都会の中のオアシス! 自然豊かな「目黒不動尊」にお参りしよう!!

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東京都目黒区にある目黒不動尊は正式名称を泰叡山瀧泉寺と言い、天台宗のお寺です。
熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と並び、『日本三大不動尊』のひとつです。 開基も1100年以上前で、霊験あらかたなお寺として人々の信仰を集めてきました。 近年でもパワースポットとして注目を浴び、その名をとどろかせています。 今回は目黒不動尊の魅力をたっぷりとご紹介します!!

将軍や武士から信仰された目黒不動尊のすごさとは?

目黒不動尊の開基は1200年前の808年(大同3年)です。
当時、15歳だった僧侶・円仁が師匠の広智阿闇梨とともに、故郷の下野国(現在の栃木県)から比叡山の天台宗座主・最澄のもとへ向かっていました。 そこで目黒に寄り、寝床を確保してその夜は泊まることにしました。 すると夢の中で、顔面が青黒く、怒っているような形相で右手に降魔の剣を持ち、左手に縛の縄を持っている神人が枕元に立ちました。 その神人は「私は衆生を救うためにこの地に留まり、魔を伏せ、国を鎮めようと思っている。私を信仰する者には、諸願成就させよう」と告げたのです。 目を覚ました円仁は、その枕元に立った神人を思いながら像を彫刻して安置したのが目黒不動尊の始まりです。

それから円仁は唐(現在の中国)の長安に行き、青竜寺の不動明王像を見たときに夢の中で見た神人が不動明王であると知りました。 日本に帰った円仁は、目黒の地に堂宇を建て、自分が彫った不動明王像を安置したのです。 それ以来、目黒不動尊は人々の信仰を集めました。 特に有名なのが、江戸幕府第3代将軍 徳川家光です。 目黒で鷹狩りをしていた家光でしたが、自分の鷹が遠くまで飛んでしまい、いなくなってしまいました。 そのとき、目黒不動尊に祈願したところ、たちまち鷹が本堂前にある松樹(鷹居の松)に飛び帰ってきたのです。 家光は喜び、目黒不動尊への恩返しとして諸堂末寺あわせて53棟の建物を復興させました。 その建物は『目黒御殿』と呼ばれるようになり、庶民も一目見ようと駆けつけたのです。

それ以降も二宮尊徳は報徳仕法の成功を祈願したり、西郷隆盛は主君である君津斉彬の病気平癒を祈願したり、東郷平八郎は日本海海戦の勝利を祈願したり……。 それぞれの願いは叶えられ、目黒不動尊の霊験あらたかに信仰はますます広まり、崇敬されました。

今では毎月28日の縁日があり、門前や境内に露店がたくさん出て、たくさんの参拝者でにぎわいます。 皆さんもぜひ、28日にお参りしてくださいね!

独鈷の滝と水かけ不動尊を見逃さないで!

本堂へ向かう階段の側に『独鈷の滝』と『水かけ不動尊』があります。
目黒不動尊を建てた円仁が、お寺の敷地をどこにするか決めるために持っていた法具の『独鈷』を投げると、泉が湧き出てきたのです。以来、この泉はどんな天災が起きても枯れることなく、今も絶えずに湧いているのです。昔は不動行者の水垢離の道場として利用されていました。
今では滝の前の『水かけ不動明王』が参拝者の身代わりとなって水を浴び、願いを叶えてくれると言われていて、参拝者の方々は水をかけて祈願しています。水をかけることで心が清められるので、ぜひお参りしてくださいね。

干支を守る本尊が安置されている

目黒不動尊には、守護本尊が祀られています。
守護本尊とは、人の一生を守り続けてくれる仏様のことで、干支ごとに決まっています。 目黒不動尊には十二支すべての守護本尊が安置されているので、自分の干支にちなんだ本尊をお参りしてくださいね。

子年……千手観世音菩薩(観音堂内右)
丑年・寅年……虚空蔵菩薩(大本堂内右)
卯年……文殊菩薩(大本堂内右端)
辰年・巳年……普賢菩薩(大本堂内左端)
午年……勢至菩薩(勢至堂内正面)
未年・申年……大日如来(大本堂裏手)
酉年……不動明王(大本堂内正面)
戌年・亥年……阿弥陀如来(阿弥陀堂内正面)

『江戸城を守護する』江戸五色不動にお参りを!

