《40歳差!良寛と貞心》おちゃめな老僧と美しき尼の不思議な恋物語

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子供とまり遊びに興じ、粗末な庵に暮らす良寛。恋とは程遠いような良寛ですが、晩年になってひとつのロマンスが訪れます。ロマンスといっても、ロミオとジュリエットのように燃え上がるような恋ではありません。良寛の恋もまた良寛らしいのです。気になる相手は、良寛に弟子入りを申し込んできた、美しき尼僧、貞心でした。貞心は寛政10年(1798)の生まれ、一方の良寛は宝暦8年(1758)の生まれ。なんと二人の歳の差40!

 およそ恋とは無縁に見える老僧良寛と、良寛の孫ほどの若さ、そして美しさをもつ貞心とが、いったいどのような恋を育んだのか。常識はずれの二人の恋は、恋に煩う現代人のヒントとなるかもしれません。

1. 良寛と貞心の出会い

良寛のもとを貞心が訪ねてきたのは文政10年(1827)のこと。良寛の人柄を慕って、貞心が弟子入り志願にやってきたのです。しかし、あいにくその時、良寛は不在でした。そこで、貞心は良寛へのメッセージとして次のような歌を手まりに添えて残しました。

師常に手まりをもて遊び給うとききて奉るとて、
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つきや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ
(良寛先生は手まりでお遊びになられると聞きましたので、差し上げます。
この手まりというものが、仏の道を逍遥しながら、ついても尽きることのない仏の法というものなのでしょうね。)

 秋になって島崎(現在の長野県長岡市島崎)に戻った70歳の良寛は、貞心からの手まりに添えられた和歌を見て、良寛らしいこんな返歌を送りました。

御かへし
つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや)九の十(ここのとお)
十(とお)とをさめて またはじまるを
(お返事申し上げます。
手まりをついてみなさい。ひふみよいむなやここのとお、と、十でおわって、またはじめから。この繰り返しこそ、「御法」ですよ。)

一二三四五六七八は、手まりを数えるときの掛け声で、良寛の得意技。別のところでは「ひふみよいむな 汝は歌ひ 我はつき 我は歌ひ 汝はつき つきて歌ひて」と詠んでいます。一見すると手まりのつき方を詠んでいるだけのようですが、「十とをさめて またはじまるを」というところに、「御法」(輪廻思想でしょうか。)を匂わし、貞心の問いに答えています。

 こうして、良寛の大好きな手まりを使った、貞心の弟子入り作戦はみごと成功を収めたのです。

2. 老僧と尼僧の異色デュエット

 貞心尼が編纂した歌集『はちすの露』には、良寛と貞心の息のあった和歌のかけあいが記録されています。まずは貞心が良寛とであったときの感慨から生まれた一首。

貞心:はじめてあい見奉りて
君にかく あい見ることの うれしさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ
(良寛先生に、このようにお目にかかることの嬉しさは、さながら覚めない夢のなかにいるかのようです。)

 まるでアイドルに対面したファンのようなストレートな表現に対して、良寛は次のような返歌をしました。

良寛:
夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに
(夢のような儚い世の中にあって、少しくうとうとしながら、夢を語るにせよ夢を見るにせよ、あるがままに。)

  「夢かとぞ思ふ」という貞心の表現を受けた一首ですが、貞心のストレートな想いに比べると、ホワーンとしたつかみどころのないところが良寛らしい、と言えるでしょうか。とにかく世の中、人生というものは夢のようだから、なるようにまかせましょうや、という年長けた者の力みのないやんわり感と、「うれしい!夢のようだわ!」という若い女性の力強い熱情、この対照がなんともほほえましいではありませんか。
次のかけあいは、良寛のちょっとした歌から始まります。

良寛:
いづこへも 立ちてを行かむ 明日よりは からすてふ名を 人の付く
(どこへでも飛び立とう、明日からは。「からす」と名付けてもらったのでね。)

