日本史

西洋文化を貪欲に吸収した明治日本 近代化の大きな波

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江戸時代、長い鎖国制度の元で独特の文化や思想を作り上げてきた日本が、港を開き海外との貿易をするようになった幕末以降。文明開化の波にのり、西洋式の文化や思想、さまざまな技術が日本に入ってきました。

まずは、新暦の採用です。これまで月の満ち欠けや太陽の運行によって日時を計算した太陰太陽暦を採用していましたが、明治5年から、太陽の周りを回る周期をベースにして割り出したグレゴリオ暦が採用になりました。

つぎに、機械化が進みます。電気や蒸気などの動力を得て、日本の殖産興業は飛躍的に進化を遂げました。新たな貨幣制度が作られ、また財閥の発展が資本主義を進めたこと、経済的に豊かなになったことも機械化や工業化の促進に役立っています。

また、これまでの藩制度をなくし代わりには府や県を置く「廃藩置県」や、身分の差をなくした「四民平等」、ドイツ・プロイセンを参考にした憲法や、法律の整備などを進め、西洋的な中央集権型の政治体制を作っていきました。軍事面でもイギリスやフランス式の軍隊を見習い、軍部の設置や徴兵制などを採用しています。

江戸時代には争いのない期間が続いたので、寺子屋などの教育機関も発達し庶民の識字率(文字を読んだり書いたりできる)は、70%以上におよぶとされています。これは、新しい文化への順応を速めた一つの要因であり、また日本人の勤勉さの表れでもあります。

西洋列強と肩を並べるために、「富国強兵策」を取る明治政府は、古い体制や文化を刷新することと並行して、貪欲に西洋文化を取り入れ推し進めてきました。

皮肉なことに「外国」が意識されることによってそれに呼応するように「日本」という概念が生まれたのもこの頃です。同時に、東アジアにおける日本のポジションもよりはっきりと意識されるようになってきました。

欧米諸国の技術文化や軍事力の高さを目の当たりにし、諸国の東アジア進出を懸念していたその頃の日本は、特に朝鮮半島の動向に注意を注いでいました。特に陸続きのロシアには警戒していて、朝鮮半島がもしもロシアの配下に置かれてしまったら、すぐ近くにある日本の独立は脅かされるかもしれません。それを防ぐためにも朝鮮には独立を維持してもらいたいのが日本としての立場です。朝鮮の独立を日本の力で推し進め、それを配下に置くことによって日本がアジアや欧州列強へと進出する足掛かりとなる、そう考えたのですね。

やがてこのことが日清戦争、日露戦争へと発展していくのです。
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