「空海」お寺以外にも色々と逸話あり? うどんや豊臣家との関係など

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真言宗は、弘法大師こと空海が平安時代初期に密教を極めて開いた宗派です。現在、宗派の数は18にも及びます。
真言宗の本尊は大日如来で、この身のままで仏になるという即身成仏(そくしんじょうぶつ)と大日如来がいるという密厳浄土(みつごんじょうど)を説く仏教です。
真言宗のお寺として有名なのは、金剛峯寺・醍醐寺・東寺・泉涌寺(せんにゅうじ)などです。

真言宗とは

804年(延暦23年)空海は遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安にある青龍寺の恵果(けいか)から密教の奥義を学び帰国してから開いたのが真言宗です。
真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)とも称されます。真言宗の経典は、「大日経」と「金剛頂経」の2つが根本経典です。
真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を指しています。弘法大師は、言葉では表現できない隠された深い意味こそが真実の意味であり、それを知ることのできる教えこそが「密教」であると伝えています。
それに対して、「顕教(けんぎょう)」は世界や現象の表面に現れている意味を真実と理解している教えを言います。
密教と顕教の根本的な違いは、この隠された秘密の意味を知る修法(しゅほう)にあるとされます。真言密教の修法は三密加持(さんみつかじ)と言われます。三密とは身密・口密・心密の3つの秘密の働きのことで、この3つが感応して仏と行者が一体となる境地に至る瞑想を言います。顕教とのもうひとつ違いは、仏や菩薩についての解釈の違いです。
顕教の仏や菩薩が悟りを開いたり求めたりする「人」であるのに対して、密教の仏や菩薩は法身仏(ほっしんぶつ)と呼ばれるとおり宇宙(法界)の真理そのものなのです。

高野山全体が境内という金剛峯寺

高野山真言宗総本山である金剛峯寺は、境内総坪数48295坪の広さを誇りスケールの大きさで、ほかに類を見ません。
空海が816年(弘仁7年)に嵯峨天皇から下賜され真言密教の道場として開かれたのが金剛峯寺です。開創されてから1200年の月日が流れました。
2004年(平成16年)には「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成部分として世界遺産にも登録されています。
「金剛峯寺」という名称は、空海が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」というお経より名付けられたと伝えられています。
817年(弘仁8年)空海は弟子たちに命じて伽藍建設を開始しますが、都から遠く離れていてしかも山中であるために困難を極めたと言います。そのため、空海の在世中に完成したものはほんの一部とされています。一般的なお寺の境内は金堂など重要行事が行われる場所がある敷地を指しますが、金剛峯寺は一山境内地といって高野山全体を指します。高野山の本堂は、「金堂」が一山の総本堂になります。

現在、山内には117の塔頭寺院(たっちゅうじいん)が存在していて、52寺は参詣者への宿として提供されています。高野山が発展を遂げるのは、豊臣秀吉が寺領を寄進して亡母の菩提のために山内に現在の総本山金剛峯寺の前身である青巌寺(せいがんじ)を建てて以降です。青巌寺は秀吉の甥である豊臣秀次が自刃した場所としても有名です。
古くは女人禁制の地でしたが、1872年(明治5年)に解禁されました。山中のいたるところで四季折々の自然を楽しむことができます。

豊臣秀吉の花見で復活した醍醐寺

200万坪以上の広大な醍醐寺の境内のなかには、豊臣秀吉が愛した桜と紅葉が色鮮やかに咲き誇ります。
西国一険しい札所と絢爛な伽藍という2つの顔をあわせ持つ醍醐寺は、874年(貞観16年)空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が開山した真言宗醍醐派の総本山です。山号を醍醐山(深雪山とも)と称して、本尊は薬師如来です。
醍醐寺は山深い「上醍醐」を中心に修験者の霊場として発展した後に、醍醐天皇の時代に保護を受けて発展し醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が誕生します。その後、応仁の乱で五重塔(国宝)だけを残して下醍醐は荒廃してしまいます。
しかしながら、豊臣秀吉が1598年(慶長3年)晩年に「醍醐の花見」を開催したことをきっかけに再び注目を集めるようになります。紀州などから寺院が移築され、三宝院が建築されるなどして今日の姿となりました。1994年(平成6年)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録されています。醍醐寺には上醍醐と下醍醐があります。
上醍醐は西国三十三所の第十一札所で、非常に険しい札所として有名です。
下醍醐には、豊臣秀吉の発願により紀州から移築した本尊薬師如来を安置する金堂(国宝)や三宝院といった絢爛な大伽藍が広がっています。
深い森に囲まれている醍醐寺は、森の総面積が約300数10haに及び鳥の声が響き渡ります。
「醍醐の花見」で有名な醍醐寺は、豊臣秀吉が開いた盛大な花見の故事に倣い毎年4月の第二日曜日に「豊太閤花見行列」が開催されにぎわいを見せます。夏には三宝院内の百日紅や、憲深林苑の藤棚、白壁沿いの蓮などがとても美しく咲いてくれて、秋には三宝院や弁天橋の紅葉が鮮やかに彩り楽しませてくれます。

