『深川不動尊』は江戸っ子に親しまれる守り神!限定品お守りや、写経情報も

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地元の人たちから、「深川のお不動様」と愛称されている深川不動尊。
東京湾の海岸沿いに、富岡八幡宮とともに東京を見守るように建てられています。 この地になぜ、不動堂が建てられたのか?
成田山との関係は?
今回は深川不動尊の歴史と身近なお守りのご紹介をいたします!!

成田山の信仰と創建の経緯とは?

深川不動尊の正式名称は「成田山 東京別院 深川不動堂」と言い、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院です。
1703年(元禄16年)、成田山のご本尊・不動明王を江戸に奉持し、富岡八幡宮の別当寺であった永大寺にて特別拝観を行ったのがはじまりでした。

成田山自体の歴史はもっと古く、平安時代初期までさかのぼります。
嵯峨天皇の勅願により、弘法大師空海が一刀三礼敬刻で不動明王像の開眼を行いました。
一刀三礼とは、一回彫るごとに三回礼拝することです。それからその不動明王像は、京都にある高雄山神護寺に奉安したのです。
ところが939年(天慶2年)のこと、平将門が朝廷に謀反を企て、自分が「新しい天皇」だと名乗った「平将門の乱」が起こってしまいました。当代の朱雀天皇は密勅で、将門を調伏させるよう真言宗の高僧・寛朝大僧正に祈祷を命じました。

そして、寛朝大僧正は高雄山神護寺にあった不動明王像を現在の千葉県・成田市に祀り、調伏の護摩の儀式を行ったのです。すると、乱は鎮まり、平定されました。 寛朝大僧正が不動明王像とともに京都へ帰ろうとしたそのとき、不動明王はびくとも動かなくなりました。そして、「我再び王城へ帰ることを欲せず、永くこの地にとどまりて東国の鎮護とならん」と告げたのです。朱雀天皇は不動明王をこのまま遷座させ、成田の地に堂宇を建てて東国の霊場とし、「成田山神護新勝寺」の寺号を賜ったのです。

それから江戸時代に入ると、庶民の間でも「成田詣」が広まりました。
そして、さらに成田山人気を呼んだ出来事が起こりました。
歌舞伎の初代・市川團十郎がなかなか子宝に恵まれず、不動明王に祈願したところ、男児を授かることができ、これをきっかけに市川家の屋号を「成田屋」と付けたり、「成田不動尊利生記」など成田山の物語を上演するといった厚い信仰を寄せたことです。

そのことから「成田詣」がさらに広がり、「江戸でも不動明王を拝みたい」という庶民の願いから、富岡八幡宮の別当寺・永代寺で出開帳が執り行われたのでした。 たくさんの庶民が押し寄せ、大いに盛り上がったと伝えられています。 ところが、1986年(昭和61年)には神仏分離令に基づき廃仏運動が行われるようになり、永代寺は廃寺になってしまいました。 それでも不動明王の信仰は止むことがなく、出開帳を行った深川の地に不動明王のご分霊を遷座することが決まったのです。 そして1881年(明治14年)、「深川不動堂」が完成したのでした。 その信仰は現在でも受け継がれ、東京の人々に親しまれるお寺になりました。

ちなみに、「平将門を祀る神田明神(東京都千代田区)を参拝した後に、成田山新勝寺を参拝してはいけない!」という言い伝えもあります。 実際にはどちらも霊験あらかたな社寺なので、災いが起きるなんてことはないと思いますが、それくらい「平将門の乱」が朝廷も世間も騒がせた大事件だったのでしょう。

あなたもやってみて! 深川不動産で「体験修行」してみよう!

深川不動堂では、写経や写仏の体験をすることができます!
写経は修行のひとつで、諸願成就や供養のために書かれるようになりました。 現在では、習字の練習にも用いられるようになりました。 深川不動堂では、筆や半紙などの道具を用意してくれているので、気軽に参加することができます!

