多聞天とはどんな仏様?
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「仏像」と言えば、一般的に「仏様」を連想する方も多いんじゃないでしょうか。確かにそう認識して差し支えないですが、厳密に「仏」と言うのは悟りを得た如来という位にのみ与えられる称号です。仏像と言うより、仏教の「仏様」にも実はランクがあり、如来の下には悟りを得るため修行中の菩薩、密教生まれの明王、そしてインドの神話から取り込まれた天部(もしくは天)と続きます。天部の役割は大体同じで、仏法を護るために存在。天部も大まかに貴顕(貴人ということ)天部と武人天部に分けられます。武人天部では特に、一般的に馴染の深い言葉を生み出した面々がいました。四天王です。
帝釈天のもと、甲冑を着けて東西南北を守護する四天王という言葉は、人間たちの間で比喩的に使われてもいます。日本に於いては、仏教を受け入れるか否かで曽我氏と物部氏が争いを起こしました。そのとき、あの有名な聖徳太子が「どうか勝ちますように」との必勝祈願で立てたのが四天王寺。その結果、仏教が受け入れられることになったわけです。結構ご利益がありますね。そんな彼らのリーダーである多聞天が今回の主役です。やっぱり統率者は外せませんね。
帝釈天のもと、甲冑を着けて東西南北を守護する四天王という言葉は、人間たちの間で比喩的に使われてもいます。日本に於いては、仏教を受け入れるか否かで曽我氏と物部氏が争いを起こしました。そのとき、あの有名な聖徳太子が「どうか勝ちますように」との必勝祈願で立てたのが四天王寺。その結果、仏教が受け入れられることになったわけです。結構ご利益がありますね。そんな彼らのリーダーである多聞天が今回の主役です。やっぱり統率者は外せませんね。
像容
インドにおいては菩薩に近い穏やかな表情をしていましたが、仏教伝来のなか、次第に性格も荒くなったのか「戦い守る神」の性格を分かりやすくするためなのか、中国に伝わったころにはすでに怒りを表す忿怒相、甲冑姿で表されていました。
日本で最も古い四天王像は飛鳥時代の四天王寺に安置されているもの。とは言え、残念ながらこちらは残っておらず。現存する一番古い四天王像は法隆寺に存在します。兜を被っている場合もあれば被っていないときもあり、被らない場合は菩薩同様に髻(元取り)を結うのが基本です。意外とオシャレには気を使っています。
日本で最も古い四天王像は飛鳥時代の四天王寺に安置されているもの。とは言え、残念ながらこちらは残っておらず。現存する一番古い四天王像は法隆寺に存在します。兜を被っている場合もあれば被っていないときもあり、被らない場合は菩薩同様に髻(元取り)を結うのが基本です。意外とオシャレには気を使っています。
北を護る、四天王のリーダー
仏教世界の聖地にして中心地とも言える須弥山。お寺やお堂においては仏像の在する場所を一種の須弥山とし、須弥壇と呼びます。四天王はほとんどがこの須弥壇で、伝承通りご本尊を中心に自分の守護方角に立つわけです。四天王自体が時代などによって作例が異なる為、鎧を着ていたリいなかったり、武器を持っていたりいなかったりします。そんななかで、「どれが多聞天か分からない。どうしよう」とパニックになる人はまずいないでしょうし、立て札やプレートなどで名前が示されていることもあるでしょうが、知っておくと多少は鼻高々になれる、気がしなくもないので、念のために見分けポイントをお教えしますね。というより、多聞天以外は見分けが難しくもあります。ですが、それぞれに定位置があるので、自然と多聞天がどれかも分かります。多聞天が安置されているのは大体東北になります。守護方角と同じですね。もとになっているインドの神、クベーラが北を護っていたため、多聞天も基本的には北方守護を担当します。この北方、仏教においては鬼門です。そこをインド時代から守護していたためリーダーとして任命されたのではないかとされています。ちなみに須弥山での守護担当地は北倶廬州(ほっくるしゅう)と言います。
