日本史

旧500円札の肖像画にもなった革新的な策略政治家、岩倉具視の行動力

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岩倉具視は幕末から明治初期にかけて活躍した公家出身の政治家ですが、幕末ファンが岩倉具視という名前を聞いたとき、良いイメージを思い浮かべる人はあまりいないようです。「姦物」「策謀政治家」の印象が強く、孝明天皇のかたわらで公武合体を推進したかと思えば、のちに倒幕派に転向するなど、時世の流れによって自分の立場や信条をコロコロ変えたというのが、岩倉具視という人物の通説です。

しかし一方で、岩倉は実は当初から熱烈な尊皇派であり、公武合体や倒幕は、あくまでも王政復古を実現するための手段だったのではないかと主張する人もいます。

今回はそんな岩倉具視の「見えざる一面」に焦点を当ててみます。

「岩倉具視」の誕生

岩倉具視は、下級公家だった堀河康親の次男として京都で生まれました。幼名は周丸(かねまる)。しかし周囲は陰で「岩吉」と呼んでいました。容姿や言動が公家らしくなかったから、というのがその理由のようです。当時、名前に「~吉」を付けるのは庶民で、身分の高い者がこう呼ばれるときは軽蔑の意味が込められていました。

遠回しな表現を好むおっとりした従来の公家と違って、ズバズバ切り込み、はっきりと断言する。そんな公家っぽくない周丸を、儒学の師である伏原宣明だけは高く評価していました。大人になったらきっと立派な人物になるからと、岩倉具慶の養子になるようにすすめられます。

こうして「岩倉具視」が誕生しました。

とはいうものの、岩倉家も身分としては下級公家だったので、朝廷の中央とはまるで縁がありませんでした。それどころか生活が苦しく、屋敷を賭博場として貸し出して場所代を稼いでいたという話もあるほどです。

異才か異彩か

あるとき岩倉は、関白鷹司政通に近づくために、鷹司の歌道の門人となります。鷹司は公家でも最高の家柄を誇り、天皇に近い存在でした。朝廷と幕府のあいだの調整役である関白の能力にも長けており、幕府からも信頼を得ていました。

そんな鷹司相手に岩倉は、強烈な持論を展開します。

「外国の船が日本にやってきたというのに、公家たちは何の関心も示さない。ただ歌を詠み、鞠を蹴り、管楽を演奏するだけで、国防もせず、学問もしない公家の古い意識と習慣を私は変えたいのです。国内の政治は幕府に任せてもいいが、対外問題はまさに国に関わること。朝廷も主体的にならなければいけません」

この頃の日本は欧米列国から開国を迫られ、揺れに揺れている時期でした。1853年、アメリカのペリーが黒船4隻を引き連れて浦賀に来航し、翌年には日米和親条約を締結。さらに数年後、今度はアメリカ総領事ハリスが日米修好通商条約の締結を迫っていました。

岩倉の持論は朝廷改革を促すものであり、当時の公家出身者の意見としては異彩を放っていました。そして時代は彼のような公家の出現を待っていたかのように変わり始めます。下級公家の岩倉が官位を賜り、孝明天皇の側近に登り詰めたのです。

岩倉はなぜ公武合体を推進したのか

ハリスが日米修好通商条約の締結を迫ると、当時の幕府の大老だった井伊直弼は、朝廷の許可を取らずに条約を締結します。これが大きな批判にさらされると、井伊は反対派を次々と処罰。教科書でお馴染みの「安政の大獄」です。さらに反発を買った井伊は、江戸城の桜田門で暗殺されてしまいます(「桜田門外の変」)。

これら一連の出来事をきっかけに、幕府の権威はどんどん地に落ちていきます。勝手に開国した幕府に対する不満が爆発し、外国を追い払って天皇を中心とする国に戻ろうと主張する尊王攘夷運動が活発になっていったのです。

この尊王攘夷運動の対抗案として幕府が唱えたのが公武合体論です。朝廷と幕府が一体となって政局を安定させようとする試みで、公武合体の実現の証として幕府は、孝明天皇の妹の和宮を、将軍家茂の妻として降嫁させようと画策します。

