仏像

戦勝の為偉人が崇め奉った武神、毘沙門天

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日本人はこじつけが好きです。少なくとも、そう思わせる物が多々あります。
バレンタインにチョコを送る、クリスマスにご馳走を食べ、ケーキを食べ、恋人と過ごす等々。大部分が商戦の為ですが、戦いにも色々な形があるものだと感心するばかりです。
そんな様々な戦いを後押ししてくれるのが毘沙門天。七福神の一人ですし、財宝神としての福徳もある為、その人気たるや物語にも登場し、偉人の為に活躍したとのエピソードが作られるほどです。

毘沙門天とは

インドではクベーラという名前の財宝神でした。
中国に入ると武神としての性格が追加されるようになり、『西遊記』や『封神演義』といった伝奇小説などに別名で登場する他、四方を守護する四天王の一人多聞天として祀られることも多くなりました。守護方角は北です。日本では四天王の一員では多聞天、独尊で祀る時には毘沙門天と呼んでいます。

聖徳太子に始まる戦の御利益武勇伝

それは遡ること1000年以上前。仏教を受け入れるかどうかで日本の中心がもめにもめていた頃のことです。「日本古来の神様がいるだろ!」と保守派の物部氏と、「仏教いいよ?」と受け入れ派の蘇我氏とで意見が真っ二つでした。
聖徳太子は元々頭のいい人物であり、仏教の良さを早くに感知。これは取り入れるべきでしょうと受け入れ派に入りますが、「仏教を受け入れるかどうか」で武力衝突にまで至りました。
当時12歳だった太子は夜襲をかけられないようありったけの松明を燃やし、皆で騒ぎ続けるなどの知能戦でどうにか優位に立っていましたが、ある場所で形勢が逆転します。「チョーシこくな大陸かぶれどもが!」と物部氏が勢力を巻き返したのです。場所は、ある山の中。太子は仏縁を得ていたのか、最後の手段に出ます。祈りです。「それ意味ないでしょ!」という人もいるでしょう。しかし、太子の場合は違いました。
武神としての力燃えていた毘沙門天が天から現れて、太子にこの戦に勝つ方法を授けたのです。「やっつけて下さいな」と思う所ですが、そんな他力本願な人の所には降りて来ません。ともかく、この必勝法により物部氏は大敗。仏教が日本に受け入れられることになりました。
この山は後に信貴山(しぎさん)と太子に名付けられます。ここにある朝護孫子寺では虎の像などがありますが、これは太子が祈った時間が寅年、寅の日、寅の刻だった為、日本では虎が毘沙門天の使いとなったのです。

源義経が修行した鞍馬寺

鞍馬寺にも毘沙門天は祀られています。実はこのお寺も、戦のスペシャリストが関わっていました。その名は牛若丸。後の源義経公です。
この人は赤ん坊の頃に平治の乱で父、義朝を失いました。平清盛は義朝の妻(つまり、牛若丸の母)常盤御前を自分の妻とし、子供たちは皆殺すよう命じようとしましたが、自分の母(実母ではありません)池禅尼(いけのぜんに)の「子供たちを助けるまで何も食べない」という命懸けの助命嘆願で死刑を免れて、二人の兄、今若、乙若と共にお寺へ預けられます。兄二人は大人しく出家しましたが、「おらぁ、坊主になんかならんぞ!」と天狗相手に武術の修行をしたとの伝説まである人です。
打倒平家に燃える義経公が「鹿しか通れない崖」こと一ノ谷の崖をうまで駆け降りると言った大胆な戦法を考えたのも、ともすると鞍馬寺に祀られた毘沙門天の御加護があったのかもしれません。
その後兄に追われる身になり30代で亡くなったとされますが、大陸に渡ってジンギスカンになったという説もあります。後者が本当なら、これもまた毘沙門天の御加護でしょうか?

