鑑真の想いを伝える奈良県の名刹・唐招提寺へ行ってみよう!!

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唐招提寺は「西の京」とよばれ、平城京の右京五条二坊にあたる奈良市五条町にあります。
鑑真は中国の僧侶で、日本にはじめて正式な戒律を伝えました。
渡航では弟子を亡くしたり、自身も失明したりと、波瀾万丈のものでした。
それでも鑑真が日本に来たかった理由とは?
なぜ、唐招提寺を建てたのか?
今回はその謎を解きながら、唐招提寺の魅力をお伝えします!

唐招提寺はいつ創建されたのか?

唐招提寺は南都六宗のひとつである律宗の総本山です。
来日して5年間を東大寺で過ごした鑑真は、天平宝字3年(759年)に新田部親王の旧宅地を賜り、戒律を学ぶ人たちの研修道場として開創されました。 戒律とは、出家や在家を問わず、仏教に帰依するものが守らなければならない規律のことです。
もともと戒律は「戒」と「律」にわかれており、「戒」は在家者が守るべき道徳的な戒めのことをいい、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の5戒です。さらに、正式な出家者となるには「具足戒」を受けなければならず、比丘(男性)は250戒、比丘尼(女性)は348戒の厳しい戒があるのです。 そして、「律」は出家者が守る生活上の規定とされています。

唐招提寺ははじめ「唐律招提」とよばれ、伽藍が整ってくると勅額を賜り、「唐招提寺」と改めました。
金堂や講堂などの建立は鑑真の弟子のひとりである如宝が尽力し、完成させました。 金堂と講堂は奈良時代そのままの雰囲気を感じることができ、国宝にも指定されています。

平安時代に入ると、一時衰退してしまいますが、鎌倉時代には覚盛によって再興されます。
平成10年(1998年)、東大寺・興福寺・薬師寺とともに「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録されました。

鑑真の壮絶な人生

唐招提寺を建てた鑑真の人生とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
鑑真は垂拱4年(688年)、揚州(現在の中国の江蘇省)で生まれました。
俗姓を淳于といい、父は揚州大雲寺の智満禅師に受戒したといわれています。
その父の影響と14歳のときにみた仏像に感動し、僧侶となる決意をします。 神龍元年(705年)、18歳のときに道岸律師から大乗の菩薩戒を受け、正式な僧侶になるための具足戒を受けました。
鑑真はたくさんの寺をまわり、多くの師について天台学や律学を学びました。
開元元年(713年)には、26歳という若さで戒律の講座を開き、授戒した弟子は4万人を超えるといわれています。

20年の時が過ぎ、第9次遣唐使船で唐に来ていた留学僧・興福寺の栄叡と大安寺の普照から、「伝戒の師」として日本渡航の招請を受けました。
日本では厳格な戒律を守る僧侶が少なく、正式な授戒制度である「三師七証(3人の師と7人の証人)」ができる授戒僧の派遣を望んでいました。 しかし、はるか東にある日本に行こうとする弟子は誰もいませんでした。
55歳という当時では高齢だった鑑真でしたが、「日本は仏教興隆に有縁の国。誰もゆかぬなら我がゆかん」と、日本へ旅立つことを決心しました。

しかし、その渡航は前途多難なものでした。
第1回目は出航を密告され、4ヶ月の禁固を受けました。
第2回目は船が難破してしまいました。
第3回目もまたもや出航が密告され、計画は中止。
第4回目の脱出も密告により失敗してしまいます。
第5回目では最初の計画から5年が経っていました。船が出航したものの大波に遭い、振州(海南島)に漂着し、北へ進んで行きました。
ところが、栄叡や弟子の祥彦が病死し、自身も失明するなど、最悪な状態になってしまったのです。

それでも鑑真は諦めませんでした。
日本の藤原清河と大伴古麻呂たちが遣唐使として長安に入り、鑑真の密航を手伝いました。 蘇州で待っていた遣唐使船に乗り、沖縄から屋久島を経て薩摩(現在の鹿児島県)の坊津に到着。
平城京に入ったのは天平勝宝6年(754年)でした。
鑑真は聖武上皇や皇太后、たくさんの僧侶に授戒をしました。 そして、戒律の講義や研究の場所として、唐招提寺を建立したのです。 この渡航の様子は「東征伝絵巻」にも描かれています。

その後、鑑真は天平宝字7年(763年)5月6日、76歳で亡くなりました。
弟子を失い、失明したにもかかわらず、日本に戒律を伝えてくれた鑑真。
唐招提寺に参拝すると、自然と自分を省みることができる不思議なお寺です。

「うちわまき」を見に行こう!