しかし、孝明天皇をはじめ多くの公家が和宮の降嫁に反対します。和宮にはすでに別に婚約者がおり、何より本人が降嫁を嫌がっていました。それに降嫁を認めれば、朝廷が幕府に負けたような気がしてならなかったのです。

ここで岩倉の登場です。彼は孝明天皇にこう言いました。

「これは負けではありません、政略です。条約締結で失墜した幕府は、朝廷の威光を借りなければ権力が保てなくなっています。つまり、幕府の力は衰えてきているのです。幕府に協力すると見せかけて、朝廷が実権を奪い取るチャンスです。まずは公武合体を実現し、いずれは朝廷の承認なしには政治を行えないようにしていけばいいのです」

政治的決定権を遠からず朝廷へ戻しましょうと提案しているわけです。岩倉の言葉に納得した孝明天皇は、和宮を将軍家茂の元へ嫁がせます。

しかし、公武合体はもともと幕府が望んだこと。和宮を降嫁させた岩倉は幕府を支持する佐幕派とみなされ、尊王攘夷派から追われることになってしまいます。

ついに王政復古を実現

朝廷復権を望み奔走してきたのにもかかわらず、尊皇攘夷派から追われる羽目になった岩倉は、その後5年にわたり隠匿生活を余儀なくされます。それでも岩倉の政治への情熱は尽きることなく、彼を支持する者たちと密かに交流を続け、多数の意見書をしたためています。

慶応2年(1867年)に孝明天皇が亡くなり、翌年に新天皇が即位すると、岩倉にも徐々に自由が戻り始めます。倒幕派へ転向したのもこの頃だといわれており、幕末末期には実際に薩摩と手を組んで、「討幕の勅許」の手配に動きます。やがて大政奉還を経て、ついには岩倉の念願だった王政復古の大号令が発令されます。その後岩倉は、明治新政府の中枢を担う政治家として活躍することになります。

大学受験でお世話になった『日本史B用語集』の岩倉具視の項目には、「幕末・明治の政治家、公家。公武合体を策し、のち討幕論に転向、薩長討幕派と結んで王政復古に尽力した」との説明があります。岩倉が公武合体から倒幕へと思想を変えたように見受けられる表現ですが、こうして岩倉の人生をつぶさに見ていくと、彼の根底に流れていた思想はあくまでも朝廷改革・王政復古だったことがわかります。

岩倉は息を引き取る瞬間に口頭で遺言を残しています。その内容については明らかになっていませんが、遺言は天皇に関することだったのでないかと推測する歴史学者もいます。

地下政治運動家だった岩倉具視~極貧の潜伏生活~

高校の日本史の教科書に「岩倉具視」の名前が初めて出てくるのは、江戸末期、大政奉還の直前あたりです。幕末の他の人物に比べて目立った活躍が語られる人物ではありません。それなのに彼の名前を聞くと、なぜか懐かしく感じませんか?

若い方はご存じないかもしれませんが、ひと昔前、日本には500円のお札がありました。その500円札に刷られていた肖像画の人物が岩倉具視です。岩倉は明治維新で活躍した公家でしたが、お札の肖像画は、なんともいかつい頑固親父の体で、およそ公家らしくありません。

風貌だけでなく、考え方、生き方、運命までもが他の公家とは違っていました。下級の公家に生まれながらも革新的な思想を持つ策略家だった岩倉は、その能力ゆえに5年間におよぶ潜伏生活を強いられます。その姿はさながら熱い情熱を内に秘めた地下政治活動家のようでした。

汚名を着せられて

日本にペリーが来航して開国を迫った1853年から、日本は幕末期へ突入します。200年以上にわたりワンマン政治を繰り広げてきた幕府が異国の来航に動揺すると、幕府への不信が高まり、尊王攘夷運動が盛んになります。

尊王攘夷運動に対抗するため、幕府は朝廷の威を借りて権力を取り戻そうとする公武合体運動を打ち立て、皇女和宮を将軍家へ降嫁させようとします。しかし時の孝明天皇は降嫁に反対。そんな天皇を説得して降嫁を実現させたのが岩倉具視でした。

