の高い美しい水質に多くの方が魅了されています。そこには、睡蓮の花はもちろんですが、鯉なども優雅に泳ぐ姿がキャッチできるので、とても叙情的な雰囲気を楽しむことが可能なのです。

ほかにもあるモネの睡蓮

岐阜県にあるモネの池がもっとも日本で有名な池として知られていますが、ほかにも多くのモネの睡蓮を彷彿とさせる場所が日本には多く存在しています。

高知県安芸郡にある睡蓮の池は、奥に日本風のあの橋がしっかりと架かっており、その周囲を木々が覆い尽くすように咲き乱れています。池には多くの睡蓮がバランスよく配置されており、地中海風のどこか不思議な雰囲気を醸した場所として知られています。

さらに、季節によっては大変色彩豊かな表情を見せる場所となっていることからも、大変注目度が高い観光スポットとして人気です。また、モネの睡蓮は彼の自宅の庭ですので、そのアトリエにも注目が集まります。

本家本物のジベルニーの自宅は、可愛らしい建築のアトリエにビッシリと蔦が生えたムードのある雰囲気となっており、多くの人たちの心をとらえています。実は、日本の静岡県にある浜名湖ガーデンパークにある場所にモネのアトリエそっくりの建物が用意されています。

浜名湖で開催された花博というイベントのために造られたものであり、「花の庭」と「水の庭」という2つのコンセプトで仕上げられたことで知られています。ただし、モネ財団と正式契約しているわけではないために、“モネ”の名を使うことはできません。

ただ、大変クオリティが高いことでも知られており、海外からの観光客もこの館を見るために来日するほどだそうです。その他、京都にあるガーデンミュージアム比叡や、徳島県の大塚国際美術館など、日本全国のいたるところでモネに関連した建造物、庭を楽しむことができるのです。

本物の睡蓮を見られる

睡蓮は、非常に貴重な作品として世界的に有名です。そのため、なかなか実物を目にできる機会が無い、ということが実情でしょう。

ただし、「睡蓮」に関しては数百点という数を描いていることから、日本の美術館に多く所蔵されており、普段いつでもモネの睡蓮を楽しむことができるのです。神奈川県のポーラ美術館では、光が入るように設計されていることから、自然の中に佇む睡蓮を観賞することが可能です。

さらに、岡山県倉敷市美観地区にある美術館内でも、モネの睡蓮を見ることができます。また、香川県にある地中美術館に関しては、モネの描いた睡蓮の非常に大きなサイズの絵画が飾ってあることで知られています。

まるで、睡蓮の世界に飛び込んでしまったかのような、独創的な世界観が表現されていることからも、睡蓮ファンであればこのインスタレーションを一度は体感しておくべき、素晴らしい美術館です。

また、都心から近い場所といえば、近年世界文化遺産にも登録された、東京都上野の国立西洋美術館がおすすめです。モネの睡蓮がシンプルに所蔵されているので、一度は見てみたい作品として知られています。

そのほか、京都にあるアサヒビール大山崎山荘美術館や、福岡県の北九州市立美術館、群馬県の群馬県立近代美術館でも見ることが可能です。フランスや世界の有名美術館にはなかなか行けない、という方であれば、ぜひこれら日本の美術館でモネの世界観に浸ってみてはいかがでしょうか。

モネの見ていた世界を楽しむ

モネの睡蓮の楽しさは、その季節やモネの年齢など、彼が見ていた風景を、年代を追って楽しめるところです。作品数が多いということは、その時々のジベルニーの風景がそのまま映し出されている、ということです。モネが見ていた美しい夢の世界へと自らを投影しながら楽しんでみてください。

クロード・モネが生み出した代表作たち

印象派の大家として、多くの人々に愛され続けている画家がクロード・モネです。パリで生まれ、その後さまざまな人生の困難を乗り越えながら、印象派の大家として大きな成功を成し遂げた人物です。

