七変化所なんてものじゃない。地蔵菩薩の種類と名所

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いくらでも変化する、と言った意味合いで七変化という言葉を使うこともたまにはあるでしょう。仏像のなかでも特にお馴染みのお地蔵様こと地蔵菩薩は、その親しみやすさのためか、七変化どころではない面白い姿や祀られ方をすることもあるのです。

基本スタイルの理由と基礎知識

まず、仏教世界には末法思想というものがあります。分かりやすく言えば仏の教えを伝える者がいなくなり、悪者がはびこってこの世がおしまいという思想です。
お釈迦様の入滅から、次の救世主弥勒如来が現れるまで人間時間で56億年。その間、他の仏矢菩薩たちが仏法や衆生を救うことになります。地蔵菩薩は、人間界だけでなく地獄や餓鬼道といった「絶対行きたくないです!」と言いたくなる世界にまで行って衆生を救うとの誓いを立てました。
ときには地獄に堕ちた罪人の苦しみを代わりに引き受けるなど、その誓いは実に強く、それでいて温かいものなのです。そんなありがたいお地蔵様の信仰は、一気に民衆の間に広まりました。慕われているので、煌びやかでどこかエキゾチック、かつ現実味のないほかの菩薩とは違い、現実の僧侶に近い姿で表されることが多いのです。
もとはインドで大地の豊穣を司る神であり、サンスクリット名のクシティガルバとは「大地の蔵」と言った意味。それを訳して地蔵と呼ばれるようになりました。

またの名を六地蔵。世界を巡る六道地蔵

仏教の世界には六道と呼ばれる6つの世界があります。
本当は十界といい十の世界があるのですが、悟りを得ていない俗っぽい世界を六道と呼ぶのです。悟れない、迷いばかり、間違いや罪ばかりの者たちはこの六道をグルグル巡り続けるのですが、これを六道輪廻と呼びます。地蔵菩薩は忍者よろしく分身の術を使い、衆生を救いに向かうのです。行き先こそ違いますが、像では6体ひと組で表されることもあり、この場合は六地蔵と呼ばれます。地蔵は地蔵、分身したって同じ、と思われるでしょうが、実は個人名が付いていたりするのです。
名称は諸説あって一定していませんが、日光地蔵(天界)・除蓋障(人間界)・持地(修羅界)・宝印(畜生界)・宝殊(餓鬼界)・檀陀(地獄界)とする場合が多いようです。
持物に関しても場所や経典によって違いますが、ただひとつ共通点をあげるとすれば、墓地の入り口にあることでしょうか。これは、墓地がこの世とあの世の境目とされるためです。

赤い布に込められた意味

お地蔵様は道端にいる。そんなイメージを持つ人も多々いることでしょう。
なかでも、「何か赤いよだれかけみたいな布を掛けていたような。赤い帽子もかぶっていたよね?」とのイメージを持つ方もいるのではありませんか?
実はこの赤い布には、子供の守り神ととしての願いがありました。仏教では親よりも先に死ぬことは親不孝だとして、親を遺して亡くなった子供は成仏できずにあの世の入り口、賽の河原で延々と終わらない石積みをさせられると言います。
石をある程度積み上げれば成仏できますが、鬼の妨害で達成できないのです。
しかし、子たちだって好きで死んだわけではありません。理不尽極まりないあの世のルールに関し、苦しみを引き受ける地蔵菩薩は賽の河原の子どもも助けてくれるのです。
恐らくは暗い賽の河原に差す光明のごとく「苦しむ子どもたちの目印になるように」と赤い布をつけるようになったとの説があります。

個性派の地蔵菩薩たち

ここからは個性派のお地蔵様をご紹介いたします。民間に広まっていった地蔵信仰ですが、外見、どのような願を掛けるかなどで名称なども変わっているのが面白いところです。

【化粧地蔵】
お地蔵様は石像で、飾り気なく道端にいます。そう思っていたら、頬がほんのり赤かったり、顔が真っ白だったりするお地蔵様に出くわすこともあるかも知れません。
立ち止まって凝視も必至の化粧地蔵は、地蔵菩薩の縁日に当たる7月(旧暦)、ないし8月(新暦)の24日に行われる行事と関係があります。全国区ではなく、京都市などの限られた地域のみの行事です。祠に祀られた地蔵菩薩を一旦お出しして、化粧と称して色を塗り、場合によっては前掛けをリニューアルし、服の色までド派手な彩色を施すなど、塗った人の個性も光るお地蔵様が数多見られます。