もう一つの見分けポイント、宝塔
もうひとつの見分けポイントは宝塔です。これは舎利弗、お釈迦様の遺骨を納めたもの。基本的に多聞天はこれを持っているので、見分けポイントとして重要です。
ただ、多聞天と同一視される毘沙門天もまた宝塔を持っているため、単体の写真の身を見せられたときに「え、どっち?」となるかも知れません。が、ご心配なく。毘沙門天像は基本単身で祀られていますし、両脇に脇侍を従えていることもあるので、単体か周りに脇侍がいれば毘沙門天、北方面にいて宝塔を持ち、似た格好の仏像が多聞天と覚えておけばいいでしょう。
ただ、多聞天と同一視される毘沙門天もまた宝塔を持っているため、単体の写真の身を見せられたときに「え、どっち?」となるかも知れません。が、ご心配なく。毘沙門天像は基本単身で祀られていますし、両脇に脇侍を従えていることもあるので、単体か周りに脇侍がいれば毘沙門天、北方面にいて宝塔を持ち、似た格好の仏像が多聞天と覚えておけばいいでしょう。
あらゆる鬼を従える
仏像においては眷属という部下のような存在がいます。四天王他メンバーは以下の通り。
【持国天】乾闥婆(けんだつば)、畢舎遮(びしゃな)
【増長天】鳩槃荼(くばんだ)、薜れい多(へいれいた)
【広目天】諸竜王。
八部衆のメンバーに、竜王ですか。畢舎遮は食人鬼、薜れい多は餓鬼です。仏教での竜王とは、四天王同様に護法神です。多聞天の眷属は、と言えば諸夜叉と羅刹。「夜叉」というのは、古代インドの神話で人に害成す悪鬼とされていた存在です。「羅刹」は俊足怪力でやはり人を食べる存在。またの名を速疾鬼。つまり、どちらも鬼というわけです。持国天も増長天も食人鬼や餓鬼を眷属にしていますし、多聞天が諸夜叉、羅刹を眷属とするのにもちゃんと理由があります。もともとのインド神話時代で、夜叉や羅刹のもととなっているヤクシャやラクサシャたちをまとめていたんですね。夜叉の方は森の精霊が時代と共に悪鬼にされたわけですが、羅刹共々仏教では善玉側。上司のインドラ、部下のヤクシャたち共々揃って仏教入りしています。ちなみに増長天の眷属、鳩槃荼(個人名ではなく、集団名)もインド時代は安眠妨害担当の鬼でした。四天王の足元に邪鬼がいるのもよく知られています。「悪さをした鬼を懲らしめている」と思われがちですが、とっくに「お仕置き」が済んだ後で、「四天王様を地面にじかに立たせるわけにはいかない!どうぞお乗りください!」と進んで踏まれているといった一説もあります。何かと鬼に縁が深い四天王ですが、なかでも最強の多聞天が従えるのは、最速クラスの足と怪力を持った羅刹、そしてあらゆる精霊の夜叉であることを、改めて記します。
【持国天】乾闥婆(けんだつば)、畢舎遮(びしゃな)
【増長天】鳩槃荼(くばんだ)、薜れい多(へいれいた)
【広目天】諸竜王。
八部衆のメンバーに、竜王ですか。畢舎遮は食人鬼、薜れい多は餓鬼です。仏教での竜王とは、四天王同様に護法神です。多聞天の眷属は、と言えば諸夜叉と羅刹。「夜叉」というのは、古代インドの神話で人に害成す悪鬼とされていた存在です。「羅刹」は俊足怪力でやはり人を食べる存在。またの名を速疾鬼。つまり、どちらも鬼というわけです。持国天も増長天も食人鬼や餓鬼を眷属にしていますし、多聞天が諸夜叉、羅刹を眷属とするのにもちゃんと理由があります。もともとのインド神話時代で、夜叉や羅刹のもととなっているヤクシャやラクサシャたちをまとめていたんですね。夜叉の方は森の精霊が時代と共に悪鬼にされたわけですが、羅刹共々仏教では善玉側。上司のインドラ、部下のヤクシャたち共々揃って仏教入りしています。ちなみに増長天の眷属、鳩槃荼(個人名ではなく、集団名)もインド時代は安眠妨害担当の鬼でした。四天王の足元に邪鬼がいるのもよく知られています。「悪さをした鬼を懲らしめている」と思われがちですが、とっくに「お仕置き」が済んだ後で、「四天王様を地面にじかに立たせるわけにはいかない!どうぞお乗りください!」と進んで踏まれているといった一説もあります。何かと鬼に縁が深い四天王ですが、なかでも最強の多聞天が従えるのは、最速クラスの足と怪力を持った羅刹、そしてあらゆる精霊の夜叉であることを、改めて記します。