この歌は、良寛が旅先で「からす」とあだ名されたことが背景となっています。出家人が着る墨染の衣に、日焼けた肌、と全身真っ黒の良寛を、人々は「からす」に見立てたのです。このあだ名は良寛の気に入ったようで、この歌が詠まれました。この歌を聞いた貞心は、次のような歌を詠みました。

貞心:
山がらす 里にい行かば 子がらすも いざないて行け 羽根よわくと
(山がらすこと、良寛先生がここを立つのであれば、子がらすこと、わたくし貞心もつれていってくださいな。羽は弱くて頼りないかもしれませんが。)

 お誘いを受けた良寛は困惑。なにしろ真っ黒のからすに紛うばかりの老僧良寛が、見目麗しい貞心と一緒に行脚していると、周りから変な目で見られることは間違いないからです。そこで、弱った良寛は思いを歌に詠みました。

良寛:
誘いて 行かば行かめど 人の見て あやしめ見らば いかにしてまし
(あなたを誘って行くなら、まあ行ってもいいですが、人々から変な目で見られたらどうしましょうか。)

 「人目を気にするなんて良寛先生らしくない」と思ったかどうかわかりませんが、貞心は逡巡する良寛をピシっとたしなめます。

貞心:
鳶はとび 雀はすずめ 鷺はさぎ 烏はからす 何かあやしき
(鳶同士、雀同士、鷺同士、烏同士、一緒にいたからって、なんのおかしいことがありましょうか。)

相変わらず力強い弟子のプッシュにたじたじの良寛でした。

3. 最後の恋

 どちらかとおされ気味の良寛でしたが、しだいに貞心に心ひかれていきました。70歳を超えて始まった晩年の出会いは、良寛の心をうるおし、若々しい歌を生み出しました。

あづさ弓 春になりなば 草の庵を とく出て来ませ 逢ひたきものを
(春になったならば、草の庵を出て早くおいでなさい。逢いたいものだなぁ。)

会いたいという素直な気持ちを詠んだ歌ですが、すでに70歳をこえ、貞心と会える時間が残り少ないという予感もあったでしょう、良寛の切実な思いもひしひしと伝わってくる一首です。

 天保元年(1830)の12月、良寛の容体悪化を知らされた貞心は、急いで師のもとへ駆けつけます。良寛は病気で苦しむ様子も見せず、待ち焦がれていた貞心を見るや、その喜びを歌に詠みました。

  いついつと 待ちにし人は 来たりけり いまは相見て 何か思はむ
(いつかいつかと待っていた人は、とうとうやってきた。いまこのように逢うことができて、なんの思い残すことがあろうか。)

この再会からまもなく良寛は天保2年(1831)の1月、74歳で亡くなりました。残された貞心は、良寛の墓を建て、二人の思い出を『はちすの露』にまとめました。

 良寛と貞心、師弟のようでもあり、親子のようでもあり、恋人のようでもある二人の不思議な関係は、和歌(と手まり)に始まり、和歌に終わりました。二人が思いを素直に伝えられたのは、和歌のおかげかもしれません。「あるがままに」という良寛の望みは、きっと叶えられたことでしょう。

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに

岡山県倉敷市ゆかりの良寛をはじめとする有名人をご紹介!時間

 「歴史ロマン薫る天領のまち」、「歴史と生活感が絶妙に調和したまち」、岡山県倉敷市の観光サイトは倉敷市をこう表現しています 。古くから水運の要として栄え、源平合戦における水島の戦いの舞台になった歴史をもち、戦後は水島コンビナートをはじめとする工業の発達や、瀬戸大橋の開業、観光業などを通じて繁栄を続け、人口50万近くを数える大都市となりました。

 「歴史と生活感が絶妙に調和したまち」という看板に偽りはなく、倉敷市には歴史が生活のなかに溶け込み、様々な史跡が残されています。今は亡き歴史上の有名人が身近に感じられるような史跡や記念館も数多くあります。そこで、倉敷の地に暮らし、倉敷の地にその足跡を残した歴史上の有名人たちを紹介します。さすが歴史のまちだけあって、倉敷出身の著名人は多く、そのうちのほんの一部しか紹介できません。そのため、現代の倉敷ともゆかりの深い人物を重視しました。

