日本史

【蝦夷】という異国。古代朝廷と東北との緊張した関係

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日本が律令国家への道を目指し始めた、飛鳥時代以降、中央集権こそが強い国造りとばかりに、富や権力が都に集中しました。
労働力や税、資源の確保のため、支配領域拡大を目指す朝廷は、東へ、さらに北へと征服の手を伸ばし始めます。
今回は、東北において朝廷の人々から【蝦夷】と呼ばれた人々との関係について、考察していきたいと思います。

東北方面、各地に柵や城が作られる

七世紀半ばころから、東北支配の政策が積極的に進められていました。
645年の乙巳の変(大化の改新)後すぐ、日本海側を北上し各地に「柵」が作られました。
まずは現在の新潟市のあたりに「渟足柵(ぬたりのさく)」、新潟県村上市付近に「磐舟柵(いわふねのさく)」が設けられます。8世紀に入るとさらに進行はすすみ、712年日本海側に出羽城、724年太平洋側に胆沢城が築かれました。
柵や城というのは、異なる存在との境目に作られ、防御や戦闘、地方統治などの砦とするものです。日本は島国ですので、今でこそ外国というと海を渡って行き来するものと、私たちは思っていますが、当時の日本では、同じ国内でも政治の範囲が及ばない地方とは言語が異なり、話し合いをしようにもお互い言っていることが分からないので戦闘に突入!などということがままあったようです。当時の朝廷の人々にとって蝦夷は人種的に異なる、「異国」という認識を持っていたのかもしれません。

8世紀も後半に入り、貴族たちを抑えて政治的改革を推し進めた桓武天皇の治世(在位781~806年)になると東国支配のための役職「征夷大将軍」が設置され、対蝦夷政策はより盛んになっていきます。多くの城柵が築かれ、そこに東国などから集めてきた農民などを移住させ、開拓を進める一方、服従した陸奥や出羽の蝦夷たちを「俘囚(ふしゅう)」と呼び、各地に移住させました。

いつから【蝦夷】は蔑称になった?

ところで、【蝦夷】という言葉を見ると、筆者はまず、蘇我蝦夷(そがのえみし)を思い出します。乙巳の変で中大兄皇子や中臣鎌足らに殺されてしまった蘇我入鹿(いるか)の父親です。蘇我氏と言えば、古墳時代から続いた大豪族。そんな身分ある一族の人が付ける名前だったのでしょうか。

もともとエミシは、毛人(狩猟民族で毛皮でもまとっていたのかもしれません)と表記することもあり、「勇猛果敢な」「勇ましい」といった意味合いを含んでいたと考えられます。
ところが時代が下がり、日本が中国との交流が盛んになってくるにつれ、「中国(漢民族)こそが世界の中心であり、それ以外は服従させるべき低い存在だ」という中華思想も輸入されます。中国は、支配下にある地域以外を「夷」と称し未開発で野蛮な存在であると考えました。
そのため日本でも、独自の言語と自治体制を持ち、朝廷にまつわらない出羽や陸奥の人々を蝦夷と呼んで、支配対象としたのでしょう。
幕末に見られる、日本に干渉するヨーロッパ諸国(夷)を武力で排除しようとする考え「攘夷思想」にも見られるように、「夷」の概念は日本で長く根付いてました。

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)と阿弖流為(あてるい)の話

ここで1つ、蝦夷に纏わる有名なお話を1つご紹介します。
780年(光仁天皇の時代)、服従した蝦夷の一人で郡司を任されていた伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こし、一時的ではありましたが胆沢城を占領するという大きな乱に発展した事件がありました。その乱以降、武力をもって蝦夷を制圧すべく定期的に朝廷の大軍が送り込まれ、抵抗する蝦夷と30年あまりにも及ぶ戦争状態が続きます。そんな中、789年桓武天皇は「紀古佐美(きのこさみ)」と征東大使をし、胆沢地方の蝦夷制圧のために進軍します。ところが、蝦夷のリーダー的存在の阿弖流為(あてるい)と戦うことになり、紀古佐美は大敗を喫します。朝廷軍は戦死者25名、矢での負傷者245名、川でおぼれ死ぬ者1036名、裸で泳いでくるもの1257名という、甚大な損害を出しました。

その後に再編成された朝廷の蝦夷征討軍は周到に準備されたもので、征夷大使・大友弟麻呂(おおとものおとまろ)と、副使・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を中心とした大軍を蝦夷に送り込みました。戦闘の様子は記録が残っていませんが、結果としては、朝廷軍が勝利し、胆沢と志波の蝦夷は討伐されました。

このことは、日本の国史とされる六国史の中の「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記載されていますが、「日本紀略」という平安時代に編まれた歴史書には、阿弖流為降伏のことが書かれています。

それによると。阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)が500人を伴い降伏、二人は坂上田村麻呂と共に平安京へ向かいます。田村麻呂は二人の助命を進めますが、貴族たちは「野生獣心、反復して定まりなし」と反対し、結局二人は処刑されてしまったということです。

近年、この蝦夷や阿弖流為、田村麻呂とのかかわりについて、小説などの創作のテーマとして取り上げる作品が増えてきました。
そのためか平成に入ってから、田村麻呂にゆかりの深い京都の清水寺、牧野公園内の首塚、岩手県の羽黒山などに慰霊碑が建てられ、現代にその存在を伝えてくれています。

京都清水寺の石碑にある、阿弖流為と母礼を「北天の雄」と表した碑文が、胸を打ちます。
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