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いつだって恋バナは乙女の楽しみ!「源氏物語」を生んだ【紫式部】の素顔

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現代からさかのぼること千数百年、日本で初めてのベストセラー「源氏物語」は誕生しました。全編54帖からなる長大なこの物語の作者はかの有名な【紫式部】です。
名前は知っていても、ではどういう人?と聞かれると、はっきりと答えられないのが歴史上の人物では往々にしてあることですね。
さて今回は、平安の女流作家紫式部の素顔に迫ってみましょう。

【紫式部】実は名前ではない?

十一世紀のはじめ頃、平安時代の女性であった紫式部には、はっきりとした生没年の記録はありません。生まれは天延元年頃(973年)、没年は長和3年頃(1014年)ではないかと言われています。単純計算しても41歳で生涯を閉じたことになりますが、これは当時でも早世の部類に入ります。

また、紫式部は本名も分かっていません。この頃の女性は名前ではなく、誰それの娘だとか妻だとか父や夫にくっついた呼び方をされたり、出身地や住んでいるところ、または役職名で呼ばれたりしていました。宮仕えしていた【紫式部】も、女房名であり、式部と同年代に活躍した清少納言や和泉式部、有名な小野小町だって本名ではないのです。

はじめは、藤原家であることと、「式部省の官僚」である父親(または兄弟)からとって「藤式部」と呼ばれていたようですが、「紫の上」という女性が登場する源氏物語の作者ですので、しだいに【紫式部】と呼ばれるようになったのだとか。

もちろん男性でも、当時は左大臣とか中納言とか、地位や役職名で呼ばれています。男女とも地位が変わるごとに呼び名も変わっていくので、現代人からしてみればちょっと複雑に見えますね。

文才は父譲り?

中流貴族の家に生まれた紫式部は、母とは早くに死に別れ、国司である父のもとで育ちました。国司とは今でいう地方官で、受領とも呼ばれています。受領は身分こそ高くないものの、文に優れた才能を発揮した人も多いようです。また地方に赴任するため、世の中の広さを実感として経験し、さまざまな人々の暮らしを見知っていました。紫式部の父、藤原為時(ためとき)もまた、漢詩文に優れた一流の文人であり、その才で出世をはたしたエピソードが今昔物語集などでも語られているほどです。そのような父を持つ紫式部は、母親温もりを知らぬ代わりに、文人の素養を知らずのうちにその身に蓄えることになりました。

北陸は越前の国守として赴くことになった父に、娘の紫式部が同行したのは、24歳の頃。

いまだ独身だったと言われていますが、24歳といえば当時としてはかなりの行き遅れ・・・なぜ独身だったかはよく分かっていません。そしてその二年後、紫式部は父と共にではなく一人で帰京し、親子ほど年が離れ、自分と同じくらいの息子がいる藤原宣孝(のぶたか)という人と結婚します。

そして物語は生まれた!

華やかな京の生活と違い、田舎である越前の生活は寂しく、冬ともなると暗い空と厳しい寒さに耐えなくてはいけません。都を恋しく思う紫式部は、心を寄せてくれる宣孝との結婚に踏み切ったのかもしれません。とはいえ、現代と同じように、新婚の楽しさはやがて慢性的な退屈にとって代わり、さらに一夫多妻制の当時、藤原宣孝は紫式部以外の女性とも関係があったようで、心落ち着かない日々もあったようです。

そんな中、夫宣孝が流行り病にかかりあっけなく亡くなってしまいます。結婚生活はわずか3年と短いものでした。夫という頼りをなくした紫式部はまだ幼い娘を抱え一人で生きていくことを余儀なくされるのです。

夫を亡くしたという「不幸」に身を置くことによって、紫式部は「人の人生とはなにか」ということを考えるようになりました。色恋の身をもむような悩みや、支えを失くした悲しみ、幼子への慈しみ・・・さまざまな経験が混とんとなってやがてひとつの物語が生まれます。それが「源氏物語」です。

紫式部はその著「紫式部集」の中の一節で、「夫を亡くしてから、将来に対する漠然とした不安や虚しさなどを抱えていたけれど、しだいに物語を書いて自分の親しい人に読んでもらえることが生きがいになっていった」という旨を回想しています。

やがてその物語(当初はまだほんの一部でしょうけれど)は宮中でも広がり、紫式部の文才が噂されるようになりました。そんな噂を聞きつけたのか、自分の娘の女房に、と望んだ人物がいます。宮廷内でも絶大な権力を持つ「藤原道長」です。道長の娘は彰子といって一条天皇の中宮(天皇の后)でした。宮仕えし、宮中の生活を実際に見聞き体験することで、空想だった物語はよりリアルさを帯びます。情景はもちろん人の内面の機微や一生の浮き沈み、光と闇などがふんだんに盛り込まれ、時代の淘汰にも耐えうる壮大な物語へとなっていきました。

その後も紫式部は彰子中宮のお世話の傍ら、物語を書き続け、源氏物語は宮中で回し読みされるほどの人気作となりました。

紫式部の晩年は

一条天皇が崩御されたのが寛弘八年(1011年)、それに伴い彰子中宮も琵琶殿というところに移りましたが、その時も側近女房として紫式部が伴っています。その後の長和2年(1013年)の秋まで宮仕えが続いたことは確かなようですが、それ以降ははっきりしておらず、翌年の春ごろ、亡くなったのではないかとの説が現在有力視されています。

