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ポーツマス条約は負けたも同然? 勝って損した日露戦争の本当の勝者は誰だ!?

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ポーツマス条約ってどんな条約?

ポーツマス条約とは、別名:日露講和条約といい、1904年~1905年に渡り、日本海や中国大陸(満州)で起こった日本とロシア帝国との戦争の末に締結されたものです。

この
ポーツマス条約をいかに日本にとって有利に、ヨーロッパ列強に対抗できる日本の未来を形づくるために絶妙なタイミングで行うかを緻密に練られた戦争が、日露戦争だったといっても過言ではありません。

日本全権・小村寿太郎外務大臣とロシア全権・ウィッテの間で、アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルト仲介の下に締結されました。
日露戦争は日本の勝利でしたので、
ポーツマス条約の中身は、日本人の期待に応える内容のはずでした、が・・・。
ポーツマス条約に異を唱える暴動が、日本各地で多発したのです。
なぜ日本人は、勝利の条約にこれほど怒ったのでしょうか?
ポーツマス条約とは、一体どういうものだったのでしょう?

ポーツマス条約が結ばれた日露戦争はなぜ起こった?

日本とロシアの間にある、朝鮮半島と中国(当時は清)。
この二つの国に、さらに領土拡大をしようと南下を仕掛けるロシア帝国と、その勢力が日本列島に及ぶ前に朝鮮半島で阻止しようとする日本、産業革命で資金を得てさらに植民地支配をアジアの奥まで広げようとするヨーロッパ各国、それぞれの自国有利に国際情勢を動かそうという思惑が襲い掛かっていました。

すでに日本は、朝鮮半島の支配権を争い、1894年に「日清戦争」で清に勝利し、「下関条約」にて朝鮮の独立と台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲、さらに約3億1000万円の賠償金を認めさせたのですが、中国大陸への領土拡大の意欲を隠さず示すロシアのリードでドイツ・フランスによる「三国干渉」を受け、やむなく遼東半島を清に返還することになりました。

ところが、その遼東半島の旅順と大連をロシアが租借したことで、日本国民には「おのれロシア」という機運が高まり、「臥薪嘗胆」という言葉の流行とともに、いずれ来るロシア帝国との大戦に向けて準備を始めました。

日本国民は必死に働いて軍事費を稼ぎ、日本の外交はいかにしてヨーロッパ諸国の日本に対する好感度を高めるかに知恵を絞りました。

1899年に清で起きた「義和団事件」をきっかけにロシアが南下し、満州に居座りました。その隠すことない野心に危機感を強めたのは日本だけではありません。

1902年に結ばれた「日英同盟」は、中国大陸で日英双方の国益と韓国での日本の国益をお互いに守り、どちらかの国が二カ国以上の相手と戦争になった場合に助太刀するといったもの。

小さな新興国日本とは格の違う大国イギリスと締結されたこの同盟で得たヨーロッパからの信頼は、貧しい日本の戦費を作り出す国債を売るのにも好都合に働きました。 イギリスを後ろ盾にしたことでロシアの鮮度の高い情報も入手できるようになり、ロシア国内への工作も働きかけやすくなりました。

一方、ドイツ・ロシアの帝国主義の膨張や中国大陸の植民地支配争いが自国に有利に働かなくなる危機感を募らせていたイギリスもまた、東アジアのバランサーとして“極東の憲兵”日本を利用し、背後から日本を援助してロシア帝国を叩かせようとしていました。
国力も国土の大きさも比較にならない日本がロシアに勝利するには、各国マスコミが「日本勝利」と口をそろえて認めるような完璧な勝利を印象付ける必要がありました。

日本は、陸軍と海軍で緻密な作戦を練りあげます。
陸戦では、ロシアの誇るコサック兵と渡り合い、シベリア鉄道がどんどん送ってくる物資と兵隊を前に苦戦するも勝利。
そして海戦では、今も語り伝えられる「日本海海戦」にて、ロシアのバルチック艦隊を次々に沈め、ヨーロッパやアメリカが沸くほどの鮮やかな勝利。
この時点で、日本の戦費も砲弾もほぼ底を付いており、ロシア帝国は革命の機運により国政が荒れて戦争を続けるどころではなくなっていました。

日本海海戦にて日本が勝利した直後に、アメリカのルーズベルト大統領により、講和締結が勧告されたのです。

ポーツマスってどこ?なぜそんなところで条約が結ばれた?