【蕎麦食い地蔵】
お蕎麦をお供えすると願いが叶うとされるのがこの蕎麦食い地蔵です。場所は東京都練馬区の九品院というお寺。
何故そばを供えるのか、と言えば遡ること180年ほど前。尾張屋という蕎麦屋があり、信心深い店主は毎日自主的に蕎麦をお供えしていました。すると、ある時期からいかにも徳の高そうな僧侶が夜毎に蕎麦を食べに来るようになります。「何でいつもこの時間?」と引っ掛かるほど毎日です。それとなくどこから来たのか聞いてもお茶を濁すのみ。気になった店主は、こっそりあとを付けることにしました。ひと気のない道を進む僧侶。向かった先は、いつも蕎麦を供えていた地蔵堂でした。光と共に本来のお姿、つまりお地蔵様に戻る様を見た店主は「お地蔵様の秘密を見るなんて、どえらいことをしてしまった」と青ざめ、家に帰ってもひたすらに謝罪です。

しかし、夢に現れたお地蔵様は「いつもお蕎麦ありがとうね。お前の家族を悪しきものから守ってやろう」と優しく言ってくれました。その後、江戸に疫病が流行っても、蕎麦屋店主の一族郎党は健康に過ごせたとのこと。このお告げを聞いたあとも蕎麦屋は毎日蕎麦を届けました。願掛けだけでなく、叶ったときにはお礼のお蕎麦をお供えしましょう。

【とげぬき地蔵】
とげぬき地蔵は巣鴨の高岩寺にあります。名前は有名ですが具体的なご利益までは知られていないのではないでしょうか。
それ即ち、病気の平癒です。ここでは御影(みかげ)という、地蔵菩薩の姿を描いた絵が売られています。その発端は江戸時代のこと。ある武士の妻が病気になりました。どうにか治してやりたい武士の夢に、地蔵菩薩が現れます。「私の姿を描いた紙を一万枚、川に流しなさい」とのお告げに従うと妻は元気になりました。
では「とげぬき」の名はどこから来たのか?毛利家の女中が誤って針を飲んでしまうとんでもハプニングがもとでした。何を思ったのか、この御影を飲み込むと針が出てきたことからとげぬき地蔵と呼ばれるようになったそうです。

【延命地蔵】
子どもができるだけ長生きできるように見守る地蔵菩薩です。
現世利益の性格が強く、子どもの守り神として親しまれていますが、元もとは『延命地蔵経』というお経からきているようです。このなかでは地獄・餓鬼界・畜生界で延命地蔵(という加地象菩薩)を見れば天もしくは浄土に生まれ変わり、修羅界・人間界・天界で見ればその現世においての幸福を手にする(健康な体・女性の出産・病は平癒し・長寿で金に困らず賢くもなって人にも愛されて神々のご加護が厚くなると、言いことづくめの人生が得られるそうです。

まとめ

異名地蔵と呼ばれる変わったお地蔵様の数は100余り。
探せばもっと変わっていて面白くて親しみある、だけどやっぱりありがたいお地蔵様にも出会えるでしょう。
興味を持って探せば、楽しい発見はあるものです。それも、お地蔵様からの、実りある楽しい人生を歩め、との御加護やメッセージかも知れませんね。

代受苦で衆生を救う、地蔵菩薩と地獄、十王思想

ちょっと地方に足を延ばしたとき。素朴な道端を歩いていると、お地蔵様を見掛けることがありませんか?
「何だか風流だねえ」と思ってじっくりと見たり、お供え物をしたり、手を合わせたり。日本では一番身近で親しげな仏像と言えます。そんなお地蔵様、実は地獄やあの世と関わり深い方なのです。

身近に見えるその理由は?

