泣く子も黙る剣客集団「新選組」鬼の副長・土方歳三の「No.2」という生き方
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人の上に立ちたい、トップを目指したい、独り勝ちがカッコいいと思う。そんな野望を持つ人が、現代も含め日本史上にはたくさんいます。戦国武将然り、現代企業の経営者然り・・・。しかし、優れたリーダーの影には必ず、トップを支えることを使命とし、一歩下がったポジションにいるからこそ存分に手腕を発揮する、優れた腹心の姿があります。
幕末に活躍した新選組副長【土方歳三】もその一人。苛烈に生きそして激しく散ったその生涯は、今なお多くのファンの心をつかんで離しません。それにイケメンですし・・・!今回はそんな土方歳三の生き様を「No.2」という目線からひも解いてみたいと思います。
幕末に活躍した新選組副長【土方歳三】もその一人。苛烈に生きそして激しく散ったその生涯は、今なお多くのファンの心をつかんで離しません。それにイケメンですし・・・!今回はそんな土方歳三の生き様を「No.2」という目線からひも解いてみたいと思います。
農民から武士へ!土方歳三を育んだ環境と「近藤勇」との出会い
土方歳三は、武蔵国多摩郡石田村、隼人・恵津の間に10人兄姉の末っ子として生を受けました。生家は「お大尽」と言われる豪農でしたが、両親とは早くに死に別れ、夭逝した兄妹も多くいます。
当時の多摩は幕府直轄地で、自警のための腕を鍛える剣術も盛んな土地でした。
若い頃の歳三はやんちゃで、「バラガキ」と呼ばれていたと言います。奉公に出ても喧嘩をして帰ってきてしまう、なんて言うエピソードも。やがて青年になった歳三は江戸市谷にある剣術道場・試衛館に入門します。この試衛館の主は近藤周助といい、のちの新選組局長となる近藤勇の義父です。また同門には沖田総司や井上源三郎、山南敬助や永倉新八などの新選組の一員となる面々がいました。歳三は家業の1つである薬の行商をしながら、剣の修行に励んでいました。試衛館を継いだ近藤勇や仲間との切磋琢磨の日々の中、上洛する将軍の警備のための「浪士組」への参加者を幕府が募集しているとの話を聞きます。
農民の出ではあるが、剣で身を立てる絶好のチャンスと、近藤勇・土方歳三ら試衛館の面々は浪士組に参加を決めます。
当時の多摩は幕府直轄地で、自警のための腕を鍛える剣術も盛んな土地でした。
若い頃の歳三はやんちゃで、「バラガキ」と呼ばれていたと言います。奉公に出ても喧嘩をして帰ってきてしまう、なんて言うエピソードも。やがて青年になった歳三は江戸市谷にある剣術道場・試衛館に入門します。この試衛館の主は近藤周助といい、のちの新選組局長となる近藤勇の義父です。また同門には沖田総司や井上源三郎、山南敬助や永倉新八などの新選組の一員となる面々がいました。歳三は家業の1つである薬の行商をしながら、剣の修行に励んでいました。試衛館を継いだ近藤勇や仲間との切磋琢磨の日々の中、上洛する将軍の警備のための「浪士組」への参加者を幕府が募集しているとの話を聞きます。
農民の出ではあるが、剣で身を立てる絶好のチャンスと、近藤勇・土方歳三ら試衛館の面々は浪士組に参加を決めます。
いざ上洛!幕末の京都にて、泣く子も黙る「新選組」の誕生
京都に着いた一行は、江戸に帰るという浪士組から別れ、京に残ることを決めます。京都の警備を担当していた京都所司代・会津藩のお預かりとなり、壬生に屯所を構えたことから「壬生浪士組」と名乗ります。壬生浪士組の局長は水戸出身の芹沢鴨と試衛館組の近藤勇が二人の局長となり共存していましたが、商家への無理な金策や狼藉が目に余っていた芹沢一派を会津藩の命で暗殺し、近藤勇が全権を握ります。その頃会津藩より「新選組」の名を賜ります。
やがて「池田屋事件」で名を馳せた新選組は、京の町に潜む反勢力を狩る、泣く子も黙る剣客集団となっていきます。
やがて「池田屋事件」で名を馳せた新選組は、京の町に潜む反勢力を狩る、泣く子も黙る剣客集団となっていきます。
「新選組」の組織を支えた、土方歳三の鬼エピソード
新選組の局長は近藤勇ではありましたが、実務を握るのは副長の土方歳三。荒くれ者の多い新選組を一枚岩の組織とするためには、厳しい規則が必要と考えます。有名な「局中法度」の制定です。この規則には、士道に背くこと、隊から脱走すること、勝手な金策、勝手な訴訟などを禁止し、これに背いたものは切腹を命じるとあります。実際に、戦いで死亡した人数よりも、規則違反で切腹や暗殺をされた隊士の方が多かったという資料もあります。
