日本史

鎖国の日本をこじ開けた黒船の轟音。ペリー提督の外交術とは

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たとえば、「歴史上で、日本に来た外国人と言えば?」の認知度ランキングがあったとしたなら、きっと上位に入ると思われる人物、「ペリー」。ちょっとおしゃれな髪型と重厚なお顔立ちが印象的です。同時に「開国」「黒船」などのキーワードが浮かんでくる人も多いのではないでしょうか。

ペリーは、鎖国中だった当時の日本に開国を迫ったとされていますが、実際はどうやって開国させたのでしょう。今回は、そんな「ペリー」の外交術について詳しくご紹介していきます。

ペリー来航の背景には、産業革命

当時のヨーロッパ諸国は産業革命を迎えており、市場の拡大と安価な原材料を求めて東アジアへの進出を狙っていました。この事はやがてヨーロッパ列強による植民地の取り合いに発展していきます。危機にさらされているのは、インドや東南アジア諸国、朝鮮、中国(当時は清国)など、もちろん日本も例外ではありません。

ヨーロッパ列強に比べ、若い国のアメリカも、列強と並んでアジア市場を開拓しなくてはいけません。そのためには、太平洋を大きく回るよりも、大西洋を利用した航路を確保できれば、ほかの国々に先んじてアジア諸国との交易を優位に進めることができると考えたのです。

また、先に述べた産業革命によって、人々は暗くなってからでも働くようになり、照明に使う鯨油の需要が高まりました。そのため捕鯨も盛んになり、捕鯨船内で使う薪や水・食糧の補充をするために寄港できる場所が求められていたという点もあります。

ほかにも、アメリカ・メキシコ間で起こった米墨戦争などの影響で、有利な航路と寄港にベストな函館港を押さえたかったという理由などがあるようです。

「熊オヤジ」マシュー・ペリ―とは

1764年、ロードアイランド州ニューポートに生まれた「ペリー」ことマシュー・C・ペリーは、14歳から海軍へ入り日英戦争への参加をはたします。その後ブルックリン海軍の造船所長に就任し、蒸気船フリゲートフルトン号を建造しました。海軍大佐、司令官、代将と地位を得て数々の戦闘を指揮するなど、まさにエリートといった感じですね。のちは士官の教育に尽力しました。蒸気船を使った海軍の強化を推し進め、その先駆者として「蒸気船海軍の父」とも称されています。

ペリーは、威張った態度や、大きな声が特徴的で、部下からは「熊オヤジ」とあだ名されていたようです。「今日も熊オヤジ、うるせえなぁ」なんて若い海軍兵にブツブツ言われたりしていたのでしょうか。

さて、そんなペリーが、アメリカ海軍東インド艦隊の司令長官に任命されたのは1852年、ペリー58歳の頃です。

アメリカ大統領ファイルモアの親書を携えてアジアを目指しました。

でも、ペリ―が一番乗りじゃないんです

ペリー来航の話をするその前に、ペリーによる開国が成功するための重要な人物を2人紹介しましょう。

【ジェームズ・ビットル】
じつは1853年にペリーが来航する7年も前の1846年、アメリカ使節としてビットルという人物が浦賀に来航しています。
ビットルは2隻の軍艦を率いて、出島のある長崎ではなく、浦賀沖に停泊。開国の要求をしてきました。2隻の軍艦にはたくさんの武器が用意されているものの、アメリカ側としては武力に訴える意思はなく、その前に米中間で結んだ通商条約と同様の条約を日本とも締結することを目的としていました。
ところが、この始めから示されていた「武力には訴えないですよ」というビットルの外交姿勢は、強固な鎖国体制をとっているうえに、鎖国によって世界に対する情報不足であった日本にはあまり響かなかったようです。

浦賀奉行から通報を受けた幕府はビットルに対してまず、「燃料や水、食糧などの供給はする」と通達し、その補給している間に、アメリカ船の周囲を日本側の警備で十分固めたうえで、次に「日本にアメリカとの貿易の必要性はない」と通達しました。万が一幕府の決定が意に沿わないとして、ビットルに攻撃されても応戦できるよう備えたのです。

一方ビットルは日本側の対応と警備の固さに感心し(いい人です・・・!)幕府からの通達を了承します。次の日には帰るということで、日本もホッとしたところで事件が起こりました。

燃料や水、食料の供給に対して、一言お礼が言いたいと、浦賀奉行を訪問しようとしたビットルは、間違えて警備にあたっていた川越藩の指揮船に乗り込んでしまいます。驚いたのは川越藩です。通訳もないまま異国人にいきなり乗り込まれてパニックになったのでしょう。役人の1人がビットルを切り捨てようと刀を抜きました。ビットルが丸腰であることに気付いた川越藩が素早く対応し、なんとかその場は何事もなく収まったものの、ビットルは激怒しました。いきなり斬りかかるのか!この国は!!といった感じでしょうか。ビットルは怒りのままに本艦に帰り攻撃の準備をはじめ、あわや砲撃戦突入か!という緊迫状態に。