ポーツマスは、アメリカ西海岸のニューハンプシャー州にある市で、ここにあるポーツマス海軍造船所はアメリカ初の海軍工廠です。別荘地としても有名で、警備のしやすさや宿泊施設が多いことから、この地が選ばれたようです。

静かな避暑地で行われたポーツマス講和会議を仲介したのは、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトです。

実際のところ、日露戦争自体は日本が勝ちましたが、戦争後の様子を見ると、余力ははるかにロシアの方がありました。日本には戦争を続ける国力は残されていませんし、負けたとは言ってもロシアは自国の領土を侵攻されたわけではなく、満州と日本海での戦いで敗北しただけとも言えます。

戦争続行で分が悪くなるのは、日本でした。
そのため、ポーツマス講和会議では、ロシアの賠償金は得ることはできませんでした。

ポーツマス条約の主な内容】
1) 韓国における指導権全て
2) 遼東半島の旅順、大連の租借権
3) 東清鉄道(ロシアが満州に敷いた鉄道)の一部
4) 樺太南半分を割譲
5) 沿海州沿岸の漁業権

日露戦争が始まるきっかけとなった韓国の指導権、そして「臥薪嘗胆」の遼東半島租借権など、日本の願いが叶った条約と言えるのですが、戦費に当時の国家予算の7倍もの約19億円を、たった一年半の戦いで使い切り、疲弊しきった日本国民にとっては、到底納得できないものでした。

ポーツマス条約で日本人激怒!日比谷焼き討ち事件

「日本人は賠償金欲しさに戦争をしかける」などといった情報戦をヨーロッパのマスコミ働きかけたロシア全権のウィッテにしてやられる形で、日本国内では「50億円も夢ではない」と皮算用されていた賠償金が「なし」という衝撃のポーツマス条約を締結してきた小林寿太郎や日本政府(第一次桂内閣)に対し、日露戦争で多くの犠牲を捧げた国民の感情は怒りで爆発しました。

1905年、日比谷公園で国民集会が行われました、
ポーツマス条約の内容を知り、反対するために集まった市民は暴徒化し、警官隊と衝突。建物の打ちこわしや放火が行われるという非常事態に、治安維持のために戒厳令が出されました。

反対集会が行われたのは日比谷だけに留まらず、日本各地で開かれ、治安悪化といっこうに静まらない
ポーツマス条約への怒りの国民感情に配慮し、第一次桂内閣は総辞職しました。

日露戦争、それは世論コントロールの知略戦だった

世界では「平和的」でも日本では「屈辱的」?【ポーツマス条約】をめぐるマスコミの功罪

ポーツマス条約とは

ロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテと、日本全権小村寿太郎は、アメリカの沿岸都市ポーツマスの海軍造船所にて、日露戦争を終わらせるため講和条約を結びました。これが「ポーツマス条約」と呼ばれるものです。

国の内政が不安定なロシアと、兵力の消耗が激しい日本、財政的にも疲弊していた両国にとっても、メリットの大きい条約でした。

日本からロシアへ提示された条約の内容は、以下のようになります。
・韓国に対するいっさいの監督権などを認める
・旅順・大連の租借権と長春、旅順間の鉄道の権利の譲渡
・北緯50度以南の樺太の割譲
・沿海州とカムチャッカの漁業権の承認

ほかにも、満州国から日本軍とロシア軍の両軍を撤退させることや、清国に対しての「機会均等」を維持することなども取り決めました。

世界での評価と調停国アメリカの思惑

日露戦争の最中日本は、中立を守っていたアメリカ合衆国に、非公式ではあるものの和平交渉をしてもらうよう働きかけていました。それに答えたのが、当時のアメリカ合衆国大統領、セオドア・ルーズベルトです。ルーズベルトは日本海海戦で日本海軍が勝利を収めたタイミングで正式に和平交渉に乗り出します。