平清盛公が護国鎮護を願った「新鞍馬山」の妙法寺

そんな義経の仇にして、平家の大将平清盛もまた、毘沙門天に関するお寺に寄進をしていました。
源平両方に関係があったわけです。寺の名前は妙法寺。平家が栄華を極めていた頃、清盛公は都を現在の神戸市に当たる福原に移した時、そこを守らせる霊場として建てられたものです。ここを第二の鞍馬寺とし、毘沙門天を祀ったとされます。しかしあまりご加護がなかったのか、鬼神から5年後、平家は滅亡します。平氏にとっては芳しくない結果に終わりましたが、「驕る平家」と見れば仕方のない事だったのかもしれません。

自称毘沙門天の生まれ変わり、上杉謙信

毘沙門天信仰と戦国武将と言えば、この人は外せません。自軍の旗に毘沙門天の頭文字をつけ、生まれ変わりを自称していた上杉謙信です。
この人の特徴を上げるなら、とにかく戦好き。戦国武将と言えば「出世!領土拡大!天下を獲るんじゃあ!」と息巻いているイメージですが、謙信は出生にも天下にも興味がなかったようです。「戦が好き。だからやるんだ」と適材適所、ピッタリな時代に生まれてきたものです。といって単なる戦闘馬鹿というわけでもありませんでした。この時代、足軽は農閑期の農民などを雇っていたのですが、謙信がいたのは越後の雪国。この時期に戦を行う、つまり農民たちを雇うことで、皆に火文字い想いを刺せなかったのです。他に、こんなエピソードもあります。毘沙門天に誓約をするという決まりがあった上杉家ですが、ある時お堂まで戻っていられない事態に陥りました。
これでは誓約ができないとある家臣が言います。すると謙信はどうどうと言いました。「私のいるところに毘沙門天もおわす。だから今ここで誓約しろ」こうまではっきり言われると、逆らえないというか思わず従ってしまいそうです。

室町幕府を開いた足利一族も信仰した大岩毘沙門天

鎌倉幕府が倒れた後、南北朝時代を経て政権を握ったのが室町幕府。それを開いた足利尊氏も毘沙門天を信仰していました。大岩山の最勝寺です。
ここは尊氏のみならず、その息子たちも信仰を寄せていました。皆で「バカヤロー!」と悪口を叫ぶ「悪口祭り」という変わったお祭りがあります。

多聞天の名を継いだ楠木正成

厳密に言えば、楠木正成自身は熱心に毘沙門天を信仰していたわけではないようです。
しかし、生まれ方が元で毘沙門天の別名、多聞天を受け継ぎ多聞丸と名付けられました。世継ぎに恵まれなかった母親が毘沙門堂に詣でた結果、金ぴかの鎧を着た人物が口に飛びこむ夢を見て身籠ったのが元とされます。
得意戦法はゲリラ戦、と言われていますが、一方で好人物と見なせば正々堂々戦って倒し、『太平記』の中では尊氏がそれなりに好印象を持っていたような描写もあったようです。

まとめ

生まれ変わりを自称する者、化身とされる者。武士の活躍する時代より以前に、戦のため祈りを捧げた者が数多くいました。中には志半ば、或いは無念のうちにその生涯を閉じましたが、歴史に名を刻まれるほどの厚く強い人生という戦を戦い抜いた点では武神と呼ばれるにふさわしい人物ばかりと言えます。
ゆかりの寺を訪ねた時に、その人物を思い起こしてみれば、戦う気概も湧いてくるかもしれません。

日本で大いに信仰されて人気も高い七福神。実は恵比寿様以外海外から来た舶来の神様と言われています。
中には仏教とも縁深い神様もいたりしますが、その中の一人、いや一柱、毘沙門天にスポットを当てていきます。

毘沙門天の基礎知識と基本像容

毘沙門天の絵を描いてください。そう言われて、正確な姿が描ける人はどれくらいいるでしょうか?
「えーと、何か鎧を着ていたよね?」と何となくの人が多いのではないでしょうか。実際、七福神としての毘沙門天の像容は中華風の甲冑を来て鉾(ほこ)という槍を持っているのが基本的な像容です。もう片方の手には、お釈迦様の遺骨の入った宝塔。独尊で祀られる際は宝棒という、仏敵と煩悩を叩きのめすための棍棒を持つこともあります。
軍神のイメージが強いですが、実際には護法神。仏法を守るのがお役目です。邪鬼を踏んでいる場合もあれば、踏んでいない場合もまたあります。