ところがこの行動によって岩倉は幕府の協力者とみなされ、尊王攘夷派の怒りを買います。尊攘派に圧力をかけられた朝廷は岩倉を処分。過激派から天誅を加えるという脅迫まで受け、岩倉は身を隠すことになりました。

極貧の潜伏生活

京都の中心部から離れたくなかった岩倉は、頭を丸めて市内の寺に身を隠します。ところがこの頃の京都は過激派がたむろしており、かなり物騒でした。また、自分の滞在で寺に迷惑がかかっているとわかると、郊外の岩倉村へ移ります(ちなみに村の名前が同じ岩倉なのはまったくの偶然でした)。

当時の岩倉村は寒村という言葉がぴったりのさびれた場所でした。最初に借りた家はぼろぼろで、柱は傾き、壁も破れ放題。しかたなく大工から古い家を買い取ると、家族と一緒の潜伏生活が始まります。岩倉が長年隠匿していた家は「岩倉具視幽棲旧宅」として保存され、今は観光地となっています。官位を持つ天皇の側近が住んでいたとは思えないほど、小さくて質素な家です。

生活はかなり苦しかったようです。子どもたちが小川で釣ってきた小魚がごちそうで、好物のお酒も徳利で小出しに買うという始末。生まれたばかりの女児の産衣さえ買えず、農家の里子に出したほどでした。

なぜこんな目にあわなくてはならないのか、納得がいかない。岩倉は日記にそう書き記しています。

しかし、この厳しい5年間が岩倉を鍛え上げ、のちに王政復古を実現して新政府を担う人物に成長させました。明治になってからも岩倉はたびたび岩倉村を訪れ、辛かった時代を偲んでいたようです。

訪問者たち

公武合体派として幕府の側に立っていた薩摩藩が、開国倒幕へ方向転換する事件が起きました。薩英戦争です。生麦事件をきっかけにイギリスから戦争を仕掛けられた薩摩は、異国の武力のすごさを見せつけられ、「攘夷なんてとんでもない」と悟ります。

一方で尊王攘夷派として薩摩と対立していた長州藩も、米・英・仏・蘭の4カ国連合艦隊と下関で戦いますが、結果は薩摩と同様に散々。やはり「攘夷なんてとんでもない」という結論に至り、開国倒幕へ傾きます。

尊王攘夷を唱える声が下火になると、岩倉は再び国家の将来を語り、朝廷改革を訴える意見書を書き始めました。すると岩倉の元には、彼の志を知った有志たちが続々と訪ねてくるようになりました。地下政治運動の始まりです。

岩倉村の隠れ家には幕末の志士がたくさん訪れましたが、その中には土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎の姿もありました。特に中岡は岩倉の器量に感銘を受けて帰っていったと伝えられています。

薩摩藩の大久保利通も訪問者の一人でした。大久保とは倒幕と王政復古の実現を話し合い、明治になると「岩倉使節団」の団員として、ともに欧米へ旅立つことになります。

訪問者たちを自分の手足とすることで、岩倉は隠匿しながらも中央の情勢に精通していきました。岩倉村はいつの間にか、朝廷、幕府、薩長などの政治情報の拠点となります。以前は幕府の力を利用して王政復古を目指していた岩倉でしたが、様々な情報や考えを聞くうちに、幕府を見限るようになります。

表舞台への復帰

倒幕の波はいよいよ最高潮を迎えます。幕府を倒すために薩摩長州と連携した岩倉は、朝廷から「討幕の密勅」を引き出そうとします。しかし、密勅をかぎつけた15代将軍慶喜は、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を決意します。

大政奉還によって「討幕の密勅」が無効になり、倒幕派は幕府を倒す名目を失います。生き残った徳川家に再び政権を握らせるわけにはいかないと、岩倉は大久保らと「王政復古の大号令」を発布します。幕府の時代は終わり、これからは天皇が政治を行う時代であると、高らかに宣言したのです。