江戸五色不動とは、諸説ありますが、家光が江戸城を中心とした府内の不動尊を五方角を色で示して、『江戸城を守護する』『天下泰平』のために指定したものです。 それぞれの不動尊は、五街道沿いやその近くにあります。(目黄不動尊は2つ)
目黒不動尊もそのひとつでどれも東京都23区内にありますから、自転車や車・電車で回ることができます。 ぜひ、江戸五色不動尊を巡礼してみてくださいね。

○教学院(目青・江戸城)(天台宗)
〒154ー0004
世田谷区太子堂4ー15ー1

○最勝寺(目黄・水戸街道)(天台宗)
〒112-0035
江戸川区平井1ー25ー32

○永久寺(目黄・日光街道)(天台宗)
〒110ー0011
台東区三ノ輪2ー14ー5

○南谷寺(目赤・中山道)(天台宗)
〒113ー0021
文京区本駒込1ー20ー20

○金乗院(目白・甲州街道)(真言宗豊山派)
〒171ー0033
豊島区高田2ー12ー39

○瀧泉寺(目黒・東海道)(天台宗)
〒153ー0064
目黒区下目黒3ー20ー26

いかがでしたか。
目黒不動尊は都会のなかにあるとは思えない、静かで緑がたくさんあるお寺で、忙しい毎日を過ごす現代人を癒してくれます。 そして、不動明王のような強さもいただけることでしょう。都会の喧騒を忘れて、お参りしてはいかがでしょうか。

願いを込めて水をかけると、その願いが叶います、関東最古の不動霊場、目黒不動尊

目黒不動尊は東京都目黒区下目黒にある、天台宗のお寺です。一般的に目黒不動尊という名称で親しまれていますが、「泰叡龍泉寺」が正式名称になります。

歴史としては、円仁が下野国(現在の栃木県)から比叡山に向かう途中に不動明王を安置して創建したと言われています。円仁は天台宗の開祖である最澄の弟子でありますが、15歳の時に比叡山延暦寺へ向かい、最澄に師事したと言われています。円仁は15歳の時に、最澄に会いに比叡山へ向かっている途中でこの不動明王を建てたわけです。目黒不動尊縁起によれば、円仁は比叡山に行く途中、目黒で宿を取り、そこで不動明王の夢を見たのでその像を彫り、像を安置したとされています。

今回はそんな歴史を感じながら、関東最古の不動霊場であり、本尊の不動明王は日本三大不動にも数えられる、そんな歴史ある目黒不動尊をご紹介していきたいと思います!

目黒不動尊は江戸時代から行楽地であり、街をお守りする役目を果たしていました

江戸時代のころ、都市計画が行われた際に、鬼門と裏鬼門を守るお寺が配置されました。鬼門(北東)の方角には上野の寛永寺が、裏鬼門(南西)の方角にはこの目黒不動尊が配置されました。さらに同じ時期、江戸城を囲むように目黒不動・目赤不動・目白不動・目青不動・目黄不動の五色の不動尊が配置されました。すなわち、目黒不動尊は江戸を守る防波堤の役割として機能していたのです。

また、徳川幕府からの保護も厚く、江戸有数の行楽地としてにぎわいを見せていました。毎月28日には縁日が開かれ、多くの露天商でお寺がにぎわいます。その中でも10月28日には甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学芋を販売する露店が多く現れ、縁日が大いににぎわいます。これはサツマイモの先生として知られる青木昆陽をしのんでのお祭りとされています。(青木昆陽のお墓が同寺にあります)

江戸城の結界として機能し、さらに江戸有数の行楽地としてもにぎわいを見せていた目黒不動尊、現在も大勢の参拝客でにぎわっています。

目黒不動尊のみどころ

見どころの多い目黒不動尊ですが、かいつまんでオススメのみどころをご紹介していきたいと思います!