○写経料 2千円以上
○写経内容 「般若心経」or「仏説聖不動経」
○受付 お札場(お守り売り場)
○受付時間 毎日9~14時

写仏とは、仏様の姿を書き写して邪念を払い、心を落ち着かせる修行のひとつです。
下絵をなぞるだけの簡単な作業なので、どなたでも気軽に体験できます!
また、「自宅でゆっくりと写仏したい……」という方には、「不動尊像自宅写仏セット」が用意されていますので、ご利用くださいね。

○写仏料 2千円以上
○写仏内容 不動明王or大日如来
○受付 お札場(お守り売場)
○受付時間 毎日9~14時

また、毎月1日に「写経大会」、28日に「写仏会」も開催されています!
こちらも道具はすべて揃えてくれていますし、年齢性別問わずどなたでも参加できます。
写経大会では法話や法要のある、特別なものとなっています。
法要では、参加者の方々の名前を読み上げ、祈念してくれるのでぜひ参加してみてくださいね。

○写経大会
開催日:毎月1日
時間:12時30分から
場所:地下1階ロータスホール
参加費:3千円

○写仏会
開催日:毎月28日
時間:13時30分から
場所:地下1階ロータスホール
参加費:2千円

小さな水晶が守ってくれる……「眼守り」で視力回復、眼の病気を撃退!

成田山と言えば、護摩祈祷が有名ですよね。
この深川不動尊にも護摩祈祷が行われますが、お守りもあることをお忘れなく! この「眼守り」は眼の病気平癒や視力回復を願う人々のためのお守りです。 眼の専用お守りって珍しいですよね。 きっとこの小さな水晶が、透明の澄んだ視界を見せてくれることでしょう。 この水晶は付属の巾着に入れて持ち歩いてくださいね。

限定品! おねがい不動尊守りをいただこう!!

深川不動尊のお守りには限定品もあります!

樹齢700年の楠のご用材を楕円型に型どり、おねがい不動尊を敬刻した貴重なお守りです。 ご用材がなくなり次第、授与が終わってしまうのでぜひこの機会をお見逃しなく! ちなみに、成田山のお守りは昔から「祈るところ、必ず霊験あり」と言われています。 新勝寺の仁王門の再建の時には、携わっていた大工・辰五郎が足場から落ちてしまいましたが、身につけていた成田山のお守り札のおかげで無傷で助かったという話もあるのです。
そして、そのお守り札は辰五郎の身代わりになるように割れていた、というのです。 みなさんも不動明王の強い力が宿ったお守りを、大切に身につけてくださいね。

いかがでしたか。
深川不動尊が東京の人々に親しまれるゆえんがお分かりいただけたでしょうか。 歴史はほかのお寺に比べて浅いものの、不動明王への信仰心の厚さはどこにも負けません。 あなたも不動明王に会いに、そして諸願成就のためにぜひ参詣してみてくださいね!

■所在地
深川不動堂
〒135‐0047
東京都江東区富岡1丁目17‐13

深川不動尊は民衆の思いが成就した寺院

深川にある深川不動尊は、不動明王を本尊とする寺院です。
東京には多くの不動がありますが、不動信仰の人気のもとになったのは、この寺院と言っても過言ではないでしょう。その理由は、深川不動尊と関わりの深い、成田山に隠されているようです。

江戸時代にはなかった深川不動尊

深川不動尊は東京都江東区にある、真言宗智山派の寺院で、千葉県成田市にある成田山の別院です。都営大江戸線と東京メトロの「門前仲町」から徒歩5分圏内にあり、参拝しやすいアクセスに便利な立地にあります。深川不動堂ができたのは、実は明治時代に入ってから。明治の廃仏毀釈で廃寺になった、永代寺の跡地にできたという比較的新しい寺院です。

境内に入ると正面に見えるのは、2011年(平成23年)まで使われていた旧本堂です。明治に建立された深川不動堂は、関東大震災と第二次世界大戦で焼失してしまい、現在の建物は千葉県の龍腹寺にあった、地蔵堂を移して建てたものです。向かって左手に見える、ミュージアムのようなモダンな建物が現在の本堂。モダンに見せる外壁は、不動明王の真言梵字をあしらったデザイン。本殿の中からは本尊・両童子・四大明王が、外からはこの真言梵字壁が、仏様のパワーを引き出しています。