「弘法さん」でにぎわう東寺

東寺は日本で初めて密教寺院として誕生したお寺です。
弘法大師に対する信仰が深まるにつれて、京都における一大信仰拠点となりました。
東寺は、唯一残る平安京の遺構です。真言宗の総本山と言えば高野山にある金剛峯寺のイメージが強いですが、京には東寺真言宗総本山と言える東寺があります。
東寺は平安遷都とともに建てられた国立の寺院である官寺であり、文字どおり初めは西寺とともに存在していました。
西寺は1233年(天福元年)に境内に唯一残っていた五重塔が焼失してからは、水はけが悪い、住民がいなくなったなどの理由により衰退し消滅してしまいます。
東寺は嵯峨天皇の時代に弘法大師に下賜され、京都における密教寺院の中心となります。鎌倉時代以降には弘法大師信仰が世の中に高まったことで、広く信仰を集め多くの天皇や為政者の庇護を受けて栄えます。
東寺は何度か火災に遭ったことで創建当初のまま残る伽藍は存在しませんが、多くの権力者や信仰者の援助によりその都度再建されているので伽藍配置や規模は創立当初のままです。
金堂(国宝)は1603年(慶長8年)豊臣秀頼により、五重塔(国宝)は寛永21年(1644年)徳川家光により再建されています。
東寺では空海の縁日にあたる毎月21日(空海は承和2年(835年)3月21日に入定)に御影供(みえいく)の法要が行われています。御影供の日には回向法要、八幡宮護摩供といった行事が行われるほか、境内全体で「弘法さん」と親しまれている弘法市と呼ばれる市が開催されます。特に12月21日と1月21日の弘法市はそれぞれ「終い弘法」・「初弘法」と呼ばれ、多くの人が訪れてにぎわいます。

皇室の菩提寺として有名な泉涌寺

泉涌寺は、開創は不明瞭ながら鎌倉時代に発展したお寺です。
霊明殿や御座所など皇室ゆかりの建築物を数多く残しています。京都市東山区にある泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山ですが、それ以上に皇室とゆかりがあるお寺として有名です。皇室の菩提寺として、御寺(みてら)泉涌寺と呼ばれています。
泉涌寺は天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び法輪寺と名付けられたことに由来するということになっていますが、明らかにされていません。
その後に、仙遊寺と改名されたと言われています。泉涌寺が有名になるのは、実質的な開基である月輪大師俊?(がちりんだいししゅんじょう)が1218年(建保6年)宇都宮信房からこの地の寄進を受け、宋の方式を取り入れた大伽藍の造営を志したことにはじまります。
1226年(嘉禄2年)に主要伽藍が完成したときに、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めます。この泉は、今も涌き続けています。月輪大師は宋に渡り顕密両乗を極めて北京律の祖と仰がれたすぐれた人物で、当時の皇室、武家からも深い帰依を受けています。大師入滅後も四条天皇崩御の際に葬儀が営まれて山稜が造営されています。
以降、南北朝から安土桃山時代の諸天皇、更に江戸時代の後陽成天皇から孝明天皇に至るまでの歴代天皇・皇后の葬儀が執り行われ、山稜が境内に設けられて月輪陵(つきのわのみさぎ)と名付けられるようになります。泉涌寺境内には中心伽藍と多くの天皇を祀る霊明殿・御座所・庫裏などの建物があり、春は新緑、秋は紅葉に彩られて独特の雰囲気をかもしだしています。
また、日本一美しい観音像とも言われる楊貴妃(ようきひ)観音像(重要文化財)が楊貴妃観音堂に安置されていて女性の人気を集めています。

