国宝に指定! 足利氏ゆかりの寺・鑁阿寺(ばんなじ)へ行ってみよう!!
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栃木県足利市に鑁阿寺があります。
JR両毛線・足利駅から徒歩10分で行ける、アクセスの便利なお寺です。 ご本尊が大日如来であることから、地元の人々から「大日さま」とよばれています。 約4万平方メートルにおよぶ敷地は落ち着いた雰囲気で、心を和ませてくれます。 そして、平成25年(2013年)に本堂が国宝に指定された、由緒あるお寺です。
そこで今回は鑁阿時の魅力についてご紹介します!
JR両毛線・足利駅から徒歩10分で行ける、アクセスの便利なお寺です。 ご本尊が大日如来であることから、地元の人々から「大日さま」とよばれています。 約4万平方メートルにおよぶ敷地は落ち着いた雰囲気で、心を和ませてくれます。 そして、平成25年(2013年)に本堂が国宝に指定された、由緒あるお寺です。
そこで今回は鑁阿時の魅力についてご紹介します!
鑁阿寺の創建の経緯とは?
鑁阿寺は真言宗大日派の本山で、山号は金剛山です。
建久7年(1196年)、足利義兼によって建立されました。 義兼は源姓足利氏2代目であり、出家した際、邸宅内に持仏堂を建立したのがはじまりだといわれています。 義兼が亡くなった後、子の義氏が本堂を建立しました。 しかし、本堂は1229年に落雷によって焼失してしまいます。 現在の本堂は正安元年(1299年)、室町幕府初代将軍・足利尊氏の父である貞氏により再建されました。 その後、足利氏の氏寺として、室町幕府将軍家や鎌倉公方家により守られてきました。
貞氏が改修した当時、中国から禅宗とともに建築様式の禅宗様が伝わり、本堂の改修でいち早く取り入れられました。 この本堂はのちの日本建築に大きな影響を与えました。 そして、鎌倉時代の禅宗様建築が残っているのはきわめて少なく、国宝にふさわしいと、平成25年(2013年)5月に文部科学大臣に答申しました。 その3ヶ月後の8月7日、正式に「国宝」に指定されました。
鑁阿寺の敷地はもともと、足利氏の館でした。 お寺をぐるりと見てみると、四方に門があり、土塁と堀がめぐらされているのがわかります。 平安時代後期に生きた武士の館の歴史を感じ取ることができる、貴重な建造物です。 この館の跡が残っていることから、大正10年(1921年)3月に「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されました。 また、「日本の名城百選」のひとつにも数えられています。
建久7年(1196年)、足利義兼によって建立されました。 義兼は源姓足利氏2代目であり、出家した際、邸宅内に持仏堂を建立したのがはじまりだといわれています。 義兼が亡くなった後、子の義氏が本堂を建立しました。 しかし、本堂は1229年に落雷によって焼失してしまいます。 現在の本堂は正安元年(1299年)、室町幕府初代将軍・足利尊氏の父である貞氏により再建されました。 その後、足利氏の氏寺として、室町幕府将軍家や鎌倉公方家により守られてきました。
貞氏が改修した当時、中国から禅宗とともに建築様式の禅宗様が伝わり、本堂の改修でいち早く取り入れられました。 この本堂はのちの日本建築に大きな影響を与えました。 そして、鎌倉時代の禅宗様建築が残っているのはきわめて少なく、国宝にふさわしいと、平成25年(2013年)5月に文部科学大臣に答申しました。 その3ヶ月後の8月7日、正式に「国宝」に指定されました。
鑁阿寺の敷地はもともと、足利氏の館でした。 お寺をぐるりと見てみると、四方に門があり、土塁と堀がめぐらされているのがわかります。 平安時代後期に生きた武士の館の歴史を感じ取ることができる、貴重な建造物です。 この館の跡が残っていることから、大正10年(1921年)3月に「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されました。 また、「日本の名城百選」のひとつにも数えられています。
鑁阿寺の「洗心朝拝会」に参加しよう!
鑁阿寺では毎朝7時から、「洗心朝拝会」を行っています。
こちらは一般の方々がご住職と一緒に、本堂で般若心経と観音経を唱えるお勤めです。
お経を唱えるとスッキリとした気持ちになるので、一日のはじめにはもってこいです!
