信州の3名城、松本城、龍岡城、高島城

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1、信州の名城、松本城

古来より深志といった松本の地は、中世を通じて小笠原氏の支配下にありました。1550年に武田信玄に攻められて落城し、以後32年間は武田氏の信濃支配の拠点となり、その間に城郭の体裁が整えられました。その滅亡時、元の城主の小笠原貞慶が返り咲き、深志城を改めて松本城と称しました。

豊臣秀吉の天下統一後、小笠原氏は徳川家康と共に関東へと下ります。その後を受けて、ここに入った石川数正は城の改築に乗りだし、その子、康長の時代にかけて近世城郭としての面目を一新しました。

その天守の造営について挿話があります。当初、石川氏は天守最上階の外側に回廊を付ける予定でいたようです。が、結果的にはこれを取りやめました。
天守の造営については豊臣家に許可を得たわけですが、築城の途中に関が原の戦いで豊臣が徳川に負けてしまったために徳川方に遠慮するのを止めたといいます。石川数正は元々は徳川家でも最古参の重臣でした。彼が突然、豊臣家に仕えることになったため、徳川家の軍制が筒抜けになることを恐れた徳川家康は急遽、軍制を武田家の甲州流に変更したほどです。
その石川親子だったため、徳川家にはかなりの気を使うことになったのです。そして回廊を付けるのも中止になりました。
城は東・南・西の三方を川に囲まれた地につくられた典型的な平城で面積は八万平方メートル、本丸から南へ二の丸・三の丸と張り出し、三重の水掘で囲む梯郭式縄張で、門外に馬出しを設けているのが特徴的です。平城は自然の天険に拠る山城とは違うため、敵を防ぐ最も重要な防御線は堀と石垣と言えます。
松本城の石垣は全て自然石を積んだ初期工法の野面積で、積み方は緩やかで直線的です。
一見すると粗く見えますが、石の根が深く噛み合っていてとにかく堅牢なつくりになっています。堀も場所によって深さを変えることで攻めることを難しくしています。

本丸は南北120メートル、東西170メートルの郭で、南東に大手の黒門を開き、南西部に五層六階の大天守が建っています。大天守は北に三層の乾小天守を渡櫓でつないで天守入口の防御を厳しくし、東に辰巳付櫓と月見櫓を付属させている複合連結式の天守です。

外観は素朴で力づよい感じです。屋根も過剰な装飾を押さえて質実剛健であり、天守の南面は入母屋破風、唐破風、千鳥破風の3様式が縦に連なっていて非常に美しくなっています。各層外壁の上部は白漆喰で固めるが、下部は漆塗りの黒い下見板を張り、烏城の異名も生じた。装飾的破風が少ない一方で、武者窓・矢狭間・鉄砲狭間、さらに石落としも数多く設けられ、軍事的性格を強く示しています。
その狭間は敵が射程圏内に入ったときは射手から見て死角がないように配置されています。
江戸期に入ってから築城された城の鉄砲狭間には、多分に美観を考えた意匠的な側面も見られますが、この松本城に限っては明らかに実戦を意図したつくりになっています。天守の壁は細い丸太材で芯を組み、両側に土を3層に重ね、その上から漆喰を塗りこめた多重構造です。
厚さは30cmほどもあって火縄銃の弾丸を通さない強靭な構造になっています。階段は急勾配の上、段差を微妙に違えてあって、一息に同じリズムでは登れないように造られています。
踏み出す足が届かないほど深かったり、逆に浅かったり、感覚が狂って非常に昇降しにくくなっています。これも敵の侵入に備えた防衛策なのです。これだけ実戦に向けて造られていながらも美しさも兼ね備えているのが松本城である。天守の屋根を支えているのは4本の井桁梁と20本からのはね木で、釘は使わずに組んであります。
また、華頭窓は花弁の形をした窓で、本来は中国の仏教寺院の窓に用いられた様式です。近世初期の天守や城門の建築に多く見られ、「華灯窓」とも書きます。
天守や乾小天守の丸太柱はツガの角材を手斧で丹念に削ったものです。その手斧削りの削りあとが貝殻状の文様に浮き上がって見える木造美です。
天守台の石垣は高さ約7メートルでやや低い感はあるが、外壁部分と同じく、石は野面積みで勾配もゆるやかなであり、安定感があります。

2、日本に二箇所しかない五稜郭、龍岡城

龍岡城は三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨が分領である信濃国佐久郡に移った際に5年と歳月と4万両という費用を費やして作り上げた城です。
西洋の軍法を学び、砲撃戦まで想定して築城を行った乗謨はフランスの稜堡式城塞を倣って建てています。日本で五稜郭はこの龍岡城と函館にしかありません。

函館の五稜郭との対比から龍岡五稜郭、あるいは桔梗城とも呼ばれたりしています。しかし、本来ならばすべての稜堡に置かれなければいけない砲座は南西部の一箇所にしかなく、実用性には乏しいとされています。おそらく本当にこの城を堅固な城塞として使用するというよりは藩主の趣味や興味が優先されていることがわかります。
城内には大手門を入って中央に藩主の住む御殿があり、長屋もありましたが、明治になって建物は売却され、台所が一棟だけ残っています。

3、日本三大湖城 高島城 

城郭の形式は連郭式平城です。
元々は諏訪氏が治めていましたが、諏訪氏の滅亡後、武田氏が治めていました。それ以降、織田家の川尻秀隆や諏訪頼忠と領主を変えていき、1591年、諏訪に入った日根野高吉が諏訪湖の東の島崎と呼ぶ小島と湿地帯に築城しました。高吉は織田や豊臣の下で城普請の経験があったため、しっかりとした形式の城郭が造られたようです。やがて関が原の戦いの後、日根野氏は下野国に転封となり、諏訪氏が旧領に戻ってからは明治維新まで諏訪氏の居城となりました。

城は湖を西に接し、本丸・二の丸・三の丸と東へならべ、本丸の南には南の丸も設けました。西の石垣が水で洗われ、水に浮かぶ城というので「諏訪の浮城」の異名を生みました。8棟の櫓と6棟の門、3重の天守など近世の城郭としてふさわしい造りでありましたが、地盤が軟弱であったため築城にはかなりの無理がされたようです。

また、現在は諏訪湖の干拓により、城は湖岸から遠く離れているため浮城としてのイメージはありません。本丸にあった三層の天守は明治時代に撤去されましたが、1970年には本丸に天守・櫓・門・塀などが復元され高島公園として整備されています。
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