日本史

貴族議員から総理大臣へ。近衛文麿の華麗なる血脈とその戦争責任

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第二次世界大戦、太平洋戦争は、我々日本人にとって忘れてはならない負の記憶です。当時の政治の中枢ではどのようなことが行われていたのでしょうか。今回は、代々日本の政治と深くかかわってきた家柄に生まれ、貴族議員・総理大臣も務めた「近衛文麿」の政治人生にスポットを当て、混乱の昭和初期をふりかえってみましょう。

1人の男の自決と遺書

『僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於いて裁判を受けることは、耐え難いことである。(中略)そしてこの(支那事変の)解決の唯一の途は米国との領解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今、犯罪人として指名を受けることは誠に残念に思う。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。(中略)戦争に伴う興奮と、激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と誤解に基づく流言飛語と是等一切の世論なるものが、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。其時始めて、神の法廷に於いて、正義の判断が下されよう。(矢部貞治「近衛文麿」読売新聞社/より抜粋)』

ここに一つの遺書があります。
この遺書を書いた人物は、終戦の年、昭和20年(1945年)に、自宅で服毒自殺をして、この世を去りました。
第二次世界大戦の機運高まる昭和初期に三度の総理大臣を組織した、近衛文麿その人です。

近衛文麿は、1891年明治の政治家・近衛篤麿の長男として生まれます。
近衛文麿の祖父にあたる近衛忠煕は、御三卿で右大臣であり、かの天璋院篤姫が13代将軍・徳川家定に嫁す際に養女とした人物です。近衛家は、御三卿として日本の政治の中枢で長い間栄えた家柄です。

そんな華麗な血脈を持つ近衛文麿は、青年の頃英米中心とした国際平和主義に反対する論文を発表したこともあって、若い政治家として陸軍をはじめ国民の大きな期待を寄せられていました。陸軍からの擁立で近衛文麿は、1937年総理大臣に就任、内閣を組織しました。

総理大臣としての手腕

【第一次近衛内閣】
日中戦争のさなか、北京郊外蘆溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突した事件(蘆溝橋事件)を受け、はじめは不拡大の方針を取ったものの、軍や政府内の強硬派の意見に押され、方針を変換。多数の中国人非戦闘員を殺傷したとして非難の的になった南京事件に発展する。

この頃、近衛内閣はドイツを仲介とした和平工作を進めていたものの頓挫。中国との対立が高まる中、「善隣有効・協同防共・経済提携」を掲げこの戦争が『東亜新秩序』の建設であることを宣言したが、日中の戦いは泥沼化し長期戦の様相を呈す。

【第二次近衛内閣】
1939年の第二次世界大戦勃発において、阿部信之内閣・米内光政内閣は大戦不介入の方針を貫いていたが、日本国内にドイツの勝利を礼讃する風潮が高くなり、陸軍はドイツと軍事同盟を結び南方に勢力を伸ばそうと画策した。そんな中第二次近衛内閣が発足、日独伊三国同盟を結び、体制の強化を図った。それと同時に、日本は東アジアのほぼ全域を支配兼に収めようと「大東亜共栄圏」擁立を目指す。積極的な南方進出を図る。

基本的に日米開戦を望まない近衛文麿は、駐米大使・野村吉三郎に命じ「日米交渉」を始める。アメリカに対して強硬路線を取る外務大臣・松岡洋右を排するために内閣総辞職を行う。

【第三次近衛内閣】
対米強硬派の外相松岡を排し、日米交渉を再開したものの、陸軍が進駐を強行したことでアメリカは態度を硬化させてしまう。石油の輸出禁止・在米日本人の資産凍結などの対策を取られてしまう。また、アメリカはイギリス・中国・オランダとの連携を取り、「対日経済封鎖」を強化する。日本は経済的な包囲網に苦しめられる。そのため国内には、アメリカ・イギリスに対して開戦し、武力による経済封鎖を解消すべきとの機運が高まってきてしまう。

それでも、近衛文麿は、開戦をさけ日米交渉を続けようとしたが、しかし陸軍大臣の東条英機が交渉の打ち切りを主張し、ついに第三次近衛内閣は総辞職することになる。

太平洋戦争への責任

戦犯のイメージの強い近衛文麿ですが、東アジアに対しては強硬姿勢を取るものの、アメリカとは戦いたくない、という姿勢を貫いていることが分かります。

それゆえの、冒頭に掲げた遺書へと繋がるのでしょう。

当時の日本国民も、家庭から戦闘員を出すという意味でも当事者であったためか、非常に国政に熱心ですね。戦時中に起こったさまざまな事柄は、現代日本においては自国のことながらも目をそむけたくなるような暗黒の歴史といった一面もありますが、世論の高まりが、政治の方針を左右するそんな熱い時代でもあったことがうかがえます。

終戦後、アメリカの植民地となった日本はGHQによる戦争責任を有する、いわゆる戦犯への対処が行われました。近衛文麿は、日米開戦の機運が高まる中でも、和平への道を探り続けていたと自負があったのでしょう。それなのに、戦犯として裁判に掛けられることになってしまった、その悔しさ、やりきれなさゆえの、服毒自殺だったのかもしれません。

黙したままで多くは語ることはなかったと言う、近衛文麿。どんな事実を飲み込んだまま亡くなったのでしょうか。
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