ぜひ、参加してみてくださいね。
また、鑁阿寺では毎月23日に午年の守り本尊である二十三夜尊(勢至菩薩)縁日を、毎月28日には酉年の守り本尊である不動尊縁日が行われます。 二十三尊縁日は午後2時ごろ~午後7時ごろまで行われていて、多宝塔(二重の塔)が開かれます。 参拝者の方々には「お種銭」が授与され、持ち歩いているとお小遣いに自由しないといわれています。
そして、不動尊縁日は正午から行われ、商売繁盛や家内安全のお護摩をしています。 ぜひ、訪れてみてくださいね。
また、鑁阿寺では毎月23日に午年の守り本尊である二十三夜尊(勢至菩薩)縁日を、毎月28日には酉年の守り本尊である不動尊縁日が行われます。 二十三尊縁日は午後2時ごろ~午後7時ごろまで行われていて、多宝塔(二重の塔)が開かれます。 参拝者の方々には「お種銭」が授与され、持ち歩いているとお小遣いに自由しないといわれています。
そして、不動尊縁日は正午から行われ、商売繁盛や家内安全のお護摩をしています。 ぜひ、訪れてみてくださいね。
団体グループ向けのガイドをご紹介!
鑁阿寺では団体グループ向けに、住職が自ら境内を案内してくれるプランがあります!
コースは国宝本堂、普段公開していない一切経堂内部を案内します。また、一切経堂内部の八角輪蔵もご覧いただけます。
一切経堂は大きな法要や足利市の文化財公開日に観ることができますが、普段は公開していないため、見学の方のみ観ることができます。
毎回ご住職がご案内していただけるわけではありませんが、その場合は足利学校のボランティアガイドさんによる境内案内があります。 (ただし、ボランティアガイドさんによる本堂と一切経堂の内部入場はありません。ボランティアガイドさんのお問い合わせは足利市観光協会までお願いします。→0284-43-3000)
鑁阿寺を深く知ることができるプランです! 1名からでも予約できますので、ぜひお申し込みください。
○事前予約のみ受付
鑁阿寺のお問い合わせ先 0284-41-2627
○料金
1~15名 6000円
16名以上 人数×400円(カラーパンフレット付き)
○内容
鑁阿寺の歴史(概略)
毎回ご住職がご案内していただけるわけではありませんが、その場合は足利学校のボランティアガイドさんによる境内案内があります。 (ただし、ボランティアガイドさんによる本堂と一切経堂の内部入場はありません。ボランティアガイドさんのお問い合わせは足利市観光協会までお願いします。→0284-43-3000)
鑁阿寺を深く知ることができるプランです! 1名からでも予約できますので、ぜひお申し込みください。
○事前予約のみ受付
鑁阿寺のお問い合わせ先 0284-41-2627
○料金
1~15名 6000円
16名以上 人数×400円(カラーパンフレット付き)
○内容
鑁阿寺の歴史(概略)
足利学校へ行ってみよう!
足利学校は鑁阿寺のすぐ近くにあります。
「日本でもっとも古い学校」といわれており、大正10年(1921年)に国の史跡に指定されました。
創建についてさまざまな説が唱えられていますが、永亨11年(1439年)に関東官領の上杉憲実(のりざね)が学校として再興したことがわかっています。 憲実は学校を整備し、書籍を寄進したり、鎌倉の円覚寺から僧侶の快元を招き、初代庠主(=校長)として就任させました。 その後、数々の戦乱の中でも学問を教え続け、16世紀初頭には生徒数が3000人を数えるまでになりました。 天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルには「日本国中最も大にして、最も有名な坂東(関東)の大学」と絶賛され、世界に紹介されました。
明治5年に廃校しましたが、有志による保存運動が展開されました。 その後、落雷により焼失してしまいますが、平成2年に復元され、見学ができるように一般開放されるようになりました。
平成27年4月24日、この足利学校をふくむ「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」が日本遺産に認定され、教育の原点を伝え続けています。 ぜひ、鑁阿寺に訪れたときは一緒にご覧になってください。
○所在地