真言宗と他宗派の違い

学生の皆さん。特に、受験や普段のテストなどで日本史を学んでおられる方々。ある時点でこう思うのではないでしょうか。
「仏教は仏教でしょ、何でいろいろ増やすの?仲良くしようよ」しかし、思想に違いがあるから無数の宗教や宗派が誕生するわけです。
仏教自体、もとはインドでどんどん増え、密教まで誕生しています。
そんななかで、日本でも特に有名な弘法大師こと空海の開いた真言宗と、ほかの宗派との違いを見ていきましょう。

密教

仏教と密教は何がどう違うか、と言えば、「言葉や文字では言い表せない、少し分かりにくくて神秘的で呪術的」なのが密教です。少々ヤヤコシイですね。金剛界、胎蔵界など、世界観も仏教(密教に対し顕教と言われます)よりも複雑です。

空海略歴

774年(宝亀5年)に誕生。幼い頃から神童の誉れ高く、大学に入学しましたが、「大学を出て、役人になって、人生それでいいのだろうか?」と思い悩みます。
そして、ある僧侶の勧めで仏門に入り、あまりにも過酷な修行にも耐え抜きました。20歳のとき、留学僧として遣唐使と共に唐に向かいましたが、嵐に見舞われ目的地とは違う場所に流れ着きます。
遣唐使が都に手紙を送るも返事は来ず。代わって、空海が手紙を書くや、その文才は唐の人物をも圧倒し、ようやく都入りが叶います。その後、恵果という僧侶に師事しますが、このときある儀式を行いました。それは、目隠しをして、蓮の花を曼荼羅に投げるというものでした。
花が落ちた所の仏様が花を投げた人物の守り本尊という、目隠しダーツのような儀式を行った際、大日如来の場所に落下しました。
そこで、密教での法名として、大日如来の別名遍照金剛の名を与えられます。
2年ほどで帰国しますが、20年いなくてはならない規定であったところを10分の1で帰ってしまったため、しばらく都に入れませんでした。
最澄の助けもあって戻ることができたわけですが、時代は政権の移り変わりもある混沌とした世。国を救わんとし、まず許される為に怨霊に悩む嵯峨天皇を安心させるためご供養をしました。
これを機にお上の信頼を得、友人とも言える仲になりました。最澄とは喧嘩別れしてしまいましたが、高野山を終焉の地にして日本密教の修行場に定めます。そこで多くの高僧を輩出し、61歳で亡くなりました。

真言宗

生きたまま悟りを得る即身成仏。
これが密教の根幹です。と言っても荒行などの修行でポンとこの段階になれるのではなく、「あ、仏様が自分の内にいる」と自覚すること、「ああ、段々一体化してきた」と自覚すること、最終的には後光が差したようになるなどの段階を踏みます。一番大事な修行が三密加地で、真言を唱え、心に仏を想い、手で印を結ぶことです。では、他宗派との違いを見ていきましょう。

天台宗

ひととき、空海とも交流があった最澄の開いた宗派である天台宗は、法華経をベースとし、密教や禅の教えも取り込んだものでした。
「荒行などせず、方法はどうでも、仏様になろうと思えばなれるよ」といった考えをもとにした宗派で、比較的入りやすそうです。最大の特徴としては、「自然物も含め、あらゆるものに仏となるためのものが宿っている」という考えがあります。ご本尊はお釈迦様であるとのことですが、いろいろと取り込んでいるので特に決まってはいないようです。天台宗の流れをくむ寺院でも、そこに見合った仏様をお祀りしています。

臨済宗

禅宗のひとつで開祖は栄西です。座禅に代表される修行法で、人々に仏性があることを地関するのが目的ですが、ただ座禅を組めばいいわけではありません。ご本尊はお釈迦様ですが、特に決まってはいません。

曹洞宗

禅宗系の宗派です。ただじっと座禅を組み、雑念を追い払うことで仏性を得、悟りを得るというもの。開祖の道元の考えでは修行イコール悟りなので、「座禅という修行が既に悟りと同じ」ということのようです。

弘法大師 空海の生い立ちと根底にあったもの!最澄との関係は?

