左袒の意味・使い方
関連キーワード
意味
同意すること。
味方して応援、加勢すること。
味方して応援、加勢すること。
由来と時代背景
古代中国、前漢の初期のころの話が元になっています。秦の滅亡後に覇権を争ったのは項羽と劉邦でした。
激しい戦いの末に項羽を打ち破った劉邦が天下を平定することになります。しかし、劉邦は天下を取ってからはそれまで自分に仕えてきた臣下が自分の位を奪うのではないかと疑心暗鬼にかかり、韓信や彭越、英布などの部下を粛正します。粛正を恐れた部下の中には逃亡したり引退するものもいました。
そしてその劉邦の妻が呂太后です。その妹は劉邦の義兄弟とされる樊カイの妻でした。劉邦が死に臨むときに、その後の混乱を憂いて自分が信頼できる部下たちを要職につけようとします。その時の丞相である曹参が亡くなった後は王陵、陳平、周勃を就けるように遺言したのです。
彼らは劉邦が全国を統一する以前からの忠義心が厚い部下たちでした。しかし劉邦の後をついだ呂太后の子である恵帝は母の一族である呂氏が権力を握っている状況を憂いていました。そして恵帝が亡くなると呂氏は全国の安定のため、と称して重要な土地の王や宮廷の要職を呂氏一族で固めようとします。反対する家臣は職を解かれて追放されました。
こうして呂氏一族がすべての兵権を握るようになります。しかし呂太后が亡くなると呂氏一族の権威は一気に衰えていきます。呂氏一族の治世に不安を覚えた北軍の責任者である呂禄と南軍の責任者である呂産などのものと、劉氏の治世をあくまでも望む劉邦股肱の臣たちの衝突は決定的となります。
そのとき、事態の変化を感じ、身の危険を悟った呂禄は兵権を返上して逃亡を図ります。責任者が不在になった北軍に周勃は間髪入れず飛び込み、兵士たちを集めて大声で言います。
「呂氏に味方をしようと思う者は着物の右肩を脱げ!劉氏に味方をしようと思う者は左肩を脱げ!」と。これが「左袒」の由来です。「袒」という字は「着物を脱いで肩を出す」という意味がある字です。
この言葉を聞いた兵士たちは揃って左肩を脱いで劉氏への忠誠を誓いました。そのころ行動を決めかねていた呂産は周勃が派遣した劉章に討たれます。逃亡していた呂禄も捕らえられ、他の呂氏一族も次々と捕らえられた上で処刑されました。
前漢は成立当初にこれだけの混乱がありましたが、劉邦の信頼した部下たちの活躍もあってなんとか乗り切ったのです。
激しい戦いの末に項羽を打ち破った劉邦が天下を平定することになります。しかし、劉邦は天下を取ってからはそれまで自分に仕えてきた臣下が自分の位を奪うのではないかと疑心暗鬼にかかり、韓信や彭越、英布などの部下を粛正します。粛正を恐れた部下の中には逃亡したり引退するものもいました。
そしてその劉邦の妻が呂太后です。その妹は劉邦の義兄弟とされる樊カイの妻でした。劉邦が死に臨むときに、その後の混乱を憂いて自分が信頼できる部下たちを要職につけようとします。その時の丞相である曹参が亡くなった後は王陵、陳平、周勃を就けるように遺言したのです。
彼らは劉邦が全国を統一する以前からの忠義心が厚い部下たちでした。しかし劉邦の後をついだ呂太后の子である恵帝は母の一族である呂氏が権力を握っている状況を憂いていました。そして恵帝が亡くなると呂氏は全国の安定のため、と称して重要な土地の王や宮廷の要職を呂氏一族で固めようとします。反対する家臣は職を解かれて追放されました。
こうして呂氏一族がすべての兵権を握るようになります。しかし呂太后が亡くなると呂氏一族の権威は一気に衰えていきます。呂氏一族の治世に不安を覚えた北軍の責任者である呂禄と南軍の責任者である呂産などのものと、劉氏の治世をあくまでも望む劉邦股肱の臣たちの衝突は決定的となります。
そのとき、事態の変化を感じ、身の危険を悟った呂禄は兵権を返上して逃亡を図ります。責任者が不在になった北軍に周勃は間髪入れず飛び込み、兵士たちを集めて大声で言います。
「呂氏に味方をしようと思う者は着物の右肩を脱げ!劉氏に味方をしようと思う者は左肩を脱げ!」と。これが「左袒」の由来です。「袒」という字は「着物を脱いで肩を出す」という意味がある字です。
この言葉を聞いた兵士たちは揃って左肩を脱いで劉氏への忠誠を誓いました。そのころ行動を決めかねていた呂産は周勃が派遣した劉章に討たれます。逃亡していた呂禄も捕らえられ、他の呂氏一族も次々と捕らえられた上で処刑されました。
前漢は成立当初にこれだけの混乱がありましたが、劉邦の信頼した部下たちの活躍もあってなんとか乗り切ったのです。
意味の変遷
現在も同様の意味で使用はされていますが、その言葉自体を使用する機会があまりなく、認知度はあまりない熟語です。