日本史

もう許してあげてほしい・・・時系列で見るとよく分かる【聖武天皇】の切なすぎる治世

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聖武天皇と言えば、仏教に深く傾倒した天皇として知られています。大きな奈良の大仏様で有名ですね。天皇ではじめて仏弟子となった(=出家した)のも聖武天皇です。 また、度重なる遷都(都を移すこと)を行ったり、墾田永年私財法などの政策も聖武天皇の治世のできごとです。

この聖武天皇、本当にツイていませんでした。彼の生涯を時系列でみてみると、本当に次から次へと災難が降りかかり、最後は出家してしまいます。相当のストレスを溜めていたことでしょう。あとから聖武の治世をふりかえってみると、そのあまりの不幸っぷりに切なくなってしまいます。

今回は、そんな聖武天皇の治世をふりかえってみたいと思います。

藤原氏の蔓に絡まれた天皇【聖武天皇】

乙巳の変で活躍した中臣(藤原)鎌足の次男である藤原不比等は、持統天皇の元で頭角を現します。不比等は天皇家に娘を嫁がせ姻戚関係を作っていくことで、朝廷内での発言権を強め、やがて藤原氏一族は政治を牛耳っていきます。

聖武天皇は、そんな藤原不比等の娘を母とし、また妻とした、まさに藤原氏のための天皇といっても過言ではないでしょう。母の宮子も、妻の光明子も藤原不比等の娘であり、不比等亡き後の朝廷を仕切っていたのが彼女たちの兄ら、藤原四兄弟です。

つる植物の「藤」は、太陽の光を求めほかの木に絡まり上を目指します。つるを伸ばし葉を広げ花を乱れさせ、やがて元の木は太陽光を遮られ枯れてしまうと言われています。

起こったできごとを時系列で並べてみると・・・

それでは、いよいよ、聖武天皇の治世の年表を見てみましょう。流れを把握しやすいように、聖武天皇自身に起こったこと、妻である光明氏に起こったこと、世の中に起こったことも、同時に並べていきます。

701年・・・誕生
707年・・・父の文武天皇崩が崩御。聖武7歳
母の宮子は心を病み今後30年会えなくなる
文武天皇の母(聖武にすれば祖母)が即位し元明天皇となる
714年・・・元服し皇太子になる
この後、光明子・県犬養広刀自の二人と婚姻したと思われる
715年・・・文武天皇の姉(聖武にすれば叔母)が即位し元正天皇となる
717年・・・県犬養広刀自との間に娘、井上内親王が生まれる
718年・・・光明子との間に娘・阿部内親王(のちの孝謙・称徳天皇)が生まれる
723年・・・光明子、興福寺に施薬院と悲田院を設置
724年・・・聖武、24歳で即位
725年・・・平城京のある奈良周辺で大きな地震発生
727年・・・11月、光明子との間に息子・基王(もといおう)生まれる
生後わずか1ヶ月余りで立太子する
728年・・・基王亡くなる
県犬養広刀自との間に息子・安積(あさか)親王生まれる
729年・・・皇位継承をめぐって長屋王の変がおこる
光明子が皇后となり、光明子の兄たち四兄弟の権力が増す
732年・・・近畿地方で大干ばつ
733年・・・近畿のみならず全国各地で水不足による大飢饉
734年・・・4~9月、近畿で大地震が頻発
5月、墾田永年私財法を出す
737年・・・天然痘の大流行。藤原氏四兄弟をはじめ、多くの高官が命を落とす
橘諸兄が政権とり、唐帰りの玄ボウや吉備真備らをブレーンとなる
738年・・・阿部内親王、立太子
740年・・・橘諸兄・玄ボウ・吉備真備らの排除を求め、藤原広嗣の乱がおこる
広嗣の乱は鎮圧されるも聖武は平城京をでる。以降、恭仁京・難波京・紫香楽京と遷都を繰り返す
741年・・・国分寺建立の詔発布。全国に国分寺、国分尼寺の造営が始まる
742年・・・大隈(現・鹿児島)付近で海底噴火がおこる
743年・・・紫香楽宮にて大仏建立の詔を出す
744年・・・肥後(現・熊本)で地震
安積親王、脚気で亡くなる(暗殺されたとも)
745年・・・4月、美濃(現・滋賀)などで大地震
平城京に戻る。大仏建立事業も奈良に移される(完成までに結局10年かかる)
光明皇后、総国分尼寺・法華寺の開基となる(他にも新薬師寺などがある)
749年・・・7月、娘の孝謙天皇に譲位して、出家する
752年・・・奈良、東大寺の大仏(正式名称:盧舎那仏(るしゃなぶつ))開眼供養
754年・・・中国の高僧・鑑真と会う
母・宮子死去
756年・・・崩御

ただ、できごとを羅列しただけなのに、なんだかすごく大変そうなのが分かってもらえたでしょうか。

度重なる遷都はことごとく官民の批判を浴びましたし、墾田永年私財法は、結果的に荘園を生み、豪族の力を強め律令制を根本から揺るがす政策となってしまいます。良かれと思ってやったことが裏目に出てしまう、そんな感じでしょうか。

また、聖武天皇は本人も病弱であり、息子たちも若くして亡くなってしまいました。天武天皇の頃から繰り返された近親婚がその原因ではないか、とも言われています。

結果的にいいこともあった!天平文化の開花

中国の思想では、天下が平和なのは為政者が天に認められているからであり、世の中が乱れているのは、為政者の不徳のせいであるとします。天変地異や疫病の流行、人々の心がすさむのも天皇のせい、となる訳です。

聖武天皇や光明皇后が仏教に救いと心の安寧を求めたのも、仕方がないのかもしれません。国分寺や国分尼寺、また大仏の建立は、莫大な費用と労力を消費しました。
庶民にとっては非常に苦しい時代だったと思います。一方、中央には富が集中し、唐の文化を色濃く反映していることで、平城京は国際色豊かな貴族文化が花開きました。いわゆる「天平文化」です。
しかし、後世の私たちにとっては、悪いことばかりではありませんでした。後世に残る素晴らしい建築様式や美術工芸品が、その頃多く作られたのです。東大寺法華堂や唐招提寺金堂、これまでになかった新しい手法の彫刻や塑像、乾漆像、絵画や工芸品など、現在私たちが鑑賞できるものも少なくありません。

藤原の世を作った一つの礎ともいえる、不運の天皇・聖武。
佐保山南陵(さほやまみなみのみささぎ)に眠るとされる、聖武天皇。同じ場所には佐保山東陵と呼ばれる、光明皇后の陵墓もあります。
生前の聖武天皇は苦難続きでしたが、せめて仏の元でおだやかに眠っていてほしいものです。
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