真の安心とは誤魔化さないこと

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「安心して、大丈夫だから」と言われれば、人はホッとします。どのような絶望的状態にあっても、大概は「安心」「大丈夫」でいくらか落ち着く人も多いでしょう。
この「安心」という言葉は古代中国の文献にも登場しますが、元は仏教用語です。

一般的な安心の意味

一般的に、安心という言葉の意味するところは「何の心配もない」状態です。
恐怖心や不安のない状態や、心が安らいでいる様も示しますね。それは結構なことです。しかし、現在の「安心」という言葉は時にその場しのぎで使われることがあります。
これはパニックを避ける意味合いもありますが、仏教での「安心」は現実を直視した上で使われる言葉でした。

儒教由来の安心立命

仏教では「あんじん」と読みます。現代の安心とは根っこのところは同じですが、過程が違いました。
元々安心という言葉は安心立命を略したものです。この安心立命は「自分の果たすべき使命を知って、その運命に身を任せることで何物にも惑わされない」という考えで、元は儒教から来ていました。
もっと言えば「安身立命」でしたが、禅宗の祖、達磨大師が「この『身』は『心』だ」と解釈し安心立命、略して安心となったのです。

誤魔化さずに煩悩だらけの自分を見る

仏教での安心はあらゆる煩悩、恐怖を捨て悟ることで心が安らぐという意味になります。
人間は迷う生き物です。仏教において迷いは執着や煩悩から生じるものとされています。そして多くの人は、迷いの原因が煩悩であることに気づきません。こうした状態、煩悩そのものを無明と言います。
まずは、煩悩にまみれた状態、無明であることに気づきましょう。真の安心とは、まず自分自身を誤魔化さずに見ることです。「自分は煩悩んまみれている。だから色々と苦しいんだ」と考えます。
重要なのはあらゆる苦しみの元が煩悩、執着だと言うことに気づくことです。
どうしてもなりたい職業、欲しい物など、いずれも何かを成し遂げる原動力になりますが、一方で苦しみも生み出します。シャネルのグッズを買いあさる人や、東大に入る為に浪人生活を続ける人もいるでしょう。それが悪いとは言いません。
ただ、時には執着を捨てることも大事だと言うことは念頭に入れておいてください。人生は欲道に例えられます。煩悩は重い荷物です。それを捨てれば、旅路もずっと楽になるのです。

一休宗純の「何とかなる」という言葉

昔話ではとんちで、実在では破天荒な伝説で知られた僧侶、一休宗純。
彼は「安心」に通ずる言葉を残しています。「何とかなる」がそうです。これにほっとしてしまうのは早合点というもの。「色々とやるべきことをやっていれば何とかなる」という意味です。
仏道修行での「やるべきこと」は煩悩を自覚してそれを捨てることですが、日常生活にも当てはまります。自分が何をしたいのか。まずは自分の本心をしっかりと見つめて下さい。
そうすれば、何をすべきか分かり、一般的な意味での安心に繋がっていきます。
仏教での安心と一般的な意味での安心は、先ほど述べたように根は同じなのです。

まとめ

一寸先は闇と言います。真っ暗だと何も分からなくて怖いでしょう。灯りを持てば、少なくとも足下や障害物を照らせるので危険は減ります。
無明とは煩悩であり執着ですが、言わばそれらにより目隠しをされているようなものです。この目隠しを外せばいいのだと気づけば、意外に明るいことが分かるでしょう。
仏教での安心は気づくことから始まります。
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