「菩薩」と名が付きますが、お地蔵様は大体お坊さんの姿をしています。これは、地獄に堕ちるような非道な輩であっても救うという行為を苦もなくやってのけることがもとにありまです。

地蔵菩薩は熱血教師?カウンセラー?天台宗で精神段階を表す十界と六道

仏教での地獄は六道のひとつに数えられます。
地蔵菩薩はこの六道を回り、そこで苦しむ衆生を救うまで仏(如来)にはならない、と誓いを立てました。
輪廻転生で知られるように、6つの世界があるわけですが、実は六道のほかにも声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界を加えた4つの世界があるのです。
声聞界から上は四聖(ししょう)と呼ばれており、下の六道も含め、天台宗においては悟りに至る精神の境地を示します。以下に、天台宗での十界を記します。

【地獄界】
最下層。精神状態で言えばいろいろな恐怖にさいなまれ怯えている状態です。

【餓鬼界】
地獄よりも上で、飢えと渇きの世界とイメージされますが、精神状態で言えば、目先の楽しみや物事にとらわれてしまう弱い心を表します。

【畜生界】
人間以外の動物となる世界です。この世界が表すものは本能、欲望のままに行動してしまう愚かな心を示しています。

【修羅界】
話し合いではなく武力行使で解決しようとする、悪い意味での闘争心です。「いつもテストで1番のアイツを越えるために、頑張って勉強するぞ!」ではなく「いつも1番のアイツを呼び出して、喧嘩をふっかける!」といったところでしょうか。行きつく先は戦争になります。大袈裟かも知れませんが、ちょっとした嫉妬がもとで殺人に至るケースを考えると怖いものがありませんか?

【人界】
人間界です。人間の持つ疑心暗鬼的な、比較的悪い心を指すこともありますが、基本的には平常心を表します。

【天界】
六道の最上位がこちら。天常人がアハハウフフと遊ぶ世界と言われていますが、さまざまな喜びの心を示すようです。
六道は悟りどころか修行の段階にも入っていない状態で、迷界と呼ばれることもあります。それに対し、四聖の別名は悟界。悟りを得た、もしくは得るために修行中ということです。

悟りの世界、四聖

【声聞界】
仏法をはじめ、あらゆる学問を学んでいる状態です。この学びは場にもむずかしい本を読むなどの学術的なことだけにとどまりません。
例えば、映画を見て「何故この映画はヒットしているのか?」と、分析することも学びです。映画には脚本だけでなく、映像や俳優の演技など、あらゆるヒット要因があります。
ただ見て楽しむだけの人は迷界に、分析する人は悟界にいると言っても過言ではないでしょう。これは例えなので、映画自体はただ楽しむだけでもいいんですよ。ちなみに声聞とは初期型の上部座仏教における説法を聞くことで悟りに至る人々のことです。

【縁覚界】
仏道に入り、自分を見つめて悟りに至る段階です。声聞界同様、上部座仏教に属する最上位の僧の位、阿羅漢の性質にあたり、十二の因縁(煩悩や生と死など)をじっくり見、仏の力を借りずに自力で迷いを断ち切り、真理、真実を悟る人を示します。声聞界と縁覚界は上部座仏教ですが、更に上は大乗仏教に属するものです。

【菩薩界】
仏の使いとして、考えではなく行動する段階です。

【仏界】
悟りを開いた段階にあたります。
こうした十の世界のうち、迷い煩悩にまみれた世界を巡って救うのが地蔵菩薩というわけです。何だか不良学生の集まる学校の熱血教師、もしくはスクールカウンセラーのような存在に思えてきますね。

お地蔵さま最大の御利益、代受苦

のちにご紹介しますが、仏教の地獄の苦しみは想像を絶する、というか想像力が飛びすぎているところです。「慣れるのでは?」そんな甘い場所ではありません。
一番罪が軽い者でも1兆年は地獄で過ごさなくてはならず、何度も苦しみを味わうのです。この世のそれとは比べ物にならないであろう責め苦を。そんな責め苦を、お地蔵様は変わってくださるのです。「地獄であなたは十分苦しんだ。だからあとは私が変わってあげよう」とのこの行為を代受苦と言います。
こうした考えが広まった背景には、いわゆる身分の差がありました。
日本で地蔵信仰が広く浸透したのは平安時代の後期頃。この世のおしまい、末法思想が幅を利かせていた頃です。「功徳を積もう!」と皆お経を書いたり仏像を作ったりお寺を建てたりしますが、それができるのは教養やお金のある貴族のみ。僧侶はもとより読経などが仕事なので功徳を積めます。
しかし、庶民にはできません。そこで、「死んだら地獄行き」との考えがあったわけです。「じゃあ、そのときお地蔵様に助けてもらおう」と、ネガティブともポジティブとも言い難い気持ちでお地蔵様の人気が上がったのでしょう。

