日本史

平安の女流作家【紫式部】をめぐる人々~父親・夫・娘・主(あるじ)~

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千年以上も日本人に愛されてきた文学作品「源氏物語」の作者【紫式部】は、文才のある女性として大変有名な人物ですが、その文才が世に出て発揮されるには、いくつかの条件が必要でした。血筋や育った環境、夫との別れや後押ししてくれる有力者との出会いなど、さまざまな要素がタイミングよく重なった結果が、「源氏物語」を生んだと言っても過言ではありません。今回は、紫式部本人ではなく、紫式部をめぐる人々について考察していきたいと思います。

紫式部の素地を築いた 父・藤原為時

紫式部の父である藤原為時(ためとき)は、貴族の中でも受領層と言われる中流階級に属し、国司という、現在で言うところの地方官の役職でした。非常に才能のある人物で、若くして大学に学び、とくに漢詩文に優れていました。

苦学の寒空 紅涙は襟を濡らし
除目の春朝 蒼天は目に在り
(頑張って学を修めたのにも関わらず微官にしか就けないとは、青い春の空を見上げながらも天なる正義を恨むしかない)

これは、淡路の国守に命じられた為時がこれを不満に思い、一条天皇に直談判した時の漢文です。為家が作ったこの漢文を見てその才能に感心した一条天皇は、為家の赴任先を大国である越前の国に変更したというエピソードがあります(今昔物語)。そんな父の文才は娘にも存分に受け継がれています。
また、官位の浮き沈みは、この頃の貴族にとってもっとも重大な関心事でした。母とは早くに死に別れた紫式部は、父の、社会での苦しみや喜びなどを目の当たりに育ったのでしょう。このことは宮中を舞台に物語を書くのに、ずいぶんと参考になったことと見えます。

恋愛の機微を身をもって体験 夫・藤原宣孝

父の赴任先である越前に同行していた紫式部は、結婚の決意を胸に単身越後から帰京します。結婚な相手に選んだのは、年の離れた藤原宣孝です。「紫式部集」では、越後に行く前も、また越後にいる間も宣孝とは手紙のやり取りをする間柄だったことを知ることができます。宣孝はユーモアがあり派手好き、悪びれるところのない性格、と伝えられていますが、女性問題などで、時には夫の不誠実に悩んだりもしたようです。しかし、そんな生活もあっという間に終わりを告げます。結婚してたった三年で、宣孝は流行り病で亡くなってしまうのです。
このことは、紫式部に大きなショックを与えました。

血は受け継がれる!才女の娘・大弐三位(だいにのさんみ)

『有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする』

これは、紫式部の娘「大弐三位」が詠んだ、百人一首の第五十八に収められている歌です。
いまいち意味がわかりにくいという方のためにざっくり意訳してみますと、「有馬山から猪名の笹原に風が吹くと笹がそよそよと鳴る。そうですよ、あなたを忘れたりするでしょうか。」といった感じになります。

詞書によるとこの歌は、最近すっかり通ってこなくなった男性が、「お前こそ心変わりしたのではないのか」と言い訳をしたことに対しての返歌、ということでした。笹原に風が渡ると鳴る、笹の葉のそよそよと言う音に、「そうですよ」という意味を掛けた、機知にとんだ作品です。
「そうよ、忘れたのはあなたの方。どうして私があなたを忘れることができるっていうの」言い訳をする男性にぴしゃりと言い放つなんて、いっそ小気味よくもあります。

天才女流作家を母に持つ大弐三位は、藤原堅子(かたこ)とも言い、母親と同じ一条天皇の中宮・彰子に仕えました。その後、五冷泉院の乳母(めのと)になります。生没年は不肖。
「狭衣物語」や源氏物語の「宇治十帖」の作者では、という説もあります。

紫式部を活躍の場に引き上げた時の権力者 関白・藤原道長と一条帝中宮・彰子

この頃の日本の政治は、天皇が中心という体裁を持っていましたが、実際に実権を握っていたのは、あの大化の改新(乙巳の変)で蘇我一族を滅ぼした中臣鎌足を祖とする藤原一族です。当時は摂政・関白が実質的な国政を行う、「摂関政治」という政治形態でした。天皇のもとへ娘を嫁がせ、皇太子となる男の子が生まれると、その後見として摂政・関白の地位に就くことができます。基本的に通い婚だった平安時代では、妻の実家が孫の後見を担うという慣例があったためです。
このようにして、天皇の祖父をして摂関政治を行い、藤原一族は権力をつけていきました。
中でも、もっとも藤原氏の栄華を誇った時期がこの頃、藤原道長の時代です。

夫を亡くして、不安と悲しみに塞ぐ紫式部を救ったのは、「物語を書く」という行為でした。自分の書いた物語を身近な人に読んでもらうことで感じる喜びに、式部は生きる希望を見つけたのです。その文才の噂は、天皇の外戚として権力を振るう藤原道長の耳に入ります。そして天皇の妻となっている娘・中宮彰子の女房となるよう望まれたのです。当時は貴重だった紙だって、な物語をつづるため存分に使うことができたのも、道長というパトロンがあってこそ。お仕えする彰子にも目を掛けられ、紫式部と彼女の物語「源氏物語」は、宮中で大いに花開きました。
紫式部は晩年まで彰子に仕え、また、娘の大弐三位(藤原堅子)も彰子に仕えました。

まとめ

千年以上の長きにわたり、日本だけではなく世界でも愛され続けている「源氏物語」。
自分を取り巻くさまざまな事柄を味方につけて、その才能を開花させた紫式部は、縁に恵まれた人だったのかもしれません。
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