良寛

 良寛といえば、国上寺の五合庵と、越後国新潟のイメージが強いですが、遥か西国、倉敷の地とも非常にゆかりのある人物です。

 越後の名主の長男として家を継ぐことを嘱望されていた良寛こと山本栄蔵でしたが、突然出家しました。出家後も周囲の反発は強く、身を寄せる場所のなかった良寛は、安永八年(1779)、良寛22歳のとき、良寛が「生涯の師」と敬愛してやまない国仙和尚に出会います。良寛は国仙和尚に引き連れられて、備中玉島、いまの岡山県倉敷市の曹洞宗の寺院「円通寺」に行き、その後12年にわたる托鉢僧としての厳しい修行生活を始めました。

 円通寺での生活は良寛にとって僧侶としての指針を決める上で大切な期間となりました。円通寺では良寛は家々を托鉢して暮らし、厳しい修行生活を送りました。次に掲げる五言律詩は円通寺での修行生活を詠んだもの。(読み下し)

円通寺に来りて自り
幾度か冬春を経たる
衣垢つけば聊か自ら濯ひ
食尽くれば城いんに出づ
門前千家の邑
更に一人をも知らず
曾て高僧の伝を読むに
僧可は清貧を可とせり
(『良寛』旅と人生 角川ソフィア文庫より)

「清貧」は良寛の人生を一貫するテーマとなりました。現在、円通寺では良寛を偲び、毎年満開の桜のした「良寛茶会」が行われています。

大原孫三郎

 明治時代以降の倉敷市で最も影響力のあった人物はこの人といっても過言ではないのが、実業家大原孫三郎です。倉敷紡績(クラボウ)の社長大原孝四郎の息子として、孫三郎は生まれました。兄が次々に亡くなったため、孫三郎は大地主一家の嗣子となりました。しかし、若き孫三郎は東京で放蕩生活の末、借金を抱えてしまい、学業も怠りがちであったため、倉敷に引き戻されて謹慎する身となりました。この謹慎中に孫三郎は、岡山孤児院を創設した人物として知られる石井十次(1865-1914)に出会い、生涯の影響を受けました。

1906年、父親を継いで倉敷紡績の社長となった孫三郎は、従業員の労働環境の向上に努め、孤児院の支援といった社会福祉活動にも積極的でした。石井十次の孤児院を拡大したほか、1919年には社会問題の研究機関として「大原社会問題研究所」を、1923年には倉敷に病院(現在の倉敷中央病院)を建てるなど、その活動は大規模かつ広範囲にわたりました。実業家としては、城山三郎の伝記のタイトルにもなった「わしの眼は十年先が見える」という名言どおり、大原の設備投資が功を奏し、倉敷紡績に成長をもたらしました。そのほか、中国合同銀行を頭取として率い、蒸気から電気への動力シフトを行いました。現在のクラレは、1926年に大原が設立した倉敷絹織に端を発します。

 大原孫三郎の活動は美術にも及びました。彼は画家児島虎次郎のパトロンでもありました。昭和5年(1930)、大原は若くして亡くなった児島虎次郎を記念して、大原美術館を設立しました。所蔵品は東西問わず多岐にわたり、代表的なコレクションとしては、エル・グレコの『受胎告知』、モネの『睡蓮』、ゴーギャンの『かぐわしき大地』、梅原龍三郎の『紫禁城』があります。

 大原孫三郎は実業家としても社会福祉家としても倉敷の町に大きな足跡を残しました。現代の倉敷市は、大原孫三郎の存在なしにはありえません。

大山康晴

 将棋界の大名人、大山康晴(1923-1992)は、岡山県倉敷市の出身。早くから将棋の才能を示し、12歳の時大阪で木見金治郎九段(1878-1951)の内弟子となります。木見金治郎九段もまた倉敷市(児島郡木見村)の出身で、大阪毎日新聞の看板棋士として活躍していました。当時の将棋界は今以上に新聞社との結びつきが強く、各社こぞって名棋士と契約(嘱託)を結んでいたのです。木見金治郎九段は大山のライバルとなった升田幸三を鍛え上げるなど、門下から多くの有力棋士を輩出したほか、関根金次郎一三世名人とともに、日本将棋連盟の黎明期において中心的な役割を果たしました。大山の「受け将棋」(守り重視の棋風)は、同じく木見門下で攻め将棋に定評のあった升田幸三の猛攻を受けているうちに磨き上げられた、という逸話が残っています。