〒326ー0813
栃木県足利市昌平町2338
○足利学校参観料
一般420円 団体(20名以上)340円
高校生210円 団体170円
※中学生以下は無料
障害者の方は障害者手帳のご提示で無料(付き添いの方も1名無料)
※SuicaやPasmoの利用可
○受付時間
4月~9月 9:00~4:30
10月~3月 9:00~16:00
休館日は第3月曜日(祝日、振替休日のときは翌日)、12月29日~31日
いかがでしたか。
鑁阿寺は鎌倉時代の歴史をいまに伝えている貴重なお寺です。
春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が広がり、伽藍と合わさったときの美しさは格別です。
ゆったりとした時間をすごすことができ、癒されることでしょう。 ぜひ、鑁阿寺に足を運んでみてくださいね。
■拝観料
無料
■所在地
〒326ー0803
栃木県足利市家富町2220
「日本でもっとも古い学校」といわれており、大正10年(1921年)に国の史跡に指定されました。
創建についてさまざまな説が唱えられていますが、永亨11年(1439年)に関東官領の上杉憲実(のりざね)が学校として再興したことがわかっています。 憲実は学校を整備し、書籍を寄進したり、鎌倉の円覚寺から僧侶の快元を招き、初代庠主(=校長)として就任させました。 その後、数々の戦乱の中でも学問を教え続け、16世紀初頭には生徒数が3000人を数えるまでになりました。 天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルには「日本国中最も大にして、最も有名な坂東(関東)の大学」と絶賛され、世界に紹介されました。
明治5年に廃校しましたが、有志による保存運動が展開されました。 その後、落雷により焼失してしまいますが、平成2年に復元され、見学ができるように一般開放されるようになりました。
平成27年4月24日、この足利学校をふくむ「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」が日本遺産に認定され、教育の原点を伝え続けています。 ぜひ、鑁阿寺に訪れたときは一緒にご覧になってください。
○所在地
〒326ー0813
栃木県足利市昌平町2338
○足利学校参観料
一般420円 団体(20名以上)340円
高校生210円 団体170円
※中学生以下は無料
障害者の方は障害者手帳のご提示で無料(付き添いの方も1名無料)
※SuicaやPasmoの利用可
○受付時間
4月~9月 9:00~4:30
10月~3月 9:00~16:00
休館日は第3月曜日(祝日、振替休日のときは翌日)、12月29日~31日
いかがでしたか。
鑁阿寺は鎌倉時代の歴史をいまに伝えている貴重なお寺です。
春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が広がり、伽藍と合わさったときの美しさは格別です。
ゆったりとした時間をすごすことができ、癒されることでしょう。 ぜひ、鑁阿寺に足を運んでみてくださいね。
■拝観料
無料
■所在地
〒326ー0803
栃木県足利市家富町2220
鑁阿寺に見る足利氏と鎌倉幕府
鑁阿寺は栃木県足利市にある、真言宗の寺院です。
大日様と呼ばれ地域にも親しまれる鑁阿寺は、もともと足利義兼の居所だったところに建てられています。鑁阿寺様と呼ばれる信心深い一面と、足利氏の基盤を築き上げる豪傑な一面の、2つの側面を持っていた人物です。突然の出家の理由など謎の多い義兼ですが、その裏には源頼朝とのさらには鎌倉幕府との複雑な関係があったようです。
大日様と呼ばれ地域にも親しまれる鑁阿寺は、もともと足利義兼の居所だったところに建てられています。鑁阿寺様と呼ばれる信心深い一面と、足利氏の基盤を築き上げる豪傑な一面の、2つの側面を持っていた人物です。突然の出家の理由など謎の多い義兼ですが、その裏には源頼朝とのさらには鎌倉幕府との複雑な関係があったようです。
国宝に指定された本堂を持つ鑁阿寺