お釈迦様と弥勒様の間を繋ぐお地蔵様

仏教の開祖にして最初の聖人、救い主だったのがお釈迦様です。
しかしお釈迦様はとうにこの世を去られました。後継者たる弥勒菩薩が悟りを開くのに56億年かかります。その間、先に述べた六道で衆生を救うだけでなく、教えをきちんと説くことをお地蔵様が自らに課した使命なのです。
ありとあらゆる場所に変化して現れるとされますが、その能力の程は多くの昔話、民話などで語られるほど多彩で、親しみやすく、ほっこりするものが大部分を占めています。ときには暗い夜道を見守るようについてきたり、またあるときには死にかけた人物を「まだ時期じゃないよ」と小坊主に化けて現世に帰る道を示したりしているのです。
サンスクリット名はクシティ・ガルバ。これは地蔵と訳されるように、大地の力を蔵のように持つという意味合いです。六道を巡るバイタリティは大地をもとにしているようですね。

有名歌人との出会いで生まれて法皇により現在の形となった京都六地蔵

平安の世、熱を出して仮死状態になった歌人がいました。名を小野篁(たかむら)。
実はこの人、百人一首にその名と詩が刻まれているだけでなく、あの絶世の美女、小野小町の祖父でもあるのです。怪異な伝承も数多いこの人、臨死体験でお地蔵様に出会いました。
ちょうど、地獄で罪人を助けていたところです。お地蔵様は言いました。「なるべく多くの人と出会いたい」と。そこで、病気が治った篁は地蔵を6体彫り上げました。地味に多才です。
この6つの地蔵は大善寺に預けられましたが、のちに京都に通ずる道に5体を移動させたのが後白河法皇です。現在の京都六時王のはじまりとされています。

まとめ

大変な使命と誓いを持ちますが、それでも優しく救ってくださるお地蔵様に、人々は大いに助けられたようです。
ほかの菩薩様もありがたいのですが、やはり僧形だと、何だかホッとしませんか?

6つの道、六道で衆生を救うために奮闘するお地蔵様こと地蔵菩薩。
仏教では何が罪なのか。また十王とはどのような存在なのかを、主に閻魔様を中心にご紹介いたします。
何故かって?閻魔様とお地蔵様は同一人物とされているからです。

仏教での罪

「何をしたら地獄に行くの?」と問われれば、まず身・口・意という、3つの原因から発せられる罪をやらかさなくてはなりません。本当はやっちゃいけないことですが。三業と呼ばれるこれら、全部で十種あるため十悪と呼ばれます。殺生・邪淫・偸盗・妄言・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚(しんい)・邪見です。

【身の悪】
衆生を殺す殺生・快楽目的のエロスこと邪淫・物を盗む偸盗です。殺生の罪にあたるため、僧侶は肉食をしないのが常とされます。

【口の悪】
嘘をつく妄言・真実や自分の心を無視したお世辞や美辞麗句などを言う綺語・悪口・他者を不仲にする両舌がこれにあたります。悪口も、仏教では地獄へ寄ってらっしゃいの罪なんです。

【意の悪】
「ほしい!」という貪欲・「あのヤロウ」と憎しみを抱く瞋恚・疑って掛かるような物の見方・偏見を表す邪見がこちらです。何だか日常的にこれらの罪に手を染めていると思うと、青ざめてしまいますね。しかし、「地獄に堕ちるからもう悪口言わない」というのは、「警察に捕まるから万引きしない」と言っているのと同じこと。捕まるから、裁きがあるからというのではなく、「これをやるのは恥ずかしいことなんだ」と思うことが大事なのです。

閻魔様もメンバーです。あの世の裁判官、十王

あの世で裁きをするのは閻魔様、というのが一般的なイメージですが、実は閻魔様だけではなかったんです。あの世の審判が雁は全部で十名。その為十王と呼ばれます。この十王は初七日から一週間ごとに死者を審判しますが、人によっては閻魔王の前に量刑が決まってそれぞれの場所に行くこともあるのです。

日本では各々が仏教の仏が変化した姿とされており、本来の姿とされる本地仏が決められています。各本地仏は、後々それぞれの担当する追善供養の日に仏事を執り行う十三仏信仰を生み出しました。