明治元年、 岩倉具視は明治政府の副総裁の地位に就き、若い明治天皇に代わって政府との調整役を果たします。のちに外務卿に就任すると「岩倉使節団」の特命全権大使として渡米し、木戸孝允、大久保利通らとともに条約改正の予備交渉に尽力。明治16年に死去した際には、日本初の国葬が営まれました。

岩倉の潜伏生活を支えたもの

歴史学者の佐々木克氏は岩倉具視に関する著書の中で、「岩倉に権力的野望のようなものがあったようには見えない」と述べています。「……岩倉の発言や行動は、自らの出世・栄達を意識したものではなかった。また明治政府における岩倉は、政府の調停・調整役に徹していて、ナンバー1の座に着くことは意識していなかったように思う。幾度かその機会がありながら、岩倉の本来の志は有能な人材を見出だし、その人材に自分の考えた構想・意見を説き、そのような人材によって大きく世の中と政治を理想の方向に動かすことであった」。(『岩倉具視 幕末維新の個性5』吉川弘文館、P58)。

岩倉の地下政治活動を支えたものは、理想の政治をしたいという情熱だったのかもしれません。出世を望まない自分が100年後にお札の肖像になるとは、岩倉自身、夢にも思わなかったでしょう。

近代化日本の幕開け!岩倉使節団・全権大使の【岩倉具視】その人選の理由とは

幕末から明治期に活躍した【岩倉具視】。そんな彼の名を冠した「岩倉使節団」をご存知でしょうか。詳しいことは分からないけれど、名前は聞いたことがある、という方も多いかもしれません。

社会の教科書にも載っている「岩倉使節団」について、少しおさらいするとともに、明治期に活躍した多くの偉人の中で【岩倉具視】その人が全権大使となった理由を探ってみましょう。

使節団が結成された目的と、一行がたどったルート

明治維新後、近代国家を目指す明治政府は、マシュー・ペリーの来航を発端とした幕末の混乱期に、各国と終結された「修好通商条約」の改正を最優先課題としていました。
修好通商条約では、日本に住む外国人を日本の法律で裁くことができない「領事裁判権」を認めており、また外国との貿易で利益を上げるために重要な「関税自主権」がないなど、日本にとって非常に不平等な条約でしたので、一刻も早い条約改正が望まれていたのです。

そこで、政府の号令のもと大々的な使節団が結成されました。
使節団は、不平等な条約を改正するための外交と、アメリカやヨーロッパ諸国の文明や政治システム、生産、経済、軍事などの視察を主な目的としており、彼らがこの外遊で得たさまざまな情報や知識、経験は、その後の日本を作り上げる大きな指針となっていきます。

では、岩倉使節団のたどったルートを見てみましょう。
岩倉使節団が横浜港を出発したのは、1871年12月のこと。
日本を出発した一行は太平洋を渡りサンフランシスコ→ワシントンとアメリカ合衆国に8か月間滞在。その後大西洋を渡りロンドン、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスといったヨーロッパの国々を精力的に回ります。
帰路はスエズ運河、インド洋を通りますが、その間ヨーロッパ諸国の植民地となっていたアジア諸国へも訪問しています。そして再び日本の横浜港に到着したのは、1873年の9月。
じつに2年近く632日もの歳月が費やされました。

主要メンバーは?

主要メンバーは当時政府の首脳陣や各省の俊英たちで約50名で構成され、さらには前途有望な若者や留学生などの多くの随員をかかえていました。平均年齢は30歳というフレッシュな一団で、その総勢は107名にも上りました。

王政復古の立役者の一人、右大臣・【岩倉具視】を特命全権大使とし、「参議・木戸孝允」「工部大輔(こうぶだいふ)・伊藤博文」「大蔵卿・大久保利通」「外務少輔・山口尚芳」といった、薩長の実力者であり明治の日本をけん引するそうそうたるメンバーが副使を務めています。また、各省専門の理事官や、江戸時代において外国の文化に通じるなどしていた有能な旧幕臣が書記官に多く加わってもいました。留学生も多数伴っており、中には女性や子供も多く見られました。のちの津田塾大学創始者である津田梅は、なんと最年少の満6歳での参加でした!驚きですね。(写真中央の小さい子が津田梅)