芹沢鴨および芹沢派の粛清、山南敬助の切腹など、身うちであっても容赦はしないと、隊士にも恐れられました。
隊士を厳しく掟で縛り、自らも強く律したのは、自らが汚れ役を引き受けることで、局長である近藤への尊敬や信頼が高まる、そう考えていたのでしょうか。
芹沢鴨および芹沢派の粛清、山南敬助の切腹など、身うちであっても容赦はしないと、隊士にも恐れられました。
隊士を厳しく掟で縛り、自らも強く律したのは、自らが汚れ役を引き受けることで、局長である近藤への尊敬や信頼が高まる、そう考えていたのでしょうか。
モテモテでした
土方歳三は、写真でも分かるように現代でも通じるイケメンです。当時も相当モテたようで、小野路村の小島鹿之助という人に送った手紙には、「京都島原の花君太夫、天神の一之、祇園の芸子三人程、上七軒の君菊と舞子の小楽、大阪の新町遊郭では若鶴太夫と他二、三人、北新地では数え切れないほど」と、モテ自慢をして、「報国の心を忘れる夫人哉」という戯れ句を残しています。
朋友近藤勇との別れ
故郷多摩から京都へ来て、会津藩のもと闇に紛れた汚れ仕事も担っていた新選組でしたが、15代将軍徳川慶喜は恭順を示し、幕府は解体、幕府軍は朝敵となってしまいます。1868年の鳥羽・伏見の戦いを契機に、戊辰戦争が勃発。新選組を取り巻く戦況は悪化の一途をたどります。敗走に継ぐ敗走の中でも、土方歳三は闘志を失うことはありません。そんな中、拠点としていた流山で新政府軍に発見され、近藤勇が出頭。これが土方歳三と朋友近藤勇の永遠の別れとなってしまいました。その後、歳三らの必死の助命嘆願にもかかわらず、近藤勇は斬首刑となってしまいます。副長・土方歳三は局長となり、残った新選組を率いて進みます。近藤を失ってからの歳三は、もう鬼ではありませんでした。
函館戦争まで土方についてきた人々や隊士からは、「人の帰するに赤子の母を慕うがごとし」「慈母に似たり」と表現されています。戦いが進むにつれ、本来の親しみやすさ優しさが表れてきたのでしょうか。
函館戦争まで土方についてきた人々や隊士からは、「人の帰するに赤子の母を慕うがごとし」「慈母に似たり」と表現されています。戦いが進むにつれ、本来の親しみやすさ優しさが表れてきたのでしょうか。
函館に散る
新政府軍と徹底抗戦を貫く榎本武揚率いる旧幕府軍は、戊辰戦争において不利な戦いを続けます。一行は仙台から蝦夷地函館へ向かいます。その中に土方歳三の姿もありました。旧幕府軍は蝦夷地で体制を立て直し、新しい政権を樹立させ新政府軍との戦いに備えます。
1869年4月、雪解けを待って新政府軍が蝦夷地に上陸。戊辰戦争最後の戦いになる函館戦争に突入します。陸軍奉行並となっていた土方が率いる隊は負けなしの戦いぶりを見せます。そんな時、別動している新選組隊士たちが戦っている弁天台場が、新政府軍の攻撃により孤立してしまっているとの報を受けます。苦楽を共にした仲間を助けるために単騎駆けつけた土方歳三は、一本木関門にて腹部に被弾。(戦を終わらせたい味方による暗殺との説も)
1869年5月11日、土方歳三は戦死し、ついに新選組は終焉をむかえました。享年35歳。
土方歳三の戦死から6日後の5月17日に、榎本武揚ら旧幕府軍が降伏し、多くの血が流れた戊辰戦争が終わりました。
以降、日本明治政府は近代化を推し進め、不穏な雲ただよう軍国主義国家へと突き進んでいくことになります。
1869年4月、雪解けを待って新政府軍が蝦夷地に上陸。戊辰戦争最後の戦いになる函館戦争に突入します。陸軍奉行並となっていた土方が率いる隊は負けなしの戦いぶりを見せます。そんな時、別動している新選組隊士たちが戦っている弁天台場が、新政府軍の攻撃により孤立してしまっているとの報を受けます。苦楽を共にした仲間を助けるために単騎駆けつけた土方歳三は、一本木関門にて腹部に被弾。(戦を終わらせたい味方による暗殺との説も)
1869年5月11日、土方歳三は戦死し、ついに新選組は終焉をむかえました。享年35歳。
土方歳三の戦死から6日後の5月17日に、榎本武揚ら旧幕府軍が降伏し、多くの血が流れた戊辰戦争が終わりました。
以降、日本明治政府は近代化を推し進め、不穏な雲ただよう軍国主義国家へと突き進んでいくことになります。