その後、ビットルは浦賀奉行与力たちの必死の説得に応じた形となりましたが、これ以上事を荒立てないように、幕府は日本側の警備船を湾内から引き上げさせたと言います。

翌日の早朝、たくさんの小舟に引かれたビットル率いる旗艦コロンバス号は、浦賀沖から帰途に就きました。

こうして、初めてのアメリカによる日本への開国・通商要求は、結果として失敗に終わりましたが、この失敗はペリーにとって大いに日本攻略のヒントの1つとなったようです。

【ジェームス・グリン】
アメリカ使節・ビットルの通商要求が、失敗に終わったその2年後。アメリカ海軍のジェームス・グリンは、中国の広東においてオランダ領事より「難破したアメリカ捕鯨船の船員が捕らえられ長崎で牢に入れられている」との情報を得ます。アメリカ人船員の釈放を求めるために長崎に向かったグリンは、幕府の妨害をものともせず、悠々と日本の船の間を進み長崎に停泊、武力行使もちらつかせての交渉となりました。結果、捕らえられていた全員が解放され、帰国することができました。これは、アメリカにとって鎖国日本との交渉が初めて成功した事件でした。

この成功により、グリンは建議をアメリカ政府に提出します。そこにはこのようなことが書かれていたそうです。

『日本との外交交渉は、「力」を見せつけると効果的』
たしかに…と思わず納得してしまうのが、悲しいところですね。

失敗と経験に学べ!頭でっかちの鎖国日本を揺さぶる外交術

1853年7月8日、横浜浦賀沖に突然現れた、巨大で真っ黒い異国の船が4隻、もうもうと煙を上げています。70門以上のたくさんの大砲が陸地に照準を定め、いまにも何か恐ろしいことが起こりそうです。

庶民たちの驚愕のなか、そしてとどろく威嚇の轟音。あげくに上陸に備えた江戸湾の測量などを勝手に始めてしまっています。
「黒船来航」です。

旗艦サスケハナ号に乗ったアメリカ大統領からの親書を携えた指揮官のペリーのもとへ、浦賀奉行所の与力が渡り、ペリーの来航目的が親書を日本の将軍に届けることだと知ります。しかし、ペリー側は「与力では地位が低い。最高位の役人でなければ、国書を預けることはできない。最高位の役人が来ないのであれば、兵を率いて上陸し直接将軍に届けるぞ」、と強気の姿勢です。

そうです、ペリーは、ビットルの失敗とグリンの成功を踏まえ、日本との交渉姿勢を定めていました。これは「艦砲外交」と呼ばれる戦術で、日本攻略のために、ペリーが考え出した計画は以下のようでした。

・近代国家の軍事力というのを見せつけるために、軍艦は4隻にする。

・交渉は友好的に進めるよりも、武力の誇示をもって恐怖を与えた方が、多くの利点があるだろう

・オランダの介入や妨害を防ぐために、長崎ではなく浦賀がベストである

ペリーの強気な姿勢に慌てた幕府は、ペリーの上陸を許し浦賀奉行をもって親書を預かります。しかし「今は将軍が病のため床に臥せているので、重要なことはすぐに決定はできません」とし、ペリーから1年の猶予を与えられます。

このたびの来航では外交は行われず、本当に親書を届けるだけの会見に留まりましたが、帰り際も江戸の港をしっかりチェックするなどして、十分な威嚇をして日本を去りました。

じつはペリーは浦賀に来る前に、琉球王国へ立ち寄ったり小笠原を視察したりしているのですが、日本攻略の、そしてその後の日本との交易の拠点としようという考えが見えます。

そして、2度目の来航はその半年後の1854年1月のこと。1年の猶予と思っていた幕府は、半年という短い期間でその日が来てしまったことに慌てます。その頃の日本は前回の来訪の10日後に病床の将軍徳川家慶は逝去しており、次期将軍をめぐるトラブルも発生していました。ペリーは香港で家慶の死を知り、国が混乱していているところを突こうとした作戦です。

その作戦はまんまと成功して、ついに日米和親条約が締結され、230年続いた鎖国は終わりを告げました。

ここでわかることは、ペリーの外交は「押す」と「引く」のバランスが上手なこと。
先人たちの失敗経験も成功経験もどちらも受け止め、日本攻略の方法を勉強し十分に備えてから行動に移す。そんな計画性も、「日本の開国」事業を達成できた一つの要因でしょう。
ペリーはただの熊オヤジな軍人ではなく、優れた外交力を持つ人物でした。

開国後の日本

ペリーの来航をきっかけに、江戸幕府の権威は落ち始めます。明治という新しい時代の胎動を力づくで起こしたといっても良いでしょう。また日米間で結ばれた条約と同じく、ほかの欧米列強とも条約を結ぶことにもなります。

明治維新が起き、江戸幕府が倒れ、新しい明治政府の世になりました。しかし、西洋と肩を並べるため急激に進めた近代化は、やがて軍国主義国家としての日本を作る要因となっていきました。
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