まとめ
眷属も含め、何やら怖そうな印象ですが、忿怒相と言う形相は仏敵に対する威嚇や、「仏法を守るのだ」という決意の証。熱いものを内に秘めているのです。鬼や、鬼たちを従える多聞天。手に舎利弗を持ちつつ戦う姿に敬意を覚えませんか。
四天王リーダーで毘沙門天と同一人物、多聞天
宗教や信仰というものは、ときにほかの思想と混じり合い、結果新たな信仰の対象が生まれることもあります。仏教も例外ではなく、ほかの宗教から取り入れられた神々が「天部」と呼ばれる「位」で知られています。いわゆる「~~天」と呼ばれる面々ですね。吉祥天、閻魔天(あの有名な閻魔様の密教での呼び名です)などなど。そのなかから今回は「多聞天(たもんてん)」を取り上げています。
もとはインドの神様
多聞天とは誰だろう、と思う方もいるでしょう。あまり馴染みのない名前かもしれませんが、「四天王のひとり」と言えば、多少分かっていただけるかと思います。現在でこそ比喩的に使われる「四天王」とは本来仏教の守護神たる神々の名前。多聞天はそのリーダー、というより最重要の「天部」なのです。単体で祀られることもあるくらいですし、中国においてはさまざまな名前で有名な書物に登場もします。もとはインドのヴァイシュラヴァナという神様で、本名(?)をクベーラと言い、富や財宝を司っていました。シヴァ神と仲がいいなど逸話があるようですが、このクベーラの、北方を守護するという性格がそのまま多聞天にも受け継がれたようです。
何故に四天王リーダー?
リーダーであるわけとは、それは守護位置が関係していました。仏教の考えでは北側はいわば鬼門。よくない方角なので、そこを守護する多聞天がリーダーとされるのは、ある意味で必然。しかも、単なるリーダーではないのです。「宝塔」が多聞天を見分けるポイントで、仏像によっては剣・鉾・宝棒などを所有しています。どちらかの手に宝塔を持っていて北側に安置されていれば多聞天。ちなみにこちらは東大寺大仏殿のもの。もっとも、北側という「定位置」があるので、方角さえ分かれば「多聞天だな」と分かりますけどね。で、何で「宝塔」を持っているのかと言えば、この宝塔、実はお釈迦様の遺骨すなわち仏舎利(ぶっしゃり)の入った、言わば聖なる容器(実際には建物で、人が入れる大きさの宝塔もあります)なのです。そんな大事なものを持たされるのも、四天王を率いる者の証なのかも知れません。仏敵を退ける役目の四天王、そのリーダーが仏舎利を持つというのは象徴的ですね。
毘沙門天として。上杉謙信と関わり
先にも述べた通り、「あの」神様と同一視されてるんです。その「神様」とは、誰あろう七福神の一員でもある毘沙門天。唐の時代にやって来た神様ですが、インドでの別名と響きが似ていますね。ある番組で「戦いの神」と紹介されていました。確かに七福神のなかで唯一武装していますし、「武」を司る神です。が、同時に財宝を守る神でもあるわけです。よく見たら手に「宝塔」を持っており、守るのは北方。「同一視」というわけでわなく、同一人物。名前が変わるだけで、四天王のときは多聞天、独尊で祀られるときは毘沙門天、となるわけです。単体のときは毘沙門天です。七福神と四天王、2つのグループに所属する忙しい神様なんですね。でもちゃんと役目を果たしてるのですから、神様というのを抜きにしても頭下がりますね。その毘沙門天とかかわりの深い人物が戦国時代にいました。数十回にわたる戦を経験しながら2度しか負けたことのない武将、上杉謙信です。一部女性説もある謙信ですが、自身を毘沙門天の生まれ変わりと称し、その像を熱心に拝んでいたそうです。