紫式部の父親藤原為時は、娘の死を受けたためか任地から帰京し、それから2年後、三井寺で出家します。詳細は分かっていませんが、おそらく娘の死を弔うためか、それとも悲しみに耐えきれなくなったのでしょうか。

紫式部の墓所は、京都市北区・堀川北大路を南に下がった西側に、ひっそりとあります。今でもたくさんの人々に愛され、京都の観光名所の一つとなっています。

『源氏物語』のなかの『古今和歌集』

 最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』と、世界最初の小説と言われる『源氏物語』。平安時代の文化の結晶であるこの二作品は、遠いようで、実は近い関係にあります。とりわけ、『源氏物語』にとって『古今和歌集』は、物語に時間的な奥行きを生み出し、平安時代らしい知的な雰囲気を醸し出す、大切な古典作品としてしばしば引用されています。

 紫式部が『源氏物語』を書いた当時、平安貴族の読者たちは当然のように『古今和歌集』の歌を、教養・たしなみとして知っていましたから、紫式部の知的な遊び心に「ニヤリ」としていたことでしょう。しかし現代においては『古今和歌集』を隅から隅まで知っている、という人は学者でなければ少なくなりました。とはいえ、『古今和歌集』を知ると『源氏物語』への理解が深まることに変わりはありません。

 というわけで、『源氏物語』において『古今和歌集』が引用されるあまたのシーンから、印象的な2つのシーンを紹介します。『古今和歌集』の理解が『源氏物語』の理解とどう繋がっていくのか、その一端が明らかになるはずです。

<本文>(『源氏物語』山岸徳平校注 岩波文庫)、<与謝野訳>(『源氏物語』の与謝野晶子訳)、引用されている『古今和歌集』の歌の解説、の3本立てでお届けいたします。

1. 桐壺巻 「闇のうつつ」

『源氏物語』の巻頭をかざる「桐壺巻」から、帝が亡き桐壺更衣を思い出す場面を紹介します。ここには『古今和歌集』を踏まえた、平安文学らしい奥ゆかしい表現が登場します。

<本文>
夕月夜のをかしき程に、いだしたてさせ給ひて、やがてながめおはします。かようの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる、物の音を掻き鳴らし、はかなく聞え出づる言の葉も、人よりは殊なりし、けはひ・かたちの、面影につとそひて、おぼさるるにも、「闇のうつつ」には、猶(なほ)劣りけり。

<与謝野訳>
夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。

太字にした部分が『古今和歌集』からの引用を踏まえた表現です。さっそく、「闇のうつつ」という言葉が登場する短歌を『古今和歌集』から探してみますと、

むばたまの闇のうつつは定かなる 夢にいくらもまさらざりけり(恋三 詠み人知らず)

(闇の中の現実での逢瀬は、はっきりした夢のなかでの逢瀬に比べてそれほどまさらないのだなぁ。)

という歌が見つかります。ここで注目されるのが、『源氏物語』では、『古今和歌集』にある歌とは反対のことを言っている、という点です。『古今和歌集』の和歌では、「闇のうつつ」よりは「定かなる夢」のほうがましだ、と言っているのに対し、『源氏物語』では、「猶」(そうはいってもやはり)「闇のうつつ」のほうが良い、と言っているのです。紫式部は、読者が『古今和歌集』の歌を想起することを当然の前提として、さらにひとひねり加えている、というわけです。「闇のうつつ」という何気ない短い言葉が、『源氏物語』と『古今和歌集』をつなぎ、物語世界に広がり与えているのです。

2. 夕顔巻 「をちかた人」

 『古今和歌集』は勅撰和歌集として知られていますが、五・七・五の短歌以外の形式の歌も収録しています。『源氏物語』「夕顔巻」には、『古今和歌集』からそんな短歌以外の歌、「旋頭歌」の一節が引かれています。

 次の文章は、光源氏が夕顔の家を訪ねる「夕顔巻」冒頭の場面です。

<本文>
切懸だつものに、いと青やかなるかづらの、心地よげにはひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり、笑みの眉開けたる。「をちかた人に物申す」と独りごち給ふを、御隋身ついゐて、

 「かの白く咲けるをなむ、「夕顔」と申し侍る。花の名は人めきて、かう、あやしき垣根になん咲きはべりける」
と申す。

<与謝野訳>
端隠しのような物に青々とした蔓草が勢いよくかかっていて、それの白い花だけがその辺で見る何よりもうれしそうな顔で笑っていた。そこに白く咲いているのは何の花かという歌を口ずさんでいると、中将の源氏につけられた近衛の随身が車の前に膝をかがめて言った。
「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根に咲くものでございます」

  『源氏物語』の文章では、随身(お供)が「をちかた人」という光源氏の独り言を聞いて、「あの白い花を夕顔と申します」と答えていますが、これは一見すると不思議な問答です。なにしろ、光源氏は独り言を言ったばかりで、「あの白い花はなんだ」とは聞いてはいないからです。この謎を解くカギもまた『古今和歌集』にあります。

 「をちかた人」という言葉は、『古今和歌集』のうち、短歌以外の形式の歌を集めた「巻第十九雑体」にある、詠み人知らずの旋頭歌に由来します。旋頭歌とは、歌を見れば一目瞭然、五・七・七・五・七・七という形式の歌です。