フランスのセーヌ川沿いのジヴェルニーで晩年を過ごし、自宅の庭の池にこだわり続け、その場所を描き続けたことで有名です。そのため、モネの代表作といえば、『睡蓮』が最も有名なのではないでしょうか。

まさにく、モネの代表作である睡蓮ですが、他にもすばらしい代表作がいくつもあります。ここでは、モネが遺したすばらしい作品のいくつかを紹介してきます。

睡蓮

まず、さまざまな作品を確認する前に、代表的な作品である睡蓮についてを確認していきましょう。モネが生み出した睡蓮という作品は、彼の特徴的である色と光、奥行きの技術力の高さがもっともわかりやすい作品として知られています。

モネが睡蓮に魅せられていたことは有名な話しですが、先にお話ししたように、生涯で200点以上の睡蓮を描いていることも分かっており、庭の睡蓮の家には日本風の橋が架けられていたことも有名であり、モネの睡蓮という作品のいくつかには、この橋を見ることもできます。

そして、初期の頃の作品から後期へと進んでいくと、その睡蓮の絵の対象は水面だけへと移っていきます。最後に描かれてたオランジェリー美術館では、自然光でこの作品を見てほしいというモネの願いから、まさにモネの自宅の庭に正体されたような雰囲気で絵を楽しむことができます。

独特な筆遣いと印象派ならではの油彩のタッチ、荒々しさではなく、比較的柔らかさと優しさを感じることができる表情。まさに、睡蓮という作品は、モネそのものを写しているといっても過言ではない大作でしょう。

パラソルをさす女

モネは、風景画を多く描いているのですが、人物画も多く描いています。草原や花畑にたたずむ、美しく清楚な女性の絵はモネの優しい心を通じて、そのまま絵画として生まれているような印象を与えます。

パラソルをさす女は、白いワンピースが、下に敷き詰められた花を反射したかのような絶妙な色使いと描写で描かれています。写実的でありながらも、油絵特有の印象は残っており、まさに名作と言える作品です。

ただし、当時は、白は白であり別の色を投影させる技法は否定されていました。モネが常に自然と対峙しているような作品を造り続けてたことが、このパラソルをさす女を見ることで理解できるのではないでしょうか。

陽を浴びるポプラ並木

モネの作品は、美しい色使いやあたたかみ、優しさだけでなく、香りを感じられることが特徴です。当然ながら、本当に絵の具以外の香りがするわけではないのですが、その風景画からその場所や季節の香りを感じられるような、のどかな印象を受けることができます。

睡蓮に力を入れていたモネですが、太陽の光にも心を惹かれており、生み出される絵は太陽光の当たり方にとても力が入れられています。

陽を浴びるポプラ並木という作品は、ジヴェルニーの近くの川岸にあったものであり、太陽光と反射する川面、それに照らされるポプラの木の存在に、強くモネは心を惹かれたと言われています。

初夏を思わせる、爽やかで清々しい、ポプラの並木道からは心地よい風と夏の香りを感じることができるのではないでしょうか。やわらかなタッチで描かれている、素朴でありながらこだわりと純粋さを感じさせる、美しい作品です。

黄昏、ヴェネツィア

モネは、数多くの苦難を乗り越えながら、自らの芸術と向き合ってきた人物です。しかし、生活が苦しいからといって、決して絵画制作に手を抜くことはなく、一方でヨーロッパ旅行などをして、創作活動を幅広い場所で行っていたことでも知られています。

そんなモネの最後の大旅行となったとして知られている、ヴェネチア旅行中に描かれた作品が、美術評論家のなかでは最高傑作ではないかと、大変高い評価をうけています。

ベルネームジューヌ画廊にて、旅行時に描かれた作品が29点展示されましたが、そのなかでもモネらしい作品と言えば、黄昏、ヴェネツィアという作品です。

夕日が沈むヴィネチアの生みと、島を描いたシンプルな作品でありながらも、モネが持ち合わせている技術と、自然への思い、見たそのままを騙しなしで表現できる純粋さが痛いほど伝わってくる美しい作品です。一度見たら忘れられない、まさに至高の一枚といっても過言ではないのではないでしょうか。

ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池

前述しましたが、モネのジヴェルニーの自宅には、日本風の橋が掛かっていました。そのため、睡蓮シリーズの初期の作品には、ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池という作品があります。

やや、暗めでしっかりと輪郭がはっきりとした、骨格のある印象の仕上がりとなっています。美しさはもちろん、光の使い方や、絵画でありながらも時間が流れているような、そういった儚さとリアリズムを感じさせる作品です。

ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池も、モネの作品のなかでは外すことができない1枚でしょう。

クロード・モネの人生について

世界的に有名な西洋画家のひとりと言えば、クロード・モネです。
フランス生まれの印象派の画家であり、名作を多くの残した偉人のひとりでもあります。モネの絵は、時間を表現する絵として知られており、「睡蓮」はモネの遺した作品のなかでは最も知られている名作です。モネは、風景画も多く描いていることから、そのモネの絵の舞台となったと言われるような場所へと訪れる絵画ファンも多く、芸術界だけでなく観光業界にも影響を与えます。
ここでは、世界的印象画家であるモネの人生についてを紹介します。

モネの幼少期、パリへの挑戦

モネが生まれたのは1840年(天保11年)。パリで生まれ、その後はノルマンディー地方で過ごしたことが分かっています。
幼少の頃よろ絵画を得意としており、その絵を販売することができるほどの腕前であったと言われています。
その後、風景画家であるブータンとの出会いがモネを変化させます。
モネは、風景画の美しさに心を惹かれ油絵制作をブータンに教えられることになります。
少しづつ実力をつけ続けたモネは、1859年(安政6年)についにパリへと向かい、パリで画家として生活をすることを決心するのです。

サロンへの入選と苦悩

絵画の世界は、どれほどすばらしい技術を備えていても、一度でもサロンなどで入賞しないと認められることはありません。モネは、その実力を遺憾なく発揮することで、若くしてサロンへの入賞が認められます。この入選をきっかけにして、モネはプロの画家として生活をスタートさせることとなりました。

戸外制作と筆触分割の手法を取り入れた絵画を多く描いて行きますが、なかなか入選に至ることがありませんでした。この頃のモネは、自らの絵画が認められず、苦しい日々を過ごします。非常に貧しい生活を強いられていたこの時代、モネはカミーユという美しい女性と恋に落ちます。

カミーユとの愛が深まった結果、子どもができます。当時、戸外制作と筆触分割の手法が認められることがなく、貧困生活を送ってきたモネに、子どもを養う能力は一切ありませんでした。悩みに悩んだモネは、セーヌ川に身を投じ、命を絶とうとしました。

しかし、さまざまな未練を遺したままで死にきることができないモネ。貧困でありながらも、自分たちに見合った生活を続けようと、細々と絵を描きながら家族を支えていったのです。

印象派の誕生

父親からの支援も途絶え、ますます苦しい状況となっていたモネ。普仏戦争がはじまったことで、モネはロンドンへ逃亡します。ロンドン時代、パトロンとしてモネを支えてくれる画商デュランリュエルと出会い、モネは生活を立て直すこととなります。

戦争が終わったのち、パリに戻ったモネはセーヌ川などを描き勢力的に活動を続けました。その後、モネと絵描き仲間たちが、1874年(明治7年)に独立した展覧会を開催します。展覧会のタイトルを「印象 日の出」としており、これが結果的に印象派の第1回の展覧会として語り継がれています。

今となれば、モネの第1回の展覧会といえば、大きな話題となるような事柄ですが、当時はまだ印象派は世間に受け入れられることなく、大きな批判を浴びてしまうことになります。

しかし、モネの才能に気付きはじめるものも多く現れており、エルネスト・オシュデという人物がパトロンとしてモネをかくまいます。2、3回と展覧会を続けることで、印象派に注目も集まり、活躍の場が広まっていきました。