お不動さんとダブルでSP

地面からにょっきり兜跋毘沙門天

傘とネズミを持つ中国バージョン

日本では宝塔を持つ姿が一般的ですが、中国の毘沙門天(もしくは多聞天)はネズミを持っているそうです。
もう片方の手には、傘。ネズミに関しては守護方角の北が子(ね)に当たる為であり、毘沙門天の使いとされています。傘は民間信仰によるもの。雨ではなく、伝奇小説『封神演義』の影響です。この小説に登場する魔家四将(まかししょう)という四人兄弟が四天王となるわけですが、多聞天に当たる魔礼海(三男)が多文天王として封印される時「傘を使って、雨を司る」と書かれました。登場初期は掻き鳴らすことで火を起こせる琵琶を持っていたようですが、設定ミスではありません。
多聞天に相当するキャラクターが他にもいたため敢えて変えたようです。

ちなみに、次男の魔礼紅の武器が天地を揺らし、炎を発生させる傘でしたが、広目天王として封印される時に持物が琵琶に変更されています。何だか次男の方が戦闘神のイメージが強く思えますが、設定上の問題なら仕方ありませんね。とにかく、多聞天といえば傘、というイメージがこの小説でついたようです。

マングースを持つチベットバージョン

家族でハイチーズ、三尊像と意外な家族関係

美女と野獣などという言葉がありますが、仏教でも当てはまるようです。
元鬼神の毘沙門天には妻がおり、それは屈指の美女天とされる吉祥天。もっとも、毘沙門天が鬼神だったのは遥か前のインド時代ですし、ビジュアルも(像容では)イケメンだとする声がある為、一概に「美女と野獣」とも言い切れないようです。この吉祥天との間には五名の子がいますが、そのうちの一人、善膩獅童子と吉祥天のとスリーショットの像もあります。
何だか微笑ましい家族の肖像に見えますが、この三名の血筋が結構凄まじいのです。まず毘沙門天。前述の通り、父は人食い鬼で、自分も鬼神の王でした。妻の吉祥天は、何と子供を食べていた鬼子母神の娘。吉祥天の父散支大将もまた夜叉集団の一人という、元鬼神一族なのです。
今では全員善側として仏法を守るストロングファミリーといて活躍中です。何だか、ドラマやアメコミの主人公のようですね。

七福神入りした理由は恵比須様!?

密教での役割

物語にも登場・托塔李天王

孫子の先輩?托塔李天王のモデルは軍人李靖

意外な縁の連続?毘沙門天信仰は人生の縮図

鬼神の王から財宝神に格上げのインド時代

インドではヴィシュラヴァという神様の子として御降誕。
父のヴィシュラヴァという方、実はラクシャサ(羅刹)という人食いの鬼神の一人でした。クベーラ自身も、夜叉と訳されるヤクシャ族の王。「何か怖い出自なのね」とお思いでしょうが、ヤクシャ自体は森の精霊と見る向きが強く、ラクシャサほど恐れられてはいませんでした。とはいえ鬼、もしくは悪魔に変わりないのも事実。そんな自分を変えたいと思ったのか、修行を始めます。
その期間、何と1000年。ヒンドゥー教でもトップのシヴァ神、ヴィシュヌ神も「何かすっごい修行しているヤクシャがいるぞ」と注目し、「やるじゃないか」と、神の地位まで引き上げてくれました。
異例の人事です。最初のお仕事は、地下に眠る財宝を守ること。バイトから急に正社員入りして、財政関係のお仕事を任されたようなものです。
しかも、空を飛ぶ家までもらっちゃいました。何でも継続して努力した者勝ちです。ちなみに空飛ぶお家は、別の神様との戦いで取られました。

仏教入りして四天王のリーダーになる

有能な人材は別の場所に引き抜かれることもあります。
クベーラも仏教への引き抜きに応じました。ここで毘沙門天と名を変えます。天部でもトップクラスの帝釈天を上司として、北方守護担当の武神になりました。財政担当だったのが、転職して警備会社に入ったようなものです。しかもいきなりリーダーに任命されました。三人の仲間と四天王として須弥山の東西南北の警護をする護法神人生開始です。四天王の一員としては多聞天という別の名前を持ちます。
芸能界入りして芸名をもらったような物でしょうか。北を担当するのは、クベーラが北方守護だったため(仏教では北が鬼門との説もあります)。得意分野を活かした、適材適所の人事ですね。

