日本史

柳生宗矩 剣豪でありながら政治家としても大成した数奇なる人生

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柳生と言って真っ先に名前を上げるなら柳生十兵衛や柳生石舟斎(せきしゅうさい)と答える人が多い一方、柳生宗矩(むねのり)を上げる人は少ないのではないでしょうか。

なぜなら宗矩は裏方で江戸幕府を支えた重臣としての顔の方が有名だからか、昨今のメディアでは上記の2人に比べ主役になる機会が無かった人物だからです。

今回はそんな宗矩の数奇なる人生を見ていきたいと思います。

柳生宗矩とは

柳生宗矩は但馬守の官位を叙任していることから柳生但馬とも呼ばれ、柳生石舟斎宗厳(むねよし)の末子として元亀2年(1571年)大和国柳生庄(奈良県奈良市)で誕生しました。宗矩の長男が時代劇で有名な柳生十兵衛三厳(みつよし)です。

父である石舟斎は柳生庄の領主であると同時に剣聖と呼ばれた剣豪、上泉信綱から新陰流(しんかげりゅう)の印可状を与えられた剣豪でもあったため、兄たちと一緒に兵法を学んでいくことになります。

そんな柳生家も羽柴秀吉の弟である羽柴秀長が大和国を拝領した際、隠し田の存在を隠したために咎を受け、所領没収の上、一家離散することになってしまいました。

そして文禄3年(1594年)、父・石舟斎が徳川家康に招かれ、模擬試合をすることになります。家康自身も高名な剣術家であることから、「無刀」の技に深く感銘を受け石舟斎を召抱えようとしますが、石舟斎はこれを固辞し、代わりに子の宗矩が200石で召抱えられました。

慶長5年(1600年)、家康と石田光成の対立が深まると、宗矩は家康の命で柳生庄にて西軍の後方撹乱を行い、結果家康の東軍が関ヶ原の戦いに勝利すると、宗矩の影の働きが認められ、父・石舟斎の代に失った大和国柳生庄2000国を再度拝領することになり、翌慶長6年(1601年)には、2代将軍・徳川秀忠の兵法指南役を任されると共に、さらに1000石を加増されます。

その後、元和7年(1621年)には、3代将軍・徳川家光の兵法指南役となり、寛永9年(1632年)に3000石の加増を受けると共に初代幕府惣目付(後の大目付)に就任し、老中や諸大名の監視の任を与えられました。

宗矩の加増はさらに続き、寛永13年(1636年)には、4000石の加増を受け、1万石になったのを機に自身も大名に列し、大和柳生藩初代藩主となり、寛永17年に500石加増。亡くなった次男・友矩の所領2000石も加増され、最終的には1万2500石の大名にまで出世しました。

そして正保3年(1646年)3月26日、江戸麻布の屋敷にて病没し、76年の生涯を閉じることになりました。所領は幕府に返納していましたが、生前の活躍を評価られ、宗矩の遺児3人に分封されたのです。

兵法家としての宗矩

宗矩は兵法家であり、剣術家でもありますが、殺人刀を振るったことは一度しかありませんでした。それは慶長20年(1615年)大阪夏の陣にて、秀忠に豊臣兵7人が刃を向けた際に瞬く間に倒したという一件で、記録としてはそれだけしか残っていません。ではなぜ高名な兵法家と言われるのかを見ていきます。

兵法家伝書
これは宗矩が寛永9年(1632年)に著した柳生新陰流の兵法書で、内容としては、父・石舟斎から相伝された技法と、宗矩が独自に体得した「殺人刀」「活人刀」という兵法の理となっており、心の在り方の説明に多くを割いているのが特徴です。

そんな兵法家伝書は、宮本武蔵の「五輪書」と共に近世武道書の二大巨峰と評され、新渡戸稲造が著した「武士道」など、武道以外の書物にも影響を与えています。

門下生
宗矩には多数の門下生がおり、それは将軍から大名家当主と多岐に渡ります。中でも三代将軍・家光は新陰流の会得に熱心で、家光が新陰流の奥義を全て相伝させて欲しいと強く要求された際にはこれを諫め、さらに修練を重ねた家光に対し、後に免許皆伝を許しています。

子・柳生十兵衛の評価
十兵衛は、宗矩について、祖父である石舟斎は、流祖である信綱より勝り、父である宗矩は、祖父である石舟斎よりも勝ると、代を追うごとに磨かれる新陰流を評価しており、十兵衛以外の人達からも、当時の武芸者の中で最高の地位にいた宗矩は様々な賞賛を受けています。

政治家としての宗矩

徳川家康、秀忠、家光と三代に渡って側に仕える傍ら、表では老中や諸大名を監視する惣目付としてや、奉行として政治に携わっていました。ここでは幕臣としての宗矩の逸話を見ていきます。

千姫事件にて
元和元年(1615年)、坂崎直盛(宇喜田詮家)は大阪夏の陣にて秀忠の娘であり、秀頼に嫁いでいた千姫を救出した際に寡婦となった千姫の取扱いを巡って幕府と対立し千姫を奪おうと計画を立てました。

しかし計画はすでに幕府に露見しており、坂崎邸は包囲され、直盛の切腹と引き換えにお家取り潰しは許すと持ちかけられますが坂崎側はこれを拒否し徹底抗戦の構えを崩しません。

そこで宗矩に声が掛かりました。宗矩は単身坂崎邸に向かい直盛を説得。感じ入った直盛は観念し切腹して果てました。しかし坂崎家は幕府により取り潰されてしまいます。

結果騙してしまった宗矩は懺悔のためなのか、柳生家の家紋に坂崎家の家紋を使用するようになりました。そして取り潰された坂崎家の嫡子を召抱えることによって坂崎直盛に詫びたのです。

島原の乱にて
寛永14年(1637年)九州島原地方にて天草四郎時貞を総大将とする日本最大級の百姓一揆である島原の乱が勃発しました。そこで幕府は総大将として、板倉重昌の派遣を決定します。そこで宗矩は再考を促しますが家光は聞き入れませんでした。

結果、宗矩が予測した通り、石高の少ない重昌は大将として軽んじられ、重昌自身も責を果たそうと無謀な突撃により討死することになり、全てが宗矩の予測通りに動いた結末に家光や周囲は宗矩の深慮に感心せざるを得ませんでした。

宗矩の思想

宗矩は「活人剣」を兵法の理想にあげました。それは、本来は用いない方がよい武力であっても、万人に仇なす1人を除くことに武力を使うことにより、結果万人を救い、活かすための方法になり得るというものです。

宗矩が幕府の惣目付として恐れられるも頼られたのは、何事にも公明正大で真摯に向き合う姿があったためといわれています。これはまさに活人剣の思想に当てはまる政治を行った結果なのではないでしょうか。

宗矩が行った殺人は大阪夏の陣で秀忠を襲った7人のみと言われます。兵法家は軽んじられ、宮本武蔵ですら食客にしかなれなかったのに、柳生宗矩は流浪の身から大名にまで出世し、兵法家としても政治家としても大成できた稀有な人物であったのです。
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