日本史

卑弥呼・古代日本の謎めいた女王はなんでそんなに有名になった?

関連キーワード

卑弥呼は何時代の人なの?

戦乱の闇に包まれた古代日本に、突如として登場し、国に平和と繁栄をもたらした呪術の女王。
私たち日本人が「卑弥呼」という人物名を耳にした時にイメージするのは、そんな姿ではないでしょうか?
ところが、「卑弥呼は何時代の人?」と言われると、「いつだっけ?」とあやふやになってしまいがちです。
今回は、そんな卑弥呼のガイドラインを探っていきたいと思います。
冒頭にご紹介した絵画は、日本が誇る代表的歴史画家・安田靫彦氏の絵筆による『卑弥呼』(1968)です。
徹底的な時代考証をする安田氏の描いた卑弥呼は、手に持つ青銅の呪術用杖(実際に4世紀の古墳から出土したものがモデル)や翡翠の勾玉、そして冠に描かれた古代中国由来の鳳凰にいたるまで、卑弥呼が生きた時代の権力構造がひとめでつかめる構図となっています。

「卑弥呼」という名は、日本書紀や続日本紀といった日本の正統な歴史文献には登場しないことをご存知でしたか?
彼女が女王として君臨していた「邪馬台国(やまたいこく)」があったのは、日本にまだ文字がない弥生時代の後期です。
中国大陸から稲作文化が伝わってきて、狩りや採集を中心にし、獲物を追ってサバイバルな旅をしていた時代から、集団で稲を育てる定住生活へと古代人のライフスタイルが変わり、それが当たり前となった時代です。

安定した食糧と文化的な定住暮らしは、人口つまり労働力が増え、余った富を蓄積することが可能です。
集団生活に、やがて貧富の差と共同生活する上での共通ルールが必要となります。
稲作をするにあたり大事になるのは、天候の安定です。
天気予報や稲作の進行管理、共同生活のいざこざを解消するために、優れた指導者が必要になるのは今と同じです。
さらに、稲作しやすく定住に快適な地域は、奪ってても欲しいものです。

そんな古代日本の姿をまとめて記録していたのは、日本ではなく、中国の歴史書でした。
『魏志倭人伝』は、正式には『三国志[魏書]第30巻・烏丸鮮卑東夷伝倭人条』といいます。
中国が三つの国に分かれていた時代、日本のとある国「邪馬台国」の女王「卑弥呼」という者の使者が、はるばる魏の皇帝に会いに来ました。

3世紀末に書かれた古代日本と邪馬台国の情勢のキーワードは
・ 「倭国大乱」
・ 邪馬台国に女王卑弥呼が登場、国を治める
・ 238年(推定)に邪馬台国は魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」という称号と金印を拝領。
・ 247年(推定)に卑弥呼は死ぬが、後継者の男王の下で内乱が起こり、それを平定するために壱与という13歳の娘が王位に。

そんな卑弥呼は、邪馬台国でどんな生活をしていたのでしょう?これらのキーワードをヒントに紐解いていきます。

卑弥呼は何をしていた人?

男性の王が治めていた古代日本では、約70~80年に渡って長い戦乱のさなかにありました。「倭国大乱」と呼ばれたこの時代、弥生人の寿命は30~40歳ほど。親子二世代にわたって長い戦乱に包まれていたイメージです。
その戦乱のさなかにある一国、邪馬台国に女王が立ち、争いあっていた諸国と和平を保ち、邪馬台国を中心に諸国が治まる平和な時代がやってきました。
女王の名は卑弥呼。この漢字は『魏志倭人伝』に記されたものなので、当時の日本ではどのように彼女が呼ばれていたのか、正しくはどのように発音されていたのかは不明なままですが、私たちはそのまま「ひみこ」と呼んでいます。
卑弥呼は、「鬼道を使う」と書かれていますが、これをシャーマン的な呪術と取るか、文明国である中国の政治システム(道教など)ととるか、諸説あります。
その「鬼道」を使い、弟を補佐役にして安定した政治を行う彼女に民もよく従ったようです。

当時、邪馬台国やその諸国は、稲作や鉄器などが伝わってくる中国、韓国ルートと外交を密にしており、卑弥呼もまた魏に使者を送ることで「親魏倭王」(魏と仲良しな倭の王)と認められ、その関係性を深めました。
しかし、高齢であったとされる卑弥呼は、そのわずか9年後には死去したといいます。
人の足で横切るのに100歩は必要な巨大な墓に、奴婢100人が一緒に葬られました。

その後、男性の王が後継者となりましたが、国内で1000人が死んでしまうほどの戦乱の世に逆戻りしてしまったので、卑弥呼の血族の娘という壱与(いよ)を女王としました。

卑弥呼はなんでそんなに有名になったの?

日本の歴史書には明確が記述がない、文字もない弥生時代の女王に、なぜ現代人はこれほど注目しているのでしょう?
それは、「邪馬台国がどこにあるか」が未だに特定されていない、という古代史ミステリーの重要人物だから、という点を見逃せません。
なぜ邪馬台国の場所を特定することに、これほど人々が注目しているかというと、現在の天皇家の成り立ちや、ひいては日本はどうやってひとつにまとまっていき、誰に統治されていったのか、という国家の起点が明らかになるからです。

『魏志倭人伝』には、邪馬台国のたどり着くためのルートが記されているものの、その通りにだどっていくと、太平洋のまんなかに行き着いてしまいます。
謎めいた邪馬台国を探るには、地道な発掘調査や数少ない資料を精査することが重要ですが、テクノロジーの進化により、邪馬台国の場所が急速に特定されようとしています。

九州政権と大和政権~日本書紀に記録されなかった卑弥呼は実在する?

邪馬台国は畿内説と北九州説に分かれて論議されています。
畿内説ならば、後の大和王権と直接の関わりがある、直系の祖という可能性もあるかもしれません。
ですが、もうひとつの北九州説になると、話は変わります。
中国大陸に近い北九州には、大和王権とは異なったシステムを持つ独自の九州政権があったらしいことが、吉野ヶ里遺跡の祭祀・集落跡が発掘されたことで立証されました。
天皇家に続く大和王権の祖である可能性のある畿内説、それとは全く別の強力な国家があったことをうかがわせる北九州説。
当時、魏から「正統な倭の王」と金印を与えられたのは、どちらだったのか。
古代史ミステリーの謎は、もうすぐ解かれようとしています。

参考サイト:「吉野ヶ里遺跡 弥生ミュージアム」
http://www.yoshinogari.jp/ym/index.html

女王・卑弥呼。豊かな弥生時代後期を守った勇敢な女性

諸国と戦い続けるよりも、平和をもたらし、人の心を思いやることを大事にした、勇敢な母性に満ちたひとりの女性が、弥生時代に確かに存在していた、ということもまた、現代人にとってのロマンではないでしょうか。
国内の安寧を保つため、後ろ盾とするべく魏に使いを送り、「親魏倭王」という称号を手に入れた女王は、倭=和の国の女王に相応しい知性の持ち主だったのだと想像します。
  • Facebook
  • Twitter
  • hatena

    ▲ページトップ