うちわたす をちかた人に もの申すわれ そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも

(遠くにいる方に申し上げます、この私が。その、そこに白く咲いている花は何の花でしょうか。)

『古今和歌集』の元歌を知っていれば、「をちかた人」からこの旋頭歌を連想し、「そのそこに白く咲けるは何の花ぞ」という光源氏の真の意図を読み取ることができるのです。それにしても、光源氏の随身(付き人)はよくぞ光源氏の真意を理解したものです。もし『古今和歌集』の教養のない随身でしたらさぞ興ざめだったことでしょう。ただの付き人でも『古今和歌集』の、しかも旋頭歌を覚えていた、ということは、『源氏物語』というフィクションのなかのこととはいえ、驚きです。

 ちなみに『古今和歌集』の「をちかた人」の旋頭歌には返歌があります。その返歌とは次のようなもの。

春されば 野辺にまづ咲く 見れどあかぬ花 まひなしにただ名告る(なのる)べき 花の名なれや

(春が来ると野にまっさきに咲く、見ても飽きない花ですよ。お礼もせずに名乗ることのできる花ではございません。)

これを見ると、最初の旋頭歌で「その白い花はなんですか」と聞いたのは、文字通り花を聞いているのではなくて、実は女性に名を訪ねる歌であったことがわかりますね。光源氏もまた、そのつもりで「をちかた人」の歌を持ち出したのでしょう。

以上、『古今和歌集』が『源氏物語』のなかで果たしている、平安時代らしい奥ゆかしい役割が理解いただけたでしょうか。『古今和歌集』を知らない現代の読者でも、注釈を参考にすれば、紫式部の遊び心を楽しむことができます。『古今和歌集』という共通の古典を通じた作者から読者への語りかけ、なんだか素敵ですよね。

『源氏物語』を愛した有名人―現代語訳や英訳から、その魅力にはまった人もいた!

平安女流文学はもちろん日本文学を代表する名長編『源氏物語』。すべてとはいわずとも、「若紫」や「桐壺」、「葵」などの巻は一般教養として21世紀の日本においても読み伝えられています。紫式部とよばれる女房が『源氏物語』50余帖を書き上げてから1000年をこえ、小説の祖ともいわれるこの作品は東西問わず無数の読者を魅了し続けてきました。平安時代から現代まで綿々と連なる『源氏物語』の愛読者の歴史を紹介します。

菅原孝標女

平安時代の『源氏物語』愛読者として有名なのが、『更級日記』の著者、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)。
『更級日記』には、菅原孝標女の「源氏物語愛」がうかがえるエピソードがいくつも登場します。
たとえば『源氏物語』の若紫の巻に魅了され、物語の残りを読みたい一心で祈ったことや、プレゼントとして『源氏』50余巻をもらって、たいそう喜んだことが、『更級日記』には書き綴られています。またあるときは、自分を「夕顔」や「浮舟」などの『源氏』のヒロインになずらえるなど、菅原孝標女は、現代の文学少女やオタク女子にも劣らない熱意で『源氏物語』を愛読していたようです。

平安時代以降も、菅原孝標女のように『源氏』に影響された作家は多く、日本文学史には『源氏物語』の文体や構成を模倣した作品がいくつか見られます。こうした『源氏』の亜流作品としては、『浜松中納言物語』のほか、藤原孝標女が書いたと推定されている『夜半の目覚め』が知られています。

本居宣長

江戸時代の『源氏物語』愛読者としては本居宣長の存在が挙げられます。
本居宣長は『源氏物語玉小櫛』や『紫文要領』という注釈書を残しており、『源氏物語』に流れる「もののあわれ」を高く評価しました。本居宣長の有名な「もののあわれ論」が、青年期以来の『源氏物語』体験に根ざしていることはいうまでもありません。

川端康成

ノーベル文学賞を受賞した作家川端康成もまた『源氏物語』の愛読者でした。
川端康成はエッセイ『哀愁』において、戦時中、往復の電車内で『源氏物語』を読んだ経験を綴っています。川端は終戦までに『源氏物語』の半ば前まで読み進めたそうで、戦時中にも関わらず読書を引きつける千年前の文学に感嘆した、と述べています。

『源氏物語』翻訳家たち 与謝野晶子、谷崎潤一郎、アーサー・ウェイリー

『源氏物語』は幾度も現代語訳がなされてきました。

与謝野晶子による訳は代表的な試みの一つです。
与謝野晶子は生涯で複数『源氏物語』の現代語訳を出版するなど、「紫式部は私の師であった」とまで言うほどの生粋の紫式部ファンであったわけですが、そのことは与謝野晶子の和歌にも表れています。最も顕著な例としては「源氏物語礼讃歌」という連作和歌が挙げられます。この「源氏物語礼讃歌」は、作品中の54首それぞれに、対応する『源氏物語』の章の情景を詠み込む、という趣向で、まさに与謝野晶子の『源氏物語』解釈の結晶です。

