日本史

負け戦から学ぶこともある!高句麗から日本へ伝わったものとは

関連キーワード

皆さんは「高句麗」という国をご存知ですか?
百済(くだら)、新羅(新羅)、高句麗(こうくり)、という3国が朝鮮半島の覇権を争っていたのは4世紀頃。日本では古墳時代のあたりです。
この、高句麗をはじめとした百済や新羅、中国などの東アジアとのかかわりは、日本の黎明期に大きな影響を与えました。
今回はそんな高句麗と日本のかかわりをご紹介していきたいと思います。

当時のアジア情勢と日本のポジション

日本が高句麗とかかわりを持ち始めるのは、日本がまだ「倭国」と呼ばれていた古墳時代のこと。その頃の朝鮮半島は、中国、日本、朝鮮半島の小国らがその土地の利権と資源をめぐって戦いを起こしていました。

中国の北東部から興った高句麗という国は、勢力を拡大しながら朝鮮半島北部にまで支配を広げ、313年、中国の植民地だった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。さらに4世紀後半になると、高句麗は朝鮮半島をさらに南下の進路をとるようになり、同時期に興っていた新羅や百済、加耶(加羅)などを圧迫し始めていました。鉄資源を確保するために、加耶と親交関係の深かった倭国(わこく=日本のヤマト政権)も、当然ながら高句麗との争いに巻き込まれていきます。

高句麗との直接対決!?朝鮮半島で倭国が学んだことは

当時高句麗の都として栄えていた丸都(がんと)、現在の中国吉林省集安市には、高句麗の好太王の大きな石碑があります。その碑文によると、
“百残(百済)新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡り百残を破り新羅を□□し、以て臣民と為す”
とあり、倭国が高句麗と直接戦を交えたことを伝えています。

高句麗はたけだけしい騎馬軍団を持つ軍国主義帝国でした。それまで「馬に乗る」という風習がなかった倭国は、高句麗との戦いで痛いほど騎馬の必要性を感じます。親交関係のあった百済や加耶から技術者を呼び寄せ、馬の育成や馬具などの生産が倭国で始まるきっかけとなったのです。さらに5世紀以降に作られた古墳の中には、これまでになかった馬具が副葬されるようになりました。このことは、倭国に馬の文化が定着していることを示しています。馬は聡明で力も強く、移動手段としてや農耕のため、重いものを運んだり、皮や毛を利用できたりと、人々の生活に必要不可欠な動物となっていったのです。

中国大陸、朝鮮半島からもたらされたもの

この朝鮮半島の戦乱から逃れてきた人々の多くは、海を越え倭国に多く渡ってきました。同時に大陸の多彩な技術や文化が倭国にもたらされたのです。機織りや金属加工技術、焼き物の生産、土木技術などが、その良い例です。倭国は朝鮮半島からの渡来人を積極的に取り入れ、技術組織集団を組織しました。鞍作部(くらつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、陶作部(すえつくりべ)などと呼ばれ、各地に配置されたのです。

また、漢字が導入され文字を使用するようになったのもこの頃といわれています。漢字の音を使って、倭人の言葉や人の名前を表記することができました。さまざまな記録や出納も、史部(ふひとべ)などと呼ばれる渡来人が作成を担っていたようです。

このようにして、倭国には大陸の優れた文化を吸収する土台が作られていきました。
この後も、朝鮮半島からは儒教や仏教、暦や医学、易などがもたらされ、倭国の文化技術のますますの発展がもたらされました。

その後高句麗はどうなったのか

七世紀半ばの朝鮮半島の情勢を見てみましょう。

655年、高句麗と百済が手を結び、新羅を攻めています。新羅は中国統一を成し遂げた唐に援軍を求めます。新羅・唐の連合軍は圧倒的な兵力で百済を攻め滅ぼします。しかし百済の遺臣たちは復興を願い、倭国に滞在していた百済王子豊璋(ほうしょう)の送還と、倭国の援軍を要請してきます。それに応えるべく向かったのは斉明天皇(在位655~661年)のと、乙巳の変・大化の改新で有名な中大兄皇子です。しかし、倭国は大軍を率いるも663年白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いにおいて大敗を喫してしまいました。

百済と結んでいた高句麗は、百済の滅亡によって孤立してしまいます。すでに疲弊していた高句麗でしたがおり悪く内紛が勃発、これをチャンスと見た新羅・唐の連合軍は高句麗の都平壌に侵略を開始します。そしてついに668年、東アジア圏内で強い影響力を誇った高句麗は、ここに滅亡したのでした。

日本にもあった、高句麗の軌跡

埼玉県の日高市に高麗神社があります。日高市は、滅亡した高句麗から逃れてきた、一部の遺民たちが住んだとされている地域。近くには高麗川が流れ、ほかにも国の重要文化財に指定されている高麗家住宅や、高麗家の人々の菩提寺・聖天院など、高句麗の名残を感じさせる建物などがあります。

朝鮮半島からもたらされたさまざまな文化や技術、そして風習。ルーツをたどれば1500年前に高句麗から伝わったものだった!なんて、とてもロマンがあると思いませんか?機会があれば色々探してみるのも楽しいのではないでしょうか。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