古事記編纂の重要人物「稗田阿礼」を知っていますか?
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特別歴史好きではなくても「古事記」という書物の存在を知っている人は多いのではないでしょうか。
古事記は日本で最古の歴史書と言われ、日本を作った神々がやがて天皇への系譜と繋がっていくストーリーが描かれています。その中には、私たちが子どもの頃出会った「因幡の白うさぎ」や「海さち山さち」「ヤマタノオロチ」などの昔ばなしの元となる物語もあります。
今回は、そんな「古事記」の編纂に携わった[稗田阿礼(ヒエダノアレ)]という人物についてご紹介します。
古事記は日本で最古の歴史書と言われ、日本を作った神々がやがて天皇への系譜と繋がっていくストーリーが描かれています。その中には、私たちが子どもの頃出会った「因幡の白うさぎ」や「海さち山さち」「ヤマタノオロチ」などの昔ばなしの元となる物語もあります。
今回は、そんな「古事記」の編纂に携わった[稗田阿礼(ヒエダノアレ)]という人物についてご紹介します。
古事記が作られた背景
古事記の編纂がスタートしたのは、壬申の乱で勝利した天武天皇の時代です。年表的には天武天皇が在位した673年~686年の間に、公的ではなく私的に近い形で編纂がスタートされました。もちろん、私的といっても天皇の私的ですから勅撰とも言えますね。
なお、681年に、公的に編纂の始まった歴史書が「日本書紀」です。
天武天皇が、こうした日本の歴史書が必要だと考えた背景には、当時のアジア情勢がありました。熾烈な戦いに勝ち抜き中国大陸を統治した唐には、「律令」という政治的統治システムがありました。そんな中国に拮抗しうる国力を持つことが、当時の日本の早急な目標となっていきます。すなわち日本も「律令国家」となることが目指されたのです。天武天皇は天皇を中心として国家が政治的財政的に集結している「中央集権」の実現に向けて、これまで地方自治の集合体という形を取っていた政治システムを変革していきます。大きかった個々の豪族の力を抑え、あるいは上手に取り込み、天皇自ら政治を指揮していく・・・しかしそれには、天皇統治の正当性が必要となってきます。古事記は「日本を生んだ神々の子孫が天皇である」とするために創り上げられた壮大な物語だったのです。
なお、681年に、公的に編纂の始まった歴史書が「日本書紀」です。
天武天皇が、こうした日本の歴史書が必要だと考えた背景には、当時のアジア情勢がありました。熾烈な戦いに勝ち抜き中国大陸を統治した唐には、「律令」という政治的統治システムがありました。そんな中国に拮抗しうる国力を持つことが、当時の日本の早急な目標となっていきます。すなわち日本も「律令国家」となることが目指されたのです。天武天皇は天皇を中心として国家が政治的財政的に集結している「中央集権」の実現に向けて、これまで地方自治の集合体という形を取っていた政治システムを変革していきます。大きかった個々の豪族の力を抑え、あるいは上手に取り込み、天皇自ら政治を指揮していく・・・しかしそれには、天皇統治の正当性が必要となってきます。古事記は「日本を生んだ神々の子孫が天皇である」とするために創り上げられた壮大な物語だったのです。
古事記編纂に稗田阿礼が果たした役割
古事記の序文にはこうあります。
『 時に舎人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聡明にして、目に度れば、口に誦し、耳に拂るれば心に勒す。すなわち阿禮に勅語して、帝皇の日継及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。~その頃、28歳の稗田阿礼という舎人がいました。たいへんに頭がよく一度見たものは記憶し、一度耳にしたことは心にとどめて忘れません。そこで天皇は阿禮に「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習せよとお命じになりました・・・ 』
古事記、と検索すると、天武天皇の命で稗田阿礼が「帝皇日継」と「先代旧辞」誦習し、「太安万侶」が書き写し編纂した歴史書、とあります。当時、ひらがなやかたかなはまだできあがっていないので、「帝皇日継」と「先代旧辞」は全部漢字で書かれていたことでしょう。実際に「日本書紀」は中国やほかの外国に向けて書かれているのですべて漢文です。しかし、一方の古事記は漢字を使ってはいるものの、その時日本で話されていた言葉をそのまま漢字の表記にした、日本国内に向けたものといわれています。「そこが何より大変だった」と、古事記の序文は続いています。