ちなみに謙信は、ほかの武将と違って余計な殺生を含む「庶民に対する無駄な乱暴狼藉」を働かなかったと言われています。「戦が終わったら、即帰る」というスタイル。なので庶民からは慕われていたようです。そんな謙信の夢に、毘沙門天は現れました。「多く、広く聞く」ことから「多聞天」と称される毘沙門天のこと。謙信のことも、自身にささげられる祈りのことも全て聞いていたんでしょう、「苦しめられている人々を救いなさい」と力強く命じたそうです。まさに神のお告げ。謙信はガバと跳ね起き、出陣したそうな。武勇神としての面が出たようですが、もともとが北方の「守護神」、困っている人々を救いたい気持ちがあったのかも知れませんね。
泥足毘沙門天
こんな説もあります。宝塔を持たない珍しい毘沙門天像を祀っていた謙信。長きにわたる戦から帰ると、大事な毘沙門様のお堂に泥のついた足跡がありました。しかし、その泥が行きつく先には毘沙門天の像があったため、「一緒に戦ってくれたんですね」と大いに喜んだそうです。以降その像は「泥足毘沙門天」と名付けられたそうな。『まんが日本昔話』にありそうな話ですね。
兜跋毘沙門天
毘沙門天の話ばかりになてしまいますが、最後にもうひとつ。平安時代から変わった毘沙門天像が現れました。その名は「兜跋(とばつ)毘沙門天」。時代とともに形式が変容するのは芸術界の常ですが、何がそれまでと違っているか。多聞天を含め毘沙門天像は邪鬼と呼ばれる小さな鬼を踏みつけているのが基本的なスタイル。ですがこちらは毘藍婆、尼藍婆(びらんば、にらんば。邪鬼ではないようです)という鬼を従えて、かつ天女に支えられているという、見ようによってはシュールな像。鬼を踏んでいるというより、捧げられているように見えますね。東寺の国宝です。ホントは宝塔があった、はずでした。でも宝塔が失われても、役目に対する気構え、仏像の美は変わりません。なぜこんな姿になったのかと言えば、どうもこの兜跋毘沙門天、密教系の仏像らしいのです。と言うのも、支えている天女、通称地天女が密教の天なのです。二十八部衆(千手観音の眷属。眷属とは従者のようなもの)のひとり。ちょっと違った経緯で入ってきたためか様相も違うんです。「兜跋」というのは地名(トゥルファン)から来ています。そこに現れたから、その地名の名が付いているそうです。このシュール極まりない様相で。
中国ではいろいろと名前が変わります
仏教は日本に入る前に中国を経ていますが、クベーラ神もその間に大分変容を遂げたようです。あるときは托塔李天王(たくとうりてんのう)という神に変化。托塔とは「宝塔を釈迦如来から託された」という意味。かの『西遊記』・『封神演義』・道教でも登場、崇拝されている様子。と言っても、托塔李天王は多聞天とは別人ならぬ別神扱いです。ちなみに『西遊記』では人間界に降りて李靖(りせい)と名乗り人間と結婚、『封神演義』でもこの名で知られますが、どうやら実在の武将のようです。
まとめ
多聞天の話に戻ります。「宝塔」(仏舎利)を持ち北方という仏教での危険ヵ所を守護する多聞天はともすると「守護神」の鑑と言えるのかも知れません。そして、毘沙門天になったり中国の奇書に別名で登場したりと、意外と親しみやすい神様なのかも知れませんね。それこそ、上杉謙信がほかの武将よりも慕われていたように。毘沙門天の生まれ変わりというのも、あながち間違いじゃないのかも。何れにせよ、多聞天を見習って、多くを聞く、そして見ることで視野を広げるのもいいでしょう。仏法守護だけでなくいろいろと考えさせてもくれる多聞天像、一度生で拝観されてみませんか?
仏陀の声を多く聞くという意味を持つ多聞天とは?
