衰退から復活へ【再興の寺・西大寺】を支えた絆!巨大茶碗で行う「大茶盛式」も

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奈良県・奈良市にある西大寺。
近鉄奈良線・大和西大寺駅を降りて、徒歩3分のところにあります。
商店や住宅が並ぶ中に、約1万坪の広さを持つ西大寺は真言宗律宗の総本山です。
総本山ながら派手さはなく、静かで落ち着くお寺です。
しかし、その裏には衰退と復活の歴史があり、波瀾万丈なお寺でもあるのです。
今回は西大寺の壮絶な歴史と、復興を支えた叡尊上人のご紹介をします!

孝謙上皇勅願の創建から衰退へ……

西大寺のおこりは764年まで遡ります。
当時の太政大臣・藤原仲麻呂は、孝謙上皇を制圧しようと反乱を起こしました(藤原仲麻呂の乱)。 そこで孝謙上皇は平定を祈願し、その日のうちに鎮護国家の守護神として崇められている四天王像の造立を誓願しました。そして、誓いを果たせた孝謙上皇は藤原仲麻呂と手を組んだ淳仁天皇を廃位させ、重祚(一度退位した君主が再び即位すること)し、称徳天皇となりました。 そして、父・聖武天皇が平城京の東側に創建した東大寺に対し、平城京の西側に「西大寺」を創建したのでした。 当時の西大寺は今よりも敷地は広く、約48ヘクタールありました。薬師金堂・弥勒金堂・四王院・十一面堂院・東西の五重塔など百十数宇もの同舎が立ち並び、「南都七大寺」の1つに数えられるほど大きなお寺でした。

しかし、称徳天皇が崩御し、平安京に都が移ると、次第に朝廷からの関心はなくなっていきました……。 そして、台風や火災という度重なる災害にも遭い、かつての輝きや繁栄は失っていったのでした。

興正菩薩叡尊上人の功績とその人柄

そんな西大寺が再び輝きを取り戻したのは、興正菩薩叡尊上人のおかげなのです。
叡尊上人は現在の奈良県・大和郡山市に生まれた真言宗の僧侶です。西大寺には35歳の時に、初めて入住しました。 当時、叡尊上人は日本の仏教が堕落し、邪道に走る僧侶が多いことを嘆いていました。

その頃、西大寺に戒律を守る僧侶「持斎僧」を置くと聞き、名乗りをあげたのです。 「戒律を守ることこそが悟りを開くにふさわしいんだ!」と、本来の仏教に再び戻る「戒律復興」の志を立て、宗教活動をしようと決意しました。 そして、廃れてしまった西大寺の再建、西大寺を拠点として「興法利生」を広く浸透させるために活動を始めました。 「興法利生」は「興隆仏法(仏教を盛んにすること)」と「利益衆生(民衆を救済すること)」の略語です。 本来の仏教を追求することは民を助けることに繋がるんだと、考えていたのです。

次第に、その思いに共感した僧侶たちが集まり、活動はさらに広がっていきました。 しかし、嫉妬や批判も集め、門に落書きされたり、矢を放たれたこともありました。

それでもめげずに宗教活動を続ける傍ら、叡尊上人は貧困にあえぐ人々や病気の人々を救い、福祉に努めました。人との絆を大切にし、人を救うことに命をかける叡尊上人は人々から絶大な信頼を集め、「生身の仏」と言われるようになりました。
また、法華寺に戒壇を設け、比丘尼(女性の僧侶)をたくさん作りました。 女性を軽視していた時代にこのように地位を与え、敬う姿勢は、女性の信仰も集めることになりました。

そして、叡尊上人は90歳でという長生きで、人のために尽くしに尽くしたその生涯を終えました。 叡尊上人はずっと「生まれ変わっても極楽浄土へ行かずに、汚れた世界で仏の救いからもれた人々をまた救いたい」と願っていたといいます。 それから1300年、亀山法皇は叡尊上人の功績と高徳を偲んで、「興正菩薩」の貴号を贈りました。

叡尊上人が作った密教と戒律を融合させた法統は「真言律宗」と呼ばれるようになり、西大寺が総本山となりました。 現在は北は福島県いわき市から、南は熊本県玉名市まで90数ヵ所の末寺を持つまでになりました。