栃木県の足利市にある鑁阿寺は、地元の人々には「大日様」と呼ばれ親しまれています。周囲を土塁と堀が取り囲む境内は、当時の武家の屋敷の特徴を残しており、足利氏の邸宅跡として国の史跡に登録されている寺院です。足利氏第2代当主の足利義兼が、持仏堂を邸内に建てたのが鑁阿寺の始まりで、第3代当主の義氏が伽藍の体裁を整えました。
国宝に指定されている、本瓦葺き・入母屋造の本堂は、初期の禅宗様の仏堂建築を伝える貴重な建造物です。現在の建物の元になる本堂は、1299年第7代当主の貞氏が再建したものですが、1432年と江戸時代元禄年間に大規模な改修工事が行われました。唐様と和様の背中が見られるなど、鎌倉時代の代表的な寺院建築で、内部には元禄時代に作られた観音壇厨子の中に、鎌倉時代後期の作とされる木造大日如来像が安置されています。
国宝に指定されている、本瓦葺き・入母屋造の本堂は、初期の禅宗様の仏堂建築を伝える貴重な建造物です。現在の建物の元になる本堂は、1299年第7代当主の貞氏が再建したものですが、1432年と江戸時代元禄年間に大規模な改修工事が行われました。唐様と和様の背中が見られるなど、鎌倉時代の代表的な寺院建築で、内部には元禄時代に作られた観音壇厨子の中に、鎌倉時代後期の作とされる木造大日如来像が安置されています。
歴史から姿を消した足利義兼
鑁阿寺の元になる持仏堂を作った足利義兼は、足利氏の第2代当主。父の義康が下野国足利荘を相続したのを機に、源姓から足利姓に改めたことで、足利氏がスタートしました。義康の妻は熱田大宮司季範の次女(実孫)で、源頼朝の従姉妹にあたる女性です。以降、代々北条氏の女性を妻に娶り、出生の順に関係なく北条氏の血を引く息子が家督を継いできました。
義兼も実際は三男でありながら、北条氏の血を引くため家督を継ぎ、足利家の第2代当主となります。頼朝が平氏打倒のために伊豆国で挙兵すると、早い時期からこれに従軍し、その後も一貫して東国の頼朝と行動を共にし、大きな信頼を得るようになります。
頼朝のとりなしで頼朝の妻・北条政子の妹である時子を妻に迎え、義兼はますます頼朝との関係を深めることになります。一ノ谷合戦や木曽義高の残党討伐、頼朝の弟・範頼とともに平氏討伐と目まぐるしく活躍し、平氏滅亡後は上総国の介(次官)に任じられ、平氏滅亡とともに衰退した藤原姓足利氏を排して足利荘の完全支配を実現します。その後も奥州藤原氏討伐に加わるなど、鎌倉幕府での地位も確立していきましたが、頼朝の上洛に随行したときに、訪れた東大寺で突然出家してしまうのです。
義兼も実際は三男でありながら、北条氏の血を引くため家督を継ぎ、足利家の第2代当主となります。頼朝が平氏打倒のために伊豆国で挙兵すると、早い時期からこれに従軍し、その後も一貫して東国の頼朝と行動を共にし、大きな信頼を得るようになります。
頼朝のとりなしで頼朝の妻・北条政子の妹である時子を妻に迎え、義兼はますます頼朝との関係を深めることになります。一ノ谷合戦や木曽義高の残党討伐、頼朝の弟・範頼とともに平氏討伐と目まぐるしく活躍し、平氏滅亡後は上総国の介(次官)に任じられ、平氏滅亡とともに衰退した藤原姓足利氏を排して足利荘の完全支配を実現します。その後も奥州藤原氏討伐に加わるなど、鎌倉幕府での地位も確立していきましたが、頼朝の上洛に随行したときに、訪れた東大寺で突然出家してしまうのです。
義兼の信仰心と鑁阿寺・樺崎寺
以来一切の史書から名前がなくなるため、この出家の真意やその後の彼の動向は明らかになっていませんが、豪傑として百戦錬磨の武将の一面を持つ一方、高い宗教心を持つナイーブな人物でもあったようです。妻の時子が身ごもったとき、多くの占い師が「娘」と予言したのに対し、義兼は伊豆国から当時有名だった高僧を招き、祈祷により男子を得たと言います。このことからますます仏教に傾倒するようになり、欧州藤原氏討伐に際し、戦勝祈願のため樺崎寺を建立しました。
高野山の配置を模倣し、鑁阿寺を修行のための檀所に、樺崎寺を廟堂とみなして、二つを結ぶ道に卒塔婆を立てたり、将軍家の繁栄祈願の供養儀式を鶴岡八幡宮で盛大に行ったりと、義兼が信仰心に篤かったのは間違いないようですが、出家の理由はどうも別のところにありそうです。
