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西太后は美と健康の探究者。不妊に悩んだ彼女を救った生薬とは

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今ドキの女性は、健康がもたらす光り輝くような艶やかさだけではなく、肉体構造的に勝る男性とまともに仕事でやりあえるタフさが必要です。

だからこそ、トレンド最先端を生きる女性の食生活から、その美と健康とタフさの源となるヒントを得ようと、毎日女性はSNSやブログをチェックし、自分の理想に近い生活を送る彼女たちが、実際に何を食べているのか研究することに余念がありません。

美しさを競う女性たちのトレンドリーダーとして君臨し、かつ男性を向こうに回して知性とタフさでやりあったアジアの女性として、世界的に有名な人物といえば、西太后です。

蘭児という少女は、清王朝の咸豊帝の側妃・蘭貴人として宮中に上がり、後の同治帝を出産しました。そのことで絶大な権力を得た彼女でしたが、実は多くの日本女性と共通する悩みを持つ女性でもありました。西太后は不妊症に悩んでいたのです。

不妊に悩むひとりの女性を救った生薬とは

皇帝の側妃として最も大切な役割は、美の維持と出産です。男性の興味を失わない美、そして後継者を産むことが第一で、それがあってこそ女性は政治力や才能を発揮することが叶います。逆に言えば、美しいだけで不妊の女性はいずれ老いて皇帝の寵を失い、出産した後に美を保てなければ皇帝の寵愛のみならず貴婦人としての威を失いかねません。

どうやら西太后は、もともと女性ホルモンが乱れがちな貧血体質だったようで、歳を重ねたころから今度は早めの更年期障害に悩まされていたという話が残っています。 そんな彼女は、不妊症を改善するために、とある生薬を愛用していました。

「阿膠(あきょう)」という高価な薬です。ロバの皮を煮込んで作るゼラチン質のこの薬は、楊貴妃も愛用していたとい、何千年もの間、宮中御用達の高級婦人薬でした。そのおかげか、不妊症だった彼女は子を授かりました。

この出来事によって、西太后は「食と美と健康」について深く興味を示すようになったのだそうです。

医食同源・西太后のダイニングをチェック

中国を訪れたら一度は味わってみたい、本場の「満漢全席」。満民族と漢民族の食文化をいいとこ取りしたご馳走ですが、西太后も好んだのでしょうか?
答えはNOです。

美食はもちろん好みでしたが、それよりも彼女が重要視したのは、使われている素材が今の自分の健康状態を維持するベストチョイスか、ということです。

「西太后は一食に100皿の料理をテーブルに並ばせる」という逸話が残っています。

彼女の食事スタイルは「吃一・看二・観三」といい、メインに食べるものを手前に並べ、つまむかどうか分からないものをその向こうに、そして視界に入れるだけで食べはしないものを奥に並べるもので、さすが清王朝の女帝といった豪華さです。

その理由は、「自分の身体が欲しているものは、自分が一番知っている」という信念によるものかもしれません。

美と健康を長く保つために、自分が見て欲するものを身体に取り入れるスタイルを選んだのでしょう。

朝は少なく、昼はエネルギーを得るためにたっぷりと、夜は昼よりも少なく、という調整をし、そのスタイルに合わせて厨房に常駐する120名前後のコックは手分けをし、各自が作る渾身の一皿を毎食用意するしきたりだったそうです。

その食へのこだわりが功を奏し、彼女は西欧列強に蝕まれる清王朝を支える屋台骨としていつまでも壮健であり、聡明な知性も衰えることなく、74歳まで政界のトップに君臨していたのです。

そんな憧れの西太后の食事を楽しめるレストランが、日本国内にあります。

日本で味わえる西太后の愛した味

アジア女性が憧れるアンチエイジング秘術、西太后の愛した味が楽しめるレストランの名前は、清朝宮廷家常菜「レイ家菜(レイカサイ)銀座店」です。

■中国府邸菜 レイ家菜 銀座(中央区銀座)
http://www.reikasai.jp/
「皇帝の料理人」として、初代レイ子嘉、二代目レイ俊峰、三代目レイ善麟と、清王朝の厨房に代々勤めていた伝説的コック一族・レイ家の味は、清王朝の崩壊、そして文化大革命の混乱に翻弄された後、北京の紫禁城近くの一角にレストランを開きました。
西太后の主治医と相談を重ね、彼女にとってベストチョイスな漢方医学に添った医食同源レシピを提供していたレイ家の味をそのまま楽しめるそのレストランは評判を呼び、初の海外出店として東京が選ばれたのです。
素材と味はもちろん、美のトレンドリーダーであった西太后の審美眼を毎食楽しませることに成功した、美しい料理の造形美も楽しめます。
ぜひ次の週末にでも予約してみてはいかがでしょうか。

「中国三大悪女」という不名誉なレッテル

西太后には「中国三大悪女」という不名誉なレッテルが貼られています。
これは、彼女が皇帝の他の妃に残酷な仕打ちをしたという後世の創作から来ているものだと言うことをお伝えしておきたいと思います。