うちわまきは毎年5月19日に行われます。
鎌倉時代に唐招提寺を再興させた覚盛が、修行中に蚊にさされそうになって叩こうとする弟子をみたとき、「自分の血を与えるのも菩薩行である」といい、戒めたという故事があります。
覚盛が亡くなったとき、法華寺の尼僧が「せめてうちわで蚊を払ってさしあげよう」と、ハート型のうちわを供えたことが始まりです。

5月19日は覚盛の命日で、中興忌梵網会の法要後、舎利殿(鼓楼)から1500本のうちわがまかれます。
(そのうちの数百本は安全のため、手渡しされます)
このうちわには病魔退散や魔除けのご利益があるといわれており、たくさんの人々が覚盛を弔い、うちわを授かっています。
唐招提寺の売店では、ハート型の「宝扇」やストラップ、厄払いのあぶらとり紙を販売しており、必見です!

ぜひ、みなさんも「うちわまき」を見に行ってくださいね!

いかがでしたか。
唐招提寺は鑑真の悲願のお寺です。
苦難や絶望を乗り越え、諦めない心で日本に戒律を伝えた鑑真。
唐招提寺には彼の想いがたくさんつまっています。そして、現在でもその想いをみなさんに伝えています。 ぜひ、奈良県に遊びにいったときには唐招提寺を訪れてみてくださいね!

■拝観時間
8:30~17:00(受付は16:30まで)

■拝観料
大人・大学生600円 団体(30名以上)480円
高校生400円 団体(30名以上)320円
中学生400円 団体(30名以上)320円
小学生200円 団体(30名以上)160円
※学校の引率者は無料
※身障者は半額(介護者1名も半額)
※奈良市在住で老春手帳持参の方は、南大門拝観料が無料
※特別展は拝観料のほかに別途料金がかかります

○御影堂(開山忌、観月会)
大人・大学生500円
高校生300円
中学生300円
小学生200円

○新宝蔵
大人・大学生200円
高校生100円
中学生100円
小学生100円

■所在地
〒630ー8032
奈良県奈良市五条町13ー46

近場で見られる古墳・垂仁天皇陵

鑑真和尚と関連深い唐招提寺を堪能した後、更に歴史の余韻に触れたい方におすすめのスポットが垂仁天皇(すいにんてんのう)陵です。唐招提寺から400mほどの場所にあります。
薬師寺や唐招提寺と近いので、参拝の前後に行く人も少なくありません。垂仁天皇は長らく実在していたのか疑わしかったとされますが、近年では実在していた可能性が極めて高いと言われます。
そんな垂仁天皇の陵(みささぎ)は、古墳としてはよく知られた前方後円墳型をしています。陵とは、天皇や皇后などのお墓のことです。
垂仁天皇は、古墳に関してある功績を遺しています。それまでは天皇の崩御に伴い、「お伴」を生き埋めにする習わしでした。
毒を飲ませると言った安楽死的な措置を取ることはなく、生きたまま埋めて、土を被せておしまいです。生き埋めはいわば、蛇の生殺し。じわじわと死んでいくことになります。はっきり言って苦しい死に方です。
殉死者たちがかわいそうだと感じたのが垂仁天皇は「私の代から殉死は禁止にする」とお触れを出しました。殉死者の代わりとして、野見宿禰なる人物により考案されたのが、あの埴輪です。直接の考案者ではないものの、民を殉死から解放したことには変わりありません。
埴輪という遺物と、それが誕生する経緯を知ることで、垂仁天皇の人柄や東寺をしのぶことができるでしょう。歴史のロマンはどこにでもあるものです。
垂仁天皇陵そのものは古墳全体を覆う木々や、古墳周辺の池といった自然美を堪能できます。最寄りの駅から歩いて行けるのも魅力です。

所在地:〒630-8023
奈良県奈良市天辻西町

最寄りのお寺・薬師寺

奈良には無数の寺院があります。お寺巡りも、奈良を楽しむ一つの手段です。
唐招提寺付近の寺院でおすすめなのは、薬師寺でしょう。法相宗の大本山に当たります。興福寺、東大寺、法隆寺といった有名どころの寺院と同じく朝廷の加護を受けた南都七大寺の内の一つでもある、実はすごいお寺でした。
飛鳥の地で完成しましたが、平城京への遷都に伴い、今の場所に移動したと言われます。
金堂、大講堂と言った建造物が存在しますが、いずれも目が覚めるような極彩色です。
そうかといって目に煩わしい物ではなくしっとりと上品で、日本に伝わって来たばかりの華やかな仏教美術を思い起こさせます。
仏像も見ごたえがありますが、食堂にある絵画も一見の価値は十二分です。