谷崎潤一郎も『源氏物語』の翻訳者であり、また愛読者でもあった一人です。
谷崎訳のいわゆる「谷崎源氏」は出版当時から「源氏ブーム」の火付け役となった名訳として知られていますが、谷崎自身の作品にも『源氏物語』の影響が色濃い、といわれています。とくに『源氏物語』の翻訳完成後に書かれた『細雪』には、その影響が強くみられるとはよく指摘されています。一方で谷崎最晩年の随筆『にくまれ口』においては、光源氏の女性への態度や、紫式部が光源氏を物語上優遇していることに対して不満を述べており、『源氏物語』、なかんずく光源氏に関して気に食わない点もあったようです。しかし別のところでは「あの物語全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳にはいかない。昔からいろいろの物語があるけれども、あの物語に及ぶものはない。」と賛辞を送っており、そうはいってもやはり『源氏物語』の愛読者であったようです。

 『源氏物語』の翻訳は、現代語訳に限った話ではありません。英訳も幾つか存在します。

イギリス人のアーサー・ウェイリーは、『源氏物語』の英訳者の一人です。
アーサー・ウェイリーの英訳は抄訳であり、しかもかなり原文から自由な翻訳で、批判の対象となることも多いものとして知られていますが、『源氏物語』の存在を海外にまで知らしめたのは、自然な英語で訳されたウェイリー訳の果たしたところが大きいといわれます。ウェイリーの英訳を再び日本語に訳した『ウェイリー版 源氏物語』までもが出版されていることからも、いかにウェイリー訳が優れているかがわかります。そんなアーサー・ウェイリーさんですが、かなり変わった人でありました。彼は、『源氏物語』の名訳を残すほど、日本文学に魅了されていたにも関わらず、生涯に一度も来日を果たしていないのです。
その理由は不明ですが、「平安朝の日本にしか興味がない」という理由で来日を断ったとも。

ドナルド・キーン

日本文学者として知られ、2012年には日本国籍を取得したドナルド・キーンさんも『源氏物語』の世界に魅了された一人です。
キーンさんの『源氏物語』との出会いは18歳のとき。
ニューヨークタイムズスクエアの書店で「厚いわりに安いから」という理由で手に取った本が、アーサー・ウェイリー訳のThe Tale of Genji、『源氏物語』でした。この『源氏物語』との出会いがキーンさんを日本文学の世界への入り口となり、ご存知のとおり日本での活躍の端緒ともなったのです。『源氏物語』は文化の架け橋ともなったのですね。

『源氏物語』の愛すべき脇役「近江の君」とは!?

 『源氏物語』は、1000年の時を経てなお、日本人、いや世界中の人々を魅了してやまない歴史的傑作。『桐壺』の「いづれの御時にか…」や『若紫』の「すずめの子を犬君が逃がしつ。」といったフレーズを、覚えている方も多いはず。しかし、54帖という長さ、登場人物の多さ、文化・常識の違いなどがハードルとなって、通読するのは簡単なことではありません。

 筆者はその昔、岩波文庫の黄色帯、全6巻の『源氏物語』を随分長い時間をかけて読みました。その読書体験のなかで出逢った個性豊かなキャラクターたちのなかで、最も心惹かれたキャラクターが「近江の君」でした。「近江の君って誰?」という声が聞こえてきそうですが、「近江の君」とは『源氏物語』中盤に出てくる脇役も脇役、いつも変人扱いされる一風変わった人物。『源氏物語』読んだ方でも「近江の君って誰?」となっても不思議ではないくらいの端役です。しかし、どんな脇役でも個性あふれる愛らしい(ときに憎らしい)キャラクターとして生き生きと躍動している『源氏物語』の世界。「近江の君」も紫式部の筆力にかかれば、人情味豊かに描き出されるのです。『源氏物語』の影の功労者?「近江の君」を紹介していきたいと思います。ぜひ、彼女のことを覚えてあげてくださいね。

1.「近江の君」はどんな人?

 「近江の君」の人となりを紹介します。まずは彼女の父親である頭中将から。頭中将は、光源氏の義理の兄。『源氏物語』のなかで彼は、光源氏の友でありライバルでもある存在として描かれています。「頭中将」というのは彼の官職名で、蔵人頭と近衛中将を兼ねた者を指しました。頭中将はのちに、内大臣を経て太政大臣にまで出世し、『源氏物語』後半では「致仕の大臣」と呼ばれるようになります。  さて、頭中将は多くの子供を残しました。次の図2に彼の子供を示しました。
 柏木は、『源氏物語』に「柏木」の帖があるほどの物語の重要人物。光源氏の庇護にあった女三宮に恋し、悲劇の恋を繰り広げます。

 玉鬘は、頭中将と夕顔の間に生まれた『源氏物語』中盤を彩る重要人物。第22帖「玉鬘」から第31帖は「玉鬘十帖」とよばれることがあります。

 こうしたメインキャラクターを兄弟姉妹に持って生まれたのが近江の君です。近江の君の母親は、玉鬘や雲居雁の母親と比べると、取るに足らない身分の女性でした。そのためか、物語での扱いも兄弟姉妹と比べて不遇で、脇役どまり。いつも変人扱いされては、笑われてしまいます。Wikipediaにさえ「…源氏物語世界の中での笑われ役である源典侍や末摘花と比べても飛び抜けた「笑われ役」である」 と書かれてしまう始末。(傍点筆者)