弘法大師 空海、と言えば知らない方は多くないかと思います。「弘法も筆の誤り」ということわざからも分かるように真言宗の開祖であるだけでなく、その書は実に自由でかっ達なのびのびとしたものであり、後世にも大きな影響を及ぼしたようです。

空海がなした数々の偉業は、今日の日本の仏教界の礎であると言っても過言ではないでしょう。
ここでは偉人 空海と共に、人間 空海の素の姿にもふれていきたいと思います。

1. 空海・その生い立ち

空海は774年(宝亀5年)香川県に生をうけます。父親は郡司という地方の役人をしていました。12歳のとき京にのぼりましたが、父親の影響か、さまざまな師から学問を師事し、18歳のときには大学寮に入ります。当時の大学は役人のための登竜門でありましたが、役人になるための勉学に少しずつ疑問を感じはじめていた空海は、この頃から山林修行に明け暮れるようになっていきます。

幼いころから仏門に入った最澄とは異なり、得度が31歳とかなり遅かったのは、このような生い立ちの違いからきていると言われています。

唐に留学したときには既に30代になっていた空海でしたが、帰国後は「虚しく往きて実ちて帰る」という言葉を残していることからもうかがえるように、行きは無名の一留学生として入唐しましたが、いかに帰国時には大きな成果があったかを物語っています。

2.仁和寺(京都)と空海

888年(仁和4年)宇多天皇は、空海の甥でもあり直系の弟子でもあった真然の更に孫弟子にあたる益信の弟子となり、仁和寺を創立したそうです。
宇多天皇は897年(寛平9年)御出家され法皇となられました、以後長きにわたり、皇室出身者が仁和時の住職を務めた、という歴史があります。

弘法大師 空海には数多くの弟子がいたと伝えられていますが、なかでも実慧・真雅・真済・道雄・真如などの十大弟子は有名です。
このなかの、真雅の弟子となった真然が空海の甥にあたりますが、のちに高野山で金剛峯寺を創立します。
真然の弟子には源仁がおり、当時東寺にて密教を学びました、この流れを汲んで弟子となったのが益信でこちらの益信の弟子となったのが、宇多天皇です。御室という僧房に住んでいたことから、現在仁和寺は「御室仁和寺」称されています。

ちなみにこちらの仁和寺は、千葉の成田山新勝寺や東京の深川不動尊など全国のそうそうたる真言宗のお寺の総本山であるというから驚きですね。

仁和寺は、宇多上皇がお住まいになっていた当時の皇居でしたので、入り口を入るとかなりの広さに驚かされます。
京都の中心街よりやや離れた、太秦方面ではありますが、その静かなたたずまいは変わることのない1000年級の歴史を感じさせてくれるものでした。

住所:京都府右京区御室大内33
アクセス:JR京都駅~市バス26 約40分
JR京都駅から嵯峨野線に乗り換え「花園駅」下車タクシーにて約5分

3.勝龍寺(京都)と空海

京都長岡京市にある勝龍寺というお寺をご存知でしょうか?こちらのお寺も実は、空海と縁が深いお寺なのです。

戦国時代にはあの明智光秀の娘細川ガラシャが細川忠興と結婚式をしたことでも有名な場所として知られています。
このお寺は806年(大同元年)に空海が開基したお寺です。空海が唐に留学していた当時、唐の長安にある青龍寺で学問を修めたことから、当初、この地に同じ寺名の「恵解山青龍寺」を創立したそうです。

962年(応和2年)、大飢饉が訪れた際、当時の住職であった千観上人が7日間の雨ごい祈祷を行い、見事雨が降り龍神(水の神)に勝った!ということから、青龍寺を現在の「勝龍寺」に改名したということです。ご本尊は十一面観音で国の重要文化財に指定されています。

2006年(平成18年)には「ぼけ封じ観音」が安置され、西日本ぼけ封じ三十三所霊場の第三番霊場、近畿十楽観音霊場の第三霊場と京都洛西観音霊場第十四番札所となっているそうです。

境内を入ると少々こじんまりとした雰囲気ですが、歴史のロマンがしっかりと感じられるお寺です、長岡京市にお越しの際には是非とも足を運んでみてはいかがでしょうか?

住所:京都府長岡京市勝龍寺19-25
アクセス:JR京都線 長岡京駅から徒歩約10分

4. 最澄と空海

空海と並んで歴史の教科書に必ず登場する「最澄」ですが、何かと空海と比較されている場面は少なくありません。
同年代を生きた僧とは言え、宗派が違うのに不思議ですね、二人の間の「交流」とはどのようなものであったのでしょうか?