所在地:〒630-8563
奈良県奈良市西ノ京町457

観音様は必見・東院堂

奈良薬師寺の中でも、特に見るべきとされるのが東院堂と、そこにおわす観音像です。色彩豊かな伽藍の多い奈良薬師寺の中、東院堂は地味に見えます。
それでも国宝であり、ここに祀られる聖観音像は「必見」です。「見ないと損」レベルでもあります。その理由は、単に「美しいから」というわけではありません。
具体的な造像年代は不明ですが、中国の仏像様式の影響が認められることなどから、大体飛鳥時代から奈良時代に作られたと推測されています。口元にもアルカイックスマイルのような笑みがあるので、ほぼその時期の作とみていいでしょう。
脚の辺りも結構見所です。「衣をお召しです。衣があるからおみ足は省略します」というのではなく、脚を作った上で、薄い衣のひだを表現。要するに、しっかりと立っている脚が衣を透かしてくっきりと見えているのです。
このリアルな表現は、インドのグプタ王朝期に見られた表現とされます。
光背は後々作られたもの。あらゆる年代、国、様式の集結した像が、この東院堂の聖観音像というわけです。
異様な現実感を持って迫って来るようですね。

東院堂自体は養老年間、西暦で言えば717年から24年にかけて建てられました。由来は元明天皇の冥福を祈るためでした。建てさせたのは娘の吉備内親王です。 当時は東禅院という名前で、今ある建造物は鎌倉時代に再建されたものになります。

荘厳華麗な平城京跡

唐招提寺から2kmのところに、平城宮跡があります。別名平城京宮跡。更地もしくはビル群、ということはありません。日本初の都があった場所として、遺跡や建造物の骨組みが残っていたことから、研究者たちによる多大な努力の果てに平城宮が復活しました。
かつての皇居にして政治を行っていた場所が、平城京跡歴史公園として歴史を見て学ぶ施設に生まれ変わったのです。
第一次大極殿院、第二次大極殿院、東院庭園、朱雀門といった復元された建物の他、大極殿復元に関する資料を見学、或いは「触れる」ことができる第一次大極殿院復原事業情報館などがあります。
建造物に共通しているのは、唐の様式を彷彿とさせる、力強い赤が使われていることです。
政治を行う場所ですが、当時の政(まつりごと)は時に儀式も絡むものでした。どこか宗教的な荘厳さがあるのはそのせいかもしれません。現代のビル群とは違った種類の圧倒的な迫力と、広大な敷地の持つ解放感は抜群の持ち味となっています。
なお、大極殿に「第一次」「第二次」とついているのは、都が何度も変わったためです。最終的には平城京に戻っており、次期を前期後期と分け、使用された宮殿も第一次、第二次と呼ぶに至りました。

【東院庭園】
開館時間:9:00-16:30(入場は16:00締め切り)
休館日:毎週月曜日と12月29日から1月3日まで。月曜日が祝日の際は欲火曜日が休館です。
入場料:ナシ

【復原事業情報館】
開館時間:10:00-18:00(入場は17:30締め切り)
6月から9月は10:00-18:30(入場は18:00締め切り)
休館日:2、4、7、11月の第2月曜日。祝日の際は欲火曜日が休館です。
入場料:ナシ

平城宮跡所在地:630-8577
奈良県奈良市佐紀町
お問い合わせ先
平城京跡管理センター電話番号:0742-36-8780

道真公の生まれた地?菅原天満宮

唐招提寺は、唐で生まれて日本に帰化した鑑真和尚が建てたお寺です。そんな唐招提寺から1.2km離れた所に、菅原道真公ゆかりの天満宮がありました。その名も、菅原天満宮です。何故奈良県に菅原天満宮があるのか。
一説には道真公が生まれた地だから、とされています。この神社には道真公も祀られていますが、実は公自体が神様の末裔でした。
道真公のルーツ、菅家を遡ると天穂日命(あめのほひのみこと)という神様に行きつきます。この方は、14代後の子孫野見宿祢命(のみすくねのみこと)や道真公と共に主祭神として菅原天満宮の主祭神をお務めです。
天穂日命は日本の主神、天照大神の息子(勾玉から誕生)とされます。道真公、実は凄いルーツをお持ちでした。
天穂日命は農業や養蚕などを司ります。コツコツと真面目に行う作業がお得意のようです。それは、子孫の道真公にも受け継がれた模様。
道真公は学問の神とまで呼ばれるようになりました。菅原天満宮では春分の日に今まで使ってきた筆に感謝の意を込め、焚き上げをする奈良筆祭りがあります。そして新しい筆を頂くわけです。境内では筆づくりの工程も見られます。学問の神様を祀るだけあって、筆に関するお祭りもあるのです。
留学僧と関わり深いお寺の近くに学問の神様を祀る神社がある、というのは不思議な縁を感じますね。

所在地:〒631-0842
奈良市菅原東町518
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