仏像

心身共に仏に帰依する帰命頂礼について

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言葉は通じない時、人は態度やジェスチャーなどで意思の疎通を図ります。
このジェスチャーは、場合によっては自分の常識と異なることもありますが、概ね共通しているものです。神仏への礼拝も、ほぼ似たものとなるでしょう。

意味や読み

「きみょうちょうらい」と読みます。意味は心から仏法に帰依すると誓うことです。
単に「仏教徒になることを誓いまーす」というのではなく、頭を地面、もしくは仏様のおみ足にこすりつけて礼拝をすると言う気合いの入った最敬礼です。
帰命とは仏を信仰すること。頂礼はその意思を、体で示すことを言います。

心で帰依する至心帰命

帰命頂礼は、体で示す「帰依します」との行為ですが、心の中だけで誓う場合もあります。
こちらの名称は至心帰命。至心とは、誠実な心という意味です。行動に出すか否かが違いなので、あまり深刻にならなくてもいいでしょう。

「南無」と「帰命」は同じ意味

頭に「南無」を付け、南無奇妙頂礼と唱えることもあります。この場合、「南無帰命頂礼」の後に、拝むべき神仏の名前を言うのが通例です。実は、元々南無と帰命は同じ意味でした。
サンスクリット語のナモ、またはナマスをそのまま漢字に訳した南無であり、意味を重視して漢訳すると帰命となるのです。意味は「敬い、従う」になります。

元は敬礼だった

今でこそ帰命頂礼と四字熟語となり、宗教関連の意味合いで使われていますが、元は古代インドの最敬礼でした。と言っても、よく軍隊などで見られるようなポーズではなく、体を折り、聖人や仏像にひれ伏す形になります。
合唱も欠かせない要素です。この時合掌をすることもありました。元々合掌とは、インドでの敬礼の意味があったのです。それが仏教に入ると、仏様への崇敬の意として使われるようになりました。

仏教版歌謡曲ご詠歌、『地蔵和讃』に見る帰命頂礼の心

帰命頂礼というものを特に意識させる文化が日本の仏教にはありました。その名はご詠歌です。
これは「仏様有難や、帰命頂礼いたします」というメッセージのこもった一種の歌謡曲になります。
有名なのが空也上人による『地蔵和讃』。舞台は賽の河原です。親より先に死んだ子供は、賽の河原という三途の川の入り口でひたすら石を積むとされますが、これは罰というより、子供たちが自主的にやっていることでした。親より先に死ぬと、子供は成仏できません。あの世の入り口でも雨は降るらしく、子供達は野宿をする羽目になります。自分たちの死に哀しみ、追善供養をしてくれる親に対して申し訳がないと、石を積むわけです。夜になると鬼がやってきて「よう、親不孝者」とばかりにネチネチいびり倒します。底にお地蔵様が現れての救済、というわけです。
この「地蔵和讃」は「お子さんが死んだからって、いつまでも嘆いていたら子供は成仏できないよ。お地蔵様に託そう。
お地蔵様が救ってくださるから、あなたたちも子供も救われるんだよ」というのが教訓になります。

まとめ

「有難や」と思っても、無宗教な日本人はほぼほぼ仏教に触れる機会が皆無です。
せいぜい葬式の時くらいでしょう。とはいえ、昨今では子供の道徳教育として地獄や極楽の絵を見せることがあります。これは、かつて行われていた教育です。
仏法への帰依と言っても、僧侶のようにストイックに帰依するばかりが帰依ではありません。身近なことに「有難い」と思うことが大事なのです。

監修:えどのゆうき
日光山輪王寺の三仏堂、三十三間堂などであまたの仏像に圧倒、魅了されました。寺社仏閣は、最も身近な異界です。神仏神秘の世界が私を含め、人を惹きつけるのかもしれません。
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