 近江の君の出自はこれくらいにして、彼女の(数少ない)登場シーンから、どんな女性なのか紹介します。

2. 憎めないでしょ。近江の君。

・第26帖『常夏』~近江の君、登場~

 近江の君が初登場を飾るのは、第26帖『常夏』。宮中では、内大臣(頭中将)が「ほか腹の娘」を見つけ出して連れてきたという噂が広まっていました。内大臣は、光源氏のもとにいた玉鬘に対抗するために、はるばる近江の君を見つけ出してきたのでした。(内大臣は玉鬘が自分の娘とは知らなかった。)しかし近江の君の噂は悪いことばかりで、みなから笑い者にされていました。そこで内大臣は近江の君を身内でかしずくのではなく、出仕させることにしました。

 内大臣が近江の君のもとを尋ねると、近江の君は、若い女房とふたりで双六をしている様子。近江の君は双六にすっかり夢中になり、手を揉み揉み「小賽、小賽」と、相手の双六が小さい目になるように念じています。

 近江の君の容姿は「ひぢぢかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げ」(容姿は親しみやすく、かわいらしい様子で、髪もきれいで悪くない)であるものの、「額のいと近やか」(デコがとても狭い)「声のあはつけさ」(口ぶりが軽薄、早口)という欠点がありました。とりわけ「早口」は近江の君のトレードマークでした。内大臣も近江の君の早口に閉口し、「もっとゆっくり話してくだされ。そしたら長生きできましょう。」とおどけた一言。これを真に受けた近江の君は「これはたいへんだわ」とばかりに弁解を始めます。彼女によると、早口は生まれつきで、安産の祈祷にと招いた妙法寺の別当大徳の早口にあやかってしまったのだそう。内大臣は「なんでこんな変な子を迎え取ってしまったのだろう」とすでに呆れ気味。とりあえず出仕の件を伝え、そそくさと帰る内大臣でした。

 一方の近江の君は、立派な内大臣の姿に感激。出仕の件についてさっそく「今晩すぐにでも」と、和歌を織り交ぜた手紙をしたためます。出来上がった手紙をにっこりと満足げに見つめる近江の君でしたが、彼女の無骨で気取った書体や無教養をさらけ出す本末合わぬ和歌は、またしても笑いの種となってしまうのでした。

・第29帖『行幸』~近江の君、玉鬘を羨む~

 『行幸』の巻では、近江の君のライバル玉鬘の入内の儀式「裳着の儀式」が華やかに執り行われます。玉鬘の噂を聞いた「かのさがなものの君」こと近江の君は、玉鬘に嫉妬し「姫様の件、結構なことですわ。聞くところによると、その姫様も卑しい生まれですね。」と嫌味を言います。柏木が「ちゃんと理由のあることなのでしょう。誰に聞いて唐突にこんなことを、口に出しなさるのですか。口うるさい女房が聞いたら大変ですぞ」とたしなめるや、近江の君はキレ気味に(きっと早口で)まくしたてます。 「お黙り。全部聞きましたよ。尚侍(ないしのかみ)になるんですってね。私が出仕しましたのは、そういうお情け(尚侍への推薦)があると思ってこそ。ほかの女房がやらないようなことまでやりましたのに。ひどいのは女御様よ。」(女御様:出仕先の弘徽殿女御)

    このまくしたてに周りはニヤニヤ、さらに近江の君をバカにします。すると、近江の君は腹が立って、 「立派な一族の中に取るに足らぬ私めが交わるべきではありませんでした。柏木さん、ひどいですわ。おせっかいにも呼んでおいて、軽蔑してバカにしなさる。普通の人では耐えられない御殿ですわ。ああ怖い、ああ怖い。」 と言って後ろのほうに下がって、じぃと睨むのでした。その様子は「憎げもなけれど、いと腹あしげにまじり引き上げたり。」(憎らしくはないが、たいそう意地悪そうに目尻を吊り上げている。)と書かれています。

 機嫌の悪い近江の君に対して周りの男どもは、ニヤニヤしながら上辺だけのなだめ文句を並べるばかり。柏木も「天の岩戸を閉じて引っ込んでいらっしゃるほうが、無難でしょうね。」なんて、調子に乗ってからかいます。かわいそうな近江の君、ついに泣き出してしまいます。
 「この方々までも、みんな冷たくいらっしゃるのに、ただ女御様がお優しくいらっしゃるので、お仕えしているのです。」 そんなことを言って、せっせと、下働きの者すらしないような雑務に精を出し、「尚侍に私を推挙してください」と女御に訴える近江の君でしたが、女御は「どんなつもりで言っているのだろう」と呆れるばかり。

 近江の君の尚侍への願いは、やがて内大臣の耳にも入りました。近江の君を訪ねた内大臣が「よく働いているようではないか。どうして早く私に願いを言わなかったのか」と真面目くさって(近江の君を愚弄しているのです)言うと、近江の君は大喜び。はきはきとした早口で言うことには、 「そういたしたかったのですが、女御様がそのうち伝え申し上げてくださるだろうと、お頼み申していたのです。しかし、ほかに然るべき人がいらっしゃると聞きましたので、夢で金持ちになったような気持ちがしまして、胸に手を置いたような感じでございます。」  内大臣は早口に吹き出しそうになるのをこらえて、 「本当に変わった、はっきりしないご性分ですね。そうと言ってくださったら、すぐに奏上いたしましたのに。源氏の娘様(玉鬘)がどれだけ生まれが良くとも、私がぜひにとお願いしたら、帝もお聞き入れすることでしょう。今からでも申し文をきちんと書いて、長歌でも上手に詠んであるのを帝がご覧になれば、お断りなさることはないでしょう。風流を解する方ですから。」 と近江の君を巧みに言いくるめます。すっかりその気にされた近江の君は、 「和歌は下手なりに作れましょう。表向きのことはお殿様の方でなさっていただければ、それに私が言葉を添えるような感じで、上手くいくでしょう。」 と手を擦り合わせながら、内大臣に申し上げます。これを盗み聞きしていた女房たちは、「死ぬべくおぼゆ」、おかしくてたまりません。内大臣も、「むしゃくしゃする時には、近江の君を見ると、気が紛れていいね。」と近江の君を嘲るのでした。