成田山新勝寺人気が高まったことが起源

先にお話ししましたが、初代団十郎はが深く信仰し、江戸の庶民へのアピールとなった成田山。初代団十郎だけでなく、二代目以降も成田山を信仰しています。

現代で言えば、「大人気の芸能人のオススメで、大ブレイクした観光スポット」といったところでしょうか。こうしたことがきっかけで、成田詣だけでなく不動信仰自体が、江戸庶民の間で広まっていきました。

深川不動堂の立つ場所にあった永代寺

深川不動堂のある深川公園は、江戸時代に永代寺の建っていた跡地に作られました。永代寺は富岡八幡宮の別当寺として建てられた寺院で、宗旨は高野山真言宗です。江戸時代には多くの人で賑わい、「門前仲町」の名前の由来にもなった寺院ですが、明治時代の神仏分離・廃仏毀釈運動で廃寺になってしまいます。現在ある永代寺は、古い永代寺の塔頭だった吉祥院が、名前を継承し永代寺を再興したものです。

明治政府は永代寺の跡地に、深川公園を造成しました。深川不動堂が建てられたのは、この深川公園の敷地内。それも不動信仰が大いに賑わった江戸時代ではなく、明治時代に入ってから建立されました。なぜこの場所に深川不動堂が建てられることになったのでしょうか。

成田山新勝寺の江戸出開帳

江戸時代に市川団十郎の成田山信仰でさらにヒートアップした成田詣ですが、深川不動堂と成田山では約64kmの距離があります。当時の庶民の足は文字通り「徒歩」でしたらから、成田詣と言えば1泊の小旅行でした。

そこで成田山が行ったのが「出開帳」です。寺院の本尊を離れた別の場所で公開する、特別拝観といった催しものが、江戸の町で開催されました。不動明王が江戸で拝観できるとあって、出開帳は毎回大盛況だったようです。江戸時代に開催された出開帳は全部で12回。そのうち11回の会場となったのが、深川にあった永代寺だったのです。永代寺が成田山の不動信仰と深い関わりを持っていたことが、その後の深川不動堂の建立のきっかけとなりました。

民衆の思いでかなった深川不動

江戸幕府が幕を閉じ、明治の新しい政治が始まって以降も、庶民の間に広まった不動信仰は、なかなか治る様子を見せませんでした。天皇を掲げる明治政府は、これまでの仏教主導だった宗教界を、国家神道主導の宗教体制に変えるべく、神仏分離や廃仏毀釈を進めていました。もちろん、不動明王も明治政府にとっては、抑圧すべき仏教の信仰のひとつです。

ところがいくら指導を続けても、不動信仰はおさまるどころか、永代寺の跡地にできた深川公園に人が集まってしまいます。ついに明治政府は深川公園内に、不動堂の建立を認めることになりました。しかも境内地は「永久かつ無償」で、深川不動堂に貸与されることになったのです。深川不動堂はこのような経緯で建立されることになった、言わば民衆の思いが成就してできた寺院とも言えるでしょう。

深川不動尊と成田山に隠された不動信仰の秘密

江戸時代にはなかった不動堂が、明治時代になってから作られたのには、歴史の闇に葬られた秘密が隠されていました。どんな秘密だったのか、とても興味深いですね。

庶民の熱意で建立された深川不動尊

江戸時代に成田山を発端とした不動信仰の高まりが、神仏分離を推奨した明治政府のもとでもおさまらず、ついに政府がこの地、深川公園内に不動堂を建てることになった深川不動尊ですが。新政府を動かすほどの広まりを見せた不動信仰は、なぜここまでの盛り上がりを見せるようになったのでしょう。

成田山が人気になったことだけでは、全てを説明することは難しそうです。実は不動信仰が庶民に根強く広まった背景には、成田山が江戸庶民に崇敬されるある理由が隠されていたのです。

不動明王はヒンドゥ教のシヴァ神

深川不動堂で祀られている不動明王は、目黒不動などあちこちで見かける、仏教のポピュラーな信仰対象です。降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王を四方に従える、五大明王の中心となる明王で、大日如来の化身ともされています。梵名のアチャラナータは、「アチャラ=動かない」「ナータ=守護者」という意味で、そこから不動明王の名が生まれたようです。