【仁王門】
目黒不動尊の入口です。飲食店が立ち並んでいる道路をしばらく進んで交差点を右に曲がると仁王門が見えてきます。路線バスがひしめくなかに、堂々とした構えを見せています。この仁王門を抜けて不動尊本堂へ登る石段の左側に、次にご紹介する独鈷の滝があります。

【独鈷の滝】
円仁が長安の青龍寺に滝があったのを思い出して、試しに独鈷(密教で使う仏具の一種。金属製で両端がとがっており、手で持って煩悩を打ち砕きます)を投げつけてみたところ、そこから泉が湧いて滝が現れた、と伝えられている独鈷の滝です。一年中水が枯れることはなく、本堂へ祈願するための修行をする場であったとも伝えられています。

【水かけ不動明王】
独鈷の滝の下にある池の中に佇んでいるお不動様が、「水かけ
不動明王」と呼ばれて親しまれています。お不動様の近くにはひしゃくが置いてあり、お不動様に水をかけるとご利益があるとされています。水をかけてから熱心にお祈りをすれば、何かいいことがあるかもしれません。

【大日如来坐像】
石段を登り、不動尊本堂までたどり着くと、その裏には大日如来坐像が祀られています。大日如来とは密教の仏であり、全ての生物を生成するはたらきがあり、私たち人間はこの仏から生まれ、この仏に帰るとされています。

目黒不動尊に祀られるこの大日如来坐像は江戸時代に制作されたとされており、大衆により寄進されました。大衆も生きている間に大日如来の命に触れると仏になるとされており、そのために修行をして「即身成仏」することが勧められています。かつての大衆も、即身成仏することを求めてこの目黒不動尊に大日如来坐像を寄進したのかもしれません。

【愛染明王】
縁結びの神様である愛染明王、実は明王の最高位にあたるのが愛染明王であり、不動明王と愛染明王を一対にすれば苦しみのすべてを救いとれると言われています。従って、この2つの明王を一緒に祀る場所が多く、この目黒不動尊もそのひとつの地であります。

【恵比寿神】
「山手七福神」のひとつであり、七福神めぐりの最初がこの恵比寿神であるとされています。ご存じの通り、商売繁盛・福運の神様として信仰されています。お参りをすればご利益があるかも知れません。

いかがでしたでしょうか?
江戸を守護し、日本人にとっての行楽地ともなっていた目黒不動尊、非常に歴史を感じさせてくれる場所であると思います。
都会の喧騒から離れて歴史に思いをはせたいという方、水かけ不動に水をかけてご利益を得たいと思う方、是非とも目黒不動尊を訪れてみてくださいね!

アクセス

電車
東急目黒線「不動前」駅下車徒歩15分
JR山手線、東急メトロ南北線、都営地下鉄三田線、東急目黒線「目黒」駅下車徒歩約20分

バス
東急バス72系統「目黒不動尊」バス停目の前

※電車でのアクセスは悪いので、渋谷駅からバスで行くことをオススメいたします。

・駐車場
無料(5台)

・拝観料
無料

・拝観時間
境内自由。

※護摩時間
日曜、および8日と18日から。受付は15分前まで。
毎月28日は10:00、11:30、13:30、15:00、16:30、18:30よりそれぞれ行っております。また、28日は縁日があり、露天商が終日出ていてにぎわいがあるのでオススメです。

・住所
〒153-0064
東京都目黒区下目黒3-20-26

・電話番号
03-3712-7549

隠れた主役がたくさんいる目黒不動尊

「泰叡山護国院瀧泉寺」が目黒不動の正式名称

目黒不動尊は「さんま祭り」で有名な目黒にあり、正式名称を泰叡山護国院瀧泉寺(タイエイザンゴコクインリュウセンジ)と言い、人々からは目黒不動尊と呼ばれ親しまれています。不動尊までは目黒駅からではなく、東急目黒線でひと駅離れた「不動前」が最寄り駅です。比叡山の延暦寺を総本山とする天台宗の寺院で、東京都にはほかにも162の寺院があります。

目黒不動尊の寺伝によると、9世紀の初めに円仁が不動明王を安置したのがはじまりとされていますが、同じ円仁開基の言い伝えを持つ寺院は数多く、目黒不動尊についてもその真偽は定かではありません。とは言え、この地に古くから信仰の場があったであろうことは、大本堂の裏手に地主神が祀ってあることからも間違いなさそうです。もっとも境内に地主神を祀るのは、山王信仰のスタイルにもなっているので、単にそれを踏襲したという見方をする意見もあるようです。