 第二次世界大戦後、大山は第一線で活躍し続け、1952年の第11期名人戦でときの木村義雄名人を4勝1敗で破り、29歳にして伝統ある「名人」を獲得しました。その後名人戦を5連覇、永世名人の資格を得るなど破竹の活躍を見せた大山でしたが、そこへライバルの升田幸三が立ちはだかります。1955年には升田は大山から王将のタイトルを、翌年には名人を立て続けに奪って三冠王となり、大山は無冠に陥りました。しかし、棋風も粘り強ければ性格も頑固な大山のこと、ただで折れるはずはありません。1957年から毎年のように升田からタイトルを奪い、1959年、今度は大山が三冠王となりました。以降し、升田は大山に歯が立たなくなり、将棋界は大山の独壇場となります。

 1960年代はまさに大山の最盛期。新設のタイトル戦でもことごとく勝ち、名人・十段・王将・王位・棋聖という5つのタイトルを独占する五冠王として君臨しました。このころの大山の正確で容赦ない「受け」、そして数々の逸話とともに伝わる「番外戦術」は、現在でも伝説となっています。

 1970年代になると、若手の中原誠に苦戦し、1973年、50歳の大山はついに無冠となりました。しかし、歳長けてなお大山の強さは健在で、50代にして複数のタイトルを獲得しています。また、第一線で活躍しながら日本将棋連盟の会長に就任し、将棋会館の建設や将棋の普及に尽力しました。晩年にはガンを患いながらも、トップ棋士の一人として活躍し続け、1992年に亡くなりました。生涯獲得したタイトルは合計80期。2012年に羽生善治に抜かれ、歴代2位となりましたが、戦争による中断や当時の少ないタイトル数を考慮すれば、途方もない記録であることは間違いありません。

 倉敷市には大山康晴記念館が建てられたほか、女流棋士の棋戦である「大山名人杯倉敷藤花戦」が毎年倉敷市で開催されるなど、こんにちの倉敷市には大山名人の軌跡が残されています。

~心に寄り添う~良寛さんの優しい名歌。「新池や 蛙飛び込む 音もなし」といったパロディ短歌も!

新潟の名主の長男として生まれるも、実務能力はてんでなし。
「生涯身を立つるにものうく、騰騰天真に任す」(生まれつき立身出世なぞは億劫で、自分の好きなように生きてきた)と自認する良寛。

子どもらと手まり遊びに興じたり、死んだふりをして子どもを喜ばせたり、といったイメージで語られることの多い良寛ですが、書や詠歌の腕は一流でした。漢詩においては、幼少期の『論語』読みの素養を基礎にし、和歌においては『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』を基礎にした、古典的な素養と自由な構想がみごとに和した作品を多くのこしているのが良寛。古典的な形式に則っていながら柔軟性を失わず、『万葉集』以来の歌語を盛り込みながら生命力を失わず、遁世の心境を語りながらも人間味を失わない、こうしたバランスの良さこそ、歌詠み良寛の醍醐味です。

 良寛が残した歌のうち、つい歌いたくなってしまうような親しみやすい作品を選びました。
あなたもきっと、良寛に会いたくなるはずです。
・霞立つ 永き春日に 飯乞ふと 里にい行けば 里子ども 今は春べと うち群れて み寺の門に 手まりつく 飯は乞はずて そが中に うちもまじりぬ その中に ひふみよいむな 汝(な)は歌ひ 我(あ)はつき 我は歌ひ 汝はつき つきて歌ひて 霞立つ 長き春日を 暮しつるかも
(日の長い春の1日、托鉢に里へ出かけたら、里の子供達が、春真っ盛りと集まって、お寺の門前で手毬をしている。托鉢をせずにその仲間に混ぜてもらった。「いちにぃさんしぃごーろくしち」と手毬をつき、坊やが歌えば私は鞠をつき、私が歌えば坊やがつく。そんなこんなでは春の長日を過ごしたことだよ。)