そして、アチャラナータを別名に持つことから、ヒンドゥ教のシヴァ神が起源とされています。明王は多面多臂に描かれることが多いですが、不動明王は一面二臂。右手に三鈷剣・左手に羂索をもち、憤怒の表情で火焔を背負った像で描かれることが多いようです。

生粋の江戸っ子は成田山に参詣しない

これは江戸時代に流行したフレーズのようですが、深川不動堂の言わば親にも当たる成田山なのに、なぜ江戸っ子は成田山に参詣しないのでしょう。
実際には嫌悪ではなく、逆の意味で流行したフレーズだというのが真相のようで、「江戸っ子は成田山の江戸出開帳があるので、わざわざ成田山まで参詣しなくてよい」という意味で江戸庶民の間に流行したようです。ところで、実はこのフレーズが嫌悪の意味に解釈されたのには、ちゃんとした根拠があるのです。

神田明神と江戸っ子

江戸っ子と言えば神田明神。神田明神と言えば江戸っ子。と言っても言い過ぎではないでしょう。神田明神はそれほど江戸時代から庶民に愛された寺院です。神田明神がこれほどまでに江戸庶民、特に生粋の江戸っ子たちに愛されたのには、理由があります。

現在の神田明神に祀られているのは、大己貴命・少彦名命・平将門命の3神です。平将門は日本の大怨霊とされ恐れられる人物ですが、関東では英雄としての将門の方が一般的でした。神田明神の近くにあった将門の首塚を、江戸時代に疫病が流行したときに、神田明神の相殿神として祀られて現在に至ります。親分気質の平将門は江戸っ子たちの間では、怨霊なんてもってのほか、英雄として崇敬されていたようで、その将門を祀っている神田明神も江戸っ子の大切な神社というわけです。

成田山は平将門調伏をした敵

一方の成田山は、この平将門の調伏に一役買った寺院です。将門が乱を起こした際に、朝廷は日本中の寺院を招集し将門調伏のための護摩祈祷を盛大に行いました。成田山新勝寺はこの不動護摩祈祷を行った、940年(天慶3年)に開山した寺院です。平将門を英雄として讃える江戸っ子にしてみれば、成田山は将門調伏の一端を担った仇とも言うべき寺院と言えます。

ところが、初代市川団十郎が歌舞伎で不動明王を扱ったとは言え、団十郎が初めて成田詣をしたわけではなく、それまでにも成田詣は江戸庶民の娯楽のひとつだったわけですから、不動信仰が一世を風靡する以前からすでに成田山は江戸庶民に身近な寺院だったと考えられます。江戸の不動人気は成田山との関わりを否定できません。いったい、これはどういうわけなのでしょう。

成田山新勝寺の祇園祭と節分

その秘密はどうやら成田山に隠されているようです。成田山で行われる行事のなかに、なぜ成田山ではそれを行っているのか、ちょっと首をかしげる行事があります。ひとつ目は「成田山祇園祭」で、もうひとつが「節分」です。祇園祭は京都の八坂神社が行う祭として有名ですが、なぜ関東の成田山で祇園祭が行われているのでしょう。そして、成田山の節分では「福は内」の掛け声のみで、「鬼は外」を唱えないのは、いったいなぜなのでしょう。

京都の祇園祭を行う八坂神社は、もともと「牛頭天王」を祀っていた神社です。牛頭天王は祇園精舎の守り神とされ、疫病をもたらす疫神ですが、それが転じて疫病退散の神様として、祀られています。成田山の祇園祭は、神仏分離以前の湯殿山権現社が行っていた祭でしたが、現在は成田山の奥之院が行う祭りです。奥之院の祭神は大日如来で、八坂神社とはなんらつながりがありませんが、湯殿山の御祭神は牛頭天王と言われています。この辺りが成田山で祇園祭を行なっている所以と考えられそうです。

もうひとつの不思議は「福は内」のみの節分。「鬼は外」を唱えない節分は、成田山以外にもありますが、鬼と関わりの深い寺社であったり、語呂が不吉なため言い換えたりと、「鬼は外」を言わない明確な理由があります。一方成田山の場合、節分で「鬼は外」を言わない明確な理由が見当たりません。これに関して面白い説がひとつあります。平将門を調伏に加担した成田山ですが、実は「平将門を祀っている」と言うのです。将門の幼名が「鬼王丸」であるため、将門を祀っている成田山は「鬼は外」を唱えないという説です。将門の仇だったはずの成田山が、一転「将門を祀る寺院」に変わってしまいました。