 はるばる都まで連れてこられては兄弟と父親にまで愚弄される、素直で働き者の近江の君。なんとも、かわいそうではありませんか。

・第31帖『真木柱』~近江の君の儚い恋~

 玉鬘と髭黒の結婚、髭黒の家庭悲劇、玉鬘の出産と、玉鬘の身に次々と事件がおこる『真木柱』。その最後に、近江の君がちょこっと顔を出します。

 尚侍をのぞんでいた近江の君でしたが、色気づいて男に近づくようになり、内大臣を困らせていました。内大臣は出仕をやめて、おとなしくしているように求めますが、近江の君は耳を貸さず、堂々と出仕を続けました。あるとき、近江の君の出仕先の御殿で詩歌管弦の遊びをしているあまたの殿上人のなかに夕霧の姿がありました。夕霧に一目惚れした近江の君は、ずかずかと出で歩き「これぞな、これぞな」(この方よ、この方よ)と大騒ぎ。そして一首。

おきつ舟 よるべ波路に ただよはば* 棹さし寄らむ 泊り教へよ
(あなたの寄る辺が決まっていないのでしたら、私はいかが。行く場所を教えてくださいね。*このとき、夕霧は雲居の雁との仲がはっきりしていなかった。)

面食らう夕霧ですが、「噂の近江の君か」と、返歌して曰く、
よるべなみ 風の騒がす 舟人も 思はぬかたに 磯づたひせず
(寄る辺なく風の吹くままに放浪する私も、思いもしない人に心移りはしません。)

 近江の君のアタックはすげなく断られてしまいました。

・第35帖『若菜 下』~「明石の尼君、明石の尼君」~

『若菜』の巻は、物語中最大の長さをもち、便宜的に上・下に分けられることも多い巻です。近江の君は『若菜 下』で最後の登場を慎ましやかに果たし、物語での役割を終えます。

 『若菜 下』は、柏木と女三の宮の密通と露見、紫の上の命の危機などの多くの出来事に彩られた物語中の重要巻です。そのなかで、近江の君はほんのすこしだけ登場します。

 文脈を説明しておきましょう。物語は、明石の尼君を世の人が羨む場面。明石の尼君の娘は、光源氏が明石へ流されていたときに見初められ、愛人となった明石の君。やがて明石の君は源氏との間に娘、明石の姫君を産みました。そして、明石の姫君も紫の上の養育を受けるなど、明石からやってきた母と娘は、ともに宮中で手厚いもてなしを受ける幸運に恵まれました。そのため、明石の尼君は、幸運の象徴として人々の口々に上がるようになっていたのです。  そんなとき、近江の君が登場します。近江の君の登場シーンは以下のようなもの。

かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」とぞ賽は乞ひける。

近江の君は、また双六に熱中しているようです。でも、今回は「小賽、小賽」ではありません。近江の君が唱えるのは幸せの合言葉「明石の尼君、明石の尼君」。  野暮で不器用だけれど、真面目で一途な近江の君に、はたして幸福の女神は微笑んだのでしょうか。

『源氏物語』の愛すべき脇役「近江の君」とは?!

 『源氏物語』は、1000年の時を経てなお、日本人、いや世界中の人々を魅了してやまない歴史的傑作。『桐壺』の「いづれの御時にか…」や『若紫』の「すずめの子を犬君が逃がしつ。」といったフレーズを、覚えている方も多いはず。しかし、54帖という長さ、登場人物の多さ、文化・常識の違いなどがハードルとなって、通読するのは簡単なことではありません。

 筆者はその昔、岩波文庫の黄色帯、全6巻の『源氏物語』を随分長い時間をかけて読みました。その読書体験のなかで出逢った個性豊かなキャラクターたちのなかで、最も心惹かれたキャラクターが「近江の君」でした。「近江の君って誰?」という声が聞こえてきそうですが、「近江の君」とは『源氏物語』中盤に出てくる脇役も脇役、いつも変人扱いされる一風変わった人物。『源氏物語』読んだ方でも「近江の君って誰?」となっても不思議ではないくらいの端役です。しかし、どんな脇役でも個性あふれる愛らしい(ときに憎らしい)キャラクターとして生き生きと躍動している『源氏物語』の世界。「近江の君」も紫式部の筆力にかかれば、人情味豊かに描き出されるのです。『源氏物語』の影の功労者?「近江の君」を紹介していきたいと思います。ぜひ、彼女のことを覚えてあげてくださいね。

1.「近江の君」はどんな人?