高野山の配置を模倣し、鑁阿寺を修行のための檀所に、樺崎寺を廟堂とみなして、二つを結ぶ道に卒塔婆を立てたり、将軍家の繁栄祈願の供養儀式を鶴岡八幡宮で盛大に行ったりと、義兼が信仰心に篤かったのは間違いないようですが、出家の理由はどうも別のところにありそうです。
親しくなりすぎた義兼と頼朝
そのもう一つの理由とは、義家が頼朝に近づきすぎたこと。頼朝と義理の兄弟になり、幕府での地位も大きくなった義兼は、あまりに近づきすぎたことを危ぶみ、狂人のふりをして頼朝の注意を逸らしたというのです。表舞台から姿を消し、頼朝の目に触れないようにすることが、義家が出家した本当の理由ではないかと言われています。
確かに頼朝は義経をはじめ次々と肉親を葬り去り、それまでともに戦ってきた同じ源氏一門を、他の御家人たちと同等の身分に位置付けようとし始めます。従わないものはことごとく粛清され、排除されていったのです。挙兵当初に見られた一致団結の気概は失せ、疑心暗鬼の目で周囲の戦を共にした一族を見るようになります。そんな頼朝の変貌ぶりは、近くにいたからこそ義兼も早くから気づいていたのでしょう。同時に「次は自分ではないか」と、不安に思うのも無理はありません。
出家以来、足利荘に隠棲していた義兼は、死に際して血書の遺言を残したと言われています。内容は「この樺崎寺の鎮守となり、子孫の繁栄を見守っていこう。」と認められ、さらに「わが子孫たちは時に私が取り付いて、気が狂うことがあるだろう」ということが書かれていようです。わざわざこんな遺言を残したのは、義兼が自分の死後も子孫に災いが及ばないよう、あらかじめ「この家は呪われている。だから手を出すな。」と、周囲に知らしめようとしているかのように見えてきます。
確かに頼朝は義経をはじめ次々と肉親を葬り去り、それまでともに戦ってきた同じ源氏一門を、他の御家人たちと同等の身分に位置付けようとし始めます。従わないものはことごとく粛清され、排除されていったのです。挙兵当初に見られた一致団結の気概は失せ、疑心暗鬼の目で周囲の戦を共にした一族を見るようになります。そんな頼朝の変貌ぶりは、近くにいたからこそ義兼も早くから気づいていたのでしょう。同時に「次は自分ではないか」と、不安に思うのも無理はありません。
出家以来、足利荘に隠棲していた義兼は、死に際して血書の遺言を残したと言われています。内容は「この樺崎寺の鎮守となり、子孫の繁栄を見守っていこう。」と認められ、さらに「わが子孫たちは時に私が取り付いて、気が狂うことがあるだろう」ということが書かれていようです。わざわざこんな遺言を残したのは、義兼が自分の死後も子孫に災いが及ばないよう、あらかじめ「この家は呪われている。だから手を出すな。」と、周囲に知らしめようとしているかのように見えてきます。
第3代当主義氏によって整えられた伽藍
義兼の死後、第3代当主の義氏が真言宗の寺院として伽藍を整え、足利氏の氏寺としました。寺院名の「鑁阿」は、義兼の法名に由来し、サンスクリット語で「大日如来」を意味し、地元の人々に「大日様」と呼ばれる所以です。境内の中央にある本堂「大御堂」は、義氏が建てたものは消失してしまいます。現在の大御堂は第8代当主の貞氏が再建したもので、江戸時代に大規模な修復が行われています。
足利一族の行く末を案じた義兼の死後、義氏が当主を継いだのはわずか11歳の時。母の時子が北条政子の妹であったこともあるとは思いますが、父に似て精神的にも肉体的にも強靭だったと言われる義氏は、自ら道を切り開き、幕府内でも一目置かれる存在となっていきます。17歳の時にはすでに北条時政の討伐軍に加わり、25歳の時には和田合戦で北条方につき大活躍したことが、記録に残っているほどです。
父が懸念した頼朝はすでにいませんでしたが、幕府は急速に北条氏の執権政治へと向かう時勢の中、義氏は北条氏の覇権体制の確立に多大な尽力を注ぎます。北条泰時の娘を迎えるなど、北条氏との結びつきも強め、武蔵守や陸奥守に任じられ上総国と三河国を手に入れ、幕府でも北条氏に次ぐ地位を手に入れました。このような絶頂期の足利氏の権勢が、鑁阿寺の伽藍や仏像などにも見ることができます。
足利一族の行く末を案じた義兼の死後、義氏が当主を継いだのはわずか11歳の時。母の時子が北条政子の妹であったこともあるとは思いますが、父に似て精神的にも肉体的にも強靭だったと言われる義氏は、自ら道を切り開き、幕府内でも一目置かれる存在となっていきます。17歳の時にはすでに北条時政の討伐軍に加わり、25歳の時には和田合戦で北条方につき大活躍したことが、記録に残っているほどです。