中立の立場であったアメリカ合衆国が調停役となったのは、もちろんアメリカ側にも思惑があります。ヨーロッパ諸国と鎬を削るアジア外交をスムーズにするために、アメリカはロシアと日本の勢力が拮抗を求めたからです。

どちらが勝っても、勢力図は変化し、今後のアジア進出に影響が出ることは必至です。勝敗の差が大きく出る前に、痛み分けではありますが両国の戦争を終わらせることこそが得策と考えたからに他なりません。

結果、
ポーツマス条約の締結に尽力したルーズベルトは、その功績によってノーベル平和賞を受賞しました。
いいかえれば、
ポーツマス条約はノーベル平和賞にも値する、価値のある条約だったと言えるでしょう。

一方、日本での評価は

さて、このポーツマス条約は日本ではというと、とても受け入れられないものでした。なにしろ、この条約には賠償金の項目はありません。戦争で勝った国は負けた国から賠償金をもらうのが通例、であるのにです。

眠れる獅子とも言われた清国を相手に、日清戦争で勝利をおさめ、ヨーロッパ列強に迫る勢いで挑んだ日露戦争。明治維新後、憲法や法律を整えて国民一丸となったところでの強国ロシアとの対決です。軍事費を捻出するために国民に苦渋を強いた上での戦いでしたので、賠償金がもらえないのは日本人にとっては「屈辱」以外の何ものでもありませんでした。

条約制定に納得のいかない人々の反対運動は、世論の煽りを受けて広がっていきます。「屈辱的硬派反対!」「戦争継続!」と声高に叫ぶ民衆が、政府高官、講和を支持した新聞社、警察署、キリスト教会などに放火や襲撃をする「日比谷焼き討ち事件」もその一つ。日本政府は暴動を抑えるために軍隊を出動させる事態となりました。

なぜ、ここまでの反対運動が起こったのか・・・。時間を少し巻き戻してみましょう。

政治と報道の蜜月。民衆を煽る「新聞」の威力

私たちの暮らす現代は、テレビやラジオだけでなく情報誌やSNSなどあらゆるものから日本中、世界中の情報を仕入れることが出来ます。SNSの発達に伴って、ようやく最近情報の真偽を踏まえる土壌ができはじめたのではないか、とも思います。

しかし、当時の日本は文明開化の産声を上げたばかりの明治時代です。唯一の報道機関である新聞社には政治家と並ぶほどの大きな思想的権力が備わっていました。

日本政府の中でも近衛篤麿、神鞭知常らや野党系の政治家などを擁した「ロシアに対して強硬姿勢を取る一派」が、影響力のある「大阪朝日新聞」や「東京朝日新聞」「二六新報」など発行部数の多い有名紙新聞社の記者らと結び、強硬な戦争支持を叫びました。

それらの働きによって国民の多くは「主戦派」となり、軍事費に費やされる苦しい生活を耐え忍んできました。このような状況においては「戦争に勝てば賠償金で日本が潤う」と考えたとしてもおかしくはありません。

実際の
ポーツマス条約締結の裏には、両国の深刻な経済難があります。
日本もこれ以上戦争を続けるほどの資金もなく、払えるようなお金もないので賠償金の要求に応じるような条約には同意できない、というロシア側の意見もありました。 利権の譲渡や土地の割譲の代わりに賠償金は問わない、といったお互いの譲歩の上で成り立ったギリギリの条約が
ポーツマス条約です。
それでも、主戦派の新聞社の戦況報道により、実際は「痛み分け」の終戦だったにもかかわらず「日清戦争は日本が勝利した」と信じ込まされた群衆が、条約反対運動という暴動を起こしたのでした。