彼女は美と健康を保つために様々な手段を取り入れました。美を保つということに関しては、後宮の一員として誰よりも優れていたいという思いがあったのでしょう。しかしそれが拡大解釈されて、「美の維持=他の妃への嫉妬→残虐な仕打ち」という逸話が作られる所以となってしまったのでしょう。

実際には、他の妃たちはみな後宮で平穏な生活を送っていました。それだけでなく、西太后は別の妃が生んだ娘を可愛がっているほどだったのです。女性としての愛情深さも十分にあったのでした。不妊に悩んだこともあるひとりの女性として、彼女は子供の大切さ、ありがたさをよく理解していたのでしょう。

たしかに、彼女は甥である光緒帝の妃・珍妃を井戸に投げ込んで殺させるという残虐なことも行いました。やりすぎ感は否めませんが、これは女性としての嫉妬ではなく、西太后と珍妃の間に政治的な対立があったためなのです。彼女は、権力を巡って対立する者には容赦しませんでした。ただ、これは自分の地位を安定させ、ひいては清を守るために行ったとも考えられます。政治的な駆け引きと考えれば、対立相手を殺害して排除した歴史上の人物は数えきれません。

当時の一般的な女性像とは一線を画した西太后

西太后は長きにわたって清の政務を掌握してきましたが、これは単なる一女性では無理なことでした。
当時の妃の役割は、皇帝に愛され、皇帝の子を産むこと。そのためには容姿や芸事などが求められたわけですが、西太后は少し違いました。
彼女は、幼い頃から兄弟が学ぶ姿を見ており、自らも勉学に励んでいたのです。そのため、当時の女性としては珍しく読み書きが堪能で、公文書まで読むことができました。だからこそ、彼女は後に政治の表舞台に姿を現すことになったのです。

このように、他の妃たちとは一線を画した西太后を支えた頭脳は、おそらく彼女が関心を示した食事によるところも大きかったと考えられます。彼女が明晰な頭脳を晩年まで維持し続けられたのも、頭脳と肉体を維持するメニューをシェフたちが提供し、彼女がそれをチョイスしたからではないでしょうか。

揺らぐ清を必死で支え続けた女性の姿

甥の光緒帝の治世の間、西太后は揺らぐ清を支えるために数々の国難に立ち向かいました。
洋務運動でヨーロッパの技術を導入したことはまさに断行でしたが、ずっと旧態依然で続いてきた清にとっては刺激となりました。
また、日清戦争での敗北後はいったん光緒帝に政務を任せますが、彼と側近による急激な改革がつまずくと、周囲の反発を抑えるために彼女はクーデタを起こして光緒帝を幽閉し、再度政務に復帰します。この時も彼女の頭にあったのは、清をいかに安定させるかということでした。そのためには、幽閉してでも甥を止めなくてはならなかったのでしょう。

義和団事件以降、ヨーロッパの進出が加速してくると、彼女は積極的に西洋に人材を派遣して政治改革に向き合いました。もはや清は沈みゆく大船でしたが、何としてでもそれを救おうと、彼女は死の直前まで戦い続けたのです。

このような激務は、到底ふつうの女性では耐え切れなかったに違いありません。
それゆえに、西太后は現代の私たちが驚くほどの食と健康への情熱を示し、自らを奮い立たせていたのでしょう。何事も体が資本であることを、かつて悩んだ健康問題から、彼女は痛いほどわかっていたのでしょうから。

美食も大いなる息抜きか

得てして、権力者は孤独なものです。権勢を極めた西太后も、心のどこかに空白を抱えていたかもしれません。
そうした空虚さを埋めるためか、彼女はかつて毛嫌いしていた西洋文化に義和団事件以降はかなり傾倒していたようです。西洋の最新ファッションに興味を持ち、音楽やバレエなども鑑賞することがあったそうですよ。こういうところは、権力者といえども女性としての楽しみを満喫していたのでしょうね。

それに加えて、食にこだわるのも彼女の息抜きのひとつだったかもしれません。
自らの頭脳と肉体の維持という目的があったとはいえ、息詰まる政治の世界からほんのひとときでも解放されるのは、食事の時間だったことでしょう。写真に残る彼女は、口元をキリッと引き締めた、意志の強そうなまなざしが印象的ですが、おそらく美味しいものを口にした時は頬を緩ませていたのではないでしょうか。もしかしたら、シェフがそれを目撃するなんてこともあったかもしれませんね。となれば、ぜひとも彼女が口にしたメニューを私たちも体験してみたいものです。

清王朝のために強健でなければならなかった西太后

「清王朝の揺るがないシンボル」として、西太后は不老不死でいなければなりませんでした。
王朝を滅ぼした悪女としてのエピソードがピックアップされて語られることの多い彼女ですが、自国の利益だけを追求できれば清王朝の民などどうでも良いという欧米諸国や日本を相手に、清王朝はすごすごと崩壊するわけにはいかなかったのです。
少しでも長く健康であり続けるために、暴飲暴食はせずに医学を重視した食生活をした西太后でした。彼女のここまでのこだわりを知ったからには、単なる「悪女」として彼女を片付けることはできないと思いませんか?
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