世界史

蒋介石と日本、その優しい関係とは

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私たちはインターネットで瞬時に世界中と繋がることができる時代を生きています。
ふだんからSNSなどで気軽に会話したり、ネットゲームで親しく遊んだりする友達である外国の方々との適切な距離感は、お互いが相手のバックボーンを、軽くでも理解していることが大切です。

蒋介石という人物が保っていた日本との不思議な距離感は、「友情」というキーワードが付き従っていました。

中華民国大統領の孫文が設立した、中華民国陸軍養成学校(黄埔軍官学校)の校長先生だった蒋介石は、かつて日本陸軍に勤務していたこともあったそうです。

当時の日本の様子を肌で味わい、その人情や味覚、風景などに触れた中国人は、蒋介石以外にも多く存在しました。

国の形ががらりと変わる中、中国に住まう国民の生活が安定しないのもまた道理でした。

清王朝は国民の権利を知力を振り絞って守るどころか、自分たちの保身と利益のために切り崩し続け、国の未来を憂いつつも、国に守られない自分たちの権利をなんとしても死守しようと、同国人でありながら中国人グループ同士の対立は続き、さらに植民地拡大の意図を隠すことも無く、不況に苦しむ自国経済力回復を、新天地中国獲得で賄おうと狙うヨーロッパ列強の思惑が絡まり、中国は人心も領土も蝕まれざるを得ませんでした。

中国の富裕層は、治安の悪い中国から跡継ぎの子弟を脱出させ、比較的安全な日本や欧米に留学させることがブームとなっていました。そして、そこで学識を高めた優秀な中国人エリート候補生たちは、国外から見た中国の蝕まれ方に悲しみと怒りを覚え、「そんな社会など潰せばいい」と革命思想へと次々に走って行ったのです。

当時の彼らの怒りを正当化する精神的支柱となっていたのが、共産主義という新たな思想でした。1919年に陳望道が中国語に翻訳したマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』によって、母国語で誰もが理解できる共産主義の鮮烈な世界の見え方は、政治的混乱が収まる気配のない政府に嫌気がさした中国の人々にとって、光のように深く浸透していきます。

日本に留学中だった蒋介石は、1905年に東京で結成された「中国同盟会」という共産主義政治結社にいました。そして、帰国後は清朝を倒すために繰り返し行われた武装蜂起に参加していたのです。

なぜ国民党と中国共産党は争った?

荒れる中国政界を利用するように、地方では「軍閥」と呼ばれる武力集団が勢力を高めていました。

1911年に辛亥革命が起こり、1912年に中華民国が建国されます。孫文の側近であった蒋介石は、その軍事能力を買われて中華民国を確かな国として纏め上げる軍を育成し、華僑の献金で多くの武器を買い集めました。

日本と中国の関係は、1915年の「二十一か条の要求」にて欧米列強と同じく中国植民地化方針を隠そうともしない日本の動きによって悪化し、1919年に孫文が結党した国民党と、ソ連と共産党が「第一次国共合作」を結んで軍閥退治を先導してきたものの、孫文が1925年に死去した後、国民党と共産党が戦闘状態(国共内戦)となりました。

国民党の内部にまで食い込んできた共産党勢力を駆逐するため、蒋介石は共産党と決別し、まずは国内を制圧するために満州国をさておき、共産党を延安まで12500kmも退却させる猛攻撃を進めました。しかし、「西安事件」よって蒋介石は共産党に捕まってしまうのです。

「安内攘外政策」つまり、国民党と共産党による国内の覇権争いを収束させた後、日本を叩く、という政策を維持するため、和睦を拒絶した蒋介石だったが、中国共産党の旧知・周恩来が説得にやってきたため、その要求を飲まざるを得なくなったようです。

毛沢東は忌々しい蒋介石を殺害しようとしたものの、ソヴィエト連邦のスターリンから「殺すな」と言われていたため、再び「第二次国共合作」が整い、国民党と共産党の力を合わせ、日本関東軍と対決する準備が整いました。

日本敗戦後の中華民国の内戦、そして台湾

日本の傀儡国である満州国の独立性が国際連盟にて認められなかった日本は、国際連盟を脱退しました。そして1937年、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争、そして太平洋戦争へと突入することになるのです。

敗戦後、昭和天皇の玉音放送の1時間前に、蒋介石もまた同じくラジオ演説を行っていました。

その内容をかいつまむと、「日本国民に報復や屈辱を与えず、軍に踊らされていた日本国民に同情しよう」「うらみをうらみで返す事は、我々の目的ではない」という、敵国だった日本に対する友情に溢れたものだったそうです。

しかし、国民党と共産党が結びつくきっかけとなった共通の敵「日本軍」が消滅したことで、双方の亀裂は修復しがたいものとなりました。

1848年に蒋介石は中華民国総統の座についたものの、農民たちの「自分の土地を手に入れる」という悲願を集約して叩きつけて来る共産党人民解放軍の突破力は防ぎきれるものではなく、共産党によって主要都市を次々に奪われ、戦いは国民党にとって不利に運んで行きました。

そして1949年、人民解放軍によってついに南京を落とされた国民党は中国を追い出され、蒋介石は台湾へと逃れたのです。

蒋介石と優しい国、台湾

蒋介石らが渡った台湾では、中華民国臨時政府が立ち上げられ、台北がその首都とされました。もちろん中国の毛沢東は見逃すつもりはなく、軍事侵攻を画策していたのですが、朝鮮半島にて有事が勃発しました。1950年に始まった朝鮮戦争に介入するために、中華人民共和国政府は軍を朝鮮に向けたため、台湾は難を逃れることができたのです。

蒋介石もまた、アメリカの支援を受けて再び中国に返り咲こうとするのですが叶わず、1975年に死去しました。

近年、日本では天災が多発しています。その度に台湾から、優しい言葉と援助が届きます。

終戦直後、日本国民への配慮をラジオ放送した蒋介石のいたわりの心、優しい台湾の心が思い浮かびます。
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