日本史

大王から天皇へと時代を進めた「強い天皇」天武天皇の偉業の数々

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飛鳥時代に活躍した、第40代天皇である天武天皇。天智、天武、文武・・・その時代の天皇は名前が似ていて区別がつきにくい!なんていう話も聞きます。

天武天皇の名前は曖昧でも「壬申の乱」といえば古代日本史の重大な事件として覚えている人も多いと思います。壬申の乱の勝者である天武天皇は、黎明期の日本において高い理想を掲げ、さまざまな政策を実施した、まさに「強い天皇」と呼ぶにふさわしい人物です。

今回はそんな天武天皇が在位中に行ったさまざまな業績をご紹介していきます。

天智から天武へ。受け継がれた律令国家という目標

まずは壬申の乱をおさらいしてみましょう。
乙巳の変で蘇我氏を滅ぼし大化の改新を断行した中大兄皇子は、のちに天智天皇となります。天武天皇は、そんな天智天皇の弟で、天皇の位につくまでは大海人皇子と呼ばれていました。次期天皇と目されていた大海人皇子でしたが、兄である天智天皇は息子の大友の皇子に位を譲りたいと思っていたようで、それを汲んだ(あるいは兄に懇願されたのか)大海人皇子は吉野に移り、跡目争いには関せず、の態度を取っていました。にもかかわらず天智天皇亡き後、皇位をめぐって大海人皇子VS大友皇子の戦いが始まってしまいます。この、672年に起こった、叔父と甥の戦いがいわゆる「壬申の乱」です。

挙兵した大友皇子を迎え撃つべく、吉野で挙兵した大海人皇子は、吉野から東国へそして伊賀、伊勢を経て、美濃にたどり着きました。美濃を本拠地と定めた大海人皇子の元に集まったのは、天智天皇の政治に不満を持つ多くの地方豪族たち。

一方の大友の皇子は、近江大津宮にあり、西国の豪族たちに召集を求めました。しかし、父であった天智天皇の政策に不満を持つ西国の豪族たちは、招集に応じません。また663年滅亡した百済救済のために朝鮮半島に兵を派遣し、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した「白村江の戦い」により大友の兵は疲弊していました。

大海人皇子の大軍に攻められた近江大津宮は陥落、結果的に「壬申の乱」は大友皇子の自害で幕を閉じました。

こうして天智天皇の跡を継ぎ、天皇の位についた大海人皇子は天武天皇となりました。

天智天皇が掲げていたのは、倭国を「律令国家」にするという目標です。律令とは、法律のことで「律」は刑法「令」とは行政法や民事法などを指します。諸外国と対等に渡り合える国にするためには、律令が行き届いた国家統一システムを作る必要があったからです。

壬申の乱の結果として、天智天皇の築いた近江大津宮は無くなってしまいましたが、「律令国家を目指す」という目標はそのまま天武天皇に引き継がれました。

天皇一人に権力が集中!「皇親政治」というシステム

天武天皇が行った政治形態は、天皇自らが中心となって政務を執り、大臣を置く代わりに天皇の下には皇族を配置する「皇親政治」と呼ばれるものです。
天武天皇は「政(まつりごと)の要は軍事なり」としました。天皇の絶大な権力を使って組織的な国家システムを作り、その中に皇族や諸豪族を再編成、配置していくことを目指したのです。

初めての「天皇」

天武天皇はこれまで大王と呼ばれていたポジション名を改め、初めて「天皇」という称号を使いました。また、「倭国」と呼ばれていた当時の日本において初めて「日本」という表記を使用したのも天武天皇です。天武天皇は、「これまでと違う日本作り」「自分から始まる新たな皇統」を強く意識した政策と次々と行っていきます。

天武天皇が在位中に行ったこと

[八色の姓の制定]
天武天皇は身分制度である姓(かばね)を姓編成しました。上級貴族の母体として「真人(まひと)」「朝臣(あそみ)」「宿禰(すくね)」「忌寸(いみき)」、それよりも下の氏族「道師(みちのし)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「稲置(いなぎ)」として制定しました。
八色の姓と書いて「やくさのかばね」と読みます。

[官僚制の形成]
豪族を官吏に登用する時の明確な出身法や、勤務の評価体制と昇進の制度を整えました。

[国史の編纂]
天武天皇の私的な歴史書ともいえる「古事記」と、国家の正史としての歴史書「日本書紀」の編纂を始めました。「古事記」は日本語で書かれており国内にむけて「皇位継承の正当性」を主張するための歴史書と位置づけられており、一方の「日本書紀」は全文漢文で書かれている、外国向けの日本の正史と位置づけられています。

[藤原京の造営]
これまでは王族がそれぞれ生まれ育った「宮」を中心に、成人後も政治を行う本拠地としていました。ほかの王族や豪族たちは、政務に参加するために自分の「宮」からその「宮」まで通わなくてはいけませんでした。
しかし、藤原京以降は、その一つの「宮」で何代もの天皇が政務を行うことになりました。天皇が生活する内裏、会議などを行う朝堂、官人が仕事をする官衙(かんが)や曹司なども「宮」に含まれます。その周りには大小の道路が碁盤の目状に区画を区切った条坊制が取られ、そこには貴族や官人が住み、市場や寺院も作られました。これを「京」と呼び、藤原京以前と区別しています。

[富本銭の鋳造]
貨幣として富本銭(ふほんせん)の鋳造にも着手しています。日本初の流通貨幣と言われる和同開珎よりも古いものですが、この富本銭が実際に流通したかどうかは、いまだはっきりと分かっておらず研究が待たれるとことです。

まとめ

さまざまな新しいことに着手し、天皇自らの力で政治をリードしていった天武天皇ですが、律令国家の成立、古事記や日本書紀といった国史の完成、藤原京の完成などを見ずして、686年、崩御されました。

天武天皇の陵(みささぎ・お墓のこと)は、奈良県の明日香村にある「檜隅大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」であるとされています。「野口王墓古墳」とも呼ばれその権威の大きさを現代にも伝えています。
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