妙見信仰が垣間見られる成田山

実は成田山が将門を祀っていると思われる証拠は他にもあります。
平将門は妙見菩薩の託宣を受け、東国の民衆を救うために立ち上がった人物です。将門自身を妙見菩薩の生まれ変わりとみなしている記述も見られます。北辰=北斗七星を信仰する妙見信仰は、将門と深く結びついた信仰とも言えるのです。実際、将門を祀っている場所には、星をかたどった模様や紋章が見られることが多くあります。

成田山の境内にある清瀧権現堂は、成田の地神と水神を祀るのが本来ですが、成田山では「妙見菩薩」を祀っています。光明堂では「星供養」が毎年行われており、これも妙見信仰につながっています。平将門の調伏に携わった寺院なのに、将門に比定される妙見信仰が見られるのは、実は将門を祀っているからなのではないでしょうか。今では知る人のない事実ですが、当時の人々には成田山に将門が祀られているのは、公然の事実だったのかも知れません。それゆえに、成田山の不動信仰も江戸の人々に受け入れられたと考えられます。

最後に先ほど出てきた湯殿山権現社ですが、祭神は牛頭天王以外に大己貴命と少彦名命を祀っています。そうです。この2柱の神様は、江戸っ子に人気の神田明神の祭神と同じなのです。さらに不思議なことに、24時間門戸を開いている成田山が管理しているのにもかかわらず、この湯殿山権現社は「聖域のため立ち入り禁止」になっています。もしかすると神田明神を同じように、ここに平将門が祀られているのかも知れませんね。

深川不動尊に隠された江戸庶民の平将門信仰

深川不動尊は明治時代にできた、比較的新しい寺院。廃仏毀釈を進めていた明治政府は、なぜ新たな寺院を建立する事になったのでしょうか。その背景には江戸っ子たちの、将門に対する強い思いが隠されていました。

深川不動尊は深川公園の中にある

不動明王をご本尊とする深川不動尊は、関東三十六不動の第二十番霊場とされています。

都営地下鉄・大江戸線と東京メトロ・東西線の「門前仲町」駅から、徒歩5分圏内にある深川不動尊は、実は隣接するように見える深川公園の敷地内に建っています。戦後、江東区に移管された深川公園は、深川不動堂に分断される不思議な形になっていますが、いったいどうしてこんな形になったのでしょうか。

明治時代に入ってから建てられた深川不動尊

理由は深川不動堂が出来た経緯にありました。深川不動堂が建てられたのは、明治時代に入ってから間もなくの1878年(明治11年)、深川公園の敷地を「永久かつ無償」で貸与される形で建てられました。明治天皇を頂点とする国家神道を目指していた明治政府にしては、仏教系の深川不動堂に対して破格といっても過言ではない待遇です。

深川不動尊を含む深川公園一帯は、江戸時代には富岡八幡宮の別当・永代寺の寺領だった場所です。
廃仏毀釈で廃寺となった永代寺の跡地に、明治政府が日本発の公園として、浅草山公園・上野公園・芝公園・浅草公園とともに造営されました。永代寺は門前仲町の地名の由来になるほど、江戸時代には非常に人気を集めた寺院でした。その跡地である深川公園に、廃寺になった後も多くの人が詰め掛けたのが、深川不動尊が建立されるきっかけになりました。

永代寺で行われていた成田山の出開帳

先にも触れていますが、なぜ永代寺の跡地に多くの人が詰め掛けたのかと言うと、現在は成田山新勝寺まで車や鉄道を使えば約1~1.5時間ですが、徒歩となると12時間以上もかかる道のりです。江戸時代の人々にとって成田詣では、2~3泊は必要な小旅行になります。
道中の宿泊代などを考えると、江戸庶民の誰もが行ける娯楽ではありませんでした。そこに登場したのが成田山の出開帳。成田山新勝寺からご本尊の不動明王が、江戸の町まで出張して公開されるというイベントです。
人々はお不動さんを拝むために、永代寺の跡地の深川公園に集まっていたのでした。