まずは漢文の「帝皇日継」と「先代旧辞」を覚え、それを声に出して普段の言葉に直す作業を稗田阿礼は担いました。そして、それを漢字の音や訓に当てはめて書いていく作業を太安万侶が担っていたのです。
漢文を読み解き、訳し、話し言葉にするのは、図ぐれた言語能力も必要だし、さらにものすごく時間のかかる作業だったことでしょう。実際、こうして編纂がスタートした古事記が日の目を見るのは、天武天皇も亡くなってだいぶ経つ、712年のことでした。
『 時に舎人、有り。姓は稗田、名は阿禮。年はこれ廿八。人と爲り聡明にして、目に度れば、口に誦し、耳に拂るれば心に勒す。すなわち阿禮に勅語して、帝皇の日継及び、先代の旧辞を誦に習はしめたまひき。~その頃、28歳の稗田阿礼という舎人がいました。たいへんに頭がよく一度見たものは記憶し、一度耳にしたことは心にとどめて忘れません。そこで天皇は阿禮に「帝皇日継」と「先代旧辞」を誦習せよとお命じになりました・・・ 』
古事記、と検索すると、天武天皇の命で稗田阿礼が「帝皇日継」と「先代旧辞」誦習し、「太安万侶」が書き写し編纂した歴史書、とあります。当時、ひらがなやかたかなはまだできあがっていないので、「帝皇日継」と「先代旧辞」は全部漢字で書かれていたことでしょう。実際に「日本書紀」は中国やほかの外国に向けて書かれているのですべて漢文です。しかし、一方の古事記は漢字を使ってはいるものの、その時日本で話されていた言葉をそのまま漢字の表記にした、日本国内に向けたものといわれています。「そこが何より大変だった」と、古事記の序文は続いています。
まずは漢文の「帝皇日継」と「先代旧辞」を覚え、それを声に出して普段の言葉に直す作業を稗田阿礼は担いました。そして、それを漢字の音や訓に当てはめて書いていく作業を太安万侶が担っていたのです。
漢文を読み解き、訳し、話し言葉にするのは、図ぐれた言語能力も必要だし、さらにものすごく時間のかかる作業だったことでしょう。実際、こうして編纂がスタートした古事記が日の目を見るのは、天武天皇も亡くなってだいぶ経つ、712年のことでした。
稗田阿礼って男性?女性?いまだ謎の人物
そんな稗田阿礼ですが、実は女性?それとも男性か?で議論が分かれています。古事記意外に稗田阿礼に関する記述はなく、そもそもほんとにいたの?なんて思う学者さんもいるそうです。
序文にもある舎人(とねり)という役職は男性が付きました。だから当然稗田阿礼は男性であるという説。
一方で、稗田氏、というのは巫女や伝承を語る女性をして天皇に使えていた「猿女君」の一族出身ですので、女性である、という説も根強くあります。
稗田阿礼はまだまだ、研究が待たれる人物なのです。
序文にもある舎人(とねり)という役職は男性が付きました。だから当然稗田阿礼は男性であるという説。
一方で、稗田氏、というのは巫女や伝承を語る女性をして天皇に使えていた「猿女君」の一族出身ですので、女性である、という説も根強くあります。
稗田阿礼はまだまだ、研究が待たれる人物なのです。
神話の世界からリアル歴史へ
国を生んだり神様を生んだり、神様が大活躍な古代から、当時自分たちが生活していたリアルへの、スムーズな移行を叶えたのが古事記です。
神様から自分たちまでつながっている系譜を見せることで、「この国を作った神様の子孫である天皇家が、この国を治めていくのは当然である」という大義名分を与えるのが天武天皇の思惑でした。また、面白いと思うのは、科学の発展していない当時の日本では、不思議な自然現象は疑問や恐れの対象でした。それを神々の身に起こったさまざまな事象を通して説明しているところです。たとえば、太陽が隠れていく日食。それを神話では太陽の神様(天照大神)が怒って岩の中に閉じこもってしまったから・・・といったように。
史実としての資料としてはさておき、古事記は読み物としても、とても面白く読めます。現代まで読み継がれているのには、理由があるのですね。
神様から自分たちまでつながっている系譜を見せることで、「この国を作った神様の子孫である天皇家が、この国を治めていくのは当然である」という大義名分を与えるのが天武天皇の思惑でした。また、面白いと思うのは、科学の発展していない当時の日本では、不思議な自然現象は疑問や恐れの対象でした。それを神々の身に起こったさまざまな事象を通して説明しているところです。たとえば、太陽が隠れていく日食。それを神話では太陽の神様(天照大神)が怒って岩の中に閉じこもってしまったから・・・といったように。
史実としての資料としてはさておき、古事記は読み物としても、とても面白く読めます。現代まで読み継がれているのには、理由があるのですね。