江戸の守護・関東の五色不動のひとつ

山王信仰のひとつとしての側面のほかに、目黒不動尊には江戸の守護と言われる「五色不動」のひとつとしての側面もあります。五色不動はその名前に「色」の文字が入った、目黒不動・目白不動・目赤不動・目青不動・目黄不動の五つの不動尊を指した呼び名です。5色あるので五色不動ですが、目黄不動は2つ残っているので、実際には6つの不動尊があります。

五色不動は天海大僧正が江戸城の鎮護のために設けたとも言われていますが、その真偽は未だによく分かっていません。いろいろな推測が説かれていますが、これだという決定的な説や証拠が登場していないためです。天海大僧正は江戸幕府の側近として、幕府の行う政策にも意見を述べる立場だったことを考えると、宗教的に江戸の鎮護のために寺院を設置したというのも、あながち間違いとも言い切れませんね。実際、展開は家康の名を受け、幕府を開く地を選ぶときに、四神相応に基づいて判断し、江戸の地を選んだと言われています。この四神相応というのは、中国の陰陽五行説で風水のように方角を基本とした考え方です。

五色不動も五行にならい、5つの色を当てはめて江戸の守護としたと言われていますが、各不動の位置が五行の形をなしていなかったり、目黄不動が2つあったりと、全てを解き明かしているわけではありません。五色不動と呼ばれるようになったのは江戸時代が終わってからという点や、各不動尊の成立時期が異なっている点を考え合わせても、単なる都市伝説なのではないかという見方も強く残っています。とは言え、怪僧との異名を持つ天海大僧正が絡んでいるなら、何か隠された秘密があるに違いないと思う気持ちも分からなくはありません。

不動明王アチャラ・ナータは大日如来の化身

目黒不動の本尊の不動明王はサンスクリット語でアチャラ・ナータ。密教で信仰される五大明王のなかのひとりです。降三世明王(ゴウザンゼミョウオウ)・軍荼利明王(グンダリミョウオウ)・大威徳明王(ダイイトクミョウオウ)・コンゴウヤシャミョウオウ(金剛夜叉明王)を四方に従え、中央に位置する五大明王のなかでも重要な位置を担っています。

密教での信仰の中心である大日如来の化身とされ、不動明王を祀る寺は「お不動さん」や「不動尊」と呼ばれ、日本各地に広まっています。不動明王はもともとヒンズー教の神様で、最高神シヴァ神の別名がアチャラ・ナータであることから、シヴァ神ではないかと言われています。ほかの宗教を取り込むときによく見られる方法で、密教がヒンズー教を取り込む際に、大日如来の眷属としたのだろうというのが通説です。アチャラは「不動」ナータは「守護者」を意味する言葉で、不動明王の名前にその意味を残しています。

寺の名前にもある独鈷の滝

大本堂の裏にある見逃せない小宇宙

大本堂の裏手にある大日如来の銅像も見逃せません。以前は何もないところに露座していましたが、現在は立派な屋根がかかっています。黒光りする体に金の御幸と装飾品をまとった姿が、光を浴びると一層輝きを増し浮かび上がるようです。大日如来は仏教でいうところの「宇宙の中心」もしくは「宇宙」そのものとされています。覆っている屋根の内側を見ると、北極星を中心にして28の星座が描かれ、このために屋根を付けたかのようです。

さらに注意深く見て見ると、周囲には広目天・多聞天・持国天・増長天の四天王が四方を固めて守っています。大日如来のさらに奥には地主神も祀られ、この大日如来を中心とした小宇宙が形成され、まさにこここそが目黒不動尊の中心となっているのです。

見所がたくさん

境内には他にも山伏の祖と言われる役行者の像や、サツマイモで有名な青木昆陽の墓碑、縁結びの愛染明王など、まだまだ見所がたくさんあります。近くには昭和35年開業のうなぎ専門店「八つ目やにしむら」があり、ここのうなぎを目当てに目黒不動尊を訪れる人もいるそうです。目黒駅へもゆっくり歩いて15~20分程度、反対側の自然溢れる林試の森公園も徒歩10分圏内です。