平将門を調伏したのに江戸っ子に人気の成田山

天皇に反旗を翻した平将門は、大怨霊としての側面の方が有名ですが、関東一円、とくに江戸っ子にとっては、むしろ英雄としての側面の方が知られています。将門を祀った神田明神が江戸っ子の代名詞であることからも、将門が江戸庶民に人気だったことがうかがえます。

ではどうしてここまで、平将門の調伏を機に建立された宿敵成田山の人気が盛り上がったのでしょう。

成田山には平将門が祀られている

確たる証拠はないのですが、成田山には平将門が祀られているという説があります。不動明王がご本尊の成田山ですが、祇園祭や星まつりなど、本来関係のない祭が催されています。

成田山の星まつりを行っているのは、境内にある青龍権現堂。本来は水神を祀る青龍権現ですが、成田山では妙見菩薩を祀っています。この妙見菩薩は、平将門に託宣を与えたと伝えられる菩薩で、将門自身も妙見菩薩の化身という伝説が残っています。

また、祇園祭と言えば京都の八坂神社ですが、成田山の祇園祭は大日如来がご本尊の奥之院が執り行っています。共通点がないように見えますが、以前は湯殿山権現社が行っていた祭で、ご祭神は八坂神社と同じ牛頭天王です。

誰も入ることのできない湯殿山権現社

この湯殿山権現社は、現在成田山がその管理をになっています。成田山は寺院には珍しく、24時間いつでも入れることが特徴ですが、この湯殿山権現社だけは24時間立ち入り禁止。誰も入ることができません。なにやら意味深ですが、その謎をとく鍵が神田明神にあります。

神田明神のご祭神は大己貴命と少彦名命。境内にある江戸神社は、現在は建速須佐之男命がご祭神ですが、江戸時代には牛頭天王と呼ばれていました。スサノヲと牛頭天王は同じという説もあるので、現在も牛頭天王を祀っていると考えてさし支えないでしょう。

実は湯殿山権現社も牛頭天王のほかに、神田明神と同じ大己貴命と少彦名命を祀っています。成田山が湯殿山権現社を立ち入り禁止にしているのは、牛頭天王・大己貴命・少彦名命のほかに、神田明神と同じように「平将門」を祀っているからではないかというのです。

実際には将門と湯殿山権現社との関わりを示す記録は見付かっていません。おそらく江戸時代にも公になっていたわけではなく、神田明神とご祭神が同じことから生まれた、単なる噂だったのでしょう。それでも「将門が祀られている」という噂は、江戸っ子の気分を盛り上げるには十分だったようです。

新しい物好きの江戸っ子気風を受け継ぐ深川不動尊

人々の熱意が伝わった結果、建立されることになった深川不動尊。以来、庶民の人気は耐えることがありません。江戸の庶民は新しいものが好きだったとよく言われますが、深川不動尊も仏教寺院としては珍しいことに挑戦する寺院です。

不動尊を訪れると、正面には2011年(平成23年)まで使われていた旧本堂が見え、向かって左手にあるのが新しく建てられた本堂です。不動明王を表す梵字が一面にデザインされた壁面は、まるでミュージアムかライブハウスのようなモダンな建造物で、一度見たら忘れることのできないほど印象的な建物になっています。

また、外見だけではなく、内部にも工夫が凝らされています。「祈りの回廊」と名付けられた回廊は、通路の両面をクリスタルの五輪塔でおおい尽くされた、光り輝く神秘的な回廊です。同じ高さではなく、互い違いになっているため、光がより四方へと反射するように工夫されています。柔らかな光に包まれて回廊を通り抜けると、身も心も清められたような心地を味わえるかも知れません。

深川不動尊が新しいものを取り入れることができるのは、江戸っ子の気風が受け継がれているだけではなく、私たちを楽しませようとする気持ちも込められているように感じられます。深川不動尊の公式HPにも、見る人への配慮が感じられます。トップページを見るだけで、深川不動尊がどんなところなのかが、一目瞭然で分かるような工夫が随所に施されています。

新しいものを取り入れたり、訪れる人への気配りが感じられたり、深川不動尊が愛される理由は、将門が見え隠れするお不動さんということだけでは、説明しつくせないように感じられます。
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