福徳神へとなっていく

民間に毘沙門天信仰が広まったのは、平安時代頃。鞍馬寺などに有名な毘沙門天像が祀られています。
この鞍馬寺創設の裏には毘沙門天が創設者の僧侶を鬼女から救ったとされる伝承があり、北方を守る寺として機能。この頃はまだ護法神であり、戦の神の印象が強かったようです。それがどうして福徳神になったのか?元々財宝神だったことなど、一般庶民は知らないはず。そこには、鞍馬寺に祀られていることが大きく関わっていました。
場所柄通路が交差していたため、店も多く出ていたわけです。つまり、商売の町でもあったわけですね。
そこで、「鞍馬寺の毘沙門天様は商売繁盛も叶えて下さる」といった性格が追加されました。場所も意外なターニングポイントになるものです。

人気が出て七福神の仲間入り

不動明王、十二天、仕事仲間はいくらでも

独尊だけでなく、脇侍も務めます。観音菩薩の脇侍を務める時は、一緒に不動明王が建つという、なんとも頼もしいメンツです。
邪念や煩悩を捕らえ霧作
不動明王とのコンビともなれば、戦闘神の面が前面に出そうですね。他にも仕事仲間としては十二天(または十二神将)がいます。東西南北だけでなく、更に八つに分けられた方角の守護神の他、天地と月、太陽の神々で構成。

【十二天メンバー】
東方担当:帝釈天
南方担当:焔魔天
西方担当:水天(すいてん)
北方担当:毘沙門天
東南担当:火天(かてん)
西南担当:羅刹天
西北担当:風天(ふうてん)
東北担当:伊舎那天(いざなてん)
天(もしくは上):梵天
地(もしくは下):地天
太陽:日天(にってん)
月:月天(がってん)

毘沙門天を信仰した戦国武将たち

戦の神の性格も十分残っていたので、戦国武将にも熱く信仰されました。

【上杉謙信】
自らの旗印を「毘」とするほどに信仰。というか、「ワシ、生まれ変わりだから」としていました。
口だけだとただの痛い奴です。しかし、謙信は無類の戦好き。これで無敗だったらさらにカッコも付くのでしょうが、そんなことは望んでいませんでした。負け戦も経験しています。「戦いたいから、戦う。天下?そんなものいらないよ」とばかりに戦闘を繰り返していたのです。そんな謙信、自国の民から慕われていました。
戦闘好きなだけで民に危害を加えなかったこともありますが、民の暮らしを守る為に戦うこともあったのです。戦の大半は農閑期に行われます。理由は、足軽の大半が農民だから。武将によってはそれなりの石高を持った専用の足軽に給料を与えていましたが、越後ではどのくらいの石高を持った足軽がいるのか、よく分かっていなかった模様(独立独歩型の人が多かったようです)。
その為、足軽となってくれる農民兵を大事にしたようです。また、冬場の農閑期に仕事が入らない彼らのため、「じゃ、ちょっくら戦やるから手伝って」と仕事を与える意味もありました。

【楠木正成】
幼名は多聞丸。この名前は、毘沙門天の別名多聞天から来ています。中々後継ぎができなかったことに悩んでいた両親。
母は信貴山朝護孫子寺にある毘沙門堂に100日通いました。するとある晩、キラキラ光る甲冑姿の人物が現れて母の口の中へ。こうして、正成が誕生となったわけです。この出自を聞き、正成もまた毘沙門天を深く信仰したとされています。

三大毘沙門天

建立者は二人?鞍馬寺

京都市左京区にあります。ご本尊は毘沙門天、千手観音、そして護法魔王尊です。いずれも60年に1度、丙寅の年に御開帳される秘仏ですが、それぞれお前立ちとされる像があるので、一応見ることは見られます。このお寺を建てたとされる人物は二人。しかし、二人とも恐らく面識はありません。民間では毘沙門天信仰発祥の地でもあります。

【鑑禎説】
『鞍馬蓋寺縁起』の伝えるところでは、770年、鑑真の弟子の鑑禎が建てた物です。
毘沙門天を祀った理由として、フィクションめいた話が伝わっています。
ある時、鑑禎は夢を見ました。その夢で「北の方に霊山があるよ、探しなさい」とのお告げを受けます。起きてすぐ指定された辺りをさまよっていると、輝く鞍をつけた馬を見かけました。「何かありがたそうな馬だぞ」ということで後を付けます。しかし、山には危険がありました。
「何の用だ!」とばかりに現れたのは、鬼婆です。「いやあの、この辺に霊山があるって聞いたから」なんて話が通じる相手ではありません。鬼婆は問答無用で殺しにかかります。なまじ人に近い姿をしている分「話が通じるかもしれない」と思ってしまうんでしょう、熊より厄介かもしれません。鑑禎は必至に逃げ、鬼婆は倒れて木の下敷きになって死亡。結構あっけなく蹴りがつきましたが、その場所には毘沙門天像がありました。「よし、これを祀ろう」として建てられた、というのが鞍馬寺の謂れの一つです。

