日本最初の大師号「慈覚大師」が開いた目黒不動尊

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目黒不動尊として親しまれる泰叡山龍泉寺は、東京都目黒区にある天台宗の寺院です。
開基は日本で最初に大師号を授かった慈覚大師円仁。円仁がまだ15歳の時に開いたと言われています。徳川家光の庇護を受け目黒御殿と呼ばれるほどになった目黒不動尊。散策にはもってこいの静かな寺町にある寺院です。

目黒不動尊として知られる泰叡山龍泉寺

目黒不動尊があるのは東京都目黒区下目黒。JRや東急目黒線の「目黒」駅からも徒歩20分と歩けない距離ではありませんが、ひとつ隣の駅の東急目黒線「不動前」駅からのが、徒歩12分と近くなります。正式名称は「泰叡山龍泉寺」と称し、天台宗の寺院です。ご本尊は不動明王。808年(大同3)に円仁が開いたと伝えられています。

開祖はのちに慈覚大師と呼ばれる円仁

円仁は下野国で生まれました。両親を9歳で亡くし、都賀郡にある大慈寺の広智の弟子となります。15歳の時に、師の広智とともに京都の比叡山へ入り、最澄に師事することになりました。その後は比叡山で修行を続け、838年に仏教を学びに唐へ渡り、日本へ帰国したのは10年後の849年でした。円仁は天台宗の隆興に大きな寄与をもたらした人物で、没後は日本最初の「大師号」を授かったことでも知られています。

唐へ留学していた約10年にわたる日記「入唐求法巡礼行記」は、世界史的にも貴重な資料に位置付けられています。非常に几帳面に記録されており、唐代仏教や仏教寺院の経済状態・密教儀式など仏教関連のことだけでなく、遣唐使の実情や日唐関係・唐の社会風俗や国土交通など、幅広い分野の研究にも役立つ資料です。西遊記でおなじみの玄奘が書いた「大唐西域記」やマルコ・ポーロの「東方見聞録」とともに、東アジアの三大旅行記と呼ばれています。

目黒不動尊の開祖は円仁15歳の時

円仁が京都の比叡山へ向かう途中、目黒のあたりで野宿した際に、夢枕に立ったと言われるのが、目黒不動尊のご本尊になった不動明王と言われています。夢枕に立ったのは右手に剣、左手に策を持った憤怒の形相の青黒い尊像。その時には尊像が何かわかりませんでしたが、忘れぬようにその姿を木像にし、その場所に安置して比叡山へと向かいました。これが目黒不動尊の始まりとされ、当時の円仁はまだ15歳という若さでした。

その後、唐へ渡り仏教を勉強している時に、青龍寺の
不動明王の姿を拝覧し、目黒で見た尊像が不動明王であることを知ります。帰国後再び目黒の地を訪れた円仁は、堂宇を整え木像を安置し直し、龍泉寺と称して寺院の体裁を整えました。三代目の天台宗座主となり、天台密教を大成させた円仁を開祖と伝える寺院は、実は関東に非常に多く残っています。そのため、この目黒不動尊の縁起についても、その内容に関しては疑問があり真偽は定かではありません。

家光の鷹狩がきっかけでできた目黒御殿

長い歴史を持つ目黒不動尊ですが、もっとも隆盛を極めたのは江戸時代に入ってから。きっかけは徳川三代将軍の家光の鷹狩です。家光が趣味の鷹狩で行方不明になった鷹を探して、近くにあった目黒不動尊で祈願したところ、すぐに鷹が戻ってきたという説話があり、これがきっかけで家光は深く目黒不動尊に帰依するようなったと言われています。

以来、徳川幕府の庇護を受けるようになった目黒不動尊は、最盛期には50棟を超える伽藍を持つ大寺院となり、その様子から目黒御殿とも呼ばれるようになりました。大きくなった寺院には人が集まるようになり、自然と門前町も栄えていきます。春には筍飯、秋には栗ご飯などの名物も生まれ、現在とは比較にならないほど栄えていたようです。

「目黒の秋刀魚」と目黒不動尊

さんま祭りが有名な目黒ですが、そのきっかけは落語の「目黒の秋刀魚」です。実はこの「目黒の秋刀魚」にも、目黒不動尊が登場しています。「目黒の秋刀魚」の舞台は、百姓の彦四郎が営む爺が茶屋。家来を連れて目黒不動尊へ参詣し、その帰りに秋刀魚の味に魅了された殿様は、徳川家光ではないかと言われています。

実際、家光は趣味の鷹狩で目黒を頻繁に訪れていました。なぜか下目黒の土地を気に入り、目黒不動尊と門前町の造成を強く進めたようです。本来なら庶民の目に触れない将軍ですが、実地検分にも訪れていたようなので、その際に世間知らずな一面が、庶民の目に触れたとも考えられます。なぜ下目黒を気に入ったのかはわかっていませんが、もしかしたら本当に「秋刀魚」を理由にしたのかもしれません。

浴びると病気が治る独鈷の滝

目黒不動尊を興した円仁は、2度目に目黒を訪れた際に、「ここに清水があるべし」と手にした独鈷を投げ、清泉が湧き出したと伝えられています。この清泉が「独鈷の滝」です。この清水を浴びると願いが叶うと言われており、とくに病気の平癒を願って水を浴びる人が多く訪れました。

現在では見られませんが、明治時代ごろまでは「滝浴み」と言い、夏の暑さを和らげるために眺めたり、水遊びをしたりする人々も訪れていたようです。大寺院とはいえ、かなり庶民的な寺院だったことが伺えます。目黒不動尊の周辺は、江戸時代には「郊外」であったためか、明治時代に入ってからも、あまり開発が進まなかった地域で、大正時代に入ったからも、江戸時代の面影を多く残していたようです。

静かな寺町にある目黒不動尊

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