【秦広王】
初七日担当。不動明王を本地仏とします。無益な殺生をしたかどうかを問われます。

【初江王】
二七日担当。釈迦如来が本地仏です。開祖が本地仏とは物凄いですね。ここで有罪とされたときは大蛇に巻き付かれるそうです。それでも罪が消えない場合、次に向かいます。盗みを働いたかどうかについての取り調べ担当です。

【宋帝王】
三七日担当。文殊菩薩が本地仏とされます。量刑は秤で計測。600gで重罪人扱いされるとのことです。ちなみにこの秤、乗るのではなく、近付いただけで傾きます。嘘について取り調べを行う王です。

【五官王】
四七日担当。普賢菩薩が本地仏です。不貞を働いたかについて調べられます。

【閻魔王】
五七日担当。地蔵菩薩が本地仏とされております。

【変成王】
六七日担当。弥勒菩薩が本地仏です。罪状を参考に細かい行き先を決めます。

【泰山王】
七七日(四十九日)担当。本地仏は薬師如来となっております。更に細かい、来世での寿命や姿を言い渡すのが役目です。6つの鳥居からひとつを選ばされますが、生前の行いに応じた鳥居をくぐることになっている様子。

【平等王】
百か日担当。観音菩薩が本地仏です。ここからあとは再審を担当します。

【都市王】
一周忌担当。勢至菩薩が本地仏になっています。

【五道転輪王】
三回忌担当。阿弥陀如来を本地仏とします。極楽浄土の主が最後の裁判官というのも感慨深いですね。

お地蔵様のもうひとつの顔、閻魔様とあの世の裁判

十人のうちのhとり、とは言っても、閻魔様は結構重要なポストにいます。
それは何も、六道を巡り衆生を全て救うお地蔵様が本地仏だから、ではないようです。
そのお役目は、今までの罪状と照らし合わせ、死者の量刑を言いわたすことにあります。人が死ぬと、閻魔様は心を奪う奪心鬼、精気を吸い取る奪精鬼、体を縛りつける縛魄鬼という部下を遣わします。
この3人の鬼が死者をあの世の入り口までご案内。死者は、「別都頓宜寿(ほととぎす)」と鳴く無常鳥、「阿和薩加(あわさか)」と鳴く抜目鳥という2種の鳥が番を務める門をくぐることになります。この鳥たちは現世ではかたやホトトギス、かたやカラスの姿で衆生を見張っているのですが、そんなことを知っている人はほぼ皆無。そのため「なぜ覚えていないのだ!」と罵倒されながら、死天山という険しい山を寒さに耐えつつ進まなくてはなりません。

そして門をくぐり、各王に罪を計られながら先に進みます。初江王にお会いする前に、衣領樹(えりょうじゅ)が登場。
ここでは有名な奪衣婆が、夫の懸衣王と共に仕事に励むのです。奪衣婆が服を脱がせ、懸衣王が衣領樹に服を掛けます。枝がどのくらいしなるのかは、生前の罪によるそうです。指を折られる、なんて話もあります。
そんなこんなで5人目にあたる閻魔様の前に引き据えられるのです。ここでは悪行や善行についての証人がいますが、一見すると生首が2つ。善行記録の黒暗転女幢、悪行記録担当の太山府君幢と言います。前世に何をしたかをはっきりくっきり盗撮、調査報告するための浄玻璃鏡が登場。言い逃れはできません。ここで「ハイ、地獄行きね」となったら、地獄へ行くしかないのです。ちなみに地獄は閻魔様が作ったものとの説が存在します。

閻魔様と関連ある人物

伝承では、閻魔様は歴史上の人物と関連があったりもします。

【小野篁】
不思議な伝説、絶世の美孫娘(小野小町)、そして歌の才能を持っています。毎晩井戸から地獄に行って閻魔様のもとに通勤し、裁判の補佐をしていたとの逸話も持っている、現実的にも伝承的にも凄い人です。

【直江兼次】
「愛」の文字を兜に飾った戦国時代の武将として知られるこの方も、閻魔様と関係がありました。
と言っても、自然的な話ではありません。兼次の家臣が、切り捨て御免で部下を斬り殺しました。遺族を憐れんで、いくらか金をやりましたが、遺族は「生き返らせてほしい」と訴えて来ます。それはもう、しつこく。「分かった」と引っ込み、持って来たのは閻魔様への書状です。「閻魔様に生き返らせてくださいと手紙を書いたから、自分たちで行って交渉して来い」と家臣に命じて斬らせてしまったとか。「閻魔様へ。死者を蘇らせてほしいという者がいたので、使いに寄こしました」との札まで立てて。
現代の感覚ではとんでもない話に思えますが、どうも「自然の理に逆らうな」ということらしいです。