【藤原伊勢人】
造東寺長官(寺院建立に際し、材木屋職人を抱える部署が甘い汁を吸わないために作られた役職)であった藤原伊勢人が796年に建てたとされるのが『今昔物語』などに伝えられる伝承です。観音様のファンで、自分の観音堂を建てたがっていた伊勢人さん。
こちらも鑑禎さん同様、夢のお告げにより向かった先で馬に出会いました。その馬の後を追うと、あったのは毘沙門天のおどうでした。「いや、観音堂が建てたかったんだけど、何で毘沙門天?」と思いつつ、その日は就寝。夢に童子が現れて言いました。「観音も毘沙門天も本当は同じものだよ。呼び方が違うだけ」言った者勝ち感が凄まじいですが、信仰は皆同じとの考えもありますし、同時のいうことももっともだ、と伊勢人さんは千手観音像を作って鞍馬寺を作ったということです。

皇室と縁深く、二つの名を持つ信貴山朝護孫子寺

奈良県生駒郡は平群町にあるお寺です。毘沙門天を祀るお寺の総本山でもあります。このお寺の別名は、信貴山寺。
元々はかの聖徳太子が山に信貴山と名付けたのが始まりです。時代は遡ること、仏教伝来したての頃。「仏教なんて邪道な物、認めません!」と物部守屋をはじめとする排仏派と受容派の争いがありました。初めは机上の論争だったのが、遂には「もういい!」と武器をとっての争いになります。
この時、「仏教っていいじゃない。受け入れようよ」と受容派であった聖徳太子は「この戦いに勝てますように」と仏様に祈りました。「争いが止みますように」でない辺り、深刻です。ともかく太子はい乗りました。
すると空から毘沙門天が現れて、物部氏の軍勢に勝つことができたと伝えられます。これが元でこの山に毘沙門天を祀り、「信じるべき貴ぶべき山」ということで、信貴山の名がつきました。虎の張り子を始め、虎がシンボルになっているのは、寅年、寅の日、寅の刻に四天王の像を作ったためです。

朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の方は、醍醐天皇並びに命蓮という僧侶と関係がありました。醍醐天皇の病気を治すべく、命蓮が祈祷呼ばれます。「医者は!?」となる所ですが、医者も匙を投げるほど重かったようです。そこで、「もう神仏にお縋りするしかない」と白羽の矢が立ったのが命蓮でした。何でこの人かと言えば、史実で信貴山を再建したためです。

書物『信貴山縁起』では米俵を飛ばしただの、山にいながら鉢を飛ばして托鉢をしただの、凄いのか物臭なのかよく分からない力を得た人物として描かれています。
この物語の中で、命蓮の話を聞いた醍醐天皇は使いをやりますが、「私はこの山から離れません。しかしご祈祷はいたします」との返事。言い換えれば「動かないぞ」という鉄の意志。さすが奇跡を起こす高僧、天皇に対してハートが強いです。
これに対して使者は「それじゃあなたの祈祷で治ったか分からないでしょう」ともっともな返答。「分かりました。では治る時にこちらから使いを送ります。
剣を着物のように体中に纏った童子です」というのが命蓮の返事でした。使者達は半信半疑、天皇もまた「ホントかよ」状態。三日ほどたった頃、奇跡は起きました。「何か光ってるぞ?あ、あれは!」命蓮の言った、剣を体に纏った童子です。そのまま走り去っていき、病も嘘のように去りました。その後、褒美として高僧の位やら土地やらが提示されましたが、みんな断ったとか。考えようによっては、病気に勝ったと言えますね。
このエピソードが元で「朝廟安穏、守護国土、子孫長久」を略し、朝護孫子寺と呼ばれるようになったようです。摂政聖徳太子と言い醍醐天皇と言い、奇跡や皇室と縁深いお寺と言えますね。