目黒不動尊の周囲には他にも寺院が多く、地域の住民と寺院は古くから強く結びついていたようです。現在でも寺院に対する地元住民の信仰は厚く、古くからよい関係を築き上げ、親しまれてきたことが感じられます。目黒不動尊を訪れた後は、周囲の町並みにも目を向けて歩いてみてください。きっと何か温かい雰囲気を感じ取れるはずです。

目黒不動尊は日本三大不動尊のひとつです

不動尊とは

不動尊とは、大日如来の教令輪身(きょうれいりんしん、教えのために変身する姿)とされる不動明王の尊称です。
五大明王の中心に位置しており東に降三世(ごうざんぜ)、南に軍荼利(ぐんだり)、西に大威徳(だいいとく)、北に金剛夜叉(こんごうやしゃ)の各明王を配置する場合が多く見られます。
日本の最古の不動明王像は東寺の御影堂に、同じく日本最古の五大明王像は東寺の講堂に安置されています。
不動明王は、火炎を背に右手に剣をとり左手に縄を持って怒りの形相をしています。密教経典によると、不動明王は釈迦が悟りを開くために菩提樹の下で坐禅中に煩悩を焼きつくしている姿とされます。

円仁(えんにん)により創建されたという目黒不動尊

寺伝によれば、平安時代の808年(大同3年)円仁が下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したとされています。
円仁は入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)のひとりで、開基もしくは中興開山したとされるお寺は、浅草の浅草寺や山形市の立石寺、松島の瑞巌寺など関東に200以上、東北に300以上あるとされ仏教界にかなり貢献した人物です。のちに天台座主第三祖となっています。
円仁というより慈覚大師(じかくだいし)として名前が知られているのではないでしょうか。
最澄に仕えた弟子のなかで最も優秀で、止観(法華経の注釈書)について最澄の代講ができる唯一の人物とされています。
現在、当山の不動明王像は秘仏として十二年に一度、酉年に開帳されています。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜されて、山号を泰叡山としています。

「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めた江戸時代

1630年(寛永7年)目黒不動尊は寛永寺の子院である護国院の末寺となり、徳川家康の側近であった天海大僧正の弟子である生順大僧正が兼務するようになります。
先にお話したように、三代将軍徳川家光が1634年(寛永11年)に造立53棟に及ぶ大伽藍は華麗を極め「目黒御殿」と称されるほどでした。
そして歴代の将軍が折々に参詣し、庶民も大挙して詣でて江戸随一の名所となっていきます。
また、家光は天海大僧正の建言により五色六ヵ所の江戸五色不動を配置させて江戸城守護や江戸城五方の方難除け、五街道の守護に当てたとされています。
江戸三大不動とは、古くから目黒不動尊・目白不動堂・薬研掘(やげんぼり)不動院のことを言います。
1812年(文化9年)に湯島天神とともに始まった富くじも有名で、1817年(文化14年)にはじまった谷中の感応寺(現在の天王寺)と合わせて、「江戸の三富」と称され人気を博しました。
富くじは1842年(天保13年)の天保の改革まで続き、目黒不動尊の隆盛に合わせて門前町も発達します。門前町の名物は、餅花という、細い竹にしんこ餅を付けた物や粟餅・目黒飴・目黒の名産であった筍を使った筍飯でした。
江戸時代に一般庶民の行楽地として親しまれた様子は、江戸名所図会(えどめいしょずえ)に描かれています。

甘藷先生

甘藷先生とは、サツマイモの栽培を広めた江戸中期の儒者である青木昆陽のことです。
青木昆陽は8代将軍徳川吉宗の命を受け下総国や上総国の各地区でサツマイモの栽培を普及させて、天明の大飢饉で多くの人々の命を救ったと評されています。
1736年(元文元年)には薩摩芋御用掛、1739年(元文4年)には御書物御用達を拝命しています。その後、蘭学を学び長崎に行き、「和蘭文字略考」「和蘭文訳」などを著しています。
「解体新書」で知られる前野良沢は昆陽の弟子とされています。目黒の土地を愛した昆陽は、当山の墓地に眠っていますが、お墓に自ら『甘藷先生墓』と書き、生前に立てさせたと言われています。そのお墓が今は国の史跡に指定されています。
毎年10月には当山の縁日に当たる28日に甘藷先生の遺徳を偲ぶ『甘藷まつり』が開かれて、多くの参拝客でにぎわいます。

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