大きな茶碗にびっくり仰天!「大茶盛式」

「大茶盛式」はその名の通り、大きな茶碗に入った抹茶をみんなで回し飲みする茶儀です。
関西の人はニュースで一度は見たことがあるかもしれませんね。
この「大茶盛式」は新春初釜の1月15日、4月の第二日曜とその前日の土曜日、10月の第二日曜日に行われます。 この茶碗は直径40センチあり、これまた茶筅も大きな物を使ってお茶を点てていきます。 一人ではとても持つことは困難で、両端の人が支えながら飲みます。
お茶碗に顔を隠れる姿は滑稽で、静かなお茶の席には笑い声が絶えません。

「大茶盛式」の歴史は、叡尊上人が八幡神社に献茶し、余ったものを民衆に振る舞ったことが始まりです。戒律の中には禁酒があり、お酒の代わりにお茶を献上したのです。また、当時はお茶は高価なもので、薬として飲用されていました。

戒律を守ること、そして、貧乏な人や病気の人にも手を差し伸べ、お茶を振る舞うことは、先ほどご紹介した「興法利生」にも繋がります。 そして、この振る舞いは「一味和合」の意味も込められていました。読んで字の如く、「ひとつの味をみんなでともに味わって、和み合い結束を深める」という意味です。 大きなお茶碗をみんなで助け合いながら持ち、1つの同じお茶をみんなで回し飲みする……それが和合を深め、人と人のつながりを生む、と叡尊上人は考えていたのでしょうね。

また、この大茶盛は団体で申し込むことができます。
30名以上の申し込みで、一度に100名程度までなら入ることが可能です。
本堂拝観と入れ替えでしたら、200名程度まで対応可能です。
拝服料は1人1000円です。(本堂拝観料含む。諸堂拝観共通券なら1500円)
ただし、春季・秋季の大茶盛式の日は一般団体の受付は行っておらず、また、年中行事などで受付できない場合もありますので、事前にお寺にご連絡して下さい。

いかがでしたか。
西大寺は天皇の勅願で建てられ、さまざまな困難を乗り越えてきたお寺です。 そして、叡尊上人の慈悲深い心も兼ね備えた力強くも優しいお寺なのです。
ぜひ、奈良でお寺参りに行く時は、西大寺にも足を延ばしてくださいね。

■所在地
西大寺
〒631‐0825
奈良県奈良市西大寺芝町1丁目1番地
電話番号 0742‐45‐4700

西大寺は栄華必衰の理を表す

西大寺は奈良市にある平城京の時代に作られた寺院です。
大仏のいる東大寺の方が有名ですが、創建当時は東大寺よりもはるかに大きく、天平文化の様々な美術や建築様式が詰められた伽藍でした。
天平時代・鎌倉時代・江戸時代と、その姿を変えてきた西大寺。その栄華と衰退の背景には、いったい何があったのでしょうか。

平城京最大の規模を誇った西大寺

奈良市にある西大寺は、奈良時代に創建された歴史ある寺院。近畿日本鉄道の大和西大寺駅から、すぐ近くにひっそりと建っています。かつては南都七大寺と呼ばれる、朝廷から特に大切にされた寺院のひとつでした。現在の姿からは、当時平城京のうちではずば抜けた規模の寺領を持ち、興福寺・薬師寺・唐招提寺などよりもはるかに大きかったとは、思いもよらないでしょう。

現在の姿は、鎌倉時代に叡尊によって復興した姿。創建当時に比べ縮小されたプランで作られた伽藍を、江戸時代に再建したものです。草創期の豪華さは見られませんが、歴史の重みを感じられます。

天平時代に栄華を極めた西大寺

天平時代の西大寺の遺構は、現在ほとんどが民家の下に埋もれています。当時の面影を偲ばせるのは、東西の塔の跡のみです。四王堂もほぼ現在の位置に建っていたようですが、残念ながら建物は当時のものではありません。

当時の規模は8世紀の終わりに書かれた「西大寺資財流記帳」が頼りです。それによると、西大寺には薬師金堂と弥勒金堂の2つの金堂「金堂院」を中心に、東西2つの塔・十一面堂院・西南角院・東南角院・四王院・小塔院・食堂院・馬屋房・政所院・正倉院と、多くの建物が並んでいたことがわかります。広さも当時の記録で31町。現在の単位に換算すると、約48ヘクタールと東京ドーム約10個の広さに相当する、広大な寺領を持っていました。

天平期の西大寺がこれだけの規模を誇った背景には、やはり当時の政治的な意図が強く絡んでいるようです。発願した称徳天皇の死と、それによる道鏡の失脚で西大寺の造営計画は一部変更されたようですが、計画自体には天皇と道鏡の意図が色濃く反映されています。天平時代の後期は、皇位継承の争いが絶えず、王子の擁立を謀る王族や貴族たちの間で、反逆や殺戮が繰り返されていました。その怨霊を鎮めるための堂宇や、鈍いから身を守るための建物が、伽藍の要所に配置されていることがわかります。