 「近江の君」の人となりを紹介します。まずは彼女の父親である頭中将から。頭中将は、光源氏の義理の兄。『源氏物語』のなかで彼は、光源氏の友でありライバルでもある存在として描かれています。「頭中将」というのは彼の官職名で、蔵人頭と近衛中将を兼ねた者を指しました。頭中将はのちに、内大臣を経て太政大臣にまで出世し、『源氏物語』後半では「致仕の大臣」と呼ばれるようになります。  さて、頭中将は多くの子供を残しました。次の図2に彼の子供を示しました。
 柏木は、『源氏物語』に「柏木」の帖があるほどの物語の重要人物。光源氏の庇護にあった女三宮に恋し、悲劇の恋を繰り広げます。

 玉鬘は、頭中将と夕顔の間に生まれた『源氏物語』中盤を彩る重要人物。第22帖「玉鬘」から第31帖は「玉鬘十帖」とよばれることがあります。

 こうしたメインキャラクターを兄弟姉妹に持って生まれたのが近江の君です。近江の君の母親は、玉鬘や雲居雁の母親と比べると、取るに足らない身分の女性でした。そのためか、物語での扱いも兄弟姉妹と比べて不遇で、脇役どまり。いつも変人扱いされては、笑われてしまいます。Wikipediaにさえ「…源氏物語世界の中での笑われ役である源典侍や末摘花と比べても飛び抜けた「笑われ役」である」 と書かれてしまう始末。(傍点筆者)

 近江の君の出自はこれくらいにして、彼女の(数少ない)登場シーンから、どんな女性なのか紹介します。

2. 憎めないでしょ。近江の君。

・第26帖『常夏』~近江の君、登場~

 近江の君が初登場を飾るのは、第26帖『常夏』。宮中では、内大臣(頭中将)が「ほか腹の娘」を見つけ出して連れてきたという噂が広まっていました。内大臣は、光源氏のもとにいた玉鬘に対抗するために、はるばる近江の君を見つけ出してきたのでした。(内大臣は玉鬘が自分の娘とは知らなかった。)しかし近江の君の噂は悪いことばかりで、みなから笑い者にされていました。そこで内大臣は近江の君を身内でかしずくのではなく、出仕させることにしました。

 内大臣が近江の君のもとを尋ねると、近江の君は、若い女房とふたりで双六をしている様子。近江の君は双六にすっかり夢中になり、手を揉み揉み「小賽、小賽」と、相手の双六が小さい目になるように念じています。

 近江の君の容姿は「ひぢぢかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げ」(容姿は親しみやすく、かわいらしい様子で、髪もきれいで悪くない)であるものの、「額のいと近やか」(デコがとても狭い)「声のあはつけさ」(口ぶりが軽薄、早口)という欠点がありました。とりわけ「早口」は近江の君のトレードマークでした。内大臣も近江の君の早口に閉口し、「もっとゆっくり話してくだされ。そしたら長生きできましょう。」とおどけた一言。これを真に受けた近江の君は「これはたいへんだわ」とばかりに弁解を始めます。彼女によると、早口は生まれつきで、安産の祈祷にと招いた妙法寺の別当大徳の早口にあやかってしまったのだそう。内大臣は「なんでこんな変な子を迎え取ってしまったのだろう」とすでに呆れ気味。とりあえず出仕の件を伝え、そそくさと帰る内大臣でした。

 一方の近江の君は、立派な内大臣の姿に感激。出仕の件についてさっそく「今晩すぐにでも」と、和歌を織り交ぜた手紙をしたためます。出来上がった手紙をにっこりと満足げに見つめる近江の君でしたが、彼女の無骨で気取った書体や無教養をさらけ出す本末合わぬ和歌は、またしても笑いの種となってしまうのでした。

・第29帖『行幸』~近江の君、玉鬘を羨む~

 『行幸』の巻では、近江の君のライバル玉鬘の入内の儀式「裳着の儀式」が華やかに執り行われます。玉鬘の噂を聞いた「かのさがなものの君」こと近江の君は、玉鬘に嫉妬し「姫様の件、結構なことですわ。聞くところによると、その姫様も卑しい生まれですね。」と嫌味を言います。柏木が「ちゃんと理由のあることなのでしょう。誰に聞いて唐突にこんなことを、口に出しなさるのですか。口うるさい女房が聞いたら大変ですぞ」とたしなめるや、近江の君はキレ気味に(きっと早口で)まくしたてます。 「お黙り。全部聞きましたよ。尚侍(ないしのかみ)になるんですってね。私が出仕しましたのは、そういうお情け(尚侍への推薦)があると思ってこそ。ほかの女房がやらないようなことまでやりましたのに。ひどいのは女御様よ。」(女御様:出仕先の弘徽殿女御)

    このまくしたてに周りはニヤニヤ、さらに近江の君をバカにします。すると、近江の君は腹が立って、 「立派な一族の中に取るに足らぬ私めが交わるべきではありませんでした。柏木さん、ひどいですわ。おせっかいにも呼んでおいて、軽蔑してバカにしなさる。普通の人では耐えられない御殿ですわ。ああ怖い、ああ怖い。」 と言って後ろのほうに下がって、じぃと睨むのでした。その様子は「憎げもなけれど、いと腹あしげにまじり引き上げたり。」(憎らしくはないが、たいそう意地悪そうに目尻を吊り上げている。)と書かれています。