まとめ

【ポーツマス条約】締結されるまでの本会議はなんと10回?!その日程を追う

沿岸都市「ポーツマス」が選ばれたわけ

いよいよ交渉開始

1905年5月28日、日露戦争において日本海海戦が日本の勝利で終わりました。いまだ陸軍が樺太で戦況下にある中、翌月6月1日、外務大臣・小村寿太郎から命を受けた高平駐米公使が、アメリカのルーズベルト大統領に対し仲介の斡旋を正式に依頼します。

7月8日、新橋停車場より日本を出発した外務大臣であり日本全権の小村寿太郎は、7月20日シアトルへ到着しました。

小村より遅れること10日あまり、8月2日ロシア全権ウイッテもニューヨークに到着します。8月8日、ついに両国の全権団がポーツマスに到着。これで役者はそろいました。

交渉の公的な日程は以下のようになっています。

8月10日 <第1回本会議>
8月12日 <第2回本会議>
8月14日 <第3回本会議>
8月15日 <第4回本会議>
8月16日 <第5回本会議>
8月17日 <第6回本会議>
8月18日 <第7回本会議>
8月23日 <第8回本会議>
8月26日 <第9回本会議>
8月29日 <第10回本会議>
9月5日 <
ポーツマス条約調印>

こうして羅列してみると、とてもハードな日程となっていますね。
じつはその他にも本会議の合間を縫うように秘密会議や非公式会見が行われていたという記録があります。いました。これほど両国の交渉は困難を極めたのです。
その理由は、どちらの国が「圧倒的勝利」で終わった戦いではなかったことがあげられます。調停の立場をとるアメリカの思惑としては、日本とロシアの勢力が拮抗することが望ましいので、戦争に勝ったからと言って日本を優位に立たせるということは避けたかったとも考えられます。

日本側が提示した講和の条件とは

第1回本会議で、日本が提示した講和の条件は以下のようなものでした。

1.ロシアは、日本が韓国を支配することを認め、干渉しないこと
2.ロシア軍は満州から撤退し、清国(中国)の主権を侵害しないこと
3.満州のうち日本が占領した地域の一切を清国に還付すること
4.日本とロシア両国は清国が満州の商工業発展のために行う措置を阻害しないことをお互いに約束すること
5.ロシアは樺太とその付属島の全ての権利を日本に譲渡すること
6.旅順や大連および周囲の地域など、ロシアが清国より獲得したすべての権益・財産を日本に渡すこと
7.ハルビン~旅順鉄道と支線、鉄道に付属する炭鉱などの一切を日本に渡すこと
8.満州横貫鉄道は商工業上の目的にのみ使用することを条件に、ロシアが保有すること
9.ロシアは、日本が戦争に使った実費を払い戻すこと
10.ロシアは、ロシア軍艦を戦利品として日本に引き渡すこと
11.ロシアは、極東方面において海軍力を増強しないこと
12.ロシアは、日本海、オホーツク海、ベーリング海などのロシアの沿岸、港湾、入江、河川においての漁業権を日本国民に与えること

しかし、全てではありませんがロシアの強固な反対に合いました。とくに5・9・10は不同意を示しています。はじめのうちはどちらも引かず、日本側の譲歩案も通りません。ルーズベルトはロシア皇帝、ニコライ2世に対し善処を求め親電を送ったり、日本側に妥協するようにと働きかけたりと骨を折りましたが、うまくいきません。どちらの全権もこの交渉は決裂するかに思えました。

幾度会議を経てもはかどらない交渉に煮詰まったのか、小村全権はこれ以上の譲歩は不可能、と打ち切りを日本政府に持ち掛けたところ、日本政府は緊急会議と御前会議を開き「領土・賠償金の両方を放棄してでも講和を成立させよ」との答えを出しました。