【道徳上人】
こちらは、信仰心が薄まり地獄に来る人々が増えたことでオーバーワークに音を上げた閻魔様がきっかけです。あの世には労働基準法なんてありません。病気の徳道上人を一旦仮死状態にして呼び寄せ、「観音の霊場を作りなさい。そこを巡れば罪がなくなる」と言い、三十三の印をわたしたというお話です。

まとめ

親しみあるお地蔵様、その化身たる閻魔様だからこそ、歴史上の人物と関わりある物語も作られたのですね。続いては、そんな閻魔様が悪党などを放り込む地獄について、お話します。

お地蔵様のお話ですが、最後は仏教地獄で締めくくります。

仏教の地獄の構造

『往生要集』によれば、全部で8段階に分かれているとされています。
場所は仏教の中心地、須弥山の最下層です。サンスクリット名はナラカといい、「奈落」と呼ばれるきっかけとなりました。仏教では、地獄に堕ちる(生まれる)者は皆平等ということはありません。罪の重さ、どんな罪に手を染めたかによって行く場所や刑期が変わってくるわけです。ちなみにその罪とは殺人、強盗など、現代人の法的に見る罪だけではありません。
八大地獄という8つの大きな地獄には、それを取り囲むように別所と呼ばれる小地獄が存在します。大小とついてはいても、苦しさは同じです。

一番軽くて1兆年、等活地獄

一番上の層に位置する、一番罪が軽い者が行く地獄。それでも刑期は1兆年越えです。
正確に言えば1兆6653億12550万年。そんな長い期間、責め苦を味わい続けるわけです。ここには、殺生の罪だけで行けます。「人殺してないから楽勝だ」とお思いでしょうが、「衆生」つまり生きとし生けるものすべての命が対象になっています。釣りに行って魚を獲る、料理のために豚や鳥などを殺すのもNG。
「じゃ、料理人とか漁師とかどうするんだ?」と思うところですが、懺悔をすれば大丈夫なようです。好戦的な人や戦死者もここに行きます。ここでの責め苦の特徴は、手に鉄の爪が付いていること。そしてそれで互いをひっかき殺し合うことにあります。仕事ならともかく、遊びで殺生の罪を働いた者に対する相応の罰とも言えそうですね。小地獄では獄卒(鬼)に料理されたり、真っ赤に焼けた鉄やら刀やらが落ちてきたりします。
個々の責め苦で骨だけになっても「活々(ハイ、生き返って)」の声がするや元通りになり、また同じ責め苦を味わうのです。

盗みが加わり行くところ、黒縄地獄

偸盗の罪が加わると、行き先は黒縄地獄に変更です。
まず獄卒に捕まり、やたら熱い板の上に寝かされます。この段階で「もうヤメテ」状態ですが、そこから更に熱く焼けた鉄の縄で縦横線を引かれるのです。体に。このほか、大きな鉄の山を登らされて、鉄の縄の上を歩かされた挙げ句、釜茹でにされるところもあったりします。火を吐く犬がいたり、獄卒と日がな一日、文字通りな上に真剣な鬼ごっこなどもするのが黒縄地獄です。刑期は13兆年ほど。

エッチな人はこちらへ。衆合地獄

殺生、偸盗に加えて邪淫が加わると衆合地獄に生まれます。
牛の頭、馬の頭を持った獄卒も武器を持つなど、ホラー度が増したところです。と言っても、この武器は罪人を山に追い込むための物。衆合地獄は、2つの鉄の山に罪人を挟んで潰す場所なのです。ほかにも、罪人を臼で餅のようにぺったんぺったん、ひいてはついてを繰り返す場所、猛獣や猛禽などに貪り食われる場所があります。邪淫の罪を働いたエロスな人々の落ちる場所なので、そうした人たちの罪を皮肉るような場所も存在します。
有名なのが刀葉林です。刃のような葉っぱが下に向かって突き出す木。その上にはどえらい美女がいます。地獄に堕ちてもそこは男心、この美女を口説こうと木に登るのです。刃で切り裂かれながら。やっと登ったと思ったら、美女は下に降りているという意地悪なしかけです。
しかも、降りるときは、刃はご丁寧に上を向くのです。「飛び降りてはいかがか」「諦めたら?」とはならないのが、この地獄に堕ちる者の性根のようです。106兆年ほどで出られます。