まとめ

悪態をついて福を呼ぶ最勝寺

栃木県足利市にあるお寺です。京都の鞍馬寺、奈良の朝護孫子寺に次いで三大毘沙門天の最後の一つとして最有力候補とされています。
正式名称は、大岩山多聞院最勝寺。またの名を大岩毘沙門天。名前から言って戦勝モードがプンプン漂っていますが、どちらかと言えば金運アップの御利益があります。しかし考えてみれば、お金を得るための仕事も一種の勝負と言えそうですし、いい仕事、合った仕事に巡り合えることを「勝ち」と見なせば戦勝の御利益と言えるかもしれません。桓武天皇の命令により、高僧行基が開いたとのいわれがあります。
ご本尊の毘沙門天は聖徳太子の作、とのこと。
このお寺には「悪口祭り」という変わったお祭りが存在します。大みそかから元旦にかけ、皆で「コンチクショー!」「バカヤロー!」と大声で叫んでストレス発散、という物です。奇祭の部類に入るわけです。何だか楽しそうですが、語尾に「ぼう」がつく言葉は使ってはいけないそうなので、参加する時は気を付けましょう。この祭りの後は「滝流しの会」を行います。滝行ではなく、毘沙門天の前で正座をし、頭からお神酒を掛けるという儀式です。これは、絶えることなく流れ続ける滝のようなご利益を得る為のものだそうで、頭から掛けられたお神酒を杯に受けて飲むとされます。
最勝時という名前のお寺は全国にありますが、毘沙門天を拝むならと栃木県の足利市ですので、お間違いのなきよう。

運慶作のサウスポー毘沙門天がおわす蓮勝寺

神奈川県横浜市にあります。こちらも福徳神、財宝神としての性格が強いお寺です。
こちらは浄土宗を開いた法然上人の没後百周年に建てられたと言われています。本尊に当たる毘沙門天像ですが、これが何と運慶作。ただ、一般的な毘沙門天像とは少し違っているそうです。それ即ち、サウスポー。通常の毘沙門天は右手に鉾を持ち、左手には多宝塔(お釈迦様の遺骨入り。インドのストゥーパを模した物)を持っています。それが蓮勝寺では左手に鉾と多宝塔を持っているそうです。
運慶が彫った三体の毘沙門天の一つとされており、内一体は鞍馬寺にあるとのこと。ちょっと変わった毘沙門天を拝みたいなら、間厭い1月、5月、9月の間系10日間だけ御開帳されるので、その日を選んで訪れるのもいいでしょう。

近所には菊名神社という神社があります。そこには「がまんさま」と呼ばれる鬼の石像が手水鉢を支えているのです。長久の年月を、重い手水鉢を支え過ごしてきたとして我慢や忍耐のシンボルとして人気を呼んでいる模様。戦勝の神として崇められてきた、それも運慶作の毘沙門天像の民らず、近所のがまんさまを拝んでいくのもおすすめだと言われます。
ちなみにここは、横浜七福神の一つ。他の神々を祀るお寺を巡っていき、コンプリートするのもいいかもしれません。横浜と鳴くら言葉のある七福神巡礼は他にもありますが、ただ「横浜七福神」とある場合は、蓮勝寺が毘沙門天のお寺となります。

家康公も訪れた妙福寺

役小角と関わりがあった本山寺

大阪府高槻市にあります。鞍馬寺、朝護孫子寺に次ぐ三大毘沙門天の一つに名乗りを上げるお寺の一つです。
修験者(山伏)の役小角が葛木山に篭もって修行していた時、北西に五色(一説には紫)の雲が長く、薄くたなびく様を見ました。「綺麗だねえ」なんてウットリしないのが求道者です。第六感に感じる物があったらしく、北摂の山へと登ります。そして、何をしたかと言えば毘沙門天の像を彫り上げ、お堂を作り新たな修行場所にした、というのがお寺の謂れです。
雲を見て第六感がピーンと来た為か、別名を霊雲院と称します。神峰山寺の奥の院(本堂の更に奥に控え、秘仏などを祀る場所)とも言われていますが、実際にはまったくの別のお寺だとのことです。