モネの転機

当時、パトロンであったエルネスト・オシュデの自宅で同居生活を送っていたモネとカミーユですが、1879年(明治12年)に最愛の妻であるカミーユを亡くしてしまいます。さらに、エルネスト・オシュデの経営していたデパートが負債を抱えて倒産。

エルネスト・オシュデは、妻と子ども、そしてモネを置き去りにして夜逃げしてしまいます。モネ自身の子どもだけでなく、エルネスト・オシュデの子どもの面倒もモネが見ることとなり、結果的にまた貧困に苦しむ生活が強いられます。

さらに、印象派の展覧会を続けていくなかで、モネとルノワール、ドガは方向性の違いなどにより対立。結果的に、印象派展は8回を最後に開催されることはなくなり、モネは自力で絵描きとして活動をしていくこととなってしまったのです。人生の最大の転機を迎えたモネは、新たな方法で自分の才能を開かせて行きます。

大家としての名声

仲間たちとの別れ、妻との別れ、パトロンとの別れ……。さまざまな苦難を乗り越えるために、モネは住まいをセーヌ川沿いのジヴェルニーへと移します。経済的に苦しくなっても、勢力的な活動を続けていたモネは、ヨーロッパ中を放浪して作品を生み出し続けます。

モネの個性的で、心を和ませる絵画は一部の人間たちの琴線に触れ、徐々にではありますが名声が高まりはじめます。そして、デュランリュエルが印象派の展覧会をニューヨークで開催すると、モネの名声は瞬く間に上がります。

経済的にも、安定した生活を送れるようになったモネは、積みわらやポプラ並木といった、代表作となる連作をこの頃から描きはじめます。印象派の大家として名を挙げていったモネは、アリスという女性を第二の妻として迎え、より自らが納得する作品づくりへと没頭し続けたのです。

睡蓮を生み出したモネ

モネの作品のなかで、もっとも有名な作品といえば睡蓮であることに異論はないでしょう。1890年代に、モネは自宅の睡蓮の池のある水の庭を整えていました。庭の風景を描き続けていくなかで、最終的にモネは睡蓮の池をメインに描くようになっていきます。

連作としてさまざまな睡蓮を描いてきたモネですが、ヴェネツィア旅行へと最後に出掛けており、ここでもすばらしい作品をいくつも遺すこととなりました。晩年のモネは、友人たちの死去であったり、自らの体の衰えと戦いながら睡蓮を仕上げて行きます。

なんと、最終的には白内障まで患ってしまうモネですが、「睡蓮」大装飾画の製作に没頭し続けていきます。

そして86歳のときに、モネはこの「睡蓮」大装飾画を最後に息を引き取ります。作品は、オランジェリー美術館に収められており、今でも多くの美術ファンや観光客から愛される存在として生き続けています。

睡蓮に掛けた思い

貧しい生活を送り続け、苦労を重ねて来たモネ。印象派の大家としてその名声を手に入れながらも、結果的に彼の心を動かしたのは、贅沢な暮らしや毎晩のように開催されている晩餐会ではありませんでした。

それこそが芸術作品と呼ばれている、モネのジヴェルニーの庭にある、睡蓮の池の風景でした。第一作目を描いた後に、大改修工事が行われており、全てが完璧といわれる状況にまで仕上げます。

モネは、晩年の頃にジェフロワに向けて、水面とそこに映る影の美しさに魅せられてしまった。自分のような老いぼれの能力を遥かに越えた仕事であり、何枚も描き潰し続けているという、そういった内容の手紙を送っています。

水面に映し出される、自然のもたらす美しい風景がモネの心をしっかりとつかみ、そして豊にしてくれていたことが、この手紙を見ることで分かります。

しかし、1950年代前にはフォーヴィスム、キュビスムなどが生まれ、印象派は注目されませんでした。1950年(昭和25年)以降の抽象表現主義の画家や批評家などによって、モネの名が多く出されるようになり、モネが再評価されました。モネは、印象派にとって大切な人物であり、その世界観に誰よりも魅せられていた人生を送っていたのです。
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