天部のなかでも、仏教とつながりの深い仏像として高名なのは仁王像と、そして四天王でしょう。
四天王のうちのひとり多聞天は、仏を守護する仏像です。
四天王のうちのひとり多聞天は、仏を守護する仏像です。
1.四天王とは
帝釈天直属の部下である四天王のさらにその下にいる、八部鬼衆と呼ばれる配下を下記にあげます。
乾闥婆(けんだつば)
毘舎闍(びしゃじゃ)
鳩槃荼(くはんだ)
薛茘多(へいれいた)
那伽(ナーガ、龍)
富單那(ふたんな)
夜叉(やしゃ)
羅刹(らせつ)
持国天・増長天・広目天・多聞天。これが四天王の面々です。このなかで武闘派と言われる持国天(国を守る)と増長天(五穀豊穣を妨げるものから守る)は刀剣や槍を持っている姿で仏像がよくつくられました。
そして残りはどちらも文官です。広目天は観察して記録する係で、右手には筆、左手には巻物を持ちます。ペンは剣より強しってやつでしょうか。悪鬼を説得するという特技もあるようです。
乾闥婆(けんだつば)
毘舎闍(びしゃじゃ)
鳩槃荼(くはんだ)
薛茘多(へいれいた)
那伽(ナーガ、龍)
富單那(ふたんな)
夜叉(やしゃ)
羅刹(らせつ)
持国天・増長天・広目天・多聞天。これが四天王の面々です。このなかで武闘派と言われる持国天(国を守る)と増長天(五穀豊穣を妨げるものから守る)は刀剣や槍を持っている姿で仏像がよくつくられました。
そして残りはどちらも文官です。広目天は観察して記録する係で、右手には筆、左手には巻物を持ちます。ペンは剣より強しってやつでしょうか。悪鬼を説得するという特技もあるようです。
2.多聞天とは
そして今回の多聞天の登場です。サンスクリット語では吠室羅摩拏(ヴァイシュラヴァナ)といい、仏陀の声を多く聞くという意味です。そこから意訳して「多聞天」という名が付いたとご紹介いたしました。
そして別名が毘沙門天でしたね。こちらはサンスクリット語の発音(ヴァイシュラヴァナ)から無理矢理漢字を当てたものです。ヴァイシュラヴァナ→びしゃらびな→びしゃなもな→びしゃもん。
名前としてはおそらくこちらの方が有名でしょう。しかしこの仏はインド神話ではクベーラと言って財宝神でした。
声を聞く、財宝管理をする。いずれにしてもあまり強そうなイメージがわきません。聞くだけでどうやって北方の守護でできるのでしょう。しかも現代では武神の称号までもらっています。アニメ・ノラガミでは主人公の夜トに痴女呼ばわりされていますが、それは置いておくとしまして。
武神化したのは中国の唐の時代です。西域にあった安西都護符(あんせいとごふ。現在のウイグル自治区の最西端)が異民族に包囲されたとき、城門に毘沙門天が現れて城を守ったという伝承が伝えられています。中国の時代からすでに武神にジョブチェンジしていたのですね。インド神のクベーラにはラーヴァナという武闘派の弟がいますので、それが混じっちゃったのかも知れません。
仏教が日本に伝わった平安時代、まだ日本は統一されておらず、東北地方はヤマト朝廷の版図外でした。征伐のために坂上田村麻呂が征夷大将軍となった時代です。北の守りを司る武神はときの政府が必要としていたのでしょう。中国の伝承とそれが結びついて、とうとう日本でも多聞天(毘沙門天)が、武神として祀られるようになりました。
そして別名が毘沙門天でしたね。こちらはサンスクリット語の発音(ヴァイシュラヴァナ)から無理矢理漢字を当てたものです。ヴァイシュラヴァナ→びしゃらびな→びしゃなもな→びしゃもん。
名前としてはおそらくこちらの方が有名でしょう。しかしこの仏はインド神話ではクベーラと言って財宝神でした。
声を聞く、財宝管理をする。いずれにしてもあまり強そうなイメージがわきません。聞くだけでどうやって北方の守護でできるのでしょう。しかも現代では武神の称号までもらっています。アニメ・ノラガミでは主人公の夜トに痴女呼ばわりされていますが、それは置いておくとしまして。
武神化したのは中国の唐の時代です。西域にあった安西都護符(あんせいとごふ。現在のウイグル自治区の最西端)が異民族に包囲されたとき、城門に毘沙門天が現れて城を守ったという伝承が伝えられています。中国の時代からすでに武神にジョブチェンジしていたのですね。インド神のクベーラにはラーヴァナという武闘派の弟がいますので、それが混じっちゃったのかも知れません。