知らせを聞いた随行員や報道特派員も非常に驚いたと言いますが、これによりあっさりと、
ポーツマス条約は成立したのです。

噴出する不満

先に起こった日清戦争で財政も兵力も消耗した日本と、同じように財政難に苦しみ、さらに国内にロシア革命などの不穏分子を抱えるロシア。
日露戦争は、日本国内ではマスコミの煽りもあって「日本の圧倒的勝利」と信じられていましたし、ロシア国内では戦争を続ければ負けなかったとする風潮が高まっていました。実際は痛み分けの終戦であり、日本とロシア、アメリカの各国の思惑を飲み込んでの条約交渉ですので、非常に難しかったようです。妥協案を出しては否定しあい、話し合いは遅々として進みません。その間にも日本国内では交渉の途中経過が報道され、講和締結への反対運動が大きなムーブメントを巻き起こしました。

日露戦争の圧倒的勝利を信じた日本は、当然敗戦国であるロシアから賠償金が支払われることと思っていました。日本国民は財政難と徴兵によって苦しい生活を強いられていましたが、これも戦争に勝つためなら、と耐えてきたのです。そんなとき、大阪朝日新聞が「ポーツマス会議では賠償金が支払われない」というスクープを撒きます。国内は大混乱に陥り、いたるところで講和条約「譲歩」に対しての反対運動や戦争継続の運動が起こりました。

結局のところ、締結した
ポーツマス条約では、日本海・ロシア沿岸での漁業権や関東州租借地、長春~旅順間の鉄道の権益を得たものの、樺太(サハリン)全島の割譲と賠償金の獲得は叶いませんでした。

日本国内の不満はついに爆発します。

1905年9月5日、
ポーツマス条約調印のその日、日本では条約反対を叫ぶ群衆が暴動を起こし、内務大臣官邸を襲撃、政府寄りの日本新聞社や市内の交番に放火、大混乱を引き起こしました。この事件は「日比谷焼き討ち事件」と呼ばれ、その収束には軍隊が出動し多くの死傷者を出しました。

日本海海戦前夜

黄海にて旅順艦隊ことロシア太平洋艦隊を叩き、203高地を占拠し旅順港を陥落させたものの、巨大なロシア帝国にはまだ保有艦艇が多く、日本海の制海権を握るには至っていませんでした。

遠い満州の地では陸軍が奉天の地でロシア軍と激突し、かろうじて勝利を収めたものの、満州とは陸続きのロシアからは、シベリア鉄道で新たな戦力が次々と補充されていきます。

そんな中、ロシア帝国は制海権を取り戻さんと大西洋からインド洋を経由し日本海に新たな艦隊を送り込んでいました。

その艦隊はロシア第2太平洋艦隊と名付けられ、指揮はロジェストヴェンスキー中将が任されました。

さらに旅順艦隊が壊滅すると、ネボガトフ少将の指揮するロシア第3太平洋艦隊が新たに日本海に送り込まれました。

この両艦隊はバルト海から送り込まれたことにちなみ、日本では「バルチック艦隊」と呼ばれ、これに備えなければなりませんでした。

10年前に日清戦争で清国を破った大日本帝国ですが、小国に過ぎない身で世界有数の大国であるロシア帝国とここまで対等に戦ってこれたのは奇跡に近く、そこでさらにロシアに制海権を取り返された場合、満州の日本軍は本国からの補充を受けることができなくなり満州の地で全滅してしまいます。

