日本史

ほめることで人材を活かす武将 加藤清正

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戦国武将・加藤清正の「ほめる力」に一目置いていたのは、松下電器の創業者・松下 幸之助でした。
日本を代表する実業家・発明家である彼は、松下政経塾を立ち上げるなど、日本のリーダーとなるための人材育成論を多くの著書にしたためています。
その著書の一つである『指導者の条件』にて、彼は加藤清正の「ほめる力」ついて、こう語りました。

武士を廃業したかった男を褒めて育てる

「ほめる:指導者はほめるべき時にほめることを惜しんではならない」という章で、松下幸之助は加藤清正のエピソードを紹介しました。

初めて戦場に出る若い侍がいました。ところが初陣で、仲間たちが次々に戦死するのを目の当たりにして怖気づき、すぐに武士を廃業しようと決意したのですが、その終戦後に清正公から直接ほめられ、褒賞までもらってしまいました。合戦のたびにそれは続き、やめたいという気持ちはあったけれど、周りの人々からも「おまえは凄いな」とほめられるようになり、ついにやめることなくここまで来てしまった、と語ったそうです。

その武士の名は飯田覚兵衛といい、後に加藤清正の家老にまで昇進した人物でした。

松下幸之助は、ここに加藤清正のリーダーの資質を見ました。

困難を克服して頑張った部下の心が冷える前に、間髪おかずにほめて育てることができる加藤清正のほめる力と、ひとりひとりの努力や戦いをしっかり分かっているからこそすぐに賞賛が実行できる能力は、指導者の大切な心得のひとつとなのだと指摘しました。

加藤清正のプロフィール

加藤清正は、実母が羽柴秀吉の母・大政所の従姉妹(諸説あり)ということで、秀吉の妻・ねねにとって子どものように育てられた近習のひとりでした。

後に羽柴秀吉は天下人となりましが、武勇に優れ義に厚く、武士が尊敬する武将に成長した加藤清正は、悪く言えば寄せ集めの急ごしらえな軍隊であった羽柴軍の広告塔のひとりとして、「賤ヶ岳の七本槍」を筆頭に多くの煌びやかな異名に飾られてきました。

しかし清正は、秀吉の身内のような存在という恵まれた立場に甘んずることはありませんでした。

戦場での武勇伝が華々しく語り伝えられていますが、彼の本領は行政能力の高さにあるのです。

部下同士の嫉妬をほめる力で収拾

人間同士の心の機微を、農民出身だからこその繊細な洞察力で読み取り、誰もが気分を悪くすることなく上手に操ることができた羽柴秀吉の子飼いの武将だったから、という面もあるでしょうが、清正自身がもともと人の心の動きに繊細だったということが偲ばれるエピソードを、さらにご紹介します。

朝鮮出兵の途中で、なんらかのトラブルに見舞われた清正軍は、撤退を余儀なくされました。

清正はとある武将に撤退を仕切るよう命令をしたのですが、それを目の当たりにした別の武将が、「なぜ自分に命令してくれなかったのか」と悔し泣きをしたそうです。

「自分の方が階級が上なのに、あの者のより能力がないと思われているのか」とショックを受けたその武将に、戦場で武士が嫉妬で泣くな!と怒るわけでもなく、清正公は笑って諭したそうです。
「撤退は難しい作業だから、能力の高いものに任せて当然だが、それはお前の能力が不足している、ということではない。状況を見て、今回の撤退はあの者に任せれば楽だ、ということだ。もし別の機会にお前が適任の撤退シーンがあったら、お前の力をあてにするぞ」
そのような言葉を添えることで、嫉妬で泣いた武将だけではなく、今回の撤退を指揮した武将の面目まで保ったのです。
部下のやる気を引き出す清正公のほめる力、現代の私たちから見ても参考になる素晴らしいものですね。

猿のいたずらすらもほめて、人々の意識を向上させる

加藤清正は、隈本城(後の熊本城)の城主として肥後の統治を任されました。中国大陸とは目と鼻の先、朝鮮との最前線基地であり、かつキリスト教を布教しようとする南蛮船がたびたび訪れる、文化の入り混じった統治しにくいこの地は、洪水なども多く、農民一揆も多発していました。

しかし、清正公が統治することになると、状況は刻一刻と改善していきます。

現在にも遺構が伝わっている清正公の治水・利水事業は、川を良く知る土地の年寄りや川上・川下の住人の話に耳を傾け、賃料が発生する公共事業として成功をおさめました。

優秀な土木技術者であった清正公は、干拓に乗り出すことで、湿地帯を広大な田畑にして領地を増やすことにも成功したのです。

莫大な富を産む南蛮貿易を軌道に乗せるために、田麦を特産品とすることで南蛮貿易の資金源にしました。

多くの銅像が建てられ、平成の世になった今でも熊本の英雄として尊敬される清正公ですが、猿を相手にほめる力を見せた逸話が残っています。

「論語」を勉強していた清正公が席を外した時、ペットの猿が清正公のモノマネをしたのか、朱筆でさらさらと書面に落書きをしたそうです。

しかし清正公は猿を叱りませんでした。
「中国では昔、お坊さんの袈裟を勝手に猿が着込み、座禅のモノマネをしたら、仲間の猿も同じくマネして座禅を組んだ。その座禅を組んだ猿たちは、功徳を積んだということで成仏できたそうだ」
そんな言い伝えを語った後、
「この猿も、論語の勉強っぽいことをしたから、聖賢の道を進む適正がある偉いお猿だ。」
そうほめたそうです。
『論語猿』というこの話は、肥後・本妙時に伝わっています。

まとめ

いかがでしたか?
加藤清正の誰かをほめるエピソードに共通するのは、一方的な精神論でほめていないところではないでしょうか。その人の心の動きを美しいと思ったら、結果はどうであれその想いを救い上げ、ほめるのです。

さらに、ほめている相手を見ている周りの目もしっかり意識に入っているようです。
「このように皆が美しいと認める意識があれば、ほめられる」
というお手本をほめる相手に無意識に担わせることで、周囲の人間も自然に背筋が伸びるのです。
加藤清正のほめる力は、相手の心に素直に響く、素敵な能力ではないでしょうか。
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