【謂れにはこんなバージョンも】
この寺の謂れには別バージョンがありました。役小角は霊木を得たのみで、毘沙門天像を彫ったのは金毘羅童子という仏法守護神になっています。しかも、彫ったのは四体。それぞれが鞍馬寺、朝護孫子寺、本山寺に飛び去り、最後の一体が神峰山寺に残ったとされる伝説です。

真言宗の総本山で札所の一つ、東寺

奥さんと一緒。熊野神社

岩手県花巻市にあります。その名の通り、神社です。毘沙門天は仏教に属しますが元々がインドの神であり、仏教でも天部という神の部類にいることもあります。
日本では垂迹神と言い、「神様は仏が姿を変えたもの」という大胆な信仰もあるので、「神なの?仏なの?」と迷わなくてもいいのです。ここでは日本初の征夷大将軍にして鬼退治の伝説を持つ坂上田村麻呂が蝦夷討伐の為に祈願したと伝わっております。
祀られているのはイザナギノミコトやイザナミノミコトと言った日本古来の神々です。「毘沙門天は?」ございます。成島毘沙門堂と呼ばれるお堂に、日本最大の兜跋毘沙門天がデデンと鎮座ましましているのです。毘沙門天の妻である吉祥天の像も、ここには祀られています。

【泣き相撲】
5月上旬には毘沙門祭りと称し、2歳以下の子供を集めて土俵に立たせ、先に泣いたら負けという泣き相撲が行われます。

まとめ

またの名を毘沙門天。多聞天のソロ活動

始まりのインド時代

クベーラという神が仏教入りし、多聞天、或いは毘沙門天となりました。毘沙門天の名はクベーラの別名、ヴァイシュラヴァナを漢字に訳したもの。多聞天は意味を訳した名前です。つまり「桃太郎」が「モーモターロ」と呼ばれるか、「ピーチ・ボーイ」と呼ばれるかの違いです。四天王と言えば、護法神であり、仏敵を戦う為武装しているイメージが強いですが、クベーラさん元々は財宝の神様でした。ついでに言うと、埋蔵金の守護神。とは言っても、金銀財宝ではなく、亀やマカラという巨大な魚(神話上のもので実在しません)、蓮華や間気概などが主のようです。元は神じゃなかったらしいんですが、1000年も修行したことで宇宙の根幹を成す神、ブラフマー(仏教名梵天)に「いい根性だね!」と気に入られて神様の仲間入り。シヴァ神と仲良かったり、戦車までもらったりと我が世の春を謳歌していました。この神が北方を守護していたことから、多聞天も北を護るようになったわけです。クベーラ時代の財宝神の性格は毘沙門天に受け継がれました。この辺も何だか芸能人ぽいです。ある時は「可愛い」と評判のアイドル、ある時はクールな俳優といった感じで。

毘沙門天と多聞天の違いと共通点

独尊、つまり単体や七福神と共に祀られる時に毘沙門天と呼ばれるわけですが、元々同一人物(?)なので共通点がないわけではありません。共通点と違いをサラッと述べると以下のようになります。

【共通点】
宝塔を捧げ持ち、須弥山もしくは須弥壇(お堂の本尊周辺を須弥山にたとえたもの)では北に安置。夜叉、羅刹を眷属とします。

【違い】
ストイックに仏法を護るのが多聞天。毘沙門天は仏法守護の他、福徳を授け、財宝を守るという現世利益も授けてくれます。七福神の一人としても有名ですね。戦闘神としても有名ですし、また中国にいた頃には違う名前で『西遊記』『封神演義』という有名な伝奇小説にも登場しています。

実はセレブな毘沙門天

「仏法を護る!」という固い決意共って甲冑に身を包みますが、元々財宝神だったこともあり、その実セレブな一面もあります。国の王子が軍隊に入ることもありますし、護法神がセレブ状態でも別に文句を言われることはないかと存じます。具体的に何がどのようにセレブなのかと言えば、住居が三つもあること。天敬(てんぎょう)、可畏(かい)、衆帰(しゅうき)という名前ですが、どの住居も「城」と表現されている辺りかなりの豪邸と思われます。しかも、ゴテゴテと宝石で飾り立てた悪趣味、いや夢のような城。妙なる芳香を放つ蓮も咲いているとされており、かなり快適そうです。人間界で言えば、パリやらニューヨークやらに居を構えている感じでしょうか。日本国内で言えば京都や東京一等地?ともかく、こうした宝石御殿にお住まいな点から、仏教でも財宝の神としても信仰されているようです。四天王もリーダーともなると待遇も違ってきます。他の活動もしているので特別お手当か?と俗な考えも浮かんでしまいますが、そんな考えは捨てて、真摯に祈りましょう。