ちなみに、政府の主導を担っている首脳陣が使節団に参加している間に、明治政府の大きな政策の1つ「廃藩置県」の事後処理をするため、太政大臣の三条実美や西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らによって「留守政権」が組織されました。留守政権は、廃藩置県のほかにも、○○などの政策に(使節団チームには相談もなく)乗り出し、使節団帰国後、さまざまな問題や衝突を引き起こすことになります。

リーダーは岩倉具視!その人選の理由

英傑の揃う明治初期。明治という時代の建立に力を尽くし、主導していく立場の重要人物が多く存在しました。では、なぜ【岩倉具視】が特命全権大使という大役を任されることになったのでしょうか。

政府内のパワーバランスや、46歳といった円熟した年齢であったことなどがあげられますが最大の人選理由は、岩倉具視が公家の出身だということのようです。出自こそ下級公家ですが、その実力と才で天皇の側近に登りつめるほどの人物で、尊皇派でありながら公武合体を進めたとして一時期は蟄居の憂き目にあうものの、やがて復権。幕藩体制の終わりを告げる「王政復古の大号令」にも尽力しています。

天皇を中心に据えた国家作りを進めている明治政府でしたが、明治政府首脳陣の多くは薩摩や長州の出身者が多かったのも事実。実際、当初の特命全権大使の候補は肥前出身の大隈重信だったとも言われています。

しかし、明治日本が欧米諸国に認知されるためには、公家出身で政府要人でもある岩倉具視が【天皇の代理人】として使節を率いる必要性があったと考えることができます。パフォーマンスとしてだけではなく、実際岩倉具視は知識と経験に裏打ちされたリーダーシップに秀でた人物でもありました。
このような理由で、明治初期の一大使節団「岩倉使節団」が作られたのです。

髪のカットはシカゴで!

ジャパニズムを愛した岩倉具視。
和装、そして髪を結ったスタイルで渡航しました。こちらは出港前に撮られた写真で、真ん中の座っている人物が岩倉具視です。
そして、もう一枚。こちらは、シカゴで撮影された写真。洋装&断髪とすっかり西洋風になっています。

「そんなんだとアメリカ人に笑われちゃうよ!」という旨のことを同行した息子に言われ、それならば、と洋装に変身したと言われています。
アメリカで実際珍しい服装と髪型の岩倉はもの珍しさから見世物のようになっていたとの説もあります。

古いものを大切にしつつも、新しいものも積極的に取り入れる柔軟さ、そんな性格も使節団人選理由の一つだったかもしれませんね。

すごいやり手!【岩倉具視】がリーダーシップをとったできごと2つ

近年ではほとんど見ることがなくなりましたが、500円札の顔として有名だった岩倉具視。
学生の頃初めて習ったときには「ともみ」という名前に女性を想像した人も少ないはずです。しかし、そんなソフトな名前とは裏腹に、岩倉具視は、幕末から明治草創期に表に裏に活躍した歴戦の大物政治家です。

今回は、岩倉具視がリーダーシップを取り徳川幕府を完全に消滅させた二つの事件を追ってみたいと思います。

偽物、とのうわさもある「討幕の密勅」

1864年(元治元年)、有名な池田屋事件の一ヶ月ほど後、京にいる長州勢が御所を襲撃するという事件がおきました。「禁門の変」です。禁門の変で朝廷に弓引いた長州は「朝敵」とされた、幕府は長州討伐を行います。
幕府軍による第一次長州征伐は、穏健策によって武力衝突はせず。さらには第二次長州征伐は幕府の財政難と「薩長同盟」、さらには時の将軍14代徳川家茂が遠征先の大阪城で急死するという災難に見舞われ、将軍後見役であった徳川慶喜によって「休戦」という措置が取られました。

その後、15代将軍となった徳川慶喜は、会津藩・桑名藩との連携を強め、佐幕攘夷思想をもつ孝明天皇をよりどころとした、強権を発揮しはじめました。ところがその矢先、孝明天皇が崩御され、慶喜率いる徳川幕府は行き詰まりを見せ始めます。