 手毬をついて子供達と遊ぶ老僧、いつのまにやらそのようなイメージとともに語られることの多い良寛ですが、それも宜なるかな、と言いたくなるような長歌を残しています。
長歌は「五七五七・・・七七」という形式を指し、『万葉集』によく見られる形です。
良寛は、歌の最初に「里にい行けば 里子ども」と「里」の韻を踏ませ、「七五」のリズムを作り出しています。また、「汝は歌ひ 我はつき 我は歌ひ 汝はつき つきて歌ひて」という部分は「五五」という破格のリズムを用いることで、あれよあれよと手毬に我を忘れる良寛の気持ちが表現されています。
「ひふみよいむな」とは、「一二三四五六七」、すなわち子供らが手毬をつく回数を数えているようすを、そのまま歌語に忍び込ませている、という趣向です。「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は くれずともよし」という短歌も残しています。
・新池や 蛙飛び込む 音もなし
 松尾芭蕉の有名な俳句「古池や 蛙飛び込む 水の音」のパロディです。
良寛がウィットのある人物だったことがうかがえます。
もちろん、ただの言葉遊びには終わっておらず、葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』という「古池」の蓄積の上に立って歌を詠んだ良寛に言わせてみれば、「新しい池からは面白いものはでてこない」のだ、という意思の表現と言えるかもしれません。
・盗人に とり残されし 窓の月
 良寛の粗末な居宅にもたびたび泥棒が入ったといいます。
盗人の仕打ちにも動ずることなく、「窓にかかる月」つまり風流の心はいかな泥棒とも盗めやしないのだ、と詠む良寛の泰然鷹揚とした姿が眼に浮かぶようです。
・岩室の 田中に立てる 一つ松の木 けさ見れば 時雨の雨に ぬれつつ立てり
一つ松 人にありせば 笠貸さましを 蓑着せましを 一つ松あはれ
(岩室の田の中に立てる一本松よ。今朝見ると、時雨に濡れて立っている。ああ、一本松よ、おまえが人だったら、笠を貸してやるのに、蓑だって着せてやろうに、いとおしい一本松よ。)

 「岩室」は良寛の地元に近い、新潟の岩室温泉。「時雨」ということから、季節は秋、雨が冷たい季節でしょうか。「~まし」は反実仮想の助動詞とよくよばれ、「~だったらなあ、~だったら~だろうに」といった意味を表します。一本松に限りない愛情をよせる良寛。身一つ、托鉢僧として生きる己の姿と、一本松がかぶるのでしょうか。
・焚くほどは 風がもてくる 落ち葉かな
(庵で燃やして火を起こすに間に合うくらいの落ち葉は、風がおのづと持ってくるわい。)

 冬の俳句。良寛の書の腕前を高く評価する長岡藩の藩主が、良寛をスカウトしにやってきた、その時の返答がこの俳句だといいます。われからと、物を求めることなく、自然とやってくるものをありがたく頂いて生きる、良寛の清貧な哲学が直截に伝わる一句です。
・道のべの すみれ摘みつつ 鉢の子を 忘れてぞこし その鉢の子を
(道ばたで、すみれを摘んでいたら、相棒の鉢の子を忘れてきてしまったわい。その相棒の鉢の子を。)

 一度夢中になると、日が暮れるのも忘れてしまう良寛、すみれ摘みに没入するあまり、托鉢僧の必需品、鉢の子をうっかり忘れてきてしまいます。
物への執着は本来克服するべき欲ですが、良寛は愛用する鉢の子をなくしてうろたえるがごとく、「鉢の子」を繰り返します。
こうした正直で可愛らしいところも良寛の魅力ですね。
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