『西遊記』で孫悟空と戦いました

実は妻子持ちです

護法神であり同時にセレブな神でもある毘沙門天、妻子持ちでもありました。インド神話の神様が元ですし、そちらの神話で夫婦、子持ちだったんでそのまま一緒に仏教に来ましたという見方もできます。現に中国では先に述べたように息子が数名いますしね。で、毘沙門天の奥さんはと言えば、吉祥天。夫婦で同じ護法神、というわけです。夫婦であり、広い意味では仕事仲間でもあるわけですね。単独で祀られる場合が毘沙門天、と書きましたが、実は妻や子供と一緒に祀られることもあります。共に祀られる子供の名は善膩師童子(ぜんにしどうじ)。

一人っ子ではなく、五人兄弟です。他の子は最勝(さいしょう)、独健(どっけん)、なた、常見(じょうけん)。善膩師童子は、兄弟の末っ子。脇侍として一緒に仏像となるとは、やっぱり末っ子が一番可愛いんでしょうか。『西遊記』で一緒に戦った三太子です。「三太子」というのは、上から三番目の子、という意味なんですね。

地面からこんにちは、兜跋毘沙門天

仏像には時折変わった形態の者があります。毘沙門天も例外じゃありませんでした。指摘されると思わず足元を凝視してしまうような奇妙奇天烈な毘沙門天像もあるんです。その名も、兜跋(とばつ)毘沙門天。「足元がどうしたって?」と言われれば、邪鬼を踏んづけている四天王のイメージとは別に、足元にいるんです。人のようなものが。心霊写真のような言い方になってしまいましたが、この人のようなものは地天女という天部の一人。

滋賀県善水寺より。一番有名なのは教王護国寺のものです。両掌に毘沙門天を乗せているわけです。「鎧着た人を担ぐなんて、何て健気な」と涙を誘うかもしれませんが、天女と言われても実際には大地のエネルギーを神格化した物。つまり、実質地面に立っているのと同じなんですね。インド神話では男神でしたが、仏教に入るのをきっかけに、女神に華麗に変身。思い切りの良さもエネルギーの具現化でしょうか。何にしてもビジュアルのインパクトはかなりのものです。両脇にいる邪鬼には尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)という名前があります。元々毘沙門天というか多聞天、その大元のクベーラは鬼神たちをは以下にしていたので、その名残りかもしれません。「兜跋」とは、現在のトゥルファン(西域討伐国という、中国の地名)ではないかとされますが、「屠半」「刀抜」と別の字を当てることもあるようです。何で中国の地名説が最有力かと言えば、その地にニューッと出現したからだとか。いきなり出てきたら、ありがたやと思う前に卒倒しそうです。現代のスマホ族だと写メするか、気づかないか。撮ったとしてもトリックだと思われそうですし、仏法神も住みづらい時代になりました。

毘沙門天と関わり深い人物

戦闘神として多くの戦国武将に信仰されていたこと、特に上杉謙信に暑い信仰を寄せられていたことは有名な話。自軍の旗に「毘」と書くくらいの熱の入れようです。一方、こんな逸話もあります。朝護孫子寺に日本に仏教を広めた立役者ともいえる聖徳太子が商戦祈願にやってきました。物部氏との政権争いに勝つためです。寅年の寅の日、寅の刻と、「寅」が三つ揃いしたその時、毘沙門天が降臨。「こうこう、こうすれば勝てるよ」と必勝法を授けて下さったとか。中国や韓国では毘沙門天と関連ある動物としてネズミやマングースが挙げられますが、日本ではこの逸話を元に虎が関連付けられるようになりました。ネズミに関しては、聖徳太子と似た逸話があります。こちらは三蔵法師が玄宗皇帝をお守りするために祈ると、大量のネズミが来て敵兵の弓の弦を噛み切ったことが由来。ネズミは子の刻、北の方。毘沙門天の守護方角です。マングースは毘沙門天がクベーラと呼ばれていたインド時代よりいた、財宝を吐き出す聖獣です。

まとめ

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