酒飲み注意、叫喚地獄

酒に異物を混ぜたり、量を誤魔化して売ったりと、酒に関する罪が加わるとここにおちるとされています。
普通にお酒を飲むのも駄目とされるのが仏教。酒は正しい判断を失くさせると言います。酔った勢いで殺人行為に及ぶこともあるため、罪とされるようです。大方がバーベキューにされたり火の量を計らされたりと、炎熱関係の責め苦が多く、その光景は『地獄草子』や『北野天神縁起絵巻』、『春日権現記絵巻』などで見られます。必ずしも焼いたりするわけではなく、ときには罪人の舌を伸ばして、その上に猛禽や猛獣が歩くこともあるようです。ここでは目から火を噴きだす人に追いかけられて、弓矢を射られます。釜茹でにもされるとか。「叫喚」とは泣き叫ぶこと。
刑期は852兆年と6400億年。一気に長くなりました。

嘘が加わり、大叫喚地獄へ

「私は何もやってませんよー」としらを切るような輩は大叫喚地獄へ行く羽目になります。
釜茹で用の釜が更に強化され性能も上がってこれでもかと煮られたり、小地獄で体のなかを蛇が這いまわったり、砂漠のオアシスの蜃気楼のごとく青い蓮華畑に見せかけた火のなかに突っ込んでいったり、イマジネーションの豊かさに脱帽の地獄です。苦し過ぎて何も感じないだろうって?地獄は甘くありません。刑期は6821年1200億年。

邪見を実践したら、焦熱地獄

邪見とは、仏道と反する考え、特に「因果?あんなの嘘っぱちだよ。好きなようにやっていいんだ」という見解のことです。名前の通り、火炎をはじめとするあらゆる熱の責め苦が待っています。刑期は兆を越え、5京4568兆年ほど。ちなみに、嘘だけでなく殺生等今までの罪も合わせるとここに行くことになっています。

尼さんを騙すとここへ行く。大焦熱地獄

尼僧や幼い少女、もしくは人妻などに邪な欲を抱き、かつ実行する輩の行き先です。やたら熱い上に、鋭く尖ったは物が混じった本物の地獄にあるアリジゴクだの、煮られてほかの罪人と一緒に団子にされたりします。刑期は43京6551兆6800億年です。

ド悪党の終着駅、無間地獄

今まで上げた罪に加え、聖人や自分の親を殺害という、これ以上にないほどの超極悪人が向かう先です。
別名を阿鼻地獄と言います。無間地獄へは2千年かかって真っ逆さまに落下し、獄卒の引く火車で、ありがたくないドライブをすることになります。舌に千本の釘を打ち込まれる、64もある目から火を噴き出す獄卒や、牛の頭を18持ち、全ての角から炎が噴き出すと言った、炎噴出祭りの獄卒により、苛まれる究極の地獄と言えます。
ただただ苦痛しかない、極楽とは対を成す場所なのです。刑期は349兆2413兆4400億年。この期間は一中劫と呼ばれるそうです。1辺が15kmほどもある正方形の岩を100年に1度降りてくる天女が衣でこすり、削れていってなくなるまでの期間を表します。

賽の河原で子どもも救います

地蔵菩薩は代受苦だけでなく、子どもを救うこともあります。
その場所は賽の河原。親より先に死んだ子どもの行くところで、石を積み上げれば成仏できることに一応なってはいるのです。でも、できません。積み上がるごとに獄卒が現れて、「ハイ、やり直し」と崩していくからです。これが延々繰り返されます。そんな哀れな子どもを救うのです。救済対象は全ての衆生ですし、死にたくて死んだわけではない子が大部分のはず。
無垢な魂を放っておくわけありません。ここから子どもの守り神と言ったイメージが付いたようです。
地蔵盆という行事がありますが、これは子どもの行事とされています。

まとめ

仏教の地獄も結構凄まじいですが、そんなところに現れて、ときに身替わりとなり救ってくださるお地蔵様に、あらためて畏敬の念を覚えますね。
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