それでは、まず最澄の生い立ちについて簡単にふれていきます。 滋賀県出身である最澄は12歳のときに仏門に入り、14歳で早くも得度し最澄と名乗るようになりました。 19歳のときには比叡山にて山林修行を積み、21歳で一乗止観院を建立したそうですから、天才であったことには間違いなさそうです。そして、804年(延暦23年)38歳のときには、空海とときを同じくして唐への留学を果たします。

この二人、意外にも、帰国後の806年(大同元年)~813年(弘仁4年)までの7年間に弟子を派遣して密教を学ばせるなど、宗派の垣根を超えて親交を深めた時期があったようです。

ところがあるとき、最澄が「理趣釈経」という経典の借用の申し出をしたところ、空海はあっさりと拒絶。この事件をきっかけに7年間の交流はあっけなく途絶えたということです。 なんとも残念なお話ですね。この天才二人が強力なタッグを組めば、日本の仏教界の歴史は今とはまた一味違ったものになっていたかも知れません。

なぜ、交流が途絶えたのか、詳しいことは分かっていないようですが、幼いころから仏門に身を置いていた最澄。一方、大学で学問を修めてから仏門に入門した空海とでは、仏教をそのものに対する考え方も見方も違っていたからでは?と言われているようです。

いかがでしたしょうか?しかし、空海がこれだけ後世に語り継がれているのは、ただ天才であったからだけではないと思います。
僧侶としてのスタートが遅かったからこそ、並々ならぬ努力をした、その賜物が人気の秘密なのかも知れません。     

1200年前の大天才、空海が伝えた”うどん”と麺の歴史

香川県では、昔からまことしやかに、「うどんは空海さんが中国から持って帰ったんや」とささやかれており、誰もが信じています。
1200年も前のこと、真実は分かりませんが、地元では脈々と語り継がれている、言わば、伝説です。そう言えば全国各地に、ここは弘法大師さんが掘った温泉ですとか、お座りになった岩ですとか、縁起や伝説のあるものがたくさん散らばっていますね。実際は、弟子たちが全国に行脚したという話もあり、この弟子たちが空海の偉大さを、国中に広めていったのかも知れません。

その真偽は別として、何より、空海は香川県善通寺市の生まれ。四国で修業をされたことや満濃池という香川県では一番大きなため池の工事を主導し成功させたことなど、史実として確かに残っています。

それだけに、香川県民にとって空海は、最大の英雄なのです。1200年もの間、真言宗は生き続け、空海は今も高野山において修行していらっしゃると信じられ、現代でも毎日、食事も届けられています。そんな、1200年も前の大天才が伝えたという食べ物がうどんでした。
愛着と誇りを持ち、故郷を代表する食べ物として、毎日の日常食として、香川県民の暮らしに息づいている食べ物がうどんです。地元民にとって、これほどに大切なものはないでしょう。うどん屋さんは、常に研鑽を惜しまずに毎日、理想のうどんを目指して作り続けてくれています。

香川県農林試験場では、地元の小麦を使い、「さぬきの夢」といううどん専用の小麦粉を作り出しました。この、地元にとって大切な郷土食とも言える「さぬきうどん」を小麦の段階から地元で研究し、美味しさの極みを目指しているのです。「さぬきの夢2000」、そして、「さぬきの夢2009」と、たゆまぬ品種改良に余念がありません。この究極の味を目指そうという心意気こそ、長く、美味しい味をつないできた県民たちの誇りそのものなのかも知れません。

空海は、唐の国には仏教や密教の真髄を学びに行きました。決して、食文化の伝道師として唐の国に向かったわけではないでしょう。しかし、その地で見て味わった、うどんの原形となる食品の味わいや知識を持ち帰り、日本の国の民たちに、シンプルでおいしく食べられるものを、ありがたい教義のつまに教えていたとしても、何ら不思議はないように思えます。

また、うどんが全国にほぼ同じ形で普及しているのも、空海の行脚伝説と合わせてみると、つじつまとしてはおかしくない物語と言えるのではないでしょうか。

衆生の食の貧困をも救おうとすることが、種々の苦難に苦しむ人々の身体を直接改善していくことにつながり、さらには、苦悩という心の問題を解きほぐし信心を高めることとなったならば、高僧として日々修行に励んできた僧侶としての冥利に尽きるのではないでしょうか。