しかしバルチック艦隊が大西洋から日本海に辿り着くには長い時間がかかるため、連合艦隊にとってはチャンスでした。

大西洋から新たな艦隊が到着する前に本命の旅順艦隊を叩くことで両艦隊の合流を阻止できた連合艦隊でしたが、バルチック艦隊を全滅させない限り真の勝利はありません。

そこで連合艦隊司令長官である東郷平八郎大将はバルチック艦隊が来襲するまでの間、徹底的な訓練を実施することに終始します。

その訓練は苛烈を極め、旗艦三笠では一年分の砲弾を10日で使い切ってしまうほどであったといいます。

それは少しでも勝率を上げようという東郷大将の思いがありました。

バルチック艦隊からただ勝てばいい訳ではありません。

連合艦隊に課せられた使命は「バルチック艦隊の全滅」でした。

もしバルチック艦隊と一戦も交えることなくウラジオストック港に入港されでもしたら、連合艦隊は背後を脅かされてしまいます。

つまり全艦艇を沈めない限り、日本軍が真に制海権を握ることができないのです。

バルチック艦隊から逃げられぬよう…。敵艦隊を全て海に沈めるため…。連合艦隊の作戦の立案は全てある男に託されたのです。

智謀湧くが如し 秋山真之

秋山真之中佐は連合艦隊司令部にて先任参謀を務めていました。

兄には、後に「日本騎兵の父」と呼ばれる秋山好古(よしふる)少将がおり、今は日本陸軍騎兵第1旅団長として奉天のロシア陸軍と死闘を繰り広げていました。

同郷の友人には俳人の正岡子規がおり、帝国大学に行けるだけの頭脳がありながら、家が貧しいために学びながら食い扶持も稼ぐことができる軍人を志した真之は海軍兵学校を首席で卒業すると海軍軍人として頭角を現していきます。

アメリカに留学した際はアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、兵術の理論研究に努め、連合艦隊司令長官・東郷平八郎をもってして「智謀湧如」との評価を与えられた真之。

伊予松山藩出身の真之にとって地元の英雄・村上水軍の戦術も取り入れた一大作戦を立案することになります。

それは、「七段構えの戦法」と呼ばれるもので、敵艦隊を真っ先に見つけだして主力が激突する前夜に駆逐艦での奇襲雷撃を第1段目とし、主力決戦の第2段目。

主力決戦後の夜間雷撃が第3・4段目からの夜明けに、主力による追撃と雷撃にて撃滅する第5・6段目後、止めの7段目にて逃げるロシア艦隊をウラジオストック港の機雷原に追い込み撃滅するというもの。

七段構えの戦法が採用されると徹底的に索敵を行い、バルチック艦隊が最短距離でウラジオストックに入るために、対馬海峡を通過するという情報を入手すると、真之が「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という一文を加えた連合艦隊出撃の電文が大本営に打電されました。

この電文を受け取った大本営はいかに連合艦隊に有利でバルチック艦隊に不利であるかを知って大いに沸いたそうです。

明治38年(1905年)5月27日早朝のことでした。

日本海大海戦

明治38年(1905年)5月27日。史上稀に見る大海戦の火蓋が切って落とされました。

ロジェストヴェンスキー中将の旗艦スワロフを先頭に南南西からバルチック艦隊は現れました。

連合艦隊も旗艦三笠を先頭に単縦陣にてバルチック艦隊に迫ります。

そして距離が詰まる中、三笠に「Z旗」が上がると連合艦隊の士気が湧き上がりそこに東郷大将の号令が響きました。

「とーりかーじ!」

舵手は耳を疑いました。なぜならここで回頭してしまうと、バルチック艦隊に船の横腹を大きく晒してしまうこととなり、さらに言えばその間全くの無防備状態で敵の砲撃を受け続けることになるからです。

しかしそれは東郷の計算のうちでした。大本営に打電した「天気晴朗ナレドモ浪高シ」の電文通り、移動ばかりで訓練する暇のなかったバルチック艦隊の砲撃はほとんど当たらなかったのです。

後世「トーゴー・ターン」と世界で呼ばれる事になる敵前大回頭が終わると、そこには全ての砲口をスワロフに向けた連合艦隊の姿が現れました。丁字戦法の完成です。

頭を抑えられたバルチック艦隊は突っ切ることもままならず、なすすべないまま蹂躙され、一時間も経たず戦闘能力を失ってしまいました。

そこから連合艦隊も目的を達成するために徹底的に追撃を行い、27日、28日と2日間に渡って行われた海戦の結果、ウラジオストックに辿りつけたのはわずか3隻のみで大多数の艦艇は沈没したり拿捕されたりし、ロシア帝国は完全に日本海での制海権を失ってしまったのです。

それに対して連合艦隊の損失は水雷艇3隻のみという歴史的な大勝利であり、この勝利をきっかけとして、日本はロシア帝国と「ポーツマス条約」という対等以上の講和を結ぶことができ、形式上ではかろうじてロシア帝国に勝つことができたのです。
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