父が懸念した頼朝はすでにいませんでしたが、幕府は急速に北条氏の執権政治へと向かう時勢の中、義氏は北条氏の覇権体制の確立に多大な尽力を注ぎます。北条泰時の娘を迎えるなど、北条氏との結びつきも強め、武蔵守や陸奥守に任じられ上総国と三河国を手に入れ、幕府でも北条氏に次ぐ地位を手に入れました。このような絶頂期の足利氏の権勢が、鑁阿寺の伽藍や仏像などにも見ることができます。
足利氏を見守ってきた鑁阿寺
義氏の息子の泰氏が起こした自由出家事件により、絶頂期の足利氏に突然の転機が訪れてしまいます。この出家事件も義兼の時と同様、政治的な危機から身を守るための策だったようですが、結果的に足利氏を表舞台から引き摺り下ろすことになってしまいました。
泰氏は足利荘に亡くなるまでの20年間、隠棲を余儀なくされますが、それによって地元を中心とした一族の結束を強めることになりました。これは後に足利尊氏が室町幕府を起こす際に、大いに助けとなる基盤となったので、長い目で見ればむしろ良かったのかもしれません。義兼が遺言に認めたように、鑁阿寺はこれらの足利一族の隆盛と衰退の全てを、文字通り見守ってきたのでしょう。
泰氏は足利荘に亡くなるまでの20年間、隠棲を余儀なくされますが、それによって地元を中心とした一族の結束を強めることになりました。これは後に足利尊氏が室町幕府を起こす際に、大いに助けとなる基盤となったので、長い目で見ればむしろ良かったのかもしれません。義兼が遺言に認めたように、鑁阿寺はこれらの足利一族の隆盛と衰退の全てを、文字通り見守ってきたのでしょう。
足利一門と強い結びつきを持つ鑁阿寺
栃木県足利市にある鑁阿寺は、のちに室町幕府を開いた足利氏の祖である、足利義兼が建てた持仏堂から始まりました。鑁阿寺が建てられた背景には、義兼が仏教に強い信仰を抱いていただけでなく、足利一門の未来を見据えた思いが隠されていました。
鑁阿寺は足利氏の邸宅跡
鑁阿寺は栃木県足利市にある、真言宗大日派の寺院です。正式名称は金剛山仁王院法華坊。源氏足利市の2代目足利義兼が、邸内に持仏堂を作り、そこに大日如来を安置したのが創始とされています。3代目足利義氏が堂塔伽藍を整え、足利氏の氏寺に定めました。
寺院の名前は金剛界の大日如来と、胎蔵界の大日如来の種子(しゅじ)真言の「鑁」と「阿」を取って付けられました。持仏堂を立てた義兼自身も、鑁阿を名乗っています。鑁阿寺は、重要文化財の建造物や国宝に指定された本堂などとともに、鎌倉時代の武家の邸宅の特徴を今に伝える貴重な寺院です。
寺院の名前は金剛界の大日如来と、胎蔵界の大日如来の種子(しゅじ)真言の「鑁」と「阿」を取って付けられました。持仏堂を立てた義兼自身も、鑁阿を名乗っています。鑁阿寺は、重要文化財の建造物や国宝に指定された本堂などとともに、鎌倉時代の武家の邸宅の特徴を今に伝える貴重な寺院です。
国宝に指定された鑁阿寺大御堂
1197年(建久7)に義兼の持仏堂から始まった鑁阿寺には、義氏によって整えられた堂塔伽藍などの建物が数多く残っています。そのうち、創建当時のままの大御堂(本堂)は2013年に国宝に指定され、鐘楼と一切経堂は国の重要文化財にしてされた建造物です。
建造物以外にも、重要文化財に指定されている書跡や工芸品が残されています。青磁の香炉や紙本墨書仮名法華経などの大切に保管されてきた寺宝は、日本の中世史の研究に多大な寄与をもたらす重要な史料です。中でも鑁阿寺が所蔵する足利氏関連の古文書は、600点以上も残されており、当時の武家の生活などを伺える貴重な文献史料となっています。
建造物以外にも、重要文化財に指定されている書跡や工芸品が残されています。青磁の香炉や紙本墨書仮名法華経などの大切に保管されてきた寺宝は、日本の中世史の研究に多大な寄与をもたらす重要な史料です。中でも鑁阿寺が所蔵する足利氏関連の古文書は、600点以上も残されており、当時の武家の生活などを伺える貴重な文献史料となっています。
鎌倉武家の特徴が残る足利氏宅跡
