仏像

仏教界のナビゲーター、善知識

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ナビゲーションシステムは便利なものです。初めて行く場所でも、地図とにらめっこをせずとに済むのですから。仏教の世界にもこうしたナビゲーターが存在しました。悟りを得る為のナビゲーターの名は、善知識です。

知識ではなく、「人」を指す

善「知識」とありますが、先に述べた通りこの言葉は知識ではなく人を示します。サンスクリット名は、カルナーヤ・ミトラ。「真なる友」「最良の友」といった意味です。こっちの方が分かりやすいかもしれません。

時には語らず悟らせる・撃竹の悟りのイサン和尚

その昔、中国に秀才型の僧侶がいました。名は香厳。経典に関する知識は完璧でしたが、悟りは得られず。
そこで、兄弟子にあたるイサン和尚に教えを乞いに行きます。すると、「お前さんは頭が良くて、勉強も良くできたわけだね。ちょっと聞くけど、お前さんがこの世に生まれてくる前、どんなことを思っていた?どんな姿だった?」と思いがけない問いが返ってきました。「ええと」とテンパった香厳は家に帰り、経典を読み返しましたが、「生まれる前はこうだよ」と教えてくれる経典などあるわけもなく「経典での勉強なんか意味がない」ということは悟りました。イサン和尚に解答を尋ねますが、「教えてやってもいいけど、それじゃ意味がないね」と突き放されます。香厳は行動に出ました。経典を焼き払い、真の悟りを得る為の旅に出たのです。ある寺に立ち寄り、畑仕事を手伝っていると、瓦が落ちていました。それを拾い上げ、ノールックで後方の竹林に投げ込みます。「カーン」という音がして、香厳は悟りました。瓦が落ちていた、後に投げた、瓦が竹に立って音がした。この一連の出来事と自分は一体化していました。「何を悟ったの」と言われれば、「自分と別の物を分けない」ということです。
それまでの香厳は、「経典を勉強している」という意識が少なからずありました。経典と自分をどこかで別物と考えていたのです。しかし瓦型家に当たった時には音と自分は分けられていませんでした。「全ては同じ。文字などで語れるものではない」との真理を悟った香厳はイサン和尚に深く感謝をしたとのことです。

善知識は必ずしも僧侶ではない・『華厳経』善財童子のエピソード

善知識は必ずしも僧侶ではありません。善財童子のエピソードでも明らかです。
善財童子とは『華厳経』に登場する求道者。文殊菩薩に見出されたホープです。文殊菩薩は、「ハイ、じゃ今から私の所でお勉強をしましょうね」とて取り足取りの修行はしませんでした。「お前はちょっと旅をしなさい。『これは!』と思った人がいたら、その人から話を聞くんだよ。僧侶じゃなくってもいいの。お前が『この人だ』と思った相手なら誰でもいいから躊躇わないで話を聞きなさい」ここで「教えて下さいよぉ」とごねないのが菩薩です。言われた通り、「お、この人良さそう」と思った相手に話しかけ、色々と話を聞くことができました。
何と、その中には遊女、外道(仏教徒ではない人物)もいたのです。子供もいました。仏教と言ったら「お坊さんに話を聞こう」となりがちですが、善財童子は言われた通り、色々な人から話を聞いて大悟を得たのです。善知識は必ずしも僧侶だけではないということですね。

まとめ

善知識は仏教に限ったことではありません。
「やりたいことがない」人は、色々な人に話を聞け、とよく言われます。色々やった方が案外やりたいことが見つかったりするとも。幕末の英雄、坂本龍馬もそうして見聞を広め、日本を変えました。
善知識とは仏教だけにとどまらず、いたるところで活躍するナビゲーターです。ひょっとしたら、あなたも何らかの形で誰かの善知識になっているかもしれません。

監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
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