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近藤勇のふるさと「日野」が新選組の若者ファンの聖地に

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リアルに!楽しく!近藤勇を知るなら日野

「新選組の近藤勇」といえば、幕末ファンだけではなく、アニメやドラマなど、幅ひろい知名度を誇っている歴史上の人物です。
19世紀後半、尊皇攘夷の熱風にあぶられた京都に集まる志士たちによって荒れ果てた治安を守るため、京都守護職・会津藩主の松平容保公預かりとして、志士弾圧の先頭に立った新選組の局長は、まさに強圧的な恐怖の象徴。志士たちにとっては悪夢のような存在でした。
京都における近藤勇は、いわば危険で過酷な職場で働く警察官のようなイメージ。
一方、近藤勇他、後の新選組幹部に連なる土方歳三、沖田総司などの幕末に名を馳せた剣豪が、青春時代にともに修行に明け暮れた道場・試衛館で過ごしていた素顔の近藤勇は、どのような人柄だったのでしょう?
混乱の渦の中にあった京都に点在する「新選組の近藤勇」の史跡を回った後は、「素顔の近藤勇」をたどることができる観光スポット、日野に遊びに行ってはいかがでしょうか。

近藤勇になりきる!新選組のふるさと歴史館で徹底コスプレ

近藤勇の人生を、ほぼリアルスケールで描いた大河ドラマ『新選組!(2004年)』。その「街おこしプロジェクト」を市をあげて行ったのが、東京都日野市です。
「新選組のふるさと日野」と銘打ち、さまざまなコラボキャンペーンを現在も続けている東京都日野市は、新選組副長土方歳三や六番隊長井上源三郎のふるさとでもあり、東京都新宿区にあった試衛館から近藤勇や沖田総司が、はるばると出稽古に足を運び、日野近辺の農民などに天然理心流を教えたという、新選組にゆかりの深い土地柄です。

日野市内には、
・日野宿本陣(甲州街道の拠点としての日野宿の歴史を、築150年の木材の香りに包まれながら味わえます)
・日野宿交流館(当時の貴重な資料の他、ファン同士の交流を深める会議室もあります)

の、近藤勇ファンにはおなじみのスポットの他に、特に若者の間で話題となっているスポット
・ 日野市立「新選組のふるさと歴史館」が有名です。

新選組ファンだけではなく、歴史ファン、そしてコスプレ好きや写真好き、果ては日本が好きな外国人旅行者の心をキャッチしているのが、この施設の一角に設置されている人気コーナー「コスプレ記念写真コーナー」です。
ダンダラ模様の新選組羽織、土方歳三の洋装軍服など、ファンが憧れる衣装を着て、新選組屯所の看板やピストルを片手に、ハイポーズ!

実際に木刀を振って感じる、幕末剣士の腕力

コスプレ写真の親しみやすさとともに、新選組ファンの心をゆさぶるアイテムがあります。
「新選組のふるさと歴史館」には、天然理心流の稽古で使用する木刀を自由に触ることができます。
近藤勇が軽々と持ち、新宿と日野を日々往復したものと同じサイズの木刀を筆者も持ち上げたのですが、そのずっしりとした重みと太さに、命のやりとりをするリアルな武術として形稽古よりも激しく木刀を打ち合うことを重視する実戦的な兵法と言われている、天然理心流の凄みを感じずにはいられませんでした。
天然理心流四代目、近藤勇。
「天然理心流は、武術を修め、心は一誠を以って天地の公道を極める為に存す」
(剣術天然理心流 勇武館 日野道場公式サイトより引用。公式サイト:http://www13.plala.or.jp/yubukan/
「天地の公道を極める為」に、木刀を会津虎徹(伝)に持ち替え、京都警護の職にあたった男の姿が見えてきます。

さらに展示物の中に、近藤勇の直筆の書状もありました。家族や友人への手紙に踊るワクワクした心。日本中が戦乱に巻き込まれる幕末に郷土に残る人々を案じる優しさ、静かな知性を、丁寧な筆跡を通して感じ取ることができます。

日野市立「新選組のふるさと歴史館」
住所:〒191-0016東京都日野市神明4-16-1
電話:042-583-5100
公式ホームページ:http://www.shinsenr.jp/

近藤勇はこんな人だった

東京都調布市野水(当時:武蔵国多摩郡上石原村)に生まれた近藤勇(幼名:勝五郎)は、天然理心流道場・試衛館の三代目当主、近藤周助の養子となり、同道場の四代目となりました。
時は幕末。
日本近海にはヨーロッパ列強の戦艦が、新たな植民地を探して出没しており、江戸幕府はペリー来航によって開国に踏み切りました。
当時の主産業であった生糸が安く買い叩かれ、海外貿易のアイテムとしてどんどん運び出された結果、国内の生糸が不足。なおかつ尊王攘夷派と佐幕派、倒幕派それぞれが、なだれをうって江戸や京都などの都市部に流入することで食料品その他の価格も急上昇、米を手に入れることが難しい世情となり、人々は飢え、生活は困窮しつつあり、人心もまた荒れ、治安が悪化しました。

1863年、幕府は江戸周囲の浪士その他を200人ほど集め、浪士組を結成。近藤勇を筆頭に試衛館メンバーも名を連ねました。彼らは壬生を本拠地に、京都鎮護の任に付いたのですが、隊長の清河八郎が裏切り、浪士組は江戸に引き返すことになります。
ところが、近藤勇や芹沢鴨ら20数名はそのまま京に残り、京と守護職・松平容保公お預かりとして、御所警護、市中見回り、志士弾圧の旗印「新選組」を結成しました。

近藤勇の名を京の町に轟かせたのが、「池田屋事件」です。
「祇園祭前日に御所に火を放ち、混乱に乗じて孝明天皇を長州に拉致する」という途方もないクーデターを起こすために集まった長州、土佐、肥後藩の尊攘派志士たちの計画を未然に防いだ彼らの勇名は、志士たちにとっては悪夢そのものとなりました。
やがて新選組は幕臣として存在や権力が大きくなるにつれ、内部の権力争いや幕府の動乱とともにゆっくりと自壊。近藤勇は最後まで幕府と京都の秩序を守るために残った数少ない仲間と転戦を続けます。
倒幕後、鳥羽・伏見の戦いに参戦するも破れ、幕府軍とともに江戸へ逃れた近藤らは、幕府から新選組の名を取り上げられ、「甲陽鎮撫隊の大久保」に名を変え、さらに甲州にて転戦を続けるも、甲州勝沼の戦いで敗北します。
潜伏していた流山にて捕縛された近藤勇は、板橋刑場にて斬首、京都・三条河原にてみせしめの晒し首にされました。
近藤勇の墓の場所は諸説あり、ゆかりのあるあちこちの土地に伝承とともに残されています。
それだけ、近藤勇の死を悼む人々が当時からたくさんいたのでしょう。

まとめ 近藤勇を通して感じる多摩の誇り

京都では赤子が震えるほど恐れられていたという新選組局長・近藤勇でしたが、郷里の日野では、まるで古くからの友だちのように親しみを篭めた語り口と、隠すことない畏敬の念に包まれ、その名は親から子へと語り伝えられています。

勝者が持つひとつのものさしだけでは、人生は語ることはできないということを、近藤勇は教えてくれている気がします。
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