源氏物語のモデルにもなった勧修寺

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京都市山科にある勧修寺。美しい回遊式庭園には、季節を通じて様々な花が訪れる人の目を楽しませてくれます。
門跡寺院として栄えた勧修寺は、源氏物語の舞台となったロマンスや、公家の生活を知る貴重な古文書など、見どころも豊富な寺院です。

門跡寺院として栄えた勧修寺

勧修寺(かじゅうじ)は京都市山科区にある真言宗山階派の大本山。「かんしゅうじ」や「かんじゅじ」と呼ばれることもあります。官寺に準ずる特典を与えられた定額時に指定され、代々法親王が住持を務める門跡寺院として栄えました。皇室や藤原氏と関わりの深い寺院です。

勧修寺が建立された経緯には諸説ありますが、およそ900年(昌泰3)頃に宇治郡司の宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡に作られたことは間違い無いようです。開基については醍醐天皇が母の菩提を弔うためという説や、藤原胤子(いんし)の発願である説などが唱えられています。

母を慕う思いのこもった勧修寺

開基に登場した醍醐天皇と藤原胤子の二人は、実は母と子の関係です。勧修寺の開基には若くして亡くなった母の願いを、息子の醍醐天皇が受け継いで勧修寺を作ったという説もあり、いずれの説をとるにせよ、母を思う息子の気持ちの込められた寺院と言えます。

醍醐天皇は宇多天皇と藤原胤子の間に生まれました。藤原胤子は藤原高藤と宮道弥益の娘の列子との間に生まれた女性です。勧修寺の作られた宮道弥益は、醍醐天皇の曽祖父にあたります。醍醐天皇の祖父母にあたる藤原高藤と列子は、源氏物語を書いた紫式部の祖先。二人のロマンスは今昔物語にも描かれており、源氏物語でも明石の君と光源氏のロマンスの元になったと言われています。また醍醐天皇の弟・敦慶親王は主人公の光源氏のモデルとも言われる人物です。光源氏が母思いの人物だったことからも、兄弟揃って母を慕う優しい事物だったことが伺えます。

勧修寺は醍醐天皇の祖父にあたる、藤原高藤の諡号からつけられた名前。曽祖父の邸宅跡地だったことや、祖父の諡号を名前にしたことなど、醍醐天皇が母思いだっただけではなく、一族の強いつながりすらも感じさせます。

天皇と藤原氏によって迎えた最盛期

勧修寺は創建当時から定額寺に定められ、以来皇室や藤原氏からの援助を受けて大いに栄えました。高藤の系譜につながる一族は、勧修寺流と呼ばれるようになったほどの隆盛でした。

南北朝の頃に寛胤法親王が長吏となって以来、代々法親王が長吏を務める門跡寺院になります。門跡寺院は幕末まで続き、法親王や入道親王が長吏を務めてきました。現在の京都市山科区勧修寺一帯を寺領に持ち、皇室にゆかりの深い寺院として最盛期を迎えます。

寺領は加賀国や三河・備前にまで及びましたが、応仁の乱によって焼失してしまいます。その後も豊臣秀吉によって寺領を削られるなど、次第に衰退の一途を辿りますが、東大寺大仏殿建立の際に、当時の法親王の功績が認められ、霊元天皇や明正天皇の旧殿を伽藍として賜り、再び盛り返していきます。現存する本殿や宸殿・書院などは、この当時に移築されたものです。

美しい池泉回遊式庭園は水鳥の宝庫

勧修寺を訪れて最初に目を奪われるのは、寺院を取り巻く白壁です。門跡寺院の特徴の一つで、春には桜並木とのコントラストが華やかに彩ります。藤原高藤と列子のロマンスの舞台となったというのも、うなずける美しさです。

門をくぐると氷室の池を中心とした池泉回遊式庭園が広がります。周囲の山を借景にした広大な庭園は、睡蓮やカキツバタが花を咲かせる夏になると、大勢の人が訪れる人気のスポットです。

池の中央に設えられた島には、琵琶湖から羽を休めに帰ってくる、水鳥たちのお宿です。愛好家たちの絶好のカメラスポットとしても有名で、夕方になるとカメラを手にした多くに人が訪れます。

水戸光圀公が寄進した勧修寺型灯篭は、少し変わった形をした灯篭。寺の案内にも「見て『通ろう』」と書かれているほど、見逃せない雪見灯篭です。灯篭の脇に生えるハイビャクシンは、樹齢750年と言われる古木。京都庭園で最大の巨木「千年杉」や、京都御所から移植された「臥龍の蝋梅」などとともに、勧修寺の庭園を代表する見どころのひとつです。

古文書が数多く伝わる文庫

勧修寺には平安時代からの古文書が多く伝わっており、その多くが重要文化財に指定されています。特に「勧修寺家文書」と呼ばれる資料群は、文書・記録・典籍・絵画など、約2100点にも及ぶ貴重な資料群です。地図や器物、民俗資料などを含めると5000点とも言われています。

高藤を始祖とする勧修寺家が代々伝えてきた勧修寺家文書は、1000年以上の歴史を持つ公家の活動に関わる資料が、まとまって見られる点に重要性があります。勧修寺家以外にも、著名な公家資料は残っていますが、これほどまでまとまって、しかも比較的良い保存状態のものは珍しく、その点で勧修寺毛文書は群を抜いて優れています。

中心となっている記録類には、「為房卿記」や「永昌記」などの著名な原本も含まれますが、その多くは後世の写本で構成された資料群です。原本ではありませんが、勧修寺家の資料はその写しの質の高いものが多いことから、信ぴょう性の高い資料として評価を得ています。これは勧修寺家の歴代の当主が、代々努力を積み重ねてきた結果生まれた成果なのです。

現存する勧修寺家文書のすべてが、平安時代から残っているのではありません。応仁の乱によって勧修寺家文庫をなしていた資料は、そのほとんどが焼失・散逸してしまいます。戦乱が収まり平和な世の中に戻って、次第に生活が安定してきてから、勧修寺家の当主は失われた文庫の復活に力を注ぎました。各方面から日記や典籍を書写し、自らの関わった朝儀の記録を詳細に記し、在りし日の文庫の姿へと戻して行ったのです。

何代にもわたる勧修寺家当主の努力の結果、現在私たちは勧修寺家文書を通して、当時の彼らの生活を推し量ることができます。高藤と列子のロマンス、醍醐天皇と胤子の母子愛、勧修寺家文書への執心。勧修寺には勧修寺家の人々の、様々な形の愛が詰まった寺院といってもよいのではないでしょうか。
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