 機嫌の悪い近江の君に対して周りの男どもは、ニヤニヤしながら上辺だけのなだめ文句を並べるばかり。柏木も「天の岩戸を閉じて引っ込んでいらっしゃるほうが、無難でしょうね。」なんて、調子に乗ってからかいます。かわいそうな近江の君、ついに泣き出してしまいます。
 「この方々までも、みんな冷たくいらっしゃるのに、ただ女御様がお優しくいらっしゃるので、お仕えしているのです。」 そんなことを言って、せっせと、下働きの者すらしないような雑務に精を出し、「尚侍に私を推挙してください」と女御に訴える近江の君でしたが、女御は「どんなつもりで言っているのだろう」と呆れるばかり。

 近江の君の尚侍への願いは、やがて内大臣の耳にも入りました。近江の君を訪ねた内大臣が「よく働いているようではないか。どうして早く私に願いを言わなかったのか」と真面目くさって(近江の君を愚弄しているのです)言うと、近江の君は大喜び。はきはきとした早口で言うことには、 「そういたしたかったのですが、女御様がそのうち伝え申し上げてくださるだろうと、お頼み申していたのです。しかし、ほかに然るべき人がいらっしゃると聞きましたので、夢で金持ちになったような気持ちがしまして、胸に手を置いたような感じでございます。」  内大臣は早口に吹き出しそうになるのをこらえて、 「本当に変わった、はっきりしないご性分ですね。そうと言ってくださったら、すぐに奏上いたしましたのに。源氏の娘様(玉鬘)がどれだけ生まれが良くとも、私がぜひにとお願いしたら、帝もお聞き入れすることでしょう。今からでも申し文をきちんと書いて、長歌でも上手に詠んであるのを帝がご覧になれば、お断りなさることはないでしょう。風流を解する方ですから。」 と近江の君を巧みに言いくるめます。すっかりその気にされた近江の君は、 「和歌は下手なりに作れましょう。表向きのことはお殿様の方でなさっていただければ、それに私が言葉を添えるような感じで、上手くいくでしょう。」 と手を擦り合わせながら、内大臣に申し上げます。これを盗み聞きしていた女房たちは、「死ぬべくおぼゆ」、おかしくてたまりません。内大臣も、「むしゃくしゃする時には、近江の君を見ると、気が紛れていいね。」と近江の君を嘲るのでした。

 はるばる都まで連れてこられては兄弟と父親にまで愚弄される、素直で働き者の近江の君。なんとも、かわいそうではありませんか。

・第31帖『真木柱』~近江の君の儚い恋~

 玉鬘と髭黒の結婚、髭黒の家庭悲劇、玉鬘の出産と、玉鬘の身に次々と事件がおこる『真木柱』。その最後に、近江の君がちょこっと顔を出します。

 尚侍をのぞんでいた近江の君でしたが、色気づいて男に近づくようになり、内大臣を困らせていました。内大臣は出仕をやめて、おとなしくしているように求めますが、近江の君は耳を貸さず、堂々と出仕を続けました。あるとき、近江の君の出仕先の御殿で詩歌管弦の遊びをしているあまたの殿上人のなかに夕霧の姿がありました。夕霧に一目惚れした近江の君は、ずかずかと出で歩き「これぞな、これぞな」(この方よ、この方よ)と大騒ぎ。そして一首。

おきつ舟 よるべ波路に ただよはば* 棹さし寄らむ 泊り教へよ
(あなたの寄る辺が決まっていないのでしたら、私はいかが。行く場所を教えてくださいね。*このとき、夕霧は雲居の雁との仲がはっきりしていなかった。)

面食らう夕霧ですが、「噂の近江の君か」と、返歌して曰く、
よるべなみ 風の騒がす 舟人も 思はぬかたに 磯づたひせず
(寄る辺なく風の吹くままに放浪する私も、思いもしない人に心移りはしません。)

 近江の君のアタックはすげなく断られてしまいました。

・第35帖『若菜 下』~「明石の尼君、明石の尼君」~

『若菜』の巻は、物語中最大の長さをもち、便宜的に上・下に分けられることも多い巻です。近江の君は『若菜 下』で最後の登場を慎ましやかに果たし、物語での役割を終えます。

 『若菜 下』は、柏木と女三の宮の密通と露見、紫の上の命の危機などの多くの出来事に彩られた物語中の重要巻です。そのなかで、近江の君はほんのすこしだけ登場します。

 文脈を説明しておきましょう。物語は、明石の尼君を世の人が羨む場面。明石の尼君の娘は、光源氏が明石へ流されていたときに見初められ、愛人となった明石の君。やがて明石の君は源氏との間に娘、明石の姫君を産みました。そして、明石の姫君も紫の上の養育を受けるなど、明石からやってきた母と娘は、ともに宮中で手厚いもてなしを受ける幸運に恵まれました。そのため、明石の尼君は、幸運の象徴として人々の口々に上がるようになっていたのです。  そんなとき、近江の君が登場します。近江の君の登場シーンは以下のようなもの。

かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」とぞ賽は乞ひける。

近江の君は、また双六に熱中しているようです。でも、今回は「小賽、小賽」ではありません。近江の君が唱えるのは幸せの合言葉「明石の尼君、明石の尼君」。  野暮で不器用だけれど、真面目で一途な近江の君に、はたして幸福の女神は微笑んだのでしょうか。
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