仏教が日本に伝わった平安時代、まだ日本は統一されておらず、東北地方はヤマト朝廷の版図外でした。征伐のために坂上田村麻呂が征夷大将軍となった時代です。北の守りを司る武神はときの政府が必要としていたのでしょう。中国の伝承とそれが結びついて、とうとう日本でも多聞天(毘沙門天)が、武神として祀られるようになりました。
3.仏容
十二天軌には「二鬼の上に乗り、身に甲冑をつけ、左手の掌に宝塔を掲げ、右手に宝棒を持ち、身は金色なり。二女の天女ありて宝蓮華を持つ」とあります。また、甲冑は七宝荘厳と形容されたり、宝棒は三叉戟(さんさげき)だったりします。
見分け方としては、四天王としてのセットで安置してあれば、須弥壇(しゅみだん)に祀られているはずです。その長方形の頂点に四天王がいます。四天王がわかれば、手に宝塔を持っているのが多聞天です。
しかし毘沙門天として単独で祀られている場合は、上の十二天軌を全て覚えておく必要があります。かなり大変です。しかも例外もあってなおさら大変、というよりもうそうなると、個々に覚えてゆくよりほかはありません。この寺には毘沙門天がいる、というように寺の名前とセットで覚えておきましょう。毘沙門天を祀る寺はそんなにたくさんはありませんのでそれが確実です。
見分け方としては、四天王としてのセットで安置してあれば、須弥壇(しゅみだん)に祀られているはずです。その長方形の頂点に四天王がいます。四天王がわかれば、手に宝塔を持っているのが多聞天です。
しかし毘沙門天として単独で祀られている場合は、上の十二天軌を全て覚えておく必要があります。かなり大変です。しかも例外もあってなおさら大変、というよりもうそうなると、個々に覚えてゆくよりほかはありません。この寺には毘沙門天がいる、というように寺の名前とセットで覚えておきましょう。毘沙門天を祀る寺はそんなにたくさんはありませんのでそれが確実です。
4.眷属
毘沙門天が使役する眷属は、夜叉と羅刹の2人です。どちらも鬼神なのですが、夜叉は森林の、羅刹は木石水界の精霊でもあります。人を襲ったり食べたりもするけれど、毘沙門天に仕えていれば恩恵も与えてくれる、人とはそういう関係を築いています。まるで夏目貴志とにゃんこ先生のような、かごめと犬夜叉のような、そんな関係です。
5.多聞天を見に行くのならこんな寺がお勧め
・京都・鞍馬寺
毘沙門天立像
京都市 左京区鞍馬本町1074番地 鞍馬弘教総本山鞍馬寺
・京都・出雲寺(毘沙門堂門跡)
京都市山科区安朱稲荷山町18
http://www.bishamon.or.jp/
・達谷窟毘沙門堂 別當達谷西光寺
岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16番地
http://www.iwayabetto.com/mysite1/top.html
毘沙門天立像
京都市 左京区鞍馬本町1074番地 鞍馬弘教総本山鞍馬寺
・京都・出雲寺(毘沙門堂門跡)
京都市山科区安朱稲荷山町18
http://www.bishamon.or.jp/
・達谷窟毘沙門堂 別當達谷西光寺
岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16番地
http://www.iwayabetto.com/mysite1/top.html
6.最後に
戦国武将の上杉謙信が毘沙門天を崇拝していたのは有名です。楠木正成は幼名を多門丸と言いました。多聞天にあやかってつけられた名前です。武門の家系ではとくに重宝されています。
また民間では、貧乏神を追い払うという力があるとされ、室町末期からは七福神のひとりとして信仰されるようになりました。上から下まで、もれなく愛されているという珍しい仏像です。特定の(腐的な)女性にも人気が高いようです。
また民間では、貧乏神を追い払うという力があるとされ、室町末期からは七福神のひとりとして信仰されるようになりました。上から下まで、もれなく愛されているという珍しい仏像です。特定の(腐的な)女性にも人気が高いようです。