鑁阿寺は国宝や重要文化財に指定される建造物だけでなく、寺域そのものが「足利氏宅跡」として国の史跡に指定されているのも特徴です。約4万平方キロメートルの正方形の敷地には、鎌倉時代の武家の風情を偲ばせる貴重な遺構が残されています。
元は足利氏の邸宅だったことから、鑁阿寺は通常の寺院とは違い四方に門があったり、境内の周囲が土塁や堀で囲まれていたりと、当時の武家の邸の面影を見ることができます。「足利氏館」として日本の100名城にも選ばれた、観光地としても人気の寺院です。
元は足利氏の邸宅だったことから、鑁阿寺は通常の寺院とは違い四方に門があったり、境内の周囲が土塁や堀で囲まれていたりと、当時の武家の邸の面影を見ることができます。「足利氏館」として日本の100名城にも選ばれた、観光地としても人気の寺院です。
足利学校は日本最古の学校史跡
寺内にある足利学校は、日本に現存する最古の学校史跡として知られています。創始についての詳細は不明ですが、鑁阿寺を開いた足利義兼が作ったという説が有力です。少なくとも平安時代後期から鎌倉時代初期には、すでに存在していたと言われており、上杉氏や北条氏・徳川氏の庇護を受けながら存続し、現在は足利学校史跡図書館としての役割を担っています。
足利学校は中世の学校施設で、武士や僧侶・医師といった人々が、日々学問を続けていた施設です。世の中が戦国時代に突入した時期にも、途絶えることなくますます盛んになっていったと記録されています。特に7代目の校長に当たる九華の頃に最盛期を迎え、日本を訪れた外国人たちにも注目されたほどでした。
江戸時代に入ると本来の学校としてよりも、その所蔵する書物が注目され文庫としての役割が強くなっていきます。徳川家の庇護を受けながら存続しますが、明治時代に入ってからは学校としての役割を終え、1902年に図書館として新たな役割を担うようになります。鎌倉時代初期からの貴重な文献が多く残され、特に「足利の宋版」と呼ばれる五経註疏(ごきょうちゅうしょ)が揃っていることが有名です。中でも貴重なものが4点国宝に指定され、他にも重要文化財とされているものがあります。
足利学校は中世の学校施設で、武士や僧侶・医師といった人々が、日々学問を続けていた施設です。世の中が戦国時代に突入した時期にも、途絶えることなくますます盛んになっていったと記録されています。特に7代目の校長に当たる九華の頃に最盛期を迎え、日本を訪れた外国人たちにも注目されたほどでした。
江戸時代に入ると本来の学校としてよりも、その所蔵する書物が注目され文庫としての役割が強くなっていきます。徳川家の庇護を受けながら存続しますが、明治時代に入ってからは学校としての役割を終え、1902年に図書館として新たな役割を担うようになります。鎌倉時代初期からの貴重な文献が多く残され、特に「足利の宋版」と呼ばれる五経註疏(ごきょうちゅうしょ)が揃っていることが有名です。中でも貴重なものが4点国宝に指定され、他にも重要文化財とされているものがあります。
鎌倉幕府の設立に貢献した足利義兼
鑁阿寺を開いた足利義兼は、源義家のひ孫にあたる人物で、鎌倉幕府を開いた頼朝とは、いとこ同士という関係です。頼朝とともに平氏討伐や奥州藤原氏討伐に従軍し、頼朝から厚い信頼を得るようになります。頼朝の妻の北条政子の妹を妻にするなど、北条氏とも強い結びつきを築きました。
頼朝や北条氏の信頼を得た義家は、鎌倉幕府内でも次第に重要な地位を得るようになります。藤原姓足利氏が滅亡すると、その所領であった足利荘を受け継ぎ、大きく勢力を広げました。この足利荘があったのは現在の足利市のほぼ全域、これにより名実ともに源氏足利氏が基盤を固めたと言えます。
頼朝や北条氏の信頼を得た義家は、鎌倉幕府内でも次第に重要な地位を得るようになります。藤原姓足利氏が滅亡すると、その所領であった足利荘を受け継ぎ、大きく勢力を広げました。この足利荘があったのは現在の足利市のほぼ全域、これにより名実ともに源氏足利氏が基盤を固めたと言えます。
いとこであり義兄弟の義兼と源頼朝
順風満帆に見えた義家ですが、1195年(建久6)に突然出家をし、鑁阿を名乗るようになります。それまで頼朝の側近として、常に中央にいた義家ですが、その後は下野国の邸にこもってしまいました。しかも出家したのは頼朝に随伴した東大寺供養会の最中。まるで狂ったようにも見えるこの所業は、実は義兼が足利氏を守るために考え抜いた結果とも考えられています。