東西の塔は、当初珍しい八角形の七重の塔が計画されていましたが、礎石の祟りによって称徳天皇が病に伏したため、八角から四角へ、七重から五重へ変更されたと日本霊異記に記されています。東大寺よりも後に作られた西大寺には、天平時代の最新モードの堂宇や仏像が見られ、絢爛豪華な意匠が取り入れられていました。西塔跡から発掘された天平草創期の河原に、緑・白・褐色の三色の釉薬(三彩釉)が施されており、当時の華やかさを裏付けていますが、その全容の多くは書物の中から推し量るだけとなっています。

鎌倉時代の復興による新たな出発

平安後期、すでに衰退の一途をたどっていた西大寺の惨状は凄まじく、11世紀末の「中右記」には食堂院と塔一基を除いて全てが礎石だけになり、金銅の四天王像が雨ざらしで放置されていると書かれています。もはや壮大で豪華な伽藍は見る影もない、荒れ果てた寺院となっていました。

鎌倉時代に西大寺を復興させた叡尊は、西大寺宝塔院の持斎僧として、自ら志願して当地へ赴きました。叡尊が訪れた頃には、食堂の修復と四王堂・東大門が再建された後でした。彼が目指したのは、天平時代に創建された仏堂や仏像を再建することではなく、真言密教の修養と仏教戒律の復興が目的であり、その宗教思想が鎌倉期の西大寺の仏教美術に大きく影響を与えています。

叡尊は四王堂と宝塔院を中心に西大寺の再建を進め、一部僧堂を兼ねた厨や西僧房・僧堂・八幡宮・沙弥堂などが、彼の存命中に建てられました。その後も真言堂や宝生護国院などが建てられ、天平の草創期に比べだいぶ規模は縮小したものの、現在の境内とほぼ同じ規模の西大寺の姿が出来上がります。

江戸時代からの姿が見られる現在の境内

叡尊の努力によって再建された西大寺ですが、彼の死後は度重なる火災により、次々と失われてしまいます。現在見られる建物のほとんどは、江戸時代に再建されたものです。江戸時代に建てられたのは、本堂・四王院・愛染堂・護摩堂など。四王院は3度目の建立ということになります。現在見られる西大寺の姿は、この江戸時代に再建されたものです。規模も1万坪(約3.3ヘクタール)と、天平創建時の48ヘクタールから見ると、大幅に規模を縮小したひっそりとした伽藍になりました。

往時の絢爛豪華さは見る影もありませんが、天平当時の遺構からその姿に想いを馳せることはできます。本堂の前の地面に並んだ石は東塔跡の礎石。その礎石の大きさと本堂とを比べると、在りし日の塔の壮大さを偲ばせる遺構です。当時の堂宇や塔院に収められていた仏像も、火災や盗難でほとんどが失われてしまい、残っているのは金銅製の四天王像のみ。それも台座の天邪鬼の部分だけで、像全体はのちに作り直されたものです。

聚宝館に収められている寺宝や、現在の堂宇に収められた仏像の多くは、鎌倉時代の叡尊と江戸時代の再建で新たに収められたものです。江戸時代の再建修復では、叡尊の真言律宗の世界観に忠実な、質素だが装飾性のない伝統的な工法で再建されました。本堂は江戸時代後期の大規模な仏像建築として、国の重要文化財に指定されています。

その他にも釈迦如来・阿弥陀如来・阿?如来・宝生如来の4体の木心乾漆像など、多くの国宝や重要文化財があり、一部は東京国立博物館や奈良国立博物館に寄託されています。聚宝館で見られる乾漆吉祥天立像は、創建当時のものではありませんが、所蔵品の中では最も古い部類で平安時代に作られたものです。

現在の西大寺は街中の喧騒のほど近くで、ひっそりと佇む静かな寺院です。政治的な意図が絡み、創建後まもなく衰退の一途をたどり、天平文化の鮮やかで絢爛な姿は、瞬く間に失われてしまいました。叡尊によって新たな世界観を持つ寺院として生まれ変わりますが、それもやはり世の動乱による火災や兵乱で、再び姿を消してしまいます。創建当時と現在の姿に、これほどまで異なる姿を見せる寺院は、現在見られる寺院の中でも稀な部類と言えるでしょう。人の世の儚さを思わせる西大寺の歴史を、当地を訪れた際はぜひ思いを巡らせてみてください。
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