日本史

徹底した信仰心を持ち続けたキリシタン大名・高山右近の生涯

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フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来、キリスト教には迫害のイメージが色濃く付いて回ります。踏み絵や島原の乱など激しい弾圧のインパクトがあるからでしょうか。今回ご紹介する高山右近もキリシタン大名として有名な人物です。

右近の父もキリシタンだったため、右近は10歳(12歳とも)で洗礼を受けます。そしてユスタの洗礼名を与えられました。

人徳のある人物と言われており、右近のすすめで信仰を持つようになったキリシタン大名も多いようです。また彼の話を聞きたくさんの人が感銘を受けたと伝えられています。

仕えていた和田惟政(足利義昭の直臣)が亡くなると、右近は反高山派から暗殺されそうになります。反高山派と斬り結んだ右近は相手に重傷を負わせるも、自身も負傷してしまいました。なんと首を半分も切られるという大怪我でしたが奇跡的に回復し、それがきっかけでますますキリスト教に傾倒していきます。

織田信長から高槻城を与えられていた右近でしたが、信長亡き後天下の覇者になった豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が出されると、なんと城も財産も領土も捨てて、信仰を選び周囲を驚かせました。

追放の身分となった右近を庇護したのはかねてより親しかったキリシタン大名・小西行長です。そののち前田利家に招かれて金沢へと向かい、右近は利家・利長親子の元で客分として過ごしました。

やがて徳川家康が戦国を統べると、家康も「キリシタン禁制令」を出します。家康は前田家に対し、右近の信仰を捨てさせるか、国外に追放するかの二択を迫ります。しかしここでもまた右近は信仰を選ぶのです。

国外追放の先は当時スペイン領であったフィリピンのマニラ。1614年、右近とその家族は利家の領地である金沢をでて大阪を経由、長崎へ向かいました。キリストと同じように、裸足で歩きぬいたともいわれています。

権力者から迫害を受ながらも徹底して信仰を捨てなかった右近。信仰のためなら大名という身分も財産も投げ打つその一途な姿勢は、宣教師たちを通して、マニラまで伝わっていました。着いた先のマニラで右近らは歓迎を受けます。しかし、慣れない土地と高齢なことも相まって程なくして右近は病を得てしまいます。そしてそのまま亡くなってしまいました。

マニラにはたったの40日の滞在でしたが、彼の死を悼んだマニラの人々は市を上げて右近の葬儀を執り行ったそうです。

現在も高山右近の銅像はマニラ市内の公園に立ち市民に親しまれています。
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