鎌倉幕府を開いた後の頼朝は、弟の義経を討伐するなど、次第に周囲に対し疑心暗鬼を募らせていきます。幕府で高い地位を得て頼朝のそばにいた義兼は、その変貌ぶりを間近で感じていたに違いありません。いつかその矛先が自分に向かってくるかもしれないと考えた義兼は、一族郎等すべてを討ち払う頼朝から、足利氏一族を守るために出家したというのです。
とはいえ単に出家しただけでは、「隠れて陰謀をたくらんでいるかもしれない」と思われるかもしれません。幕府にとっても一大イベントの最中に突然出家することにより、義兼は気が狂ったと思わせることが目的だったと言われています。
鎌倉幕府を開いた後の頼朝は、弟の義経を討伐するなど、次第に周囲に対し疑心暗鬼を募らせていきます。幕府で高い地位を得て頼朝のそばにいた義兼は、その変貌ぶりを間近で感じていたに違いありません。いつかその矛先が自分に向かってくるかもしれないと考えた義兼は、一族郎等すべてを討ち払う頼朝から、足利氏一族を守るために出家したというのです。
とはいえ単に出家しただけでは、「隠れて陰謀をたくらんでいるかもしれない」と思われるかもしれません。幕府にとっても一大イベントの最中に突然出家することにより、義兼は気が狂ったと思わせることが目的だったと言われています。
鑁阿寺と足利氏一族
鑁阿寺は3代目の義氏によって、現在のような立派な伽藍や堂宇が整えられました。義氏は政子の妹だった時子を母に持つことから、頼朝の死後に幕府の実権を握った北条氏とも、結びつきを確かなものにしていきました。北条氏から妻を迎えていたことや、嫡子になる男子が北条氏に由来する名を名乗るなど、かなり親密な関係を築いていたようです。
義兼の出家騒動で一時は表舞台から姿を消した足利氏ですが、息子の義氏によって再び幕府のある中央で実権を握っていきます。頼朝がいなくなったことと、北条氏が実権を握ったことが、義氏の進出の一助となったことは間違いないでしょう。再び盛り返した足利氏ですが、4代目泰氏が無断出家騒動を起こしたことで、怪しい雲行きになります。
泰氏は表舞台から姿を消すことになりましたが、北条氏から迎えた妻との間に、嫡男の頼氏が生まれたことで、一族はかろうじて存続していくことになります。嫡男以外の男児は、それぞれ斯波氏や渋川氏・加古氏の祖となり、足利一門を固める礎となっていきました。
頼朝の注意を反らし足利氏を守った義兼・足利氏を大きく発展させた義氏・周囲の氏族に絆を残した泰氏と、鑁阿寺ができた頃の足利氏は、草創期だったと言えるでしょう。その後は地元を中心に足利一門の基盤を固め、のちに室町幕府を開く言動力を蓄えていきました。頼朝とほぼ同じ頃に亡くなった義兼は、「樺崎寺の菩提となり、私は子孫を見守っていこう」という意味の遺言を残しています。鑁阿寺はこれらすべての足利一門の浮き沈みを、傍からずっと見守り続けてきたのです。
義兼の出家騒動で一時は表舞台から姿を消した足利氏ですが、息子の義氏によって再び幕府のある中央で実権を握っていきます。頼朝がいなくなったことと、北条氏が実権を握ったことが、義氏の進出の一助となったことは間違いないでしょう。再び盛り返した足利氏ですが、4代目泰氏が無断出家騒動を起こしたことで、怪しい雲行きになります。
泰氏は表舞台から姿を消すことになりましたが、北条氏から迎えた妻との間に、嫡男の頼氏が生まれたことで、一族はかろうじて存続していくことになります。嫡男以外の男児は、それぞれ斯波氏や渋川氏・加古氏の祖となり、足利一門を固める礎となっていきました。
頼朝の注意を反らし足利氏を守った義兼・足利氏を大きく発展させた義氏・周囲の氏族に絆を残した泰氏と、鑁阿寺ができた頃の足利氏は、草創期だったと言えるでしょう。その後は地元を中心に足利一門の基盤を固め、のちに室町幕府を開く言動力を蓄えていきました。頼朝とほぼ同じ頃に亡くなった義兼は、「樺崎寺の菩提となり、私は子孫を見守っていこう」という意味の遺言を残しています。鑁阿寺はこれらすべての足利一門の浮き沈みを、傍からずっと見守り続けてきたのです。