うどんという食べ物は、香川県では、今でも100円台から食べられています。シンプルな材料でおいしいという、庶民にとってありがたい食べ物ですね。

添加物を使わずに、小麦粉・水・塩があればでき、これに醤油をかけるだけで食べられる。提供されるスピードも早く、香川県でうどんを食べるのに、長い時間「待つ」という言葉はまずありません。全国から航空運賃や電車賃、宿の代金を出してまでも、食べに来るほどの価値のある「数百円の食べ物」は、ある意味「驚異的」です。空海は、香川県民にとって誇りであり、その、大スターが伝えたと称される食べ物は、ソウルフードでもあると言えますね。

うどんの別称 「ぴっぴ」

地元では、同じさぬきうどんが、ある年代の人が食べるときにだけ名前を変えて呼ばれています。
それは、赤ちゃんのころから離乳食としてもうどんの切れ端を与えられ、幼児期までうどんのことを「ぴっぴ」と呼んでいるからです。このときは、小さなお碗でわずか数本を口にするだけですが、幼児期からうどんに親しみ、生活の一部となっていきます。

代表的な麺の歴史を見てみると

さぬきうどんに限らず、日本の和麺にはどれくらいの歴史があるものなのか、起源を年代ごとに並べてみましょう。

蕎麦 700年以前
蕎麦の歴史はうどんより若干早いようで、奈良時代より前を起源としているようです。蕎麦という植物は、元来、山間部や米作のできない土地のやせた場所に細々と栽培されるもので、日本の津々浦々の国民の生活に実に身近な食べ物であったと言えるでしょう。うどんに勝るとも劣らない、そのシンプルさとおいしさは、日本の和麺の双璧を成していると言っても過言ではありません。

うどん 800年ごろ
うどんは、奈良時代もしくは平安時代の遣唐使によって、もしかすると空海が、伝えられたとされる800年ごろとすると、実に1200年もの歴史ある食べ物です。

素麺 1300年代
形になってくるのは室町時代。昔から暑い季節には細い麺の素麺、寒いときにはあたたまるうどん、というのが定番だったようです。

きしめん 江戸時代 1600年代?1800年代?
江戸時代としか分からないのが、面白いところです。どこの誰が、何のために作ったのか、名前の由来も分からないという麺です。紀州麺からきたという説もありますが、語感的にうなづけるような一説です。

ラーメン 1659年か1880年
徳川光圀が日本で初めて食べたという逸話が1659年(万治2年)に残っているだけで、その後は、明治までスリップし、中華街で1880年(明治13年)ごろに登場します。これを考えると、1880年(明治13年)と考えるのが自然ですね。

スパゲッティ 1928年
スパゲッティは伝わってわずか90年くらいと、ずいぶんと新しい伝来の麺です。当初は、ミートソースとナポリタンくらいしかなかったのも面白い変化です。

とにかく、香川県へ行こう

讃岐うどんを軸にいろいろご紹介させていただきましたが、ぜひ、機会があれば、四国へ旅をされてはいかがでしょうか。
現地で、土地の方言とともに人情や空気を味わい、山々と海が、そこかしこでフィットする光景、そして、うどんの味を楽しんでみてください。ほんのちょっとした瞬間も一生の記憶に残ると思います。太く長い人生を楽しんでください。

空海の人物から見る書法 その背景から筆を学ぶ

最澄に宛てた書簡、『風信帖』で知られる空海。
『弘法大師』と呼ぶことから筆の腕前は言うまでもなくのちの世に広く伝わっていますね。
この空海の書いた書について、その書の特徴や起源などを空海の人物を通して見ていきたいと思います。

空海とは……

空海は、嵯峨天皇、橘逸勢と共に平安時代の『三筆』と呼ばれています。ですが、実はこの呼び方は江戸時代に言われ始めたものです。
江戸時代前期の1678年(延宝6年)に貝原益軒が記した『和漢名数』において記述されています。

さて、空海の書についてその受けた影響を説明しますと、時期としては空海の幼少期にさかのぼります。空海は774年(宝亀5年)に讃岐国の多度郡(現:香川県善通寺市)にて出生。家柄が代々高い地位を誇る豪族である父、郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)で、母は、叔父である阿刀大足(あとのおおたり)が桓武天皇の皇子・伊予親王の教育係を務めたこともあって、空海の生涯に大きな影響を与えたと考えられています。

また、中国の書を深く学んだ空海は、その姿勢が15歳で長岡京に上京した経験から培われたものだと自ら説明しています。

長岡京では伊予親王の教育係であった叔父の阿刀大足から本格的な学問を教わることになり、18歳になった頃には長岡京の大学明経科に入学し、『春秋左氏伝』や『毛詩』などを学ぶ情熱が人智を超越したものであったというのは、『首に縄をかけ、腿に錐を突き刺して眠気を追いやった』という空海本人の言葉から如実にうかがえます。

書家としての逸話

「五筆和尚」とも呼ばれた空海の逸話をご紹介

中国は唐に渡った空海は、805年(永貞元年)に恵果阿闍梨に師事し、密教の全てを伝授されたと言われています。この経歴と書家としての腕を唐の皇帝であった順宗皇帝の知るところとなり、宮殿に召された空海はその壁に文字を書くよう命ぜられました。

その壁はただの壁ではなく、中国稀代の名書家・王義之が生前に詩を書いた所でした。しかし長い歳月が経過したことで王義之の書が消えてしまったため、順宗皇帝が空海に新たな書を書くよう命じました。

五筆和尚の名前。それは、このときに空海が王義之の五行の詩を左右の手足と口を用いて5本の筆で同時に書いたことに由来します。また、空海が別の一間に墨汁を注ぎかけると巨大な『樹』の字が浮かび上がったことに順宗皇帝が大変驚き、空海に「五筆和尚」の称号を与え、さらに菩提樹の種で作った数珠を賜ったそうです。

また、空海は「楷書・行書・草書・隷書・篆書」の5種類の書体に通じていたため、多くの書体を使い分けていたこともこのゆえんと言われています。

「弘法筆を選ばず」とは

能筆家の空海は弘法大師と呼ばれています。
どのような筆を持って書いても立派な書だったとされる空海。その偉業から、その道の名人や達人と呼ばれるような人が道具や材料を選り好みせずに見事に使いこなすことを言います。

「弘法も筆の誤り」とは

空海は嵯峨天皇の勅命により応天門の額を書きましたが、この際「応」の字のなかの「心」の一番上の点をひとつ書き落してしまいました。
そこから、弘法のような書の名人であっても書き損じることもあると、失敗した際の慰めとしてこの句が使われるようになったそうです。

空海の書風

空海は幼少期より書に親しみ、王義之(303~361年)の書を学んでいたことは有名です。
遣唐使として唐に渡った際には多くの所論を読み、能筆家と交流を持ち、知識や技能を吸収しました。

また、空海の筆跡を見ると書風としては王義之の書に唐の時代に現れた書家・顔真卿(がんしんけい)(709~785年)の書法を加え、空海の個性を加えたという2人の偉人の影響を受けた書風であると言えるようです。

上で述べたように「楷書・行書・草書・隷書・篆書」といったさまざまな書体に優れていたそうで、当時唐で流行した飛白(ひはく)という刷毛状の独特の筆でかすれたように書く技法もいち早く取り入れました。これは、後漢の蔡よう(さいよう)が創始したとされています。

空海による編纂

こちらは、『梵字悉曇字母并釈義』というもので、空海が梵字の研究書として鎌倉時代に幕府の庇護を受け、高野山で作られた高野版になります。1351年(正平6年)、翌1352年(正平7年)頃に出版された一連の仏典のうちの一冊になります。

空海が編纂したこの『梵字悉曇字母并釈義』は、日本における歴史上初のサンスクリット字典でした。このなかにはインドの古典語であるサンスクリットの字母表(アルファベット表記)のほか、その字に含まれる意味などが文法書のように書かれています。

灌頂歴名(かんじょうれきめい)(高雄山寺(神護寺)において灌頂の儀式を執り行った際に伝法を受けた人の名簿)

こちらは空海が記録のために筆記したもののため、写経のような形を残そうとしたものではありませんが、筆に任せた書であっても王義之や顔真卿から受けた力強い筆運びは変わりません。

現在も続く空海の偉業

『弘法大師御遺告』

こちらは空海が入定に先立ちその6~7日前に弟子に与えた遺誡の書です。
即身成仏を説いた空海は、隷書の味を持たせ、我が身が仏となることを是と考えているのがよく分かります。

『空海筆を下せば文成り、書法に於いて最もその妙を得たり』
続日本後記835年(承和2年)に書かれているように、現代だけでなく歴史上においても空海の書がいかに素晴らしいものであったかを物語っています。

空海のように、五筆(楷書・行書・草書・隷書・篆書)に長けたという書家は数少ないでしょう。

唐にわたり、異文化や歴史を勉強してこそ得られた経験と、空海自身の勉学に対する熱心さの賜物と言えます。
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