あくまで政治の主体たろうとする幕府のやり方に強い違和感を覚えた大久保利通・西郷隆盛ら薩摩は、武力による討幕を決意します。新たに天皇の座に就いたばかりの明治天皇の周辺公家や、同盟を結んだ長州と協力し、徳川慶喜討伐の勅書「討幕の密勅」を朝廷から引き出すことに成功しました。

このとき、薩長両藩に下された「討幕の密勅」は、署名されているのはほかの中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之といった廷臣の名前ですが、起草したのは岩倉具視の側近だったことから、全ての主導は岩倉具視とされています。

・「偽物」と言われるワケ

勅書とは、天皇のことばを書いた公文書のことです。勅書が発行されるには以下の手順を踏まなくてはいけません。

1.天皇が承認したという印に、直筆で日付の一字を記入する
2.摂政・関白はそれを朝廷会議にかけて検討し、妥当であれば奏上(天皇に申し上げ)する
3.天皇の「可」の文字の記入によって、はじめて勅使として効果を持つ

「討幕の密勅」は天皇直筆による日付も「可」もなく、親幕派であった摂政の手も経ていない事から「偽物ではないか」と言われています。

政治の場から徳川家を退けよ!「王政復古の大号令」

「討幕の密勅」を得て幕府討伐の大義名分を得た薩長軍でしたが、重ねるようにして、徳川慶喜は「大政奉還」を行い、その大義名分を無効にします。
朝廷に政権を返したとはいえ、それもノウハウのない16歳の若い明治天皇のサポートとしてまだまだ徳川家が政治的な権限を持てるだろうと想定してのこと。しかし薩長こそ、新しい天皇のもとで主導権を握り政治を行いたいと思っていました。徹底的な徳川排除を目指す薩長そして公家・岩倉具視は画策し明治天皇を頂点にした政権を作ることを宣言します。これが「王政復古の大号令」です。
「王政復古の大号令」発令その前夜、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩の重臣たちがひそかに岩倉具視の自宅に呼ばれました・・・。

1868年(慶応3年)摂政・二条斉敬の主催で行われた朝議で、先の禁門の変で「朝敵」とされていた長州藩主親子と、そして九州に流されていた三条実美ら5卿の赦免、和宮降嫁を進め公武合体の姿勢を取ったとして蟄居とされていた岩倉具視の赦免が可決されました。
そしてその朝議が終わってすぐ、待機していた薩摩・土佐ら先出の5藩が御所の9門を封鎖、御所への立ち入りを制限し、親幕の朝廷首脳も入ることは許されませんでした。
その代わり赦免されたばかりの岩倉具視や三条実美らが参内、明治天皇のもと「王政復古の大号令」が発令されました。

・王政復古の大号令の内容は?

1.大政奉還では形式的にすぎなかった徳川慶喜の将軍職辞職を許可する。
2.京都守護職・京都所司代の廃止
3.徳川幕府の廃止
4.旧体制的あるとして摂政・関白などを廃止
5.新たに、総裁(新政府の最高官職)・議定・参与の三職を設ける

こうして、名実ともに徳川幕府は瓦解し、250年以上にわたる江戸時代は幕を閉じました。

実は岩倉もねらわれていた?「大久保利通の暗殺」

1878年5月、明治天皇に謁見するため赤坂の仮皇居に向かう途中の紀尾井坂で、大久保利通が島田一郎や不平士族6人によって刺殺されるという事件が起こりました。
犯人らによる暗殺の理由の罪状を5つ記した「斬奸状」が用意されており、そこには、ほかに暗殺しようとしていた政府高官の6名も挙げられていました。その6名とは、木戸孝允・岩倉具視・大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良。どれも明治維新を進めた偉人達です。

新しく何かを始めるとき、何らかの犠牲はつきものですが、暴力ではなく話し合いでさまざまな解決ができる現代日本の礎となってくれたのは間違いなくこれら先人たちの功績です。
平和に慣れっこになってしまった現代の私たちも、偉人たちの生き方